CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ)

神戸・岩国の最新情報を中心に紹介していきます。歴史や時事について調べた結果を紹介。

有馬温泉散策記 on 2018-9-25 その1 落葉山 妙見寺

2018年09月30日 05時38分54秒 | 神戸情報

今まで有馬温泉には車を利用した訪問が何度かありますが神戸電鉄を利用しての
訪問は今回(2018年9月25日)が初めてです。


散策内容は小分けにしてシリーズとして書いていきます。
今回は途中でデジカメの電池が上がってしまった為、滞留時間が2時間程度なので
あまり多くの場所を見て回れませんでした。

前置きはこれ位にして散策の初回の場所は「落葉山 妙見寺」です。

このお寺は有馬三山の一つ落葉山(標高533m)の頂上にある日蓮宗のお寺です。
その創建は古く「金鳥城山妙見」を称されていました。

落葉山 妙見寺の基本情報
住所:神戸市北区有馬町(詳細の住所は未調査)
宗派:日蓮宗  
創建:不明 真言宗金杖山金剛寺(1873年に廃寺)として建立か?
   至徳2年(1385)より前の時代ということは確実
御本尊:北辰妙見大菩薩尊像
中興:明治39年(1906)12月、余田左橘右衛門&京都妙顕寺管長河合日辰


妙見堂
扁額に妙見大菩薩と書かれた妙見堂は圧巻で多くの写真を撮りましたのでその一部を
写真紹介していきます。




上の2枚の写真は妙見堂の全体遠景です。




上の写真は2枚の妙見堂の側面です。





上の2枚の写真は正面の木彫りの彫刻です。
4面に各2枚ずつあり合計8つあります。




上の2枚の写真は正面軒下の彫刻飾り




上の2枚の写真は上記と同じですがアップで撮りました。

説明板

上の写真は落葉山 妙見寺の現地説明板です。

ここで上記の説明板のないようと下記資料から落葉山妙見寺の由緒を纏めてみました。
有馬郡誌 上巻 Page370
有馬観光協会編 しっとりと有馬(1999)
 

鎌倉時代(1192-1338)、元真言宗の金杖山金剛寺を法ケ宗(現日蓮宗)に改宗されました。
御本尊の北辰妙見大菩薩尊像は第100代後小松天皇(在位1382-1411)の時代の至徳2年(1385)
室町幕府第3代将軍足利義満公が有馬温泉に入湯された時に有馬の鎮護にと寄進されたものです。

御本尊は木造で獄彩色丈1尺亀の背に立ち右手に玉を捧げ、左手に蛇を持ち、七星の光葢
(こうがい)を頂く。
その後、祀堂は荒廃し、御本尊も一時在家(愛宕山の麓に)したが明治39年(1906)12月、
余田左橘右衛門が一寺を建立しようと願いまずは庫裡を建てたが、志半ばで他界した。
その後のことを京都妙顕寺管長河合日辰氏に依頼した。
河合日辰はその志を感じて業を継ぎ、本堂は大正7年(1918)3月に起工し
大正9年(1920)に竣工しました。


狛犬と燈籠


手水舎





上の写真は平成10年に建立された祠

稲荷社


花山院の石仏像

上の写真は花山院の字が刻まれた石仏です。
花山院(花山法皇)はご存知のとおり西国三十三箇所巡礼を広めたことが有名で
三田市に花山法皇が隠棲され寛弘5年(1008)2月8日崩御された地の花山院菩提寺
(西国三十三所の番外札所)があります。

弘法大師の石仏像

妙見寺が真言宗であった時の名残りか弘法大師と刻まれた石仏像がありました。

日明上人の供養石碑


階段下の寄進燈籠

上の写真は妙見堂への階段下の寄進燈籠です。
右手は余田左橘右衛門 左手は吉田和助 
余田氏は前に述べたように妙見堂の建設にあたっての最大の功労者です。
余田家は建長(1190-1198)時代から続く名家です。

階段下の祠

上の写真は妙見堂への階段下の祠


上の写真は妙見堂階段下の祠の脇の石仏

妙見堂への入口
 鳥居
 

 神馬像
 
  上の写真は開運妙見宮と書かれた神馬石像

西国三十三所巡り
妙見堂までの参道には三十三所巡りの石仏があります。
代表的な石仏像の写真を添付しておきます。

上の写真は第1番 那智山(青岸渡寺)


上の写真は第8番 長谷寺


上の写真は第14番 三井寺


上の写真は第16番 清水寺


上の写真は第27番 圓教寺


上の写真は第33番 谷汲山(華厳寺)


丁石

参道入口から石段を少し上ったところにある丁石
これより7丁と刻まれています。

妙見堂参道入口



上の2枚の写真は妙見堂参道入口
善福寺に隣接して、妙見寺へと続く石段があります。

最後に有馬郡誌(上)のPage370 落葉山妙見堂の原文を添付しておきます。




最後に今回の有馬温泉散策記の最終回の記事を目次代わりにリンクしておきます。

 有馬温泉散策記 on 2018-9-25 その12(最終回)親水公園

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兵庫県立歴史博物館の兵庫県政150周年展示

2018年09月29日 16時57分59秒 | 神戸市以外の兵庫県
姫路市にある兵庫県立歴史博物館では本年4月21日より兵庫県政150周年にかかる展示を
されています。

今後、展示を観にいこうと思っている関係で憶えとして写真を添付しておきます。
(下の2枚の写真)







兵庫県政150周年に関連する小生のブログにリンクしておきます。

150年前の兵庫県 県庁舎を仮想体験 と兵庫県の誕生経過 on 2017-3-29

兵庫県初代知事だった伊藤博文と神戸 大倉山の伊藤博文像を中心として

初代兵庫県知事 伊藤博文の神戸時代の遺構や遺物

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即位礼正殿の儀  NHK「京都御所~秘められた千年の美~」を視聴して

2018年09月28日 04時35分00秒 | Weblog
2018年9月26日朝、皇居の宮殿で2019年10月22日に行われる即位の礼の中心儀式
「即位礼正殿の儀」で新天皇が使う高御座(たかみくら)と、新皇后が使う御帳台
(みちょうだい)が京都・御所から8台のトラックで陸上輸送され無事皇居に到着した
ニュースが各報道機関から報じられました。

報道例1(産経新聞)https://www.sankei.com/life/news/180926/lif1809260024-n1.html

報道例2(ANNニュース):新天皇の即位の礼に使われる高御座などが皇居に到着(18/09/26)


上記に関連して2015年1月1日に放送のNHKスペシャル「京都御所~秘められた千年の美~」
で、今上天皇・皇后両陛下が平成2年(1990)11月12日に即位された儀式の様子を放送
されていましたのでそれを利用して高御座と御帳台及び即位の礼について写真紹介します。

