CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ)

神戸・岩国の最新情報を中心に紹介していきます。歴史や時事について調べた結果を紹介。

デルタ株に新たな変異  世界で8例、国内初の報告

2021年08月31日 06時55分39秒 | Weblog

デルタ株による感染拡大が続いており第5波の出口が見えない状況が続いています。

東京医科歯科大学の武内寛明准教授は8月30日の記者発表で標題について説明会見が

行われました。NHK総合テレビの報道より写真紹介します。

詳細はプレス通知資料(下にリンク)を参照してください。

 20210830-1 (tmd.ac.jp)

 

記者発表のポイントは以下のとおり

・2021年7月に東京医科歯科大学病院に入院中のCOVID19患者からデルタ株(B.1.617.2 系統)が

 検知される確率が急増していることを確認 感染力の強いL452R変異株

・2021年8月中旬のCOVID19患者からアルファ株主要変異(N501Y)の類似変異である

 N501S変異を有する新たなデルタ株の市中感染事例を確認(L452R+N501S)

・分子系統解析の結果、N501S変異を有する当該デルタ株は、国内で新たに変異をしや可能性が高い

・N501S変異を有するデルタ株は、世界では8例のみ報告。国内では1例目(国内初)

  2021年8月27日現在のCISAID登録データで確認

 

NHK総合テレビの報道

上の写真はCOVID19ウィルスの電子顕微鏡写真

上の3枚の写真は記者発表された東京医科歯科大学の武内寛明准教授

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昭和21年(1946)廃墟の神戸元町通り3丁目に出現したジュラルミン街

2021年08月31日 03時36分46秒 | 神戸情報

本日は昭和21年(1946)廃墟の神戸元町通り3丁目に出現したジュラルミン街(ジュラ街)

について書いていきます。

記事を書くキッカケとなったのは市民のグラフ「こうべ」No.171 1987年1月号Page12に

ジュラルミン街の写真が掲載されていたからです。(下の写真)

上の写真の説明文として下記のように記載されています。

復興の意気に燃えた商店主たちが軍需工場から払い下げを受けたジュラルミンを

バラックに張りつめたもので、幾何学的な新しい感覚があふれていた。

 

神戸元町ジュラルミン街 CAVE 可視化 プロジェクト 2013年夏 完成版

上の動画は兵庫県立大学 大学院シミュレーション学研究科 の有志が、昭和21年 (1946年)

の12月、終戦後わずか 1年少しで奇跡の復興を遂げた「神戸元町ジュラルミン街」を、

3次元立体視が可能な装置においてコンピューター・グラフィックスで再現した、

その成果の概要を紹介するビデオです。

 

次に「海鳴りやまず 第4部 神戸近代史の主役たち」神戸新聞社編(1979) Page42-45

でジュラ街の出現について詳述されていますので要約して紹介します。

神戸元町3丁目では瓦礫の山で三宮の闇市や新開地に賑わいと較べて閑散としていた。

復興しようにも金はなく、商人はやる気を失っている。そんな折、洋服屋の奈良山勉治が

耳よりな話を持ち込んだ「新聞に出とるんやが、横浜では長屋式の商店街ができたらしい」

復興に意欲のある同じ神戸元町3丁目の近藤常吉(マスヤ)、吉川進(風月堂)には、

それは大げさに言えば「天の啓示だった」という。

3人が横浜に対抗して復興を決意したのは昭和20年の暮であった。3丁目の商店主はざっと

50人。みんな食べていくのに精いっぱい。そういう人たちを一堂に集めて話がまとまる

自信などは発起人の3人には全くなかったが、とにかく「サイを投げてみよう。」

早速、第一回の会合を高架下のラジオ店で開催した。およそ1年間の粘り強い説得で

最初は否定的であった人達も「街は共同経営」を合言葉に店主たちがまとまるようになった。

3人の描く3丁目の将来図はこうだった。通りには飛行機のジュラルミンを張り、ウンドーも

防弾ガラスで統一する。店の間口は各自の持ち分でまちまちだが、奥行きはいずれも9m。

建設費は3.3㎡当たり5,000円。バラックの2,000円に比べて2.5倍かかるが、この際ガレキの暗い

イメージを「ジュラ」の持つ明るさに一変するのだから少々の出費はやむを得ないという発想

だった。肝心の資金計画は、戦災保険を担保に銀行から借りるつもりだった。この方は、会計の

吉川が帝国銀行にかけ合って融資の道をつけた。「ジュラは竹中工務店がどっさり持っていたん

ですよ。からっとした明るさで、イメージを変える上でまさにピッタリでした」(吉川)

