CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ)

神戸・岩国の最新情報を中心に紹介していきます。歴史や時事について調べた結果を紹介。

別所長治公首塚と由緒碑 in 三木市雲龍寺 on 2020-2-2

2020年02月29日 04時55分44秒 | 神戸市以外の兵庫県

2020年2月2日、蓮花寺の鬼踊りを観るために三木市に出かけていました。

鬼踊りについては下記ブログを作成済

 三木市 蓮花寺の鬼踊り on 2020-2-2

 

午前中、表題の「別所長治公首塚と由緒碑」の写真を撮りましたので紹介します。

 

三木城は5代目城主別所小三郎長治のとき羽柴秀吉に攻められました。
いわゆる三木合戦と呼ばれるものです。「三木の干殺し」といわれ、全国的に
有名です。天正6年(1578)4月から1年10ヶ月にも及ぶ兵糧攻めに対して、
天正8年(1580)1月17日に別所長治一族の自害により開城し、篭城した
人々の命が助けられました。
三木城は元和3年(1617)徳川幕府の一国一城令により廃城となりました。

 

上の2枚の写真は別所長治公首塚の近遠景

右側が長治公の塚で左側は照子夫人塚

首塚は秀吉の陣地より安土城で信長による首実検後、当時の雲龍寺住職(第七世

安室春泰和尚)が安土より持ち帰り埋葬祭祀したものと伝わっています。

昭和17年(1942)帝国在郷軍人会三木分会によって首塚の補修が行われています。

昭和48年(1973)3月、別所公奉賛会の努力で首塚の修復と玉垣の設置さらに

照子夫人の霊を合祀されました。

上の写真は帝国在郷軍人会三木町分会によって書かれた首塚に関する説明書き

上の写真は昭和34年(1959)1月に設置された首塚由緒碑

上述した内容が書かれています。

昭和17年(1942)在郷軍人会三木分会による補修は郷土史家の小阪恒三郎氏

の考証に基づき補修が行われた。

この碑は表門新設と参道改修等の竣工に際して昭和34年1月17日に建立された。

題字は三木市長 衣巻顕明 撰文は別所公奉賛会会長の原寅一

裏面には19名の特別寄付者、12名の建設委員の名前が刻まれています。

上の写真は別所公首塚の左手の辞世碑(旧碑)

「いまハただうらみもあらじ諸人の命にハはる我身とおもへば」

実際の碑の文では濁点が省略されています。

元は上の丸公園伝天守台に設置されていたが昭和17年に新たに辞世の碑

が設置された為、移設されたとのこと。

上の写真は三木城跡の本丸にある別所長治公の辞世の歌碑です。
「今はただうらみもあらじ諸人のいのちにかはる我身とおもへば」と書かれています。

実際の碑の文では濁点が省略されています。

陸軍大将男爵 本庄繁 の書 昭和17年(1942)帝国在郷軍人会三木分会が建立

当時の分会長は山田理之助

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山陽電車網干駅周辺散策記 番外編 田捨女について

2020年02月28日 04時46分45秒 | 神戸市以外の兵庫県

山陽電車網干駅周辺散策記については24回シリーズで2月21日に書き終えた。

最終回にすべての記事がリンクされているので添付しておきます。

 山陽電車網干駅周辺散策記 その24(最終回) 網干湊跡

 

