由宇船主の中で頭角を現した嶋谷徳右衛門(嶋谷汽船創始者)は
若くして船主兼米問屋の中尾家に奉公して廻船業務と米の売買を習得
その才知と能力はすばらしく、その為主家に認められ明治10年(1877)
徳右衛門40歳の時に中尾本家の持船2隻・昌栄丸(900石)と昌宝丸
(700石)を譲り受け更に生家の父親所有船若宮丸を継承して
所有船3隻の船主となって独立した。
しかし明治22年 6 月28日享年52歳にして逝去となり嗣子嶋谷徳三郎が
弱冠22歳で二代目として家業を継承し家督を相続した。
徳三郎は慶応 3 年 (1867) 11月 7 日の生まれで若年より
父に鍛えられ20歳前既に米穀の取り引きや米相場船舶の配船業務などに
精通する優秀な人であった。
由宇の和船を 使った海運業者(北前船廻船業者)が鉄道の開通や電信電話
の発達で廃業に追い込まれる状況下でも嶋谷汽船(当時は嶋屋)
明治29年(1896)イギリス製の浦門丸(528t)を購入し踏みとどまった。
その後明治34年(1901)から40年(1907)にかけて大和型帆船や木造汽船
を処分し堅実第一主義の経営に徹底したと言われている。
日露戦争後の明治43年(1910) 5 月に至り 2 隻の海外船を買船 翌44年
更に 2 隻計 4 隻の千トン級鋼製汽船を購入して従来の九州航路と
北前船航路の運航を継続し充実した海運業を謳歌した。
大正元年(1912)の保有船は大成丸など5隻4350tonであった。
大正3年(1915)7月28日勃発した第一次世界大戦の影響で海運界は
未曾有の好況を迎え大正6年(1918)嶋谷汽船株式会社と改組した。
大正12年(1923)には営業の拠点を神戸明石町に移転した。