準備会はやがて復興委員会に組織を変え、諏訪山会館で開いた設立総会では全員の賛同を得た。

昭和21年(1946)10月、大げさに言えば、焼け跡にこつ然と出現した「純白のストリート」だった。

1~2丁目と4丁目以東はバラックがぽつりぽつりとあるだけだったから、3丁目はいやでも目立つ。

売る商品は不足し、資金繰りに困る毎日でも「やり遂げた」という3丁目商人の自信は大きかった。

元町のジュラ街-ウィンドーに飾る商品は不足していたが、戦災でうちひしがれた市民は競って

街に飛び出し、元ブラを楽しんだ。

吉川進(風月堂)は「できてみると、苦労も吹っ飛んだ。人波があふれ、そのうち商品も揃う。

よその通りも飾り立て、2-3年で戦前の繁華街に復活しましたね」と語る。

昭和22年(1947)淡路を巡行された陛下が中井神戸市長に「神戸のジュラ街はどうか」と

質問されたとのエピソードも残っています。200mそこそこの商店街が全国に名を売った。

「ジュラルミン街」として敗戦からわずか1年2か月で復興させ、戦後の混乱の中で

平和と希望の象徴として輝きを放った。

 

また、2001年5月26日の毎日新聞掲載記事の一部を転載させていただきます。

 1945(昭和20)年5月5日、米軍機B29が6機で神戸を空襲。 墜落した1機から神戸の航空写真が発見され、川西航空機甲南工場が5月11日に攻撃されることが分かった。 人々は米軍が日本の軍需産業を正確に把握していることに驚きながら、 書類や資材を4日間で疎開させ、空襲に備えた。
 終戦後、元町商店街にできた「ジュラルミン街」(通称・ジュラ街)は、 このとき同工場から神戸松蔭高等女学校へ疎開させた航空資材、 ジュラルミンの払い下げを受けて出来たもの。 3丁目の店主が共同店舗を建てる際の外装に利用し、 終戦翌年の46(同21)年末には銀色に光るジュラ街が誕生した。

上の写真は神戸新聞 昭和21年(1946)10月14日の記事で神戸復興のシンボル的な

存在として明るい話題となった。

 

最後に今も残るジュラルミン街の痕跡があるということで「神戸トピックス」さんの

ブログにリンクさせていただきました。

 元町ジュラルミン街のなごり : 神戸トピックス (exblog.jp)

 

 

 

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松原城跡(神戸市北区)の発掘調査結果の概要

2021年08月30日 04時47分44秒 | 神戸情報

松原城跡(住所表示:神戸市北区道場町日下部字西山)は神戸市文化スポーツ局文化財課

により平成31年(2019)3月18日から令和2年(2020)1月28日まで発掘調査されました。

発掘調査結果の概要について纏めてみました。

現地説明会は下記の2回、実施されています。

  1) 松原城跡 第1回現地説明会資料 2019.8.31

  2) 松原城跡 第2回現地説明会資料 2019.12.1

 

松原城の概要

 所在地:神戸市北区道場町日下部字西山の住所表示地で神鉄道場駅の東側の独立丘陵地

 立地:交通の要衝であった(下の地図) 道場河原は宿場町としても栄えていた。

  

    周囲の城:立石城、横山城、宅原城、三田城 松原城は三田城の付城として築城

   下の写真は各城の位置を示した地図

    出典:松原城跡 第1回現地説明会資料 2019.8.31

 別名:タンポポ城、道場城、道場河原城など

 堀:有野川を利用した堀があった

発掘調査の概要

 

上の写真は発掘調査された箇所を示した図です。以降名称は上記名称によります。

出典:松原城跡 第2回現地説明会資料 2019.12.14

 

上の写真は松原城近景 出典:松原城跡 第2回現地説明会資料 2019.12.14

 