即位の礼についてWikipediaでは次のように解説されています。
即位の礼(そくいのれい)または即位礼(そくいれい)は、日本の天皇が践祚(せんそ)後、
皇位を継承したことを国の内外に示す(即位)一連の儀式で、最高の皇室儀礼とされる。
中心儀式の即位礼正殿の儀は、諸外国における「戴冠式」、「即位式」にあたる。
即位の礼後に、五穀豊穣を感謝し、その継続を祈る一代一度の大嘗祭が行われ、即位の礼・
大嘗祭と一連の儀式を合わせ御大礼(ごたいれい)または御大典(ごたいてん)とも称される。



平成2年(1990)11月12日の即位の礼








上の4枚の写真は今上天皇の即位の礼の様子

即位礼正殿の儀での「おことば」
さきに、日本国憲法及び皇室典範の定めるところによって皇位を継承しましたが、
ここに即位礼正殿の儀を行い、即位を内外に宣明いたします。
このときに当り、改めて、御父昭和天皇の六十余年にわたる御在位の間、いかなるときも、
国民と苦楽を共にされた御心を心として、常に国民の幸福を願いつつ、日本国憲法を遵守し、
日本国及び日本国民統合の象徴としてのつとめを果たすことを誓い、国民の叡智と
たゆみない努力によって、我が国が一層の発展を遂げ、国際社会の友好と平和、人類の
福祉と繁栄に寄与することを切に希望いたします。

以上はWikipediaより引用

天皇陛下 即位の礼 正殿の儀 [高画質ノーカット] Enthronement of the Japanese Emperor, Akihito (with English commentary)



高御座と御帳台


上の写真の左手が高御座(たかみくら)、右手が御帳台(みちょうだい)
高御座の高さは約6m。普段は京都御所の紫宸殿に保管されているとのこと。
現在の高御座は大正天皇が即位される時に合わせて造られたとのこと。


上の写真は高御座の側面


上の写真は高御座の玉座に使用の繧繝縁(うんげんべり・うげんべり)
赤を基調にした錦の模様となっています。
繧繝縁(うんげんべり・うげんべり)は最も格の高い畳縁で、天皇・三宮
(皇后・皇太后・太皇太后)・上皇が用いました。
親王や高僧、摂関や将軍などの臣下でも、「准后」(准三宮)という称号が与えられると
三宮扱いになるため、繧繝縁を用いることが出来ました。


上の写真は高御座の玉座の脚部に施された装飾でアワビなどの貝が埋め込まれています。

玉座(ぎょくざ)に関するWikipediaの解説
平城京では平城宮の大極殿に、平安京では平安宮(大内裏)の大極殿、豊楽殿、のちに
内裏の紫宸殿に安置され、即位・朝賀・蕃客引見(外国使節に謁見)など大礼の際に
天皇が着座した。内裏の荒廃した鎌倉時代中期よりのちは京都御所紫宸殿へと移された。



上の写真は京都御所紫宸殿の外観




上の2枚の写真は高御座の屋根と鳳凰(ほうおう)
鳳凰は徳の高い王が世を治められる時に現れると信じられてきました。
古代中国では王者の象徴として尊ばれてきました。
屋根は八角形になっています。


上の写真は平城京跡復元された大極殿内の高御座(復元品) 撮影:2017-12-28

即位礼関連の主な儀式と日程

2019-2-24  125代天皇陛下 在位30年記念式典

2019-4-30  退位礼 正殿(せいでん)の儀 (現在の天皇陛下が退位)

2019-5-1  剣璽(じ)等承継の儀(皇位継承のしるしを引き継ぐ)

      即位後朝見の儀(国民の代表と会う)

      改元

2019-10-22 即位正殿の儀(内外に即位を宣言)

       祝賀御列(おんれつ)の儀(祝賀パレード)

2019-10-22 饗宴(きょうえん)の儀(数日間)
   以降

2019-10-23 首相夫妻主催の晩餐会(外国元首らに謝意)


2019-11-14 大嘗祭(だいじょうさい)(新天皇が五穀豊穣を祈る)
  ~11-15


2020-x-x 立皇嗣(りっこうし)の儀(秋篠宮さまが「皇嗣」となられることを宣言)



上の写真は主な即位の礼関連の儀式と日程
出典:時事ドットコム(JIJI.COM)のサイト


改元の年月日

慶応→明治 明治元年(1868)9月8日

明治→大正 大正元年(1912)7月30日

大正→昭和 昭和元年(1926)12月25日

昭和→平成 平成元年(1989)1月8日

平成→XX  XX元年(2019)5月1日

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多聞寺(神戸市北区有野町唐櫃)訪問記 on 2018-9-25

2018年09月27日 06時59分59秒 | 神戸情報
2018年9月25日、多聞寺(神戸市北区有野町唐櫃)を訪問(参詣)してきましたので
写真紹介します。

多聞寺(神戸市北区有野町唐櫃)の基本情報

住所:神戸市北区有野町唐櫃3086−1 TEL:078-981-5001
宗派:真言宗 山号:六甲山 御本尊:毘沙門天、吉祥天、善弐師童子
開山:伝 法道仙人  創建年:孝徳天皇の頃(645-654)
中興:長善阿舎利(858)、天安元年(857)温泉寺の住職「円印」という説もあり。
正式名:六甲山吉祥院多聞寺



上の写真は参道(階段)を昇り切ったところに所在する本堂などの伽藍

以下個別に記載していきます。

所在地の地図

上の写真は神鉄六甲駅(無人駅)を降りたところすぐそばに掲示の駅周辺の地図

Goo地図を添付



説明板

上の写真は山門の手前にある説明板。
NHKテレビ大河ドラマ「平清盛」が放映されていた頃に設置か

上の写真は階段を昇り切ったところに掲示の説明板(有野町自治連合会が作成)

山門付近


上の写真は山門付近の遠景


上の写真は平清盛公祈願所と書かれた石碑 大阪 多聞講が設置

治承4年(1180)、平清盛が神戸の福原に都を移した時、都の鬼門(北東)を守る
毘沙門天を探したところ古寺山が鬼門の方角にあたるので、新都の守護寺として
寺領千町歩を与え、伽藍も整備された。
京の鞍馬山に相当する役割を担わそうとしたわけです。
また、鞍馬、八瀬の大原の人々を移り住まわせたと伝えられています。
寿永の乱(源平合戦)の際、源義経の別動隊多田源氏の一族が有馬郡に進出し
背後より福原に攻め入る時に多聞寺に対して道案内を要請したところ拒絶
された為、焼き払われ寺領も没収されたため以降は衰退した。
 