さて本稿では龍門寺、不徹寺、丸亀藩網干陣屋門跡などの記事で田ステについて

簡単に記載していますがもう少し詳しく田捨女について調べてみましたので

記事にした次第です。

田捨女の名前は田ステ、田ステ女、嶺雲貞閑禅尼などがありますが本ブログでは

田捨女に統一して書いていきます。

 注)「女」は名の一部ではなく女流歌人の名に添える接尾辞である

今回、参考にしたのは下記の書籍です。本の表紙を添付

 1)絵物語 ステ女さん -田ステ女・嶺雲貞閑禅尼- 発行:網干歴史教育の会

   著者:増田 喜義 発行年:初版1980年

2)捨女句集 編著:捨女を読む会 発行所:和泉書院 発行:初版2016年

網干の3偉人

 田捨女は網干の3偉人に列せられています。

 他の偉人は河野鉄兜と盤珪国師です。

上の写真は河野鉄兜の本(前田隆弘著、神戸新聞社より発刊)の案内

田捨女について不徹寺を紹介したブログで下記のとおり略歴を書いています。

田捨女(1634-1698)は江戸時代の女流歌人・俳人。貞門派の女流六歌仙(六俳仙)の1人

元禄の四排女の一人で有名な丹波柏原の田ステさんは僅か六歳で「雪の朝」の俳句を詠み多くの

人を驚かせた。 文雅の中に成長し五男一女に恵まれたが夫君が世を去り幼いお子たちを立派に

育てられ、後に綱干に移り龍門寺の盤珪和尚さまの教えを受け不徹寺を開基し多くの女性を指導し

郷土偉人の紅一点として讃えられています。

(ステ女さんのお墓は龍門寺に、分骨塔は不徹寺にあります。)

 

田捨女の墓と宝篋印塔(分骨塔)

上の写真は龍門寺の墓所にある田捨女(嶺雲貞閑禅尼)の墓です。

龍門寺には2019年12月27日に訪問したのですが墓の写真を撮れなかったので

上記の参考書籍1)のPage61より拝借しました。

上の写真は不徹寺の墓所における田捨女を供養して建立された宝篋印塔(分骨塔)

 撮影:2019年12月27日

 

田捨女の年譜

寛永10年(1633)丹波国氷上郡柏原の生れ。

        丹波織田藩の藩士、田季繁(すえしげ)の娘。本名は捨(すて) 

寛永15年(1638)6歳のこの年「雪の朝二の字二の字の下駄のあと」と詠む

慶安4年(1651)19歳で田季成(すえなり)=継母映智の連れ子と結婚

        翌年に長男(季厚)を出産、その後も次男(季鶴)、三男の

        雲厳祖瑞和尚(神戸の祥福寺住職)を出産

寛文2年(1662)30歳で「俳諧良材」に作品が載る。翌年に長女マンが誕生

        「憂き中に なれて 雪間の 嫁菜かな」

寛文6年(1666)34歳で四男の柯山祖兀和尚(龍門寺5世で丹波清雲寺を中興)誕生

寛文7年(1667)35歳で「続山の井」に作品が載る。

寛文10年(1670)38歳で五男の来應和上(高野山宝城院主)誕生

延宝2年(1674)42歳で夫の田季成と死別

延宝4年(1676)44歳で夫供養の千日回向が満願。翌年に千日寺建立

延宝8年(1680)48歳で亡夫7回忌に柏原八幡宮に銅鏡を奉納。出家の決意

天和元年(1681)49歳で剃髪し落飾、妙融と名乗る

天和3年(1683)51歳で上京し盤珪国師に出会う(当時は浄土宗の尼僧)

貞享3年(1686)54歳で盤珪国師に入門、貞と名乗る。

           網干に移る(林貞尼のもとに寄寓)

元禄元年(1688)56歳で家を購入(龍門寺の近く)、庵を結ぶ

         長女マンが35歳で死去、次男季鶴が36歳で死去

元禄5年(1692)60歳で庵号を不徹と定める

元禄9年(1896)64歳で不徹庵の庵主を栄感尼に譲る

元禄11年(1698)66歳 8月10日に死去

 

 

田氏系図

 田捨女を中心とした系図を添付しておきます。

出典:書籍1)のPage15

 

田捨女に関する書籍と施設

 

出典:2)のpage132-133

 

 

 

 

 

 

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神戸市灘区ミュージアムロードの下水マンホール蓋 on 2020-2-15