前置きが長くなりましたがこれから発掘調査の中身について記載していきます。

構成としては第1回の現地説明会(2019-8-31)までの発掘調査とそれ以降の発掘調査結果

の2部に分けて書いて行きます。

 第1回の現地説明会(2019-8-31)までの発掘調査

  曲輪2(西の丸跡)

上の写真は曲輪2の全体図 上側が北 出典:松原城跡 第1回現地説明会資料 2019.8.31

  ・南西側から北東側の3方向に土塁(帯郭)が築かれています。

  ・曲輪全体の形状は方形を意識して整形

  ・約20m×約30m曲輪

  ・南側に虎口(城への出入口)

  ・築城以前、築城時、改修時、廃城後の4地層を確認

  ・遺構として建物礎石(2m間隔 建物は3間×6間)、井戸、土坑、溝など

  ・北西側の土塁に沿って石敷遺構が確認されています。(下の写真)

上の写真は曲輪2の石敷遺構 出典:松原城跡 第2回現地説明会資料 2019.12.14

石敷遺構は石が2層に敷き詰められています。

 上層:玉石大の石(幅約1m 長さ約8m)

 下層:拳大の石(幅約2m、長さ約8m)

上の2枚の写真は曲輪2の北西側土塁(上)と南西側土塁(下)

 出典:松原城跡 第2回現地説明会資料 2019.12.14

曲輪2の三方向を囲む土塁は場所によって構築方法が異なることが判りました。

北西側の土塁内では、改修前の土塁は頂上から内部側へ1つ段を設け、石を据えていた。

改修時にさらに土を盛って土塁を高くしています。

南西側土塁は、斜面部に土を盛って造成して曲輪を広げ、その上に土塁を築いていた。

北西側土塁と同様、さらに土を盛って高くしていました。

信長の三田城攻め(1578年)の際に急いで改修された跡とみられています。

 

 

  曲輪4

上の写真は曲輪4 出典:松原城跡 第1回現地説明会資料 2019.8.31

曲輪2の北東側に位置する長さ29.5m、最大幅10.5m 面積約200㎡で腰曲輪の中でも

規模の大きな曲輪で武者溜り(戦いの際に兵が駐屯)と思われます。

西辺は岩盤・地山を削り出した急斜面の切岸

東端は曲輪14から続く土塁がある。 遺構:炭溜まり土杭など

 

  曲輪5

上の写真は曲輪5  出典:松原城跡 第1回現地説明会資料 2019.8.31

曲輪2の北東側、曲輪の西側に接して位置します。平坦部の大きさは南北4.0m、東西4.6m

曲輪4に比べて約2m高い位置にあります。南東辺の裾に石列

  堀切(空堀)

上の2枚の写真は曲輪2と曲輪1の間にある箱堀状の空堀

出典:松原城跡 第1回現地説明会資料 2019.8.31

8月以降の発掘で曲輪14にこの堀切からつながり、曲輪1の裾をめぐる横堀が検出

 

 第1回現地説明会(2019-8-31)以降

  曲輪1(本丸跡)

   ・北東側から南西側の3方向に土塁  

   ・北西側の土塁(1.5mH)の上にはかって神社が建っていた。

   ・平坦部の建物跡は確認できていない

   ・遺構は石敷遺構、溝、土杭、石囲い遺構、方形マウンド状遺構

上の写真は曲輪1の北西土塁 出典:松原城跡 第2回現地説明会資料 2019.12.14

上の写真は曲輪1の石敷遺構  出典:松原城跡 第2回現地説明会資料 2019.12.14

 

  曲輪3(東の丸跡)

    ・岩盤を削って平坦部を整形

    ・近代の攪乱が激しく、遺構はほぼ残存しない

    ・南西側には曲輪1へと続く土塁状の高まりがある

 

かっての松原城の全体配置図

  下記のサイトには、本丸、東の丸、西の丸、帯郭、堀、大手門、搦手門などの

  配置図が掲載されていますのでリンクさせていただきました。

  城跡探訪・道場城(松原城) (coocan.jp)

 