寛正3年(1462)2月23日廃寺になるのを惜しんで現在の地に再建、現在の本堂は
元禄3年(1690)の建立だということです。


上の写真は山門に向かって右手にある石像


上の写真は山門(仁王門)の近景




上の写真は山門の両脇に鎮座の仁王像

羅漢さんの道
山門から階段を少し上ると左手に羅漢さんの道と書かれた羅漢石像が沢山、置かれています。










上の5枚の写真は羅漢石像群です。

竹内油業の供養碑

上の写真は竹内油業の供養碑(本堂伽藍などがある地のすぐ下の右手にあります)
真ん中が供養碑、左手に経営理念が書かれた石碑、右手に社歴乃星と題して供養碑が
建立された趣旨が書かれています。平成4年(1992)10月1日に竹内油業株式会社と
竹内グループ五月会によって建立されたことが判ります。
この日は竹内油業の創立60周年にあたることになります。

また手前に会社の沿革が書かれた碑もありました。
それによると昭和7年(1932)竹内商店という名前で創業したとのこと。
創業者は竹内鶴蔵。

本堂(毘沙門堂)



上の写真は本堂です。
元禄3年(1690)の建立。その後の補修経緯は未調査不明。
昭和45年(1970)に本堂の改修工事が実施されています。


上の写真は本堂前の石塔

大師堂?

上の写真は大師堂? 護摩堂かも知れませんが・・・・
建物の形から神社の形式で拝殿と本殿に相当か?

鐘楼

上の写真は鐘楼の遠景


上の写真は鐘楼の土台の周囲に置かれた地蔵像(石仏)など

手水舎


庫裡


宝篋印塔



上の2枚の写真は宝篋印塔
正面からは上手く撮れませんでした。


上の写真は宝塔の施主が書かれた石碑

かやの大木



上の2枚の写真は市民の木にも指定されている茅(かや)の大木と説明板

虎?の石像


水子地蔵尊


墓地


鎮守末社
 愛染稲荷大明神
 

 愛宕大権現
 

 八幡大菩薩
 

不動明王立像

上の写真は不動明王像


上の写真は不動明王像の前の滝になっている場所です。ここの背後に不動明王像があります

石仏群
多数の石仏群があります。その全部は紹介できませんが代表的なものの写真を添付




ここから下は三十三所巡りの石像








からと小学校発祥の地

上の写真は「からと小学校発祥の地」と書かれた石碑

歌碑

石仏と歌碑の取り合わせが面白いと思い撮ったものです。

海軍出身者の石碑

上の写真は神戸市在住の海軍出身者で神戸中央卸売市場の水産部門の親睦団体である
海櫂会が昭和51年(1976)8月に建立した石碑で国の平和と水産業の発展を祈願されています。
記念植樹も行われたようです。(下の写真)


最寄り駅 神鉄六甲



最後に
毎年2月11日に行われるオトウ「お塔祭」は当番の新旧交代の儀式にもなっており、
古式そのままに、唐櫃村の長老たちは風折烏帽子に直垂(ひたたれ)、塔人は裃(かみしも)
で行事を務め、配膳も昔ながらの献立で、古い習俗を伝えています。
儀式の後、境内では修験者により護摩焚きが行われます。
このお塔祭をはじめ、唐櫃の村を取り仕切るのは四鬼家であった。四鬼家ははるか昔、
役行者の命によって奈良県吉野郡天川村洞川から、この唐櫃に移り住んだといわれ、
唐櫃村と西六甲の山を管理し、同時に六甲修験の山伏達を管理していた。


上記の文はWikipedia及び北神戸歴史の道 野村貴郎著 神戸新聞総合出版センター刊 (2002)
Page140より引用しました。
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神戸電鉄有馬駅横すぐ 「浪花鮓 まえなか」でのランチ on 2018-9-25

2018年09月26日 07時46分55秒 | 神戸情報
2018年9月25日、神戸電鉄有馬駅横すぐ 「浪花鮓 まえなか」でランチを頂きましたので
写真紹介します。初訪問です。

浪花鮓 まえなかの基本情報

住所:神戸市北区有馬町1298-10 TEL:078-903-0010
営業時間:11:00〜18:30  定休日:水曜日



10種類ほどのお寿司盛り合わせ(にぎり・押し寿司・巻き寿司など)に、うどん or そばを
プラスした定食(780円)を頂きました。
生ビール(小)340円も注文しました。

いつもは車で行くことが多いので、アルコール抜きですが今回は神戸電鉄利用ですので
ビールが飲めて幸せ気分です。


上の写真はがそばと寿司の定食です。


上の写真は定食を説明したものです。(店頭に掲示)


上の写真はお店の外観です。


上の写真はお店の外観(遠景)です。中央よりやや左手が「浪花鮓 まえなか」です。




上の2枚の写真は店の前の掲示(メニュー表)です。


番外編で神戸電鉄有馬駅の写真を添付して筆を置きます。


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神戸電鉄鈴蘭台駅前まちびらきとベルストの様子 on 2018-9-25

2018年09月25日 17時17分36秒 | 神戸情報
2018年9月25日、神戸市北区の神鉄鈴蘭台駅前に整備を進めていた再開発ビル「ベルスト」が
開業しました。当日はオープニングセレモニーが8時30分よりあり、その後もイベントがあり
多くの地元の買い物客などが集まり賑わっていました。

商業施設の名前は鈴蘭台の鈴のBellと商店のStore又は駅のStationを併せた造語で
「ベルスト」と名付けられました。英文名は「Bellst」
390の公募から選ばれたそうです。

 平成23年(2011)9月6日   都市計画決定
 平成25年(2013)3月22日 事業計画決定
 平成26年(2014)7月11日 特定建築者決定(大和リース)
 平成27年(2015)3月26日 再開発ビル着工式
 平成30年(2018)9月25日 再開発ビルオープン(予定)
 平成32年(2020)3月末  交通広場・道路整備も含めた事業完了(予定)


鈴蘭台駅前再開発ビル(ベルスト)の基本情報

住所:〒651-1195 神戸市北区鈴蘭台北町1丁目9-1
敷地面積:約4,470㎡ 構造・階数: 鉄骨造7階建て
入居者:1~3階 商業施設 4~7階 神戸市北区役所
建築面積:約3,720㎡ 延床面積:約21,820㎡
駐車場台数:119台  駐輪場台数:113台
設計・施工&管理運営:大和リース
総事業費:157億円


