NHK朝ドラで花子とアンが放映されていた時期に下記のブログを作成した。
村岡花子 - CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ) (goo.ne.jp)
その時に作成していた年譜に下に添付の2つの本からその時代に相応しい写真を
挿入することとしました。
1)村岡恵理 『アンのゆりかご 村岡花子の生涯』 新潮社〈新潮文庫〉、
2011年(原著2008年)。ISBN 978-4-10-135721-8
2)大田区立郷土博物館 編 「馬込文士村 ガイドブック」(1996改訂版)
年譜
Wikipediaより村岡花子(1893-1968)の略年表を引用紹介します。(一部加筆及び修正)
1893年(明治26年)0歳 8月24日山梨県甲府市に生まれ東京に育つ。
父 安中逸平(葉茶屋) 母 てつ 花子5歳の時に一家で甲府から上京
1903年(明治36年)10歳 カナダ系メソジスト派の東洋英和女学校へ編入学。
10年間、寄宿舎で暮らす
1904年(明治37年)11歳 婦人宣教師ミス・ブラックモアが校長として着任
勉強と生活の両面で厳しい指導を受ける。
上の写真は東洋英和女学校の校長(恩師) Miss Isabera Blackmore(出所:1))
上の写真は明治後期、花子が在学した頃の東洋英和女学校の校舎兼寄宿舎(出所:1))
1909年(明治42年)16歳 前年に編入学してきた柳原燁子(後に歌人白蓮)に導かれ佐々木信綱に師事。森鴎外が訳したアンデルセンの「即興詩人」に感動し翻訳家への夢を抱く
上の写真は東洋英和女学校時代の親友 柳原白蓮 (出所:1))
1910年(明治43年)17歳 婦人矯風会を通じて、公娼(こうしょう)問題などの社会問題に触れる。矯風会の会報「婦人新報」に短歌、エッセイ、短編小説、翻訳小説を掲載し編集も担う(昭和10年まで)
1914年(大正3年)21歳 東洋英和女学校高等科を卒業。英語教師として山梨英和女学校に赴任。
同年、友人と共に歌集『さくら貝』を刊行。
植村正久牧師主宰の「福音新報」に寄稿
1916年(大正5年)23歳 この頃から童話や少女小説を「少女画報」み執筆
1917年(大正6年)24歳『爐邉』(ろへん)を日本基督教興文協会から処女出版。
1919年(大正8年)26歳 甲府の英語教師を辞職して東京の日本基督教興文協会
(関東大震災後、教文館と合併)に女性向け・子供向け雑誌編集者として勤務
上の写真は築地の日本基督教興文協会に編集者として勤めていた頃の写真(出所:1))
同年、福音印刷社長でクリスチャンの村岡儆三と築地教会で結婚。大森新井宿に新居。
1920年(大正9年)27歳 、長男・道雄誕生。
上の写真は大正11年(1922)新井宿に転居した頃の村岡 儆三・花子夫妻(出所:2))
上の写真は大正11年(1922)、夫の事業も順調、道雄も健やかに成長して2歳となり、花子の最も幸福な時期(出所:1))
1923年(大正12年)30歳 関東大震災で、夫の印刷会社が倒産して多額の負債を抱える。
1926年(大正15年)33歳 自宅に出版兼印刷会社、青蘭社を設立。5歳の長男道雄を疫痢で喪う。
1927年(昭和2年)34歳 マーク・トウェインの"Prince and Pauper"を翻訳し邦題『王子と乞食』として公刊(平凡社)。
王子と乞食の巻頭に「わが幻の少年道雄の霊に捧ぐ」との言葉が添えられています。
1930年(昭和5年)37歳 婦選獲得同盟主催の全日本婦選大会に参加。婦人参政権運動に力を注ぐ。
1932年(昭和7年)39歳から1942年(昭和17年)49歳までJOAK (NHK東京放送局) のラジオ番組の『コドモの新聞』コーナーに出演、
「ラジオのおばさん」として人気を博す[14]。妹・梅子に長女みどり誕生(後に養女とする)