関連サイト

  織田信長軍が改築した「付城」が出現!  消滅が惜しまれる神戸・松原城 | 朝日新聞デジタルマガジン&[and] (asahi.com)

 

  松原城に関わる伝説「タンポポ城と鶴の松」 - CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ) (goo.ne.jp)

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金龍閣 名谷店でのランチ on 2021-8-28&8-6&7-19&6-23

2021年08月29日 06時38分29秒 | 神戸情報

2021年8月28日、8月6日、7月19日及び6月23日に金龍閣 名谷店でランチを

いただきましたので写真紹介します。

定期的に入るお店です。

 

金龍閣 名谷店 の基本情報

住所:神戸市須磨区中落合2-2-3 須磨パティオ専門店3番館 1F
TEL:078-791-7166 料理ジャンル:中華料理
営業時間:11:00~21:30(L.O.21:00) 定休日:なし
公式HP: (シンエーフーヅ)

シンエーフーヅ(株)は金龍閣の他に日本料理系ではたかくら新長田店(2018-5-31閉店)
東京田村 加古川店。

欧風料理ではデルパパさんプラザ店、六甲山牧場の中にシープベル、神戸チーズ、
三木山公園内の旬彩レストラン デルパパ、須磨海浜水族園内の和楽園などを
展開するチェーン店です。

シンエーフーヅの中華料理の店には名谷の他にDuo神戸と西明石に店があります
シンエーフーヅは一昨年50周年を迎えたそうです。

 

8月28日

上の写真は当日私が注文した 彩り特製冷麺 1,580円(税込)

上の写真は「彩り特製冷麺」が掲載のメニュー看板

上の写真は土日のメニュー表

上の写真は当日、奥様が注文した海鮮焼きそば 1,180円(税込)

奥様はいつもこちらを注文することが多い。

上の写真はお店の外観

 

8月6日

上の2枚の写真は当日、私が注文したセレクトランチ 麻婆豆腐 1,180円(税込)

上の写真は当日、奥様が注文したセレクトランチ 酢豚 1,180円(税込)

 

7月19日

上の写真は当日、私が注文したセレクトランチ 酢豚 1,180円(税込)

上の写真は当日、奥様が注文した海鮮焼きそば 1,180円(税込)

 

6月23日

上の2枚の写真は当日、私が注文したセレクトランチ 麻婆豆腐 1,180円(税込)

上の写真は当日、奥様が注文したセレクトランチ 酢豚 1,180円(税込)

当日は8月6日と同じ組み合わせで注文 デザートのみ違う

 

 

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累計訪問者数 180万を突破 on 2021-8-28  副題:横尾なごみ坂付近の花壇

2021年08月28日 06時39分33秒 | Weblog

本日、2021年8月28日(土)に累計の訪問者数が180万uuを突破しました。

憶えの為、記載しておきます。

本ブログも2004年に開設していますので約17年間続けています。
あと何年生きれるか判りませんが死ぬまで継続出来ればイイナと考えています。

 

直近の週間アクセス数 
    (2021.8.1 〜 2021.8.7) 5,679UU、13,998PV 366位

    (2021.8.8 〜 2021.8.14) 6,697UU、15,445PV 345位

               (2021.8.15 〜 2021.8.21) 7,062UU、18,046PV 286位
 

アクセスしていただいた方々に感謝致します。
これを励みに無理をしない程度に継続していきたいと思います。

尚、2021年8月28日(土)現在の総閲覧数は6,818,903PVです

 

過去の同じテーマのブログ

累計訪問者数 175万を突破 on 2021-7-3 副題:聖ソフィア聖堂 - CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ) (goo.ne.jp)

 累計訪問者数 170万を突破 on 2021-5-12 副題:神戸市文化ホール壁面の紫陽花 - CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ) (goo.ne.jp)

 累計訪問者数 165万を突破 on 2021-3-19

 累計訪問者数 160万を突破 on 2021-1-30 &明石市東二見、御厨神社のロウバイと紅梅 - CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ) (goo.ne.jp)

 累計訪問者数 155万を突破 on 2020-12-7 - CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ) (goo.ne.jp)

