神戸新聞の記者の小西隆久氏は2019年1月1日より明石城築城400年 第2部
「守りて、在り 櫓を救った士族の軌跡」のシリーズを連載されています。(明石地方版)
第1部は「殿様の真意 なぜ天守閣は建てられなかったかで2018年5月5日より連載。
本ブログでは廃藩置県後、明治14年(1881)本丸の北東にあった艮櫓(うしとらやぐら)
の解体の現場を見て何とかかっての明石城を守ろうと立ち上がった士族の1人である
石巻清忠について調べたものです。
まず、石巻清忠の事蹟と関連事項を年譜として纏めてみました。
メインは国会図書館デジタルコレクションの資料
石巻清隆の事蹟と関連事項
嘉永 元年(1848)明石にて明石藩士の子として生まれる(0歳)
明治 2年(1869)?明治新政府の地方行政官として出仕(21歳)
明石藩からは石川季造と2人だけが選抜された英才である
明治 3年(1870)兵庫県に出仕
明治11年(1878)山形県次官(7等 少書記官)(30歳)
当時の山形県令は土木県令と異名があった三島通庸(後に5代目警視総監)
明治12年(1879)8月18日 大阪上等裁判所判事に転任(31歳)
明治14年(1881)夏 - 神戸の相生小学校(後の湊川小学校)建築用に艮櫓解体
明治14年(1881)明石城本丸の北東にあった艮櫓(うしとらやぐら)の解体が始まる
8月16日 - 旧士族ら14人、県に対し城跡現状保存を出願
9月 著書「法理概言」を出版
明治16年(1883)5月 明石城は官有地のまま、民営の「明石公園」
地元有志からなる「明石公園保存会」が国から借地し、民営明石公園として開設
明治18年(1885)8月10日朝 明石の明治天皇に拝謁
当時、石巻清隆は福岡裁判所に奉職していたが故郷の明石に帰省中であった
明治20年(1887)4月18日福岡裁判所裁判陪席
明治21年(1888)12月 - 明石公園保存会設立、保存会が公園の経営を行う
明治22年(1889)9月14日 第3期岡山重罪裁判所陪審席を命ず 大阪控訴院始審裁判所判事
明治23年(1890)2月 著書「帝国議会必携」を出版
3月5日 第1期岡山重罪裁判所陪審席を命ず 大阪控訴院始審裁判所判事
4月11日 第2期岡山重罪裁判所陪審席を命ず 大阪控訴院始審裁判所判事
明治27年(1894)大坂控訴院(現在の大阪高等裁判所)部長判事を依頼退職(46歳)
1月 著書「衆議院議員選挙ニ付テノ意見」を出版
明治29年(1896)7月 兵庫県明石郡参事
11月 明石郡立明石公園となる
明治31年(1898)11月 明石公園が皇宮地の付属地に編入
明治34年(1901)2棟の櫓(坤櫓と巽櫓)の修復 宮内庁の関与
明治43年(1910)9月22日 死去(63歳)
戒名「清隆院釋磊堂(らいどう)居士」
葬式は朝顔光明寺で行われた
明治44年(1911)2月 - 明石離宮造園内定。
大正元年(1912) 大正天皇即位で離宮の件は取り消しに。
大正7年(1918) 4月14日 - 県立明石公園開園式。
「明石紳士録」の記事
国立国会図書館デジタルコレクションより石巻清隆について書かれている内容を添付
しました。顔写真もあり
記載内容は上述の事蹟年表にも反映させています。
上の記述に出てくる宮崎官次郎先生について同じく「明石紳士録」より
紹介しておきます。(下の写真)
石巻清隆の墓
上の写真は曹洞宗、月照寺の墓地に眠る石巻清隆の墓がある場所の遠景 撮影:2019-1-27
上の写真は石巻家の墓のある場所の中景 撮影:2019-1-27
上の写真は石巻清隆の墓(中景の一番左手です) 撮影:2019-1-27
戒名の「清隆院釋磊堂(らいどう)居士」と妻の「つね」の名前が刻まれています。
命日は明治43年(1910)9月22日 死去(62歳)
墓の建立者は石巻清文
中景の真ん中には明治32年5月9日に死去の福田誉賜墓と刻まれ
石巻清隆が建立したと刻まれています。
福田誉賜は石巻清隆の父親か?
中景の右手の墓碑には清浄院釋妙香大姉 大正6年2月1日 中山勇建之
どのような方かは不明
石巻清隆の遺品
神戸新聞2019年1月23日明石地方版で石巻清隆曾祖父にあたるという遺族で神戸市北区
に在住の有井由紀子さん(81)から遺品の提供があったとの記事が掲載されています。
明石市立文化博物館(明石市文化振興課)で古文書や絵巻物などの解読が進行中とのこと。
詳細は下記サイトを参照して下さい。
https://www.47news.jp/localnews/medical/3197888.html
https://www.kobe-np.co.jp/news/akashi/201901/0012000706.shtml
明石城本丸(古い絵図)
上の写真は明治26年(1893)に出版された「明治新撰 播磨名所図絵」(中谷興助著
大阪工新図匠舘) 昭和50年(1975)全復刻版に掲載の明石神社の図です。
明石城の本丸のかっての姿が描かれています。
本丸の4隅に3重の櫓が描かれています。廃城後の明治14年(1881)に取り壊された
北東の艮櫓(うしとらやぐら)や北西の乾(いぬい)櫓もかってはこんな位置に
あったことが判る絵です。
明石神社は明治19年(1886)に建立された当時の姿です。
下の方に明治21年(1888)に開通した山陽鉄道(後に国鉄、JR)の軌道と汽車も
描かれています。
人丸社として描かれている場所は現在一丸塚として案内板(下の写真)が掲示されています。
明石城築城400年イベント予定
明石市市制100年記念行事も含まれますが下記のブログで纏めています。
明石市市制施行100周年イベント予定 目玉は11月23日-24日開催予定のB-1グランプリ