2020年02月27日 05時17分39秒 | 神戸情報

2020年2月15日(土)、兵庫県立美術館で上映のゴッホ~最期の手紙~を

観覧するためにJR灘駅より県美までミュージアムロードを歩きました。

その時に撮ったマンホールの蓋の写真を紹介します。

ミュージアムロードは平成22年度(2010)に兵庫県立美術館の蓑館長提唱により命名。
芸術文化施設の集積度が高い県立美術館から王子動物園までのルートとなっています。
ミュージアムロードの命名式は2010年12月18日に行われました。

上の写真は灘駅からすぐの地点の下水用カラーマンホール蓋

上の写真はJR灘駅付近から観たミュージアムロード

上の写真は阪神電車岩屋駅付近に設置の下水用マンホール蓋

上の写真は阪神岩屋駅付近から観たミュージアムロード

上の写真はBBプラザ付近でみつけた下水用マンホール蓋

上の写真はBBプラザの建物

 

 

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神戸市灘区ミュージアムロード南エリアのアート作品及び見どころ 後編(K.~P.の10箇所)

2020年02月26日 05時00分30秒 | 神戸情報

神戸市灘区ミュージアムロード南エリアのアート作品及び見どころ 前編

(A.~J.の10箇所)と題して下記のブログを書きました。

 https://blog.goo.ne.jp/chiku39/e/f6a27a814a42fff71bf937143722048f

今回はその後編でK.~P.までのアート作品を紹介します。

作品の大体の設置位置が判るように前編で示した地図を再掲します。

早速、写真紹介します。撮影日は特記していない限り2020年2月15日です。

 

K.遥かなリズム

 作者:新宮晋  制作年:1979年/2002年

L.日の鞍

 作者:山口牧生(1927-2001) 制作年:1975年

 

M.くるくるきいろ

 作者:元永定正  制作年:2009

N.ゴスラーの戦士

 作者:ヘンリー・ムーア(1898-1986) 制作年:1973・1974年

Wikipediaによれば

ヘンリー・ムーアは、20世紀のイギリスを代表する芸術家・彫刻家である。

炭鉱夫の息子としてヨークシャーのカッスルフォードで生まれ、大理石やブロンズを使った

大きな抽象彫刻で知られる。

箱根の彫刻の森美術館で観た彼の作品は今でも印象に残っています

O.Sun Sister なぎさ

 作者:ヤノベケンジ 制作年:2015年

詳細は下記ブログ。

 兵庫県立美術館の新しいオブジェ「Sun Sister」(サン・シスター) on 2015-7-10

 

P.きいろとぶるう

 作者:元永定正 制作年:2011

「きいろとぶるう」の作品を単独で撮ったものがなかったので「なぎさ」との

揃い組の写真です。撮影は2015年7月10日

上の写真は中学生がトライアルウィークでまとめたものです。撮影:2015-7-10

トライアルウィ-クでは兵庫県立美術館のアート作品を下の写真のように

まとめています。

撮影:20015-7-10

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神戸市灘区ミュージアムロード南エリアのアート作品及び見どころ 前編(A.~J.の10箇所)