詳細は下記ブログで書いています。
 鈴蘭台駅前再開発ビル 2018年9月25日グランドオープン

今回のブログではオープニングセレモニー、イベント、ベルストの様子及び新しくなった
神戸電鉄鈴蘭台駅の様子を写真紹介します。

オープニングセレモニー





上の3枚の写真はオープニングセレモニーの様子と式次第です。



上の写真は「鈴蘭台駅前まちびらき」プログラム

イベント





上の3枚の写真は鈴蘭台高校の皆様による和太鼓演奏、吹奏楽部、ダンスの披露風景

鈴蘭台高校の和太鼓 締め太鼓の演奏 on 2018-9-25


鈴蘭台高校 吹奏楽の演奏 on 2018-9-25


ベルストの様子


上の写真はベルストの建物外観




上の写真は北区役所のフロアー配置と4階の総合受付


上の写真は7階のまちづくり課付近に掲示のモザイクアート


上の写真は3階のイオン フードスタイルのPRポスター






上の3枚の写真は1階の様子


上の写真は歩行者の通路標識
当日は交通渋滞が発生していました。


1階から3階の入居テナントの詳細は下記サイトに書かれています。
 https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000001032.000002296.html

神戸電鉄鈴蘭台駅の様子






上の3枚の写真は神戸電鉄鈴蘭台駅のコンコース


上の写真は神戸電鉄鈴蘭台駅のホームからコンコースへのエスカレーター


上の写真はBELLST(ベルスト鈴蘭台)グランドオープンのPRポスター


コンコースでは下に添付の「鈴蘭台のまち歩き」が配布されておりゲットした。








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神戸市の国指定重要文化財リスト その2 彫刻(2018年9月22日現在)

2018年09月25日 04時14分18秒 | 神戸情報
文化庁の国指定文化財等データベースにより2018年9月22現在の神戸市内の
重要文化財(彫刻)を調べてみました。

神戸市の国指定重要文化財シリーズの第2弾です。

過去のブログ:
第1回 神戸市の国指定重要文化財リスト その1 建造物(2018年9月22日現在)

順不同で寺院別に整理してみました。
写真を見つけられなかったものは未添付でアップします。


太山寺

木造阿弥陀如来坐像

   平安時代に製作 像高275.1cm 木造 金泥・漆箔
   明治34年(1901)8月2日に指定
   太山寺の住所は神戸市北区伊川谷町前開224


上の写真は太山寺阿弥陀堂内に安置の木造阿弥陀如来坐像  撮影:2016-9-22


太山寺 練供養 on 2016-5-12で紹介

 上記ブログの中の動画の中に阿弥陀堂内の木造阿弥陀如来坐像も写っています。


転法輪寺

木造阿弥陀如来坐像
   平安時代に製作 木造 古色 141.7cm
   明治34年(1901)8月2日に指定
   転法輪寺の住所は神戸市垂水区名谷町2089


上の写真は転法輪寺の宝物蔵に所蔵の木造阿弥陀如来坐像
イベントがある時に御開帳されています。

転法輪寺 龍華祭 on 2015-4-5で紹介

薬仙寺

木造薬師如来坐像
   平安時代に製作 木造 漆箔 88.7cm
   昭和15(1940)10月14日に指定
   薬仙寺の住所は神戸市兵庫区今出在家町4丁目1−14


上の写真は薬仙寺本堂に安置の木造薬師如来坐像
出典:重要文化財1 彫刻Ⅰ 木造-如来 文化庁監修 毎日新聞社(1972)Page57

薬仙寺 on 2011-2-21 で紹介

多聞寺(垂水区)
   多聞寺の住所は神戸市垂水区多聞台2-2-75 

木造阿弥陀如来坐像
   平安時代に製作 木造 漆箔 87.0cm
   明治34年(1901)8月2日に指定


上の写真は多聞寺(垂水区)本堂の木造阿弥陀如来坐像 撮影:2008-5-15

木造日光月光菩薩立像


上の写真は日光菩薩立像。明治34年(1901)8月2日重文指定。像高 102.7cm
木造 漆箔 平安時代の作品 
出典:毎日新聞発行(1972)、文化庁監修の重要文化財Ⅲ彫刻 Page71


上の写真は月光菩薩立像。明治34年8月2日(1901)重文指定。像高 103.3cm
木造 漆箔 平安時代の作品
出典:毎日新聞発行(1972)、文化庁監修の重要文化財Ⅲ彫刻 Page71

多聞寺の阿弥陀如来坐像及び日光・月光菩薩立像で紹介

福祥寺(須磨寺)

  福祥寺(須磨寺)の住所は神戸市須磨区須磨寺町4丁目6−8

木造十一面観音立像

上の写真は福祥寺(須磨寺)の木造十一面観音立像 明治34年(1901)8月2日指定
鎌倉時代に製作 木造 素地 玉眼 像高 54.0cm
出典:毎日新聞発行(1972)、文化庁監修の重要文化財Ⅲ彫刻 Page54

能福寺

  能福寺の住所は神戸市兵庫区北逆瀬川町 1-39

木造十一面観音立像


上の写真は能福寺の木造十一面観音立像 昭和2年(1927)4月25日指定
平安時代に製作 木造 漆箔 像高 121.2cm
出典:毎日新聞発行(1972)、文化庁監修の重要文化財Ⅲ彫刻 Page47


無動寺

   無動寺の住所は神戸市北区山田町福地字新池100

木造大日如来坐像

上の写真は無動寺の木造大日如来坐像 大正3年(1914)8月25日指定
平安時代に製作 木造 素地 像高269.0cm
出典:神戸市立博物館編 第3回特別展 神戸の文化財(1983) Page48

木造阿弥陀如来坐像


上の写真は無動寺の木造阿弥陀如来坐像 大正3年(1914)8月25日指定
平安時代に製作 木造 素地 像高118.5cm
出典:神戸市立博物館編 第3回特別展 神戸の文化財(1983) Page48

木造釈迦如来坐像

上の写真は無動寺の木造釈迦如来坐像 大正3年(1914)8月25日指定
平安時代に製作 木造 素地 像高120.1cm
出典:神戸市立博物館編 第3回特別展 神戸の文化財(1983) Page48

木造十一面観音立像

上の写真は無動寺の木造十一面観音立像 大正3年(1914)8月25日指定
平安時代に製作 木造 彩色 像高150.3cm
出典:神戸市立博物館編 第3回特別展 神戸の文化財(1983) Page49

木造不動明王坐像

上の写真は無動寺の木造不動明王坐像 大正3年(1914)8月25日指定
平安時代に製作 木造 彩色 像高84.0cm
出典:神戸市立博物館編 第3回特別展 神戸の文化財(1983) Page49


