谷中霊園は、東京都台東区にある大規模な墓地である。徳川慶喜、渋沢栄一、
長谷川一夫、上田敏、川上音次郎、鳩山一郎、徳川御三卿、森繁久彌、横山大観、
佐佐木信綱、元横綱柏戸、牧野富太郎など有名人の墓が多い。
本日は徳川慶喜の墓を取り上げます。
2007年2月15日に下に添付のブログを作成していますが、その時の写真を含めて
再度、纏め直しました。
徳川慶喜 - CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ) (goo.ne.jp)
上の写真は谷中霊園の徳川慶喜(左)と正室の徳川美賀子(右)の墓 出典:Google
円墳状の墓です。徳川慶喜は華族の最高位である「公爵」を与えてくれた明治天皇に
感謝の意を表すため自分の葬儀を仏式でなく神式で行うよう遺言を残したため、
一般皇族と同じような円墳が建てられました。
墓所からは少し離れた位置に鳥居があるのをGoogleのストリートビューで確認しました。
円墳の脇には勲一等旭日大綬章を叙勲したことを示す石碑が建っています。
(下の写真 出典:Google)
上の写真は墓域の遠景 出典:Google
上の2枚の写真は現地説明板 出典:Google
上の写真は谷中霊園内の徳川慶喜公の墓の位置と渋沢栄一の墓の位置をGoogle地図上に
記載したものです。渋沢栄一は生涯、徳川慶喜を上様として慕い墓も徳川慶喜公の墓に
向けて建っています。
上の写真は渋沢栄一(1840~1931)の墓。
谷中霊園の乙11号1側にある渋沢家墓所に眠っています。
昭和6年(1931)年11月11日、91歳で亡くなりました。墓碑には「青淵渋沢栄一墓」と
刻まれています。両脇には千代夫人と兼子夫人の墓があります。
渋沢千代(1841-1882)は明治15年(1882)コレラで病死しています。享年41歳。
後妻の渋沢兼子(1852-1934)は昭和9年(1934)に死去しています。享年81歳
上の写真は15代将軍(慶応2年(1866)12月5日に就任)となった徳川慶喜(草彅剛)に
慶応3年(1867)1月3日に謁見し、パリ万博へ派遣される徳川昭武(板垣季光人)と共に
激励を受ける渋沢篤太夫=渋沢栄一(吉沢享)。NHK大河ドラマ「青天を衝け」より。
慶喜は昭武に対して守るべき5箇条の心得を与えた。
徳川慶喜の墓の基本情報
住所:東京都台東区谷中7丁目1−1(寛永寺墓地内) 墓域:5,600㎡
墓の寸法と形状:間口3.6m、奥行き4.9mの土壇の上に径1.7m、高さ0.72mの葺石円墳
谷中霊園に徳川15代徳川最後の将軍 慶喜の墓があります。撮影:2007年1月28日
天保8年(1837)生れ 大正2年(1913)没 撮影:2007年1月28日
上の写真は徳川慶喜公の顕彰碑 撮影:2007年1月28日
上の写真は徳川慶喜公事蹟顕彰碑 出典:Google
徳川慶喜の略歴
徳川慶喜(1837-1913)は、水戸藩主徳川斉昭の第7子で、はじめは一橋徳川家を継いで、
後見職として将軍家茂を補佐しました。慶応2年(1866)、第15代将軍職を継ぎましたが、
翌年、大政を奉還し慶応4年正月に鳥羽伏見の戦いを起こして敗れ、江戸城を明け渡しました。
将軍在位期間:1867年1月10日〈慶応2年12月5日〉‐ 1868年1月3日〈慶応3年12月9日〉の約1年
以後、幕府制度や征夷大将軍の官職は新政府によって廃止され、復活することはなく、
慶喜は江戸幕府のみならず、武家政権最後の征夷大将軍となりました。
駿府に隠棲し、余生を過ごしますが、明治31年(1898)には大政奉還以来30年ぶりに
明治天皇に謁見しています。明治35年には公爵を受爵。徳川宗家とは別に「徳川慶喜家」
の創設を許され、貴族院議員にも就任しています。明治30年(1897)11月、東京の
巣鴨一丁目に移り住む。敷地3000坪建坪400坪だったという。
大正2年(1913)11月22日、上記の東京邸宅にて77歳で没しました。
上の写真は徳川慶喜終焉の地を地図上に示したものです。
東京地下鉄小石川工場の近くにあります。
出典:古地図ライブラリー別冊 もち歩き江戸東京散歩 人文社(2006) Page67
徳川慶喜の正室の徳川美賀子(1834-1894)についても簡単に述べておきます。
公家・今出川家の娘で、慶喜との結婚(安政2年(1855)12月3日)のため関白・一条家
の養女となり一橋家に嫁ぎます。慶喜は京、美賀子は江戸に居て、長く夫婦別居生活が
続いた。明治維新後、静岡で隠遁生活を送る慶喜の謹慎が解かれると、美賀子も静岡に
移り、ともに暮らすようになる。長女を出生するも早死し、その後、自身は子供に
恵まれなかったが、慶喜の2人の側室んお子供の面倒をみてわが子のように育てた。
慶喜の家臣であった平岡円四郎の妻・やすとも深く交流した。