2020年02月25日 05時24分12秒 | 神戸情報

JR灘駅以北のミュージアムロード周辺の彫刻作品と題して下記のブログを

書いています。

https://blog.goo.ne.jp/chiku39/e/3992f65a8d9fad5d33089f8aede6e84d

今回はJR灘駅の南エリアにおけるミュージアムロード周辺のアート作品や

見どころをまとめて書いていきます。

上の写真はミュージアムロードMAPと題したリーフレットを利用させてもらい

今回紹介する作品や場所の位置を示しました。

地図の番号順に写真紹介していきます。撮影日は特記しない限り2020年2月15日

A.ミュージアムロードのサインモニュメント

  作者:榮元正博 2018年

 詳細は下記ブログを参照願います。

  JR灘駅南側広場に設置された MUSEUM ROADのサインモニュメント

B.風の中

 作者:加藤昭男 制作年:1978年

 詳細は下記ブログ

  JR灘駅 南側広場の彫刻作品「風の中」 By加藤昭男氏 on 2013-10-25

C.臨港線跡

 詳細は下記ブログ

  神戸臨港線跡とその周辺散策記 on 2016-3-17

D.風舞

 作者:松永勉 制作年:1990年

E.岩屋駅前のストリートアート

 作者:遠山敦 制作年:2013年

詳細は下記ブログ

 阪神 岩屋駅前ストリートアート on 2013-11-1

 

F.スポラ号

  作者:榎忠  制作年:1998年

 

詳細は下記ブログ

 街の中のアート 榎忠氏のスポラ号 in 脇の浜 on 2011-1-28 

G.Pease Cracker

 作者:椿昇 制作年:2014年

詳細は下記ブログ

 ミュージアムロードにシンボルオブジェ「Pease Cracker]が登場

 

H.美かえる

 作者:フロイレンティン ホフマン 制作年:2011年 & 2017年に新調

詳細は下記ブログ

 兵庫県立美術館のシンボル 「美(み)かえる」

 兵庫県立美術館のシンボル「美かえる」が新調

I.住み処

 作者:オシップ・ザッキン 制作年:1967年

詳細は下記ブログ

 オシップ・ザッキンの彫刻作品 「住み処」 in 兵庫県立美術館 on 2017-7-14

 

J.エッフェル塔一板状

 作者:セザール(1921-1998) 制作年:1989年

エッフェル塔の廃材を利用して制作。「再生」をテーマとしているそうです。

 

当初はA.~P.の全部を紹介する予定でしたが字数制限の関係でここまで(A.~J.)

で区切り残りは後編で紹介することとしました。

 

 
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姫路市仁豊野の和辻哲郎の生家の碑 on 2020-2-23

2020年02月24日 05時48分20秒 | 神戸市以外の兵庫県

2020年2月23日、姫路市水道資料館、日本玩具博物館をメインの訪問先として

JR西日本播但線の仁豊野(にぶの)駅に下車しました。

仁豊野駅を出たところに和辻哲郎の生家が駅から東100mにあるとの石碑を見つけ

和辻哲郎の生家の碑にたどり着いた。

上の2枚の写真が和辻哲郎の生家の碑です

表面に「春の来た日に和辻哲郎ここに生まれる」と書かれています。

上の写真は裏の碑面の文章で平成4年(1992)姫路市文化振興財団と地元自治会

が建立したことが判ります。

碑文には明治22年(1889)3月1日に父和辻瑞太郎・母まさの次男として

この地(仁豊野309番地)に生まれたこと昭和30年(1955)に文化勲章を受章したこと

昭和35年(1960)12月26日に逝去したことが記載されています。

和辻哲郎と言えば奈良の寺を巡った「古寺巡礼」(大正8年(1919)に刊行)や、

日本の思想界に影響を与えた「風土」さらに「日本精神史研究」「日本倫理思想史」

などの著作で知られ生家は昔の医院の雰囲気を残す佇まいです。

昭和63年度(1988)に「和辻哲郎文化賞」が創設され優れた著作や研究をされた

人々に贈られています。

今年の和辻哲郎文化賞のポスター掲示が近くの掲示板に張られたいたので添付

(下の写真)