デジブック 『無動寺』
で紹介


上の写真は5体の仏像に関する現地説明板 撮影:2009-5-27

無動寺 重要文化財の彫刻を中心として on 2011-10-12で紹介

妙法寺

  妙法寺の住所は神戸市須磨区妙法寺字毘沙門山1286

木造毘沙門天立像

上の写真は無動寺の木造毘沙門天立像 昭和15年(1940)10月14日指定
平安時代に製作 木造 素地 像高180.3cm
出典:神戸市立博物館編 第3回特別展 神戸の文化財(1983) Page32

善福寺
 保管は神戸市立博物館寄託

  善福寺の住所は神戸市北区有馬町1645

木造聖徳太子立像(南無仏太子像)

上の写真は善福寺の木造聖徳太子立像(南無仏太子像) 大正3年(1914)4月17日指定
鎌倉時代に製作 木造 寄木造り 像高68.5cm ト書:法印湛幸ノ胎内銘アリ
出典:神戸市立博物館編 第3回特別展 神戸の文化財(1983) Page56

温泉寺(清涼院)

  温泉寺(清涼院)の住所は神戸市北区有馬町1643

木造波夷羅大将(ばいらたいしょう)立像

上の写真は温泉寺(清涼院)の木造波夷羅大将立像 大正3年(1914)4月17日指定
江戸時代に製作 木造 彩色 玉眼 像高102.5cm
出典:神戸市立博物館編 第3回特別展 神戸の文化財(1983) Page60

多聞寺(北区)

  多聞寺(北区)の住所は神戸市北区長尾町宅原417

木造毘沙門天立像

上の写真は多聞寺(北区)の木造毘沙門天立像 大正3年(1914)4月17日指定
平安時代に製作 木造 素地 像高 169.7cm
出典:毎日新聞発行(1972)、文化庁監修の重要文化財Ⅳ彫刻 Page73


木造吉祥天立像

上の写真は多聞寺(北区)の木造吉祥天立像 大正3年(1914)4月17日指定
平安時代に製作 木造 古色 像高 99.0cm
出典:毎日新聞発行(1972)、文化庁監修の重要文化財Ⅳ彫刻 Page81


木造地蔵菩薩立像

上の写真は多聞寺(北区)の木造地蔵菩薩立像 大正3年(1914)4月17日指定
鎌倉時代に製作 木造 漆箔 彩色 玉眼 像高 82.0cm
出典:毎日新聞発行(1972)、文化庁監修の重要文化財Ⅲ彫刻 Page90

大龍寺

大龍寺の住所は神戸市中央区神戸港地方再度山1−3

木造菩薩立像(伝如意輪観音像)

上の写真は大龍寺の木造菩薩立像(伝如意輪観音像) 昭和4年(1929)4月6日指定
奈良時代に製作 木造 古色 像高 180.3cm
出典:神戸市立博物館編 第3回特別展 神戸の文化財(1983) Page43

歓喜寺

歓喜寺の住所は神戸市中央区中島通5丁目1−40

木造十一面観音立像


上の写真は歓喜寺の木造十一面観音菩薩立像 昭和4年(1929)4月6日指定
平安時代に製作 木造 漆箔 像高 88.4cm
出典:神戸市立博物館編 第3回特別展 神戸の文化財(1983) Page47

香雪美術館

香雪美術館の住所は神戸市東灘区御影郡家2丁目12-1

木造薬師如来立像


上の写真は香雪美術館の木造薬師如来立像 昭和8年(1933)1月23日指定
鎌倉時代に製作 木造 漆箔  像高 129.0cm
出典:毎日新聞発行(1972)、文化庁監修の重要文化財Ⅰ彫刻 Page67


宝満寺

宝満寺の住所は神戸市長田区東尻池町2丁目11−1

木造大日如来坐像




上の2枚の写真は宝満寺の木造大日如来坐像と胎内 平成9年(1997)6月30日指定
鎌倉時代に製作
ト書:像内に永仁四年(1296)九月、大仏師法眼定運等の朱書銘がある
出典:神戸市立博物館編 神戸の文化財Ⅱ (2007) Page29

解説文(文化庁のデータベース):
 高髻を結い、法界定印を結んで坐る等身の胎蔵界大日如来像である。ヒノキ材の寄木造で、
頭・体幹部を通して両耳後を通る線で矧ぐ前後二材より彫成し、各内刳を施して三道やや
下で割首を行う。両眼は玉眼とする。両肩・臂・手首で各矧ぎ、両手先は通して一材製とする
両足部は横一材製、両膝奥は側面二段および上面の計三材を矧ぐ。
髻(三材製)、正・背面の条帛垂下部に各別材を矧ぐ。表面は錆下地に黒漆塗、白下地のうえ
肉身部は金泥塗、衣部は盛上文様をまじえた彩色を施している。
 像内に永仁四年(一二九六)の年記と、大仏師法眼定運【ほうげんじよううん】をはじめ
卿定弁法橋、康意、三河法橋定盛の四人の仏師の名が記されており、造像年代と作者が知られる。
仏師のうち定弁、定盛の二名に関しては正和三年(一三一四)に岐阜・長瀧寺釈迦如来及
四天王像(現存せず)の造立に携わったことが記録(『長瀧寺真鑑』ほか)により知られ、
それらの像を彼らとともに造った慶誉という仏師が弘安四年(一二八一)の長谷寺本尊像の
再興に慶派正系の湛康、慶秀らとともに参加していることからすれば、定運らもまた慶派に
属する仏師とみてよいであろう。像底を上げ底式に刳り残す構造にもこの派の特徴がうかがえる。
 その作風は鎌倉時代盛期を過ぎたこの時代の遺品らしくやや弛緩した感も否めないが、
肉付きのよい体躯の象形や太い衣文線には運慶風の名残りが認められ、当代慶派の基準作例
として推賞することができよう。
 ことに注目されるのは、頭体とも前半材では金箔、後半材では銀箔をそれぞれ内刳面に押す
像内の仕上げ法である。像内漆箔は院政期に始まり、鎌倉時代にもしばしば行われた手法で
あるが、本像と同様の例は知られていない。当代の像内荘厳のありようを考えるうえで
貴重な事例といえよう。また像内より口腔を穿って口唇のわずかな隙間に貫通させる仕口も
特徴的で、密教の観想法との関連が想像される一方、この時代に造られるようになった
いわゆる歯吹阿弥陀像などにも通じるところがある。
 銘文は像内漆箔面のほぼ全面にわたり朱書され、造像関係者や各種偈文、諸尊種子などが
記される。宝満寺は文永三年(一二六六)に無本覚心(法燈国師)により禅刹に改められたと
伝えられるが、和歌山・興国寺法燈国師像(重文)がやはり像内頭部の前面を金箔、後面を
銀箔押とし、そこに朱書銘を記すことが注目される。真言密教にも深い造詣を有した覚心が
本像の製作に関与していた可能性は十分考えられよう。
 附指定の四点はいずれも像内より取り出されたと伝えられる。金剛界大日如来の小像は
台座底面の輪郭が、本体の像内胸部に設えられた蓮台の上面にある痕跡と一致する。
舎利注文は八人の交名とそれぞれの喜捨した舎利の粒数が記される。
また般若理趣経・金剛界礼懺は本像の大勧進として銘文に記される吽日が弘安三年(1280)
に書写したものである。いずれも本像の関連資料として逸することのできない品々である。
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敦盛塚の発掘調査 on 昭和60年度(1985)

