CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ)

神戸・岩国の最新情報を中心に紹介していきます。歴史や時事について調べた結果を紹介。

六本木ヒルズ夜景

2007年07月27日 06時42分56秒 | Weblog


東京観光の定番となっている?六本木ヒルズの
夜景の写真です。

250mの展望室は1500円の料金なのに行列が出来る
くらいに多くのの人が訪れています。

最近は07年4月オープンのミッドタウンの影響も
出ているのかどうか?



夜のイルミネーションは恋人たちが語らう
デートスポットともなっています。
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森鴎外旧居跡

2007年07月26日 07時32分58秒 | Weblog


写真は明治の文豪で陸軍軍医であった森鴎外の
旧居跡の碑で、水月ホテル鴎外荘の入り口にある。
住所:台東区池之端3丁目3番21号
地図はこちら
森鴎外の原稿など貴重な資料も展示されている。
森鴎外は文久2年(1862)島根県の津和野で医者の
森静男の長男として生まれた。
本名を林太郎という。

森鴎外がドイツから帰朝した明治21年(1888)
5月から23年10月まで住んでいたところである。
鴎外はここで明治22年(1889)3月9日海軍中将
赤松則良の長女登志子と結婚し、その夏にこの地に
移り住んだ。
明治23年(1890)1月処女作「舞姫」を「国民の友」に
発表した。
しかしこの結婚は意にそわぬもので長男が生まれた後、
明治23年9月に離婚している。


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佐倉連隊

2007年07月19日 06時40分34秒 | Weblog


上の写真は佐倉連隊の写真で説明用の看板から
撮りました。原図は佐倉市が所蔵しています。

いかの文書も説明文より要約引用。

明治7年(1874)日本最初の軍隊歩兵第二連隊が
佐倉に駐屯し、多くの部隊が編成・訓練され、
西南戦争、日清戦争、日露戦争にこの地から出征
されました。明治42年(1909)には、第二連隊に
かわつて歩兵五七連隊が移転し、昭和19年(1944)
のフイリピン戦で多くの命が失われ、壊滅した。

佐倉城は堀田氏の江戸時代に移封されてから永く
領主であった。
佐倉城、佐倉連隊跡地は、昭和39年(1964)公園と
して計画され整備が進められ、「歴博」の愛称で
親しまれている国立歴史民俗博物館が昭和58年(1983)
に佐倉城址公園跡に建設され開館しました。


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江戸時期の淡路島周辺海路図

2007年07月18日 05時26分32秒 | Weblog


佐倉の歴史博物館に展示されている淡路島周辺の
海路を示したものである。

河村瑞賢が大坂を中心とし北陸までの
西廻り航路の整備と開発を行った。
また北前船と呼ばれる北陸等の船主に
よる日本海から瀬戸内海を回る交易も活発
であった。
北前船は米や水産物を大阪に運ばれた。
大阪からは酒、油、衣料品、あわ粉さらに
瀬戸内の塩、紙、鑞、境港の鉄、米等が北陸
東北、蝦夷の地まで交易があった。

また、瀬戸内の海路は朝鮮使節が京までの道
として利用した。

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佐藤朝山

2007年07月17日 06時26分04秒 | Weblog

佐藤朝山は日本を代表する彫刻家である。
佐藤町山は明治21年(1888)福島県相馬市
に宮彫師の家に生まれた。
13-14才で絵を習い15歳の頃父の仕事を手伝った。
18歳で上京し山崎朝雲の弟子となり修業をつむ。
ここで師に勝るような実力をつけ朝雲塾を出るとき
朝山の号をもらう。
大正8年(1919)31歳で結婚し馬込に居とアトリエを
持つ。
この場所は現在大田区立郷土博物館のある場所である。
大正11年(1922)西洋美術研究のためフランスに派遣
される。
戦後は昭和20年戦災で居宅が焼失し相馬郡大舘に移る。
昭和22年(1947)西宮に移り阿吽洞玄々と号す。
昭和24年(1949)妙心寺大心院に移る
昭和35年(1960)現在でも三越本店の中央ホールに
展示されている「天女(まごころ)」の像が完成。
昭和38年(1963)妙心寺大心院で死去。


上の写真が三越日本橋店の天女像で圧巻である。
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落合のダイニングキッチンShisui

2007年07月15日 06時30分42秒 | Weblog

落合のダイニングキッチンShisuiのランチメニュを
紹介致します。
1,380円のコースメニューです。
まずスープが出ます。
 冷製あさりのクリームスープを選択しました。