朝日新聞2019-1-29電子版にこの碑の建立に関する記事が掲載されており

碑が180万円の寄付金により建立されたこと和辻哲郎は晩年の著書「自叙伝の試み」

 の中でこんこんとした清流(市川)が流れていると故郷を称え糸紡ぎや鍛冶、

 豆腐づくりなどで村人が協力して暮らす姿を克明に描いた」と紹介

Wikipediaより和辻哲郎の略歴を引用紹介させていただきます

1889年 - 兵庫県神崎郡砥堀村(とほりむら)仁豊野(にぶの)(現:姫路市仁豊野)にて誕生。
1906年 - 旧制姫路中学校(現:兵庫県立姫路西高校)卒業。
1909年 - 第一高等学校卒業。 
  同年、後藤末雄、大貫晶川、木村荘太、谷崎潤一郎、芦田均らとともに同人誌、
  第二次『新思潮』に参加、第一号に載せたのは戯曲「常盤」。
  以後も、バーナード・ショーの翻訳などをするが、次第に文学から遠ざかる。
  谷崎の才能に及ばないと感じたからといわれる。
1912年 - 東京帝国大学文科大学哲学科卒業、同大学院進学。
  ラファエル・ケーベルを尊敬し、卒論を読んでもらいたいが為に英語で執筆した。 
  静かな環境のもとで卒論に取り組むため、藤沢市(当時は高座郡藤沢町)鵠沼にあった
  後輩高瀬弥一邸の離れを借りて執筆する。卒論完成と同時に高瀬弥一の妹、照に求婚した。
 同年、高瀬照と結婚。阿部次郎との親密な交流が始まる、また安倍能成とも終生交流した。
1913年 - 紹介を得て夏目漱石の漱石山房を訪れるようになる。『ニイチェ研究』を出版。 
  漱石の『倫敦塔』に強い感銘を受けた和辻は、熱烈な敬慕の情をしたためた手紙を書き送った。
1915年 - 藤沢町鵠沼の妻・照の実家の離れに1918年まで住む。 
    この間、別の離れに安倍能成、阿部次郎も住み、交流。
    小宮豊隆・森田草平・谷崎潤一郎・芥川龍之介らの来訪を受ける。
1916年 - 漱石および岳父高瀬三郎の死。この時期、日本文化史に深い関心を寄せ始める。
1917年 - 奈良を旅行し、古寺を巡る。
1918年 - 東京市芝区に転居。
1919年 - 『古寺巡礼』を出版。
1920年 - 東洋大学講師
1921年 - 雑誌『思想』の編集に参画を始める。
1922年 - 法政大学教授
1925年 - 京都帝国大学助教授。京都市左京区に転居。
1927年 - ドイツ留学。(~1928年)
1929年 - 龍谷大学講師兼務。
1931年 - 京都帝国大学教授
1932年 - 大谷大学教授兼務、京都大学より文学博士号取得 「原始仏教の実践哲学」。
1934年 - 東京帝国大学文学部倫理学講座教授。東京市本郷区に転居。
1943年 - 宮中にてご進講、講題は「尊皇思想とその伝統」。
1945年 - 雑誌『世界』の創刊に関わる。
1949年 - 定年退官。日本学士院会員。
1950年 - 日本倫理学会を創設し会長に就任(死去まで)。
1951年 - 『鎖国』で読売文学賞。賞金は倫理学会に寄贈した。
1953年 - 『日本倫理思想史』で毎日出版文化賞
1955年 - 秋に文化勲章受章。
1958年 - 皇太子妃となる正田美智子のお妃教育の講師を務めた。
1960年 - 心筋梗塞により練馬区南町の自宅で死去。
      墓所は鎌倉市山ノ内の東慶寺。戒名は明徳院和風良哲居士。

上の写真はJR仁豊野周辺の見どころを示した地図

仁豊野公会堂の前に掲示の地図より仁豊野付近を拡大

最後にJR仁豊野駅の駅舎と和辻哲郎の生誕の地の石碑(駅前に設置)の写真を添付して

筆をおきます。

 

 

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さくら茶屋 須磨店でのランチ on 2020-2-19

2020年02月23日 03時44分57秒 | 神戸情報

2020年2月19日、有閑 さくら茶屋 須磨店でランチをいただきましたので写真紹介します。

さくら茶屋は大丸須磨店の4階にある甘味処のお店です。



有閑 さくら茶屋 須磨店 の基本情報

住所:神戸市須磨区中落合2-2-4 大丸須磨店 4F  TEL:078-795-3046
料理ジャンル:甘味処、そば
営業時間:11:00~20:00  休み:不定休