2018年09月24日 05時14分03秒 | 神戸情報

一昨日(2018-9-22)、神戸市埋蔵文化財センターで行われた講演会で敦盛塚(五輪塔)が
昭和60年度(1985)に発掘調査が行われていることを知った。
(昭和60年度神戸市埋蔵文化財年報Page91-98で報告されています)

上記の昭和60年度神戸市埋蔵文化財年報より発掘調査内容について概要を纏めてみました。


上の写真は発掘調査前の敦盛塚の姿です。
最下段の地輪の下半分は地中に埋もれている状態であったようです。
多分、阪神大水害のような大水害による土砂の流入又は地震によるものと思われます。






上の3枚の写真は発掘調査中の地輪と台座の状況です。


上の写真は地輪と台座の平面図及び断面図で同時に埋土の状況です。

埋土は上層より淡黒灰色砂礫土、黄茶褐色砂礫土、黄青灰色粘質土、灰褐色砂礫土、
暗灰色粘質土で、地山は茶褐色砂礫土である。
黄青灰色粘質土、灰褐色砂礫土からは寛永通宝や江戸時代の茶碗や皿などの磁器が出土。


上の写真は地輪と台座の詳細な出土状況が記載されています。

五輪塔の石と石の間からは寛永通宝371枚の他、元豊通宝、聖宋通宝、太平通宝などの宋銭の
模擬銭や「奉納西国三拾三所巡礼」と書かれた木札が約30枚出てきた。




上の2枚の写真は水輪上面の遺物出土状況と木札
遺物はすべて江戸時代以降のものである。

木札の墨書で判読出来た年号には享保十六亥年(1731)、宝暦六丙子歳(1756)正月吉日
が確認されています。


考察及びまとめ

五輪塔(敦盛塚)の建造時期

上の写真は寛政年間(1789-1801)摂津名所図会で敦盛塚が記載されていることから
この時期には確実に存在していることが判る。

須磨寺に残されている当山歴代記の慶長元年(1596)の項に「敦盛石塔中浜まで参り候。
前田安済興行にて、寺中として一日に本所へ取り上げ候
」とある。
文禄5年(1596)丙申閏7月12日の地震で須磨寺の本堂他が倒壊し敦盛塚も倒壊し移動
したが1日で修復されたことが判ります。

上記により1596年には既に敦盛塚が建立されていたことが判る。

敦盛が有名になるのは須磨寺の古い記録当山歴代の中に大永6年(1526)2月の条
10日間にわたり敦盛の御影や青葉の笛さらに須磨寺の御本尊の御開帳が実施
上記イベントで多くのひとが須磨寺を訪問し人々に感動を与えたことに始まる。

敦盛塚は教育委員会の説明書きでは鎌倉幕府の執権北条貞時が平家一門の冥福を祈って、
弘安年間(1278~1288)に造立した説を紹介されているが五輪塔の形式から
室町時代後期とされていることから造粒年代はもう少しのちのことと思います。
しかし、少なくとも1526年には敦盛塚は出来ていたものと推定しています。

五輪塔の下の台座と縁石
五輪塔の下に台座や縁石が発掘調査の結果、確認された。宝篋印塔の下に台座や縁石が
ある例は多いが五輪塔での台座や縁石を持つ例は極めて少ない。

ここで神戸市教育委員会の説明板より説明書きを以下に引用する。

神戸市指定有形文化財 敦盛塚五輪塔
○総高:397cm
○製作年代:室町時代末期~桃山時代
○指定年月日:平成9年10月23日

 この五輪塔は花崗岩製の総高4m近い堂々たるもので、中世の五輪塔としては
石清水(いわしみず)八幡宮五輪塔(京都府八幡市)に次ぎ、全国で第2位の規模を誇る。
法量は総高397cm、2石から成る地輪(ちりん)は幅126cm、高さ98.5cm、
水輪(すいりん)は、最大径130.4cm、高さ99cmで下部がすぼまり、火輪(かりん)
は軒幅126.4×119cm、高さ75.8cm(上部に径30cm、深さ20cmの柄穴
(ほぞあな))、風(ふう)、空輪(くうりん)は一石彫成で、風輪の径73cm、
高さ56cm、空輪最大径69cm、高さ72.9cm、各輪四方にそれぞれ五輪塔四門の
梵字(ぼんじ)を薬研(やげん)彫りに配している。紀年銘はなく、梵字が大きいことや
水輪火輪の様式にやや古調がみられるが、風、空輪は明らかに近世塔やの先駆的様式を
示していることから、室町時代末期から桃山時代にかけての製作と思われる。
 この付近は源平一の谷合戦場として知られ、寿永3年(1184)2月7日に、
当時16才の平敦盛が、熊谷次郎直実によって首を討たれ、それを供養するためにこの塔を
建立したという伝承から、"敦盛塚"と呼ばれるようになった。このほか、鎌倉幕府の執権
北条貞時が平家一門の冥福を祈って、弘安年間(1278~1288)に造立したなどの
諸説がある。
 昭和60年(1985)4月に、神戸市教育委員会が周辺整備のための発掘調査を行った
ところ、下半分が埋没した地輪の下に、四角に囲った板石とその中に2枚の石から成る
基壇遺構があることが分かった。このため、基壇の上部を地表に現し、地輪部以上を完全に
露出するように積み直した。
平成11年3月    神戸市教育委員会


Five storied stupa  Atsumorizuka
Five storied stupa is a tombstone consist of five different parts.
From the bottom ,the scquare part symbolises earth, the circular part,
wind and the flaming shape part, air.
In buddhism it indicates five elements which exist in the material world.
This stupa is made of granite with 3.97m height.
It is the second largest scale,that of next to Iwashimizu-Hachimangu
(in Kyoto)in medieval period(16th century)by the type of dyone stupa.
This area is well known as the battlefield of Ichinotani between Gengi
clan and Heike clan in 12th century.
It is said this stupa was dedicated to TAIRANO Atsumori,young knight of
Heike who was killed by KUMAGAI Naozane in 1184 at age 16.
March 1999 Kobe City Board of Education