 計訪問者数 150万UUを突破 on 2020-10-23 

 累計訪問者数 145万UUを突破 on 2020-9-12

 累計訪問者数 140万UUを突破 on 2020-8-5

 累計訪問者数 135万UUを突破 on 2020-6-26

 累計訪問者数 130万UUを突破 on 2020-5-20

上記ブログ(130万UU)では過去の経過も含めて纏めています。

 

写真が無いと寂しいので最近撮った写真を添付しておきます。撮影:2021-8-27

よこお なごみ坂 付近の花壇を写真紹介します

所在地は神戸市須磨区横尾1丁目のリファーレ横尾の南側のくすのき保育園横から

椿谷公園横につながる通路の入り口にあります。

よこお なごみ坂の遠景です。

これからは個々の花などを写真紹介します。名前がはっきりしているものは名前を記載。

 

上の写真はツメキリソウ

上の写真はポーチュラカ

上の2枚の写真はジニア(百日草)

上の写真はアサガオ

上の写真はベコニア

上の写真はペチュニア

上の2枚の写真はケイトウ

上の写真はクレオメ( 西洋風蝶草) 左手はジニア(百日草)

上の写真はルドベキー

上の写真はガザニア

上の写真はルドベキア  上部の黄色い花です。

上の写真はペンタス

上の写真はアンゲロニア(中央部)

上の写真はなごみフラワーロードの看板

上の写真はアンパンマンなどの置物

上の写真は名前が判らない人形が木の枝の間に腰かけています。

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神戸における米軍の進駐

2021年08月27日 15時57分50秒 | 神戸情報

「アメリカを中心とする連合国軍占領下の日本」をテーマで下記ブログを作成した。

 アメリカ占領下の日本 - CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ) (goo.ne.jp)

本日はその続編で「神戸における米軍の進駐」をテーマに記事を書きます。

1945年9月25日午後5時11分。特別列車から、スコット中佐の率いる米第6軍の3千人

が国鉄三宮駅に降り立った。GI(進駐軍兵士)たちは気負っているふうでもなく、

談笑を交わし、歌さえ飛び出す。三宮の廃墟は異様に静まりかえり、市民は物陰から

息を殺して進駐軍を見守っていた。

駅で一行を出迎えたのは、駅員とほんの数人の公務員であった。

その後、5便の列車が到着し、進駐予定の半数とされる8,000人余が宿舎に入った。

元町の大丸百貨店の2階から6階までが接収され宿舎となった。

1階は通常営業の為に遺され、進駐軍の土産物などが販売されることとなった。

進駐軍の接遇施設としてミス・バタフライ、カウベ・グランド・キャバレー、

イエロー・クロス、フジサクラ・ダンスホールの4施設があった。

 

上の写真は大丸前を行進する米軍

出典:海鳴りやまず 第4部 神戸近代史の主役たち Page17

上の2枚の写真は三宮駅についた進駐米軍(上)と小休止の軽車隊

出典:神戸新聞 昭和20年(1945)9月27日

上の写真は神戸新聞 昭和20年(1945)9月27日の本文

上の写真は仮宿舎の大丸2階から6階の窓から港都神戸を眺めるアメリカ兵

上の写真は神戸新聞 昭和20年(1945)10月29日の記事でGHQの指令で全国の鉄道の

駅名のローマ字表記が進められたが違った発音がされる様子を記事にしたものです。

 

米軍の接収作業は敏速をきわめた。まず海岸通りの神港ビルに神戸基地司令部を、

県会議事堂に兵庫県軍政部を設置してにらみをきかせ、二次、三次合わせて1万7千人の

進駐軍宿舎としてイースト、ウェスト両キャンプを配置した。次は補給基地としての

港の確保である。司令官は市港湾関係者に、占領軍の威厳を保ちながらいう。

「港のすべてを物資陸揚げのために接収する」一次の接収は、第一から第五までの突堤と

川西、住友、三菱といった倉庫、桟橋の港湾施設のすべてを提供せよとの指令であった。

続いて第六、兵庫、中突堤、メリケン波止場まで港の心臓部の全てを使用することとなった。

一方、神戸市中井一夫市長が中心となって助役の滝谷善一郎(中井市長の中学時代の先輩)、

民政局長の阪本勝を配し、勝田銀次郎(元市長)、賀川豊彦といった有識者を集めて

復興委員会を組織し再建のあり方を模索していくこととなった。

また、阪神大水害のあと復興事業で活躍した原口忠次郎も岡山の疎開先から呼び寄せられた。

上の写真は神港ビルに置かれた神戸基地司令部(Headquarters KOBE BASE)