公式サイト:http://www.dears-inc.com/sakura-chaya/

上の写真は奥様が選択した餅そばセット 1,100円(税込)

上の写真は私が選択した宴セット 1,050円(税込)

上の写真は選択したものが掲載のメニュー表(店頭の看板)

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BBプラザ2階の彫刻作品「メトロポリタンのベートーヴェン」

2020年02月22日 04時54分13秒 | 神戸情報

神戸市灘区のBBプラザの2階に彫刻作品「メトロポリタンのベートーヴェン」

があります作者はアントワーヌ・ブールデルで1902年の作です。

上記作品の写真を撮りましたので紹介します。

上の2枚の写真がその作品です。 撮影は2020年2月15日

説明書きによればパリのゴダール鋳造所で制作されたものです

上の写真は作品の遠景 撮影:2020年1月24日

作者のアントワーヌ・ブールデルについてWikipediaより引用紹介します。

アントワーヌ・ブールデル(仏:Antoine Bourdelle 1861年10月30日-1929年10月1日)は、フランスの彫刻家である。

フランスのタルヌ=エ=ガロンヌ県モントーバンで生まれた。
13歳のときに、父のキャビネット作成の店で木版工になるために学校を辞めている。
その後、モントーバンでアングル美術館の創設者に絵画を学び、トゥールーズの
美術学校で彫刻を学んだ。24歳の時にパリのエコール・デ・ボザールの奨学生となった。 
1888年に最初のベートーベン像を作成した。

この作品において、特徴の強調・幾何学・構築と発明の精神などを表現している。 
ブールデルは20世紀の彫刻のパイオニアの一人となった。

オーギュスト・ロダンはブールデルの仕事の賛美者になった。
そして、1893年にブールデルはロダンのアシスタントとなる。
ブールデルは先生としても人気があり、多くの優れた芸術家が彼のクラスから生まれた。 


晩年には何度か記念碑作成の依頼を受け、パリのサロン・ド・テュイルリーの創設者兼副社長となった。
また、1924年にはレジオンドヌール勲章も受けている。 
1929年に。パリ近郊ル・ヴェジネで死亡。パリのモンパルナス墓地に埋葬されている。 
現在、フランスのパリ15区モンパルナス駅北西至近の細い道であるアントワーヌ=ブールデル通り
 (Rue Antoine Bourdelle) 沿い18番地に、ブールデル美術館がある。
それは、24歳の頃から彼が住んでいた家・作業場・庭から成り立っている。

 

神戸市の兵庫県公館の庭にも「アダムス」という題の彫刻作品があります。

兵庫県公館の作品の写真を撮った記憶があるがすぐに取り出せないので写真は

添付できません。

英文ではあるが彼の略歴を簡潔に書かれたサイトがあったのでリンクしておきます。

 http://www.bourdelle.paris.fr/en/biography

 

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山陽電車網干駅周辺散策記 その24(最終回) 網干湊跡

2020年02月21日 04時46分28秒 | 神戸市以外の兵庫県

山陽電車の広報誌「ESCORT]2019年12月号で山陽網干駅周辺の紹介記事があり
ダイセル異人館と龍門寺の紹介記事が掲載されていました。
これに触発され2019年12月27日(金)に山陽網干駅周辺を散策してきました
ので写真紹介していきます。
山陽網干駅の周辺には2017年11月5日に室津に午前中に訪問後、午後に訪問。
さらに魚吹八幡神社に2018-3-25、2019-3-30に訪問していますが今までブログ
記事にしていなかったのでこれらの訪問記を含めてシリーズとして紹介していきます。
今回はシリーズの第24回(最終回)網干湊跡を紹介します。
過去の記事:

 