さらに詳細は下記のブログで記載しています。
敦盛塚 on 2018-3-28

また五輪塔の周囲に刻まれている梵字については下記のブログに掲載しています。

第829回 敦盛忌 in 敦盛塚 on 2014-3-8



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神戸市の国指定重要文化財リスト その1 建造物(2018年9月22日現在)

2018年09月22日 05時59分32秒 | 神戸情報
文化庁の国指定文化財等データベースにより2018年9月22現在の神戸市内の
重要文化財(建造物)を調べてみました。
区別に整理してみました。過去にブログで取り上げたものは写真又はリンクで
写真などが無いものは施設の公式サイトなどにリンクしています。

東灘区

旧村山家住宅         洋館  明治  2011-6-20指定
                    衣装蔵 明治    〃
                    美術蔵 大正    〃                   
                    玄関棟 大正    〃
                    書院棟 大正    〃
                    茶室棟 明治    〃

 住所は神戸市東灘区御影郡家二丁目12番1号
    

香雪美術館の公式サイトに解説とともに写真が掲載されています。
  http://www.kosetsu-museum.or.jp/mikage/bunkazai/


灘区

旧ハンター住宅

   明治時代の建造物で1966-6-11に指定
   住所は神戸市灘区青谷町一丁目1番4号
      (旧所在地は神戸市生田区北野町)


上の写真は王子動物園内のハンター邸 撮影:2016-6-27

 国指定重要文化財 旧ハンター邸 on 2011-10-3で紹介

中央区

旧ハッサム住宅

   明治時代の建造物で1961-6-7に指定
   住所は神戸市中央区中山手通五丁目3番1号相楽園内
      (旧所在地は神戸市生田区北野町)


上の写真は旧ハッサム住宅 撮影:2016-5-3

旧ハッサム邸 in 相楽園 on 2016-5-3で紹介

旧小寺家厩舎
   明治時代の建造物で1970-6-17に指定
   住所は神戸市中央区中山手通五丁目3番1号相楽園内


上の写真は旧小寺家厩舎 撮影:2018-5-27

相楽園 on 2008-4-29で紹介


船屋形
   江戸中期の建造で1953-8-29に指定
   住所は神戸市中央区中山手通五丁目3番1号相楽園内


上の写真は船屋形 撮影:2018-5-27

相楽園 船屋形の内部公開 on 2018-5-27で紹介

相楽園 船屋形の復元前の写真 (昭和16年以前)

旧トーマス住宅(風見鶏の舘)

   明治時代の建造物で1978-1-21に指定
   住所は神戸市中央区北野町三丁目13番3号


上の写真は旧トーマス住宅(風見鶏の舘) 撮影:2018-3-6

風見鶏の舘(旧トーマス邸)内覧記 on 2018-3-6で紹介

旧神戸居留地十五番館
   明治時代の建造物で1989-5-19に指定
   住所は神戸市中央区浪花町15番地


上の写真は神戸旧居留地15番館  撮影:2007-7-25

神戸旧居留地15番館 on 2007-7-25 で紹介

トゥーストゥース メゾン ジュウゴ でのランチ on 2012-9-25 で紹介

小林家住宅(旧シャープ住宅)
   明治時代の建造物で1980-12-18に指定
   住所は神戸市中央区北野町三丁目77番地の2


上の写真は小林家住宅(旧シャープ住宅) 通称:萌黄の舘 撮影:2018-3-6

北野異人館(1)---萌黄の館 で紹介

徳光院の多宝塔
   室町後期の建造物で1971-6-22に指定
   住所は神戸市中央区葺合町 布引山2-3


上の写真は徳光院の多宝塔 撮影:2018-9-20

川崎正蔵の墓 in 徳光院 on 2018-9-19で紹介


川崎正蔵の菩提寺 大円山徳光院訪問 on 2009-9-19
で紹介

布引水源地水道施設 布引水路橋(砂子橋)明治  2008-7-5指定
                    雌滝取水堰堤  明治    〃
                    谷川橋     大正    〃                   
                    五本松堰堤   明治    〃
                    放水路隧道   明治    〃
                    締切堰堤    明治    〃
                    分水隧道    明治    〃
                    分水堰堤附属橋 明治    〃
                    分水堰堤    明治    〃

 住所は神戸市中央区葺合町山郡(ダムの左岸)           


上の写真は五本松堰堤(通称;布引ダム) 撮影:2018-9-19




上の2枚の写真は雌滝取水堰堤と現地説明板 撮影:2018-9-19


布引ダム(布引水源地水道施設) on 2012-6-4
で紹介

須磨区
福祥寺(須磨寺)本堂内宮殿及び仏壇

   室町前期の建造物で1953-8-29に指定
   住所は神戸市須磨区

須磨寺 本堂 御本尊の秘仏(聖観世音菩薩像) 特別御開帳で紹介

垂水区

移情閣

   大正期の建造物で2001-11-14に指定
   住所は神戸市垂水区東舞子町2051番地


上の写真は孫文記念館(移情閣) 撮影:2014-10-29

移情閣で紹介

西区

太山寺仁王門

   室町中期の建造物で1913-4-14に指定
   住所は神戸市北区伊川谷町前開224(太山寺)


上の写真は太山寺仁王門です。 撮影:2007-11-10
もともと二重門であったが天正年間(1573-1591)ころ現地に移転の際、
上層部が撤去され現在のように改造された。3間1戸8脚門である。

太山寺で紹介

太山寺 in 2008年秋で紹介

太山寺の本堂は神戸市の建造物で唯一国宝に指定されています。
   鎌倉後期の建造物で重要文化財としては1913-4-14に指定
   住所は神戸市北区伊川谷町前開224(太山寺)

神戸市の国宝で紹介

如意寺         阿弥陀堂  鎌倉前期  1952-7-19指定
              三重塔  室町前期    〃
              文殊堂  室町中期    〃                   
                    
   住所は神戸市西区櫨谷町谷口259


上の写真は如意寺阿弥陀堂 撮影:2009-3-23


上の写真は如意寺三重塔 撮影:2009-3-23


上の写真は如意寺文殊堂 撮影:2009-3-23

如意寺で紹介


北区

若王子神社本殿
   室町中期の建造物で1914-4-17に指定
   住所は神戸市北区山田町福地字新池100(無動寺) 