出典:村上しほり著 闇市からの復興 慶応義塾大学出版会(2018)Page89

昭和20年(1945)9月26日、「神戸基地」司令部が神戸海運局(税関)に設置された。

昭和21年(1946)6月になると頻発する密貿易の徹底的な取り締まりのために神戸税関が

再開されたために上述の神港ビルに移転することになります。

上の写真は神戸イーストキャンプの位置を示した航空写真

出典:村上しほり著 闇市からの復興 慶応義塾大学出版会(2018)Page89

神戸イースト・キャンプには白人の兵士が入居した。

 

上の写真は神戸ウェストキャンプ(キャンプ・カーバー)の位置を示したものです。

出典:村上しほり著 闇市からの復興 慶応義塾大学出版会(2018)Page89

 

米軍に接収された神戸市内の主な施設

イーストキャンプ、ウエストキャンプ以外の主な接収施設をピックアップしました。

 東灘区:旧広岡邸(2.5万坪)

     六甲ハイツ

 中央区:神戸港港湾施設(突堤、倉庫など)

     旧居留地内の建物(真珠会館、海上警察など)

 兵庫区:新開地の劇場、映画館など

 長田区:西代蓮池公園

 須磨区:武庫離宮公園跡(射撃場として使用)

 垂水区:ジェームス山、住友迎賓館(現・舞子ビラ)

 

関連サイト:

 神戸新聞NEXT|連載・特集|戦争とひょうご|戦後占領下の神戸克明に 1949年の進駐軍作成地図発見 (kobe-np.co.jp)  

 

⌀kiito6-kobewokataru⌀.pdf

KIITOpress_171205.pdf

 

関連Youtube動画:

 占領期を記録「GHQと神戸のまち」展示 (サンTV)

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川崎造船所(現川崎重工業)のガントリークレーン

2021年08月26日 04時25分41秒 | 昔こんなものがあった 昭和編

本日は大正元年(1912)から解体された昭和37年(1962)まで神戸港のシンボル的

存在であった川崎造船(現川崎重工業)のガントリークレーンを写真紹介します。

上の写真は昭和36年(1961)頃の川崎重工業株式会社の巨大クレーン、ガントリークレーン

の航空写真です。 出典:市民のグラフ こうべ No.171(1987.1)Page12

全長303m、幅45m、高さ50mという巨大クレーンは大正元年(1912)に完成、

大正2年(1913)に「榛名」が進水、以降戦艦「伊勢」や航空母艦「加賀」など軍用船から

大型商船まで数多くの船舶の建造に使用されてきました。

上の写真は山手から神戸港を撮った神戸港の遠景です。ガントリークレーンが右端に

写っています。撮影時期は昭和6~7年頃 

出典:市民のグラフ こうべ No.171(1987.1)Page6

上の2枚の写真は川崎造船ガントリークレーンが完成して間もなく頃(大正元年)の

写真と大正元年(1912)11月26日の神戸新聞記事

出典:市民のグラフ 神戸No.198(1989年4月号) Page8

 

上の写真は昭和34年(1959)の川崎重工業ドック

KAWASAKI DOCKYARD N27 BERTHとの表示があります。

昭和25年(1950)から「KAWASAKI DOCKYARD」のネオンが点灯されています。

出典:飯塚富郎氏の写真集「昭和の神戸」 光村推古書院

上の写真は川西英さんの作品「神戸百景」中突堤の風景

中央部にガントリークレーンが描かれています。

出典:画集「神戸百景」川西英が愛した風景 星雲社(2008)Page57

 

同じテーマで写真が多く掲載されているサイトにリンクさせていただきました。

 ひでほブログ ガントリー・クレーン (fc2.com)