第1回 ダイセル異人館

 第2回 龍門寺

 第3回 魚吹八幡神社

 第4回 旧網干銀行本店

 第5回 大覚寺

 第6回 長太郎石

 第7回 河野鉄兜生家と石碑

 第8回 津の宮お旅所

 第9回  稲香村舎 誠塾

第10回 山本家住宅

第11回 丸亀藩網干陣屋門跡

 第12回 水井家住宅

 第13回 西方寺

 第14回 不徹寺

 第15回 龍源寺

 第16回 義徳院

 第17回 船渡神社(若宮)

 第18回 勝海舟直筆の碑

 第19回 法専寺

 第20回 専念寺

 第21回 境橋

 第22回 網干神社

 第23回 善慶寺

 

網干湊は揖保川上流の宍粟郡(現宍粟市)から積み出された年貢米、炭、材木が

高瀬舟で運搬されこの地に集められる集積地であった。

網干湊に集められた物資は西の室津、東の飾磨津、さらには大坂までへも回漕された。

上の写真は東雲橋の東側の網干川でかっては網干湊であった。

上の写真は網干川の風景

上の写真は網干川から揖斐川に繋がる付近の船溜り

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役行者霊蹟札所36ケ寺 その1 36ケ寺一覧と役行者について

2020年02月20日 06時31分46秒 | Weblog

2020年2月18日(火)、須磨寺を訪問した折に下に添付の「役行者霊蹟札所巡礼」

と題した冊子を入手しました。

作成者は役行者霊蹟札所会

これまでこのような巡礼地があることを知りませんでした。

この冊子をベースに巡礼地36ケ寺について訪問したことのある寺の写真や未訪問の

寺については寺を紹介したサイトなどからバーチャル訪問することとしました。

今回はその初回で「36ケ寺一覧と役行者」について記します。

 

1番札所 国軸山 金峯山寺  奈良県吉野郡吉野町吉野山2498 

2番札所 塔尾山 如意輪寺 奈良県吉野郡吉野町吉野山1024 

3番札所 常楽山 竹林院  奈良県吉野郡吉野町吉野山2142 

4番札所 井光山 桜本坊  奈良県吉野郡吉野町吉野山1269 

5番札所 語法山 喜蔵院  奈良県吉野郡吉野町吉野山1254 

6番札所 井光山 善福寺  奈良県吉野郡吉野町吉野山2291 

7番札所 日雄山 大日寺  奈良県吉野郡吉野町吉野山2357 

8番札所 大峰山 東南院  奈良県吉野郡吉野町吉野山2416 

9番札所 一乗菩提峰 大峯山寺 奈良県吉野郡天川村大峯山(山上ケ岳頂上)

10番札所 大師山 菅生寺  奈良県吉野郡吉野町平尾150 

11番札所 大峰山 龍泉寺  奈良県吉野郡天川村洞川494 

12番札所 茅原山 吉祥草寺 御所市茅原279 

13番札所 本山上 千光寺  奈良県生駒郡平群町鳴川188 

14番札所 生駒山 宝山寺  奈良県生駒市門前町1-1 

15番札所 富美山鼻高 霊山寺  奈良県奈良市中町3873 

16番札所 松尾山 大和松尾寺  奈良県大和郡山市山田町683 

17番札所 信貴山 朝護孫子寺  奈良県生駒郡平群町信貴山 

18番札所 宀一山 室生寺  奈良県宇陀市室生78 

19番札所 楊柳山 大野寺  奈良県宇陀市室生大野1680 

20番札所 聖護院跡  京都府京都市左京区聖護院中町15 

21番札所 深雪山 醍醐寺  京都市伏見区醍醐東大路町22 

22番札所 紫金山 法楽寺 大阪市東住吉区山坂1-18-30 
 
23番札所 犬鳴山 七宝瀧寺  大阪府泉佐野市大木8 

24番札所 阿弥陀山 泉州松尾寺  大阪府和泉市松尾寺町2168 

25番札所 龍池山 弘川寺  大阪府南河内郡河南町弘川43 

26番札所 檜尾山 観心寺  大阪府河内長野市寺元475 

27番札所 金剛山 転法輪寺  奈良県御所市高天476(金剛山上) 