上の写真は若王子神社本殿(無動寺境内) 撮影:2009-5-27

若王山 無動寺で紹介

石峯寺         三重塔  室町中期  1915-3-26指定
               薬師堂  室町後期    〃


   住所は神戸市北区淡河町神影110-1 


上の写真は石峯寺三重塔  撮影:2008-5-22


上の写真は石峯寺薬師堂  撮影:2008-5-22

石峯寺で紹介

箱木家住宅         主屋  室町後期  1967-6-15指定
                  座敷 江戸中期    〃

   住所は神戸市北区山田町衝原(つくはら)字道南1-4


上の写真は箱木家住宅の主屋  撮影:2007-11-22

重要文化財箱木家住宅 で紹介

八幡神社(六條八幡宮)三重塔
   室町中期の建造物で1914-4-17に指定
   住所は神戸市北区山田町中字宮ノ片57


上の写真は六條八幡宮三重塔  撮影:2011-10-12

六條八幡宮 on 2011-10-12 で紹介

豊歳神社本殿
   室町後期の建造物で1979-5-21に指定
   住所は神戸市北区大沢町市原631

下記サイト(兵庫県神社庁)に写真と解説が記載されています。
 http://www.hyogo-jinjacho.com/data/6301156.html
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嶋谷汽船本社跡---岩国市由宇町(2018-9-21改訂版)

2018年09月21日 06時23分11秒 | 岩国情報
2005年4月26日付けで下記のブログ記事をアップしています。
由宇町は玖珂郡であったが2006年3月20日に岩国市に編入され岩国市由宇町となっています。
このようなこともあり同じ題目で新たな項目や写真を追記してブログを書くことにしました。

由宇船主の中で頭角を現した嶋谷徳右衛門(嶋谷汽船創始者)は
若くして船主兼米問屋の中尾家に奉公して廻船業務と米の売買を習得
その才知と能力はすばらしく、その為主家に認められ明治10年(1877)
徳右衛門40歳の時に中尾本家の持船2隻・昌栄丸(900石)と昌宝丸
(700石)を譲り受け更に生家の父親所有船若宮丸を継承して
所有船3隻の船主となって独立した。
しかし明治22年 6 月28日享年52歳にして逝去となり嗣子嶋谷徳三郎が
弱冠22歳で二代目として家業を継承し家督を相続した。
徳三郎は慶応 3 年 (1867) 11月 7 日の生まれで若年より
父に鍛えられ20歳前既に米穀の取り引きや米相場船舶の配船業務などに
精通する優秀な人であった。
由宇の和船を 使った海運業者(北前船廻船業者)が鉄道の開通や電信電話
の発達で廃業に追い込まれる状況下でも嶋谷汽船(当時は嶋屋)
明治29年(1896)イギリス製の浦門丸(528t)を購入し踏みとどまった。
その後明治34年(1901)から40年(1907)にかけて大和型帆船や木造汽船
を処分し堅実第一主義の経営に徹底したと言われている。
日露戦争後の明治43年(1910) 5 月に至り 2 隻の海外船を買船 翌44年
更に 2 隻計 4 隻の千トン級鋼製汽船を購入して従来の九州航路と
北前船航路の運航を継続し充実した海運業を謳歌した。
大正元年(1912)の保有船は大成丸など5隻4350tonであった。
大正3年(1915)7月28日勃発した第一次世界大戦の影響で海運界は
未曾有の好況を迎え大正6年(1918)嶋谷汽船株式会社と改組した。
大正12年(1923)には営業の拠点を神戸明石町に移転した。


上記ブログのサイトへのリンク
 https://blog.goo.ne.jp/chiku39/e/ed519bca24daeaaa40ba53a536e5587a

上記の内容とダブル部分もあるが嶋谷汽船の歴史について概略記載します。


上の写真は嶋谷汽船本社跡---岩国市由宇町
出典:Googleストリートビュー 2013年5月

江戸時代末期から明治初期にかけて盛んであった由宇の廻船業は鉄道の開通や電信電話の
発達で北前船が採用していた買い積み形式の営業が不利となり明治30年代(1897-1906)
には転廃業を余儀なくされた。
嶋谷汽船は元々「嶋屋」という屋号で廻船業を営んでいました。
その持ち船は昌平丸(900石)、昌栄丸(700石)でした。

ここで岩国市由宇歴史民俗資料館のリーフレットより当時の北前船の絵馬や嶋屋の船旗
仕切証を添付しておきます。(下の3枚の写真)



上の写真は嶋谷家屋号 「やまじょう」のマークです。


嶋屋は上述のように北前船の船主でしたが明治29年(1896)イギリス製の鋼鉄船の
浦門丸(528t)を購入し、なんとか海運業に踏みとどまった。
次第に持ち船を増やして大正元年(1912)の保有船は大成丸など5隻、合計4,350トン
嶋谷徳三郎が明治28年(1895)より経営した個人営業の嶋谷汽船の組織は大正6年
(1917)5月、資本金50万円で株式会社化に改組し新たな創業となった。
順調に発展し、大正7年(1918)2月に資本金を倍額に増資。同年8月には200万円に
大正15年(1926)6月には300万円、大正12年(1923)には営業の拠点を由宇村から
神戸市明石町に移転した。
さらに昭和8年(1933)7月には500万円に増資。
昭和9年(1934)嶋谷商船株式会社(本社・小樽市)を合併し資本金600万円となって
います。昭和11年の所有汽船は18隻 49,452トンになっています。
主な汽船は太平丸(10,000トン)、昌平丸(10,000トン)、海平丸3,500トンなど

上の写真は太平丸。

主な定期航路:   朝鮮・北海道・大連航路 4回/月
(昭和11年当時)  北海道・北朝鮮航路   2回/月
          小樽・稚内航路     6回/月
          伏木・根室航路     4回/月       


昭和18年(1943)国策により三井船舶と合併。戦争によって壊滅的な被害を受けたが
戦後も存続したが昭和46年(1971)頃から経営が悪化、昭和53年(1978)に自主廃業。

昭和26年(1951)に三井船舶会社から独立して再興した嶋谷汽船であったが27年間の
活動で廃業することになりました。

なお、嶋谷汽船の社主は代々、郷里の由宇を大事にされる方で由宇小学校に多額の
寄付をされています。

参照サイト:
https://www.zensenkyo.com/_bk/kaiho/94kaiho/nihonshousen/nihonshousen48.htm

http://www2.ipcku.kansai-u.ac.jp/~shkky/wakumon/no-28/01matsuura.pdf

http://jpnships.g.dgdg.jp/company/prof_shimatanikisen.htm


最後に岩国市由宇歴史民俗資料館のしゃしんを添付して筆を置きます
出典:Googleストリートビュー 2013年5月




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