次に前菜ですがズッキーニとホタテの生春巻
生ビール(520円)を注文


メインディッシュは4種類の中から選択します
日替わりパスタを選択しました。
 他の3種は
  鴨のグリル    レフォールソース
  スズキのポワレ  ジョニバーベリー
  デミグラスのオムライス


最後にデザートとコーヒーです。
ちらしを持って行くとデザート食べ放題になります。


店の中に本物のキャンピングカーを使用した
客席があります。
住所:新宿区西落合2-14-13
    最寄駅 都営地下鉄 大江戸線
         落合南長崎駅 徒歩8分
営業日が金、土、日ですのでご注意下さい


地図はこちら
その他のメニューの一例として
ピザ各種 1,180円から1,550円
ワインも多数用意されています。
 ミシェルリンチ赤、シャブリ白から
 マニフィーク(赤、白)まであります。
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東福寺

2007年07月14日 15時53分06秒 | Weblog


東福寺の外観が非常にユニークなので
おもわず写真を撮りました。

住所:群馬県前橋市三河町一丁目9-18 
地図はこちら
東福寺は永禄2年(1559)の創建で酒井忠世の時代に
現在の場所に移った。
宗派は真言宗。
鰐口(わにぐち)が市の重要文化財となっている。
鰐口とは寺社の軒下に吊るし願い事をする時に
鳴らす。
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下野人形

2007年07月12日 13時28分56秒 | Weblog


写真は新幹線の小山駅の構内のショーウィンドーに
飾ってあった下野(しもつけ)人形の写真である。
以下は説明文より簡略し、転載。
下野の国(栃木県)には、古くから「ひとがた(人形)」
に願をかけて幸せを求める風習がありあります。
人形に願いを託すのは、人間をかたどった
「ひとがた(人形)」には魂があり、必ず身替わりに
なってくれると信じた一種の民間信仰です。
下野人形は「下野しぼり」和紙で作られいます。
素朴な姿ですが、美を感じます。

戦後ひとがたを再興した諏訪重雄・志津子夫妻にり
伝統の中にも新しい意匠が取り入れられています。

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荻原朔太郎の街 前橋

2007年07月06日 07時53分39秒 | Weblog


写真は前橋文学館の前にある萩原朔太郎の銅像である。
萩原朔太郎明治19年(1886)群馬県東群馬郡前橋北曲輪町(現在千代田町1丁目)で生まれた。
父は医者、朔日生まれの長男なので朔太郎と名付けた。
前橋中学校を卒業後熊本の第5、岡山の第6高等学校をともに中退。

第6高では明治43年(1908)チフスに
かかった。
大正6年(1917)朔太郎32歳の時処女詩集「月に吠える
によって日本近代詩史に不滅に金字塔をうちたてた。
大正8年(1919)上田稲子と結婚。
大正14年(1925)妻子3人と上京、大井町に住む。
ここには室生犀星、芥川龍之介がいた。
大正15年馬込村平張へ転居。
昭和6年 離婚し母と子供2人と世田谷へ転居。
昭和17年(1942)57歳で死去。
墓は前橋市の「政淳寺」にあります。

上の写真は詩集第4作「純情小曲集」に収録された
「郷土望景詩篇」のひとつである。

荻原朔太郎の他に平井晩村、高橋元吉、萩原恭次郎、伊藤信吉ほか多くの詩人を輩出した

前橋は「近代詩のふるさと」と言われています。

上の写真の右が東京・馬込文士村時代の荻原朔太郎、左が室生犀星。

 出典:馬込文士村 ガイドブック(1996)Page52-53

自然の中に生命があり、力があり、生活があるということを、私は馬込に来てはじめて

学んだ---の言葉通り、荻原朔太郎は馬込の風情に強く心をひかれました。

それほど馬込は詩の宝庫だったようです。

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宇都宮中央公園&宇都宮商工会議所建物復元

2007年07月05日 06時02分05秒 | Weblog

写真は宇都宮中央公園の中の昭和大池です。
宇都宮中央公園についてはこちら
公園内はよく整備されており現在はあじさいが
綺麗です。

宇都宮商工会議所の建物跡です。
宇都宮中央公園の中にあります。
この建物は大正11年(1922)に計画され
昭和3年(1928)5月に竣工しました。
所在地 :栃木県宇都宮市睦町2-50
地図はこちら
設計は宇都宮工業高校の初代校長の安美賀
(やすみ よし)である。

旧宇都宮商工会議所の玄関部分です。
地元特産の大谷石が各所に使用されている。

昭和54年(1979)8月に解体されたが、
後世に伝えるため昭和60年(1985)に
復元保存された。

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