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松原城に関わる伝説「タンポポ城と鶴の松」

2021年08月25日 04時35分49秒 | 神戸情報

松原城(神戸市北区)は南北朝時代(14C後半)に三田城の付城として赤松円心則村の

四男弾正少弼氏範(赤松氏範:1327-1383)の子氏春が居城として築いたが、永徳3年

(1383)に赤松氏範と赤松氏春は播磨の清水寺に敗死したので、しばらくの間、

廃城となった。室町幕府に仕えた三田の住人松原兵衛尉貞朝の子貞直が、その後、

松原城に入り天正年間(1573-1592)頃まで代々松原氏の居城とした。

天正7年(1579)の三木城攻めの時、秀吉方に包囲され落城し、城主の貞利以下が

討死し、または自刃してお家断絶となり、廃城となった。

別名として蒲公英(たんぽぽ)城、道場川原城、道場城

別名の「タンポポ城」の由来は城主の娘が鼓の名手であったことから

(たんぽぽは「つづみ草」とも呼ぶ)名付けられました。

鼓の音が「タン、ポン、ポン」と聞こえることからタンポポ城と呼ぶようになった。

松原城跡(住所表示:神戸市北区道場町日下部字西山)は神戸市文化スポーツ局文化財課

により平成31年(2019)3月18日から令和2年(2020)1月28日まで発掘調査されました。

松原城跡は宅地開発のため消滅してしまいます。

私が訪問した(2020年9月30日)時点ではすでに宅地造成工事が進行しており城の面影

は確認できませんでした。

発掘調査の結果概要は後日纏めていこうと思っています。

上の2枚の写真は松原城跡の遠景 撮影:2020-9-30

上の写真は北神第4地点遺跡の1984年、1985年調査地点及び1991年・1992年発掘調査地点(保存地区)の地図

に写っている松原城の地図 神鉄道場駅の東側になります。

上の写真は松原城跡の位置図 

出典:松原城跡 第1回現地説明会資料 2019.8.31

上の写真は松原城近景 出典:松原城跡 第2回現地説明会資料 2019.12.14

 