1938年(昭和13年)45歳 日本初のカルチャーセンターである東京婦人会館(戦後、産経学園に)の理事長に就任。
1939年(昭和14年)46歳 宣教師のミス・ショーが世界情勢の悪化からカナダに帰国。
モンゴメリの"Anne of Green Gables" を贈られる。
上の写真はミス・ショーから贈られた「赤毛のアン」の原書と自筆原稿 (出所:1))
1941年(昭和16年)太平洋戦争勃発。
1945年(昭和20年)52歳に訳了。
上の写真は昭和14年(1939)村岡花子・みどり親子 (出所:2))
1951年(昭和26年)58歳 実家の父に先立たれた80歳の母(安中てつ)を引き取る。
1952年(昭和27年)59歳日本初の家庭図書館である道雄文庫ライブラリーを自宅に開館。
同年、モンゴメリの"Anne of Green Gables" を翻訳し邦題『赤毛のアン』として公刊(三笠書房)
1953年(昭和28年)60歳 売春問題対策特別委員会副会頭に就任
1954年(昭和29年)61歳 ウィーダの『フランダースの犬』を翻訳出版(新潮文庫)
12月17日、実家の母(安中てつ)が永眠(享年83歳)
1955年(昭和30年)62歳 『ストウ夫人』翻訳出版。5月、ヘレン・ケラー来日時に通訳。
上の写真は昭和30年(1955)5月ヘレン・ケラー(左端)の歓迎会にて、トムソンに
指文字を習う花子 (出所:1))
上の写真は昭和33年(1958)大森新井宿の自宅でアン・シリーズを翻訳中の村岡花子
(出所:1))
1959年(昭和34年)66歳 娘みどりが物理学者・佐野光男と結婚
1960年(昭和35年)67歳 児童文学に対する貢献によって藍綬褒章受賞。孫・美枝誕生。
上の写真は昭和35年(1960)5月の日曜日 我が家の子供図書館の或る日
「道雄文庫ライブラリーの子供たち」 (出所:2))
1963年(昭和38年)70歳 夫(村岡 儆三)を喪う。
村岡 儆三=1887年〈明治20年〉~ 1963年〈昭和38年〉2月6日 享年76歳
母方の従姉妹に社会運動家の賀川ハル(同じく社会運動家の賀川豊彦の妻)がいる。
1964年(昭和39年)71歳 ファティオ作「ごきげんならいおん」(福音館書店)刊行
1966年(昭和41年)73歳 ディケンズ昨「クリスマス・カロル」(河出書房、後に新潮社より刊行)
1967年(昭和42年)74歳 アメリカ合衆国を訪問[15]。孫・恵理誕生。
1968年(昭和43年)10月25日75歳 脳血栓で死去。
葬儀は大森めぐみ教会で10月29日に行われた。
墓所は横浜市西区の久保山霊園
上の写真は昭和43年(1968)夏 娘のみどりと孫の美枝と恵理(手前の赤ちゃん)(出所:1))
村岡花子を中心とした系図は下記サイトで見れます。
http://kingendaikeizu.net/bungaku/muraokahanako.htm
赤毛のアン記念館・村岡花子文庫の休館と移転(Wikipediaより)
上の写真は赤毛のアン記念館・村岡花子文庫の展示品 (出所:2))
上の写真は村岡花子の書斎 (出所:1))
休館
2014年時点ではウェブサイト上で「2013年から2014年までは資料貸出に伴い休館中」と案内していた。
2015年5月の時点では、「2015年春より蔵書や資料を村岡花子の母校である東洋英和女学院に移設する準備のために一般公開はしていない」となっていた[4]。
移転
2015年4月14日に東洋英和女学院六本木校地 本部・大学院棟1階ロビーに「学院資料・村岡花子文庫展示コーナー」がオープンした
詳細は下記サイトに記載されています。
学院資料・村岡花子文庫展示コーナー l 学校法人東洋英和女学院 (toyoeiwa.ac.jp)
関連サイト
【花子とアン】村岡花子・儆三ゆかりの地・観光まとめ【大森・横浜・銀座】 | ロケTV (locatv.com)