28番札所 恵日山 千手寺  大阪府東大阪市東石切町3-3-16 

29番札所 長尾山 天龍院  大阪府東大阪市山手町2054 

30番札所 鷲尾山 興法寺  大阪府東大阪市上石切町2-1533 

31番札所 根本山 神峯山寺  大阪府高槻市原3301-1 

32番札所 北山 本山寺  大阪府高槻市大字原3298

33番札所 蓬莱山 清荒神清澄寺  兵庫県宝塚市米谷字清シ1番地 

34番札所 上野山 須磨寺 神戸市須磨区須磨寺町4-6-8 

35番札所 一乗山 根来寺  和歌山県岩出市根来2286

36番札所 大乗峰 伊吹山寺  滋賀県米原市上野(伊吹山頂上)

 

役行者について

修験道の祖で欽明天皇の時代の欽明5年(633)大和国に生まれ仏道に帰依し
大峰山、葛城山の他、各地で厳しい修行を積み32歳で座禅三昧の中に大黒天
の法力を感得し、大菩薩になったと伝えられています。
役行者は大宝元年(701)6月7日に68歳で入寂されたそうです。
寛政11年(1800)朝廷は神変大菩薩の号を与えられました。

役行者が修業した大峰奥駆道は1,300年以上たった現在も修行の場として活用

されています。役行者は別名で役小角といい大峰山の山頂で感得した仏様は

蔵王権現であり金峰山信仰の御本尊となっています。

信仰する人には諸願成就、福徳円満、悪病消除の功徳が授けられると
されています。

役行者についてWikipediaの解説を引用紹介します。
役 小角(えん の おづの /おづぬ /おつの、舒明天皇6年(634年)伝 ? 
大宝元年6月7日(701年7月16日)伝)は、飛鳥時代の呪術者である。
役行者(えんのぎょうじゃ)、役優婆塞(えんのうばそく)といった呼び名でも
広く知られている[1]。姓は君。 修験道の開祖とされている。 実在の人物だが、
伝えられる人物像は後世の伝説によるところが大きい。
天河大弁財天社や大峯山龍泉寺など多くの修験道の霊場に、役行者を開祖として
いたり、修行の地としたという伝承がある。 

役行者は山へ籠もって厳しい修行を行う事により、様々な「験」を得る事という
「修験道」という神仏を融合させた新しい宗教形態を確立させた。
山を神として敬う日本古来の山岳信仰と神道・仏教・道教・陰陽道などが習合
して奈良時代に成立した日本独特の宗教である。
修験道は、明治5年(1872)に太政官名で「廃止」を命じられ、この時点で17万人を数えた
修験先達は激減し、太平洋戦争終了時まで、宗教法制上は非公認となった。

上の写真は奈良県吉野山の櫻本坊蔵の役行者倚像

木造、彩色、玉眼 像高は91.5cm 大正4年8月10日に国の重文に指定

南北朝時代の作

出典:役行者霊蹟札所会が作成のリーフレット

上の写真は奈良県吉野山の桜本坊の本堂 撮影:2014年4月3日

 

上の写真は大峰山寺蔵の役行者倚像

出典:役行者霊蹟札所会が作成のリーフレット

上の写真は大峰山寺(9番札所)本堂

出典:橿考研通信 Vol.1 (平成28年(2016)9月30日)

 

上の写真は滋賀県神崎郡五個荘町(現 東近江市)石馬寺の役行者・二鬼像

昭和34年(1959)12月18日に国の重文に指定されています。

石馬寺の公式サイト:http://ishibaji.jp/

 

 

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