前置きが長くなりましたこれからは本題の松原城に関わる伝説「タンポポ城と鶴の松」

の話に写ります。

参照資料は 田辺眞人編著「神戸の伝説」(1976)Page125-127で要約しました。

松原城の城主松原貞時には一人の可愛い娘がいた。

姫はとても鼓が好きで、よく城内から「タン、ポン、ポン」という鼓の音が響いていた。

近くの人々は、いつの頃からか、城をタンポポ城と呼ぶようになった。

この松原城(道場城)はある時、敵の大軍に取り囲まれた。城主も姫も城兵とともに

必死に武器を取って戦ったがついに落城の時がせまり「もう落城もまぢか」と長刀を

捨て愛用の鼓を胸にいだいて城下を流れる道場川(有間川)の深みに飛び込み死去した。

それからは毎夜、姫が身を投げた淵のあたりからは「タン、ポン、ポン」と悲しげな

鼓の音が聞こえてきたという。

話は変わりますが天正5年(1577)3月15日、松原城の城下である事件が起こりました。

城下町の侍屋敷に、山本清右衛門という武士が住んでいました。この屋敷の庭には

千年も経ったかと思われる「鶴の松」と呼ばれる松の木がありました。

もともと武勇の誉高い清右衛門なのだが、最近は病のため登城もかなわず毎日家に

閉じこもって、むしゃくしゃしていた。

城内のどこからでも見えるこの松のために、同僚はよるとさわるとわしの噂をしておる。

酒宴の席でも、この松を見ては、その根もとで病気のために寝ているわしをあざ笑っておる。

この松さえなければ、皆は忘れて、わしのことをあれこれ言わなくなろう

妻の反対を押し切って彼は松を切ってしまった。

それから間もなく場内は大騒ぎとなった。何も知らなかった若侍は老臣の松原祐右衛門と

藤野牧右衛門から「鶴の松」にまつわる話を聞かされた。

「清右衛門め、何ということをしでかしたのじゃ。もう城は終わりじゃ」祐右衛門は言った。

「これは永禄3年(1560)の春のことじゃった。ひとつがいの鶴が、あの松に巣をつくった。

その巣の中で二羽のヒナが育ち、親鳥とともに元気に飛んでいきました。」

「それで鶴の松というのですな」

「さよう。ところでご先代の城主筑前守定友様は、これはめでたいことだと考えられた。

そこで鶴のように城が長く栄えるように、鎮守の日下部大明神に「この鶴が巣立った松の

ある限り、城が無事でありますように」と祈りました。」

「戦いで多くの侍が死んだので、今ではわしたち二人しか知っていまい。」

祐右衛門が言い終わった時、「その松を、やつめ切ってしまいおったのじゃ」と言ったのは

藤野牧右衛門であった。

それから2~3日のち、清右衛門は突然気が狂い、槍を持って暴れて、死傷者を出しました。

病気とはいえ、武勇の優れた彼のことお城から大勢の武士が出て、ようやく討ち取ることができました。

そして、2年後の1579年に松の木が切られたのと同じ3月15日に松原城(道場城)は

織田信長の部下の秀吉によって攻め落とされてしまいました。

 

最後に市民のグラフ こうべ No.39 1975年7月 Page18-19より

松原城(道場城)に関する古写真を添付して筆を置きます

上の写真は松原城(道場城)から有野川(道場川)を臨む風景 松林があったことが判ります

上の写真は松原城跡にあった城山稲荷神社

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横浜市長選挙で野党系の山中竹春氏が大勝

2021年08月24日 05時34分09秒 | Gooニュース

任期満了に伴う横浜市長選は2021年8月22日投開票され、立憲民主党推薦が推薦した

元横浜市立大教授の山中竹春氏(48)が大勝した。選挙が締め切られた20時過過ぎに

当選確実の報道があった。投票率は49・05%(前回37・21%)

本ブログでは翌日(8月23日)のNHK6時台の報道を中心にメモしておきます。

上の2枚の写真は得票結果です。

上の写真は当選した元横浜市立大学医学部教授の山中竹春氏(48)506,392票

当選の要因としてはコロナ対策への期待感と「ハマのドン」と呼ばれる藤木幸夫氏が

早い段階で支持を表明したことが大きいとされます。菅総理への批判も要因の一つ。

今後は市議会の過半数を占める自公に対して議会運営をどう進めるかが課題

上の写真は破れた元国家公安委員長の新人小此木八郎氏(56)の弁 325,947票

上の写真は破れた現職の林文子氏(75)の弁 196,926票

元長野県知事の田中康夫氏(65)は194,713票

元神奈川県知事の松沢成文氏(63)は162,206票であった。

 

上の写真は今後の政局への影響について作成されたパネル

 自民党の総裁選挙9月29日? 衆議院選挙は10月から最遅11月末

 8月26日には自民党の総裁選挙の日程が決まる予定

 

横浜市長選 山中竹春氏が当選 立憲民主党が推薦(2021年8月23日)

 

関連サイト:

横浜市長選挙は衝撃のゼロ打ち 山中圧勝・小此木林惨敗の理由と政権の展望は(大濱崎卓真) - 個人 - Yahoo!ニュース

8月22日投開票の横浜市長選挙!「山中 竹春」さんを推薦しています! | 連合神奈川 (rengo.or.jp)

 

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うどん よつ葉でのランチ on 2021-8-20

2021年08月23日 05時16分47秒 | 神戸情報
ぶっかけうどんが好きでよく食べます。ぶっかけうどんの神戸における三大名店

勝手に命名しています。本日紹介する「よつ葉」もその一角で、他に「こと平」
「凡蔵」としています。

2021年8月20日、よつ葉でランチをいただきましたので写真紹介します。

うどん よつ葉の基本情報
住所:神戸市須磨区大田町7丁目-2-2  TEL:078-736-3628
料理ジャンル:うどん 
営業時間:11:00~15:00  17:00~20:00
定休日:月曜日他不特定休(詳細は下の女将日記に記載されています) 

ブログ:うどん よつ葉 女将日記

お店の地図とメニュー表などは下記のブログで掲載しています。
 うどん よつ葉 でのランチ on 2018-2-2

上の写真は当日は奥様も私も日替定食を注文 770円(税込)

当日はとり天をトッピングしたぶっかけうどん(温)

上の写真は日替定食の説明看板

上の2枚の写真は店内のメニュー表

上の3枚の写真は店頭のメニュー表看板

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