CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ)

神戸・岩国の最新情報を中心に紹介していきます。歴史や時事について調べた結果を紹介。

日本書紀に記載の三輪山伝説・箸墓伝説と箸墓古墳

2024年07月24日 04時45分12秒 | 奈良情報
三輪山の神(大物主神)と倭迹迹日百襲姫(やまとととびももそひめ)との
ロマンスは日本書記に書かれており箸墓伝説又は三輪山伝説と呼ばれています。
本ブログではその内容 を紹介します。また箸墓古墳について概要を書いておきます。

倭迹迹日百襲姫(やまとととびももそひめ)は大物主神(おおものぬしかみ)の妻となった。
神は、昼現れず、夜だけやってきた。
姫は「一度、美しいお姿をお見せ下さい」と頼んだ。
神は「分かりました。あすの朝、あなたの櫛笥(くしげ)に入っていましょう。
決して驚かないように」と答えた。
翌朝、姫が櫛笥を開けると、美しい小さな紐のような蛇がいた。
姫は驚いて叫んだ。蛇は人の形となり「あなたは我慢できずに声を上げ、私に
恥をかかせてしまった。報復としてあなたに恥辱を加えるだろう」と
御諸山(みむろやま)=三輪山に帰っていった。
姫は後悔した。急に座ったところ箸が陰部に突き刺さり命を落としてしまった。
姫は大市(おおいち)に葬られた。その名を名付けて箸墓といった。
箸墓は昼、人が作り、夜は神がつくった。大坂山の石を運んだ。
人々は一列に並び、手から手に渡して運んだ。
以上が伝承の内容です。
箸墓古墳は上記伝承から倭迹迹日百襲姫の「大市墓」として宮内庁が管理しています。

倭迹迹日百襲姫は巫女的な女性で当時の巫女的女性の権威の大きさを物語っている。
日本書紀には倭迹迹日百襲姫は第7代孝霊天皇の皇女であると記載。
古事記では夜麻登登母母曾毘売(やまととももそびめ)命と名のみみえる。

箸墓古墳の基本情報
所在地:奈良県桜井市大字箸中
長さ:全長約280m 後円部径155m 全方部長125m 全方部前面の幅147m
高さ:30m(後円部)、16m(全方部)
段築:後円部は5段、全方部は4段の段築
造営年代:240年~260年(一説)、3世紀後半(一説)
被葬者(主な説):卑弥呼、台与(壱与)、ヤマト王権の初期大王(崇神天皇など)

 上の写真は箸墓古墳のレーザー照射(航空レーザー測量)による段築状態を示したものです。
後円部 5段 、前方部 4段築造
奈良県立橿原考古学研究所 西藤清秀さんが指揮 協力:アジア航測株式会社




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日本最大の円墳 富雄丸山古墳で木製の棺の発掘調査が始まる 結果は来年3月に発表予定 奈良

2023年12月25日 07時10分31秒 | 奈良情報
読売テレビが作成したYoutube動画にGooで共有させていただきました。

日本最大の円墳 富雄丸山古墳で木製の棺の発掘調査が始まる 結果は来年3月に発表予定 奈良
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実は『古墳』!駐車場の植え込み…教授「半信半疑だったので驚き」 貴重な土器も出土(2023年9月8日)

2023年09月10日 17時10分36秒 | 奈良情報
実は『古墳』!駐車場の植え込み…教授「半信半疑だったので驚き」 貴重な土器も出土(2023年9月8日)

世界遺産・法隆寺の駐車場の植え込みは“古墳” 6世紀後半に作られた「舟塚古墳」発掘調査で判明  

関連サイト:


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元興寺塔跡  現地訪問(2018年4月8日)を中心として

2023年08月23日 05時17分27秒 | 奈良情報
2023年8月21日14:00からEO光チャンネル「村瀬先生のぶらり歴史歩き40 奈良・ならまち編」で
標題の元興寺塔跡について紹介がありました。
私は2018年4月8日に現地を訪問しているがブログを作成していないので今回
写真紹介することとしました。

まずは元興寺の概要説明から入ります。
元興寺は1998年ユネスコの世界文化遺産に登録されています。
蘇我馬子が飛鳥に建立した、日本最古の本格的仏教寺院である法興寺がその前身である。
法興寺は平城京遷都に伴って飛鳥から新都へ移転し、元興寺となった。
(ただし、飛鳥の法興寺も元の場所に残り、今日の飛鳥寺となっている)。
南都七大寺の一つです。

南都七大寺は下記のとおりで天平勝宝元年(749)に定められた墾田の地限の数値
は東大寺の次に多く勢力のあった寺であることが判ります。
興福寺(奈良市)  1,000町歩
東大寺(奈良市)  4,000町歩
西大寺(奈良市)  
薬師寺(奈良市)  1,000町歩
元興寺(奈良市)  2,000町歩
大安寺(奈良市)   1,000町歩
法隆寺(生駒郡斑鳩町) 500町歩

元興寺の基本情報
住所:奈良市中院町11  TEL:0742-23-1377、0742-23-1376
宗派:真言律宗 曽我馬子により588年に法興寺(飛鳥寺)として建立開始
718年に平城京に元興寺と名を改め移築された。
本尊:智光曼荼羅

公式HP:元興寺公式サイト・元興寺文化財研究所公式サイト (gangoji.or.jp)
奈良時代の僧坊と講堂の一部を伝える元興寺極楽坊境内として世界遺産になっています。
1977年までは「元興寺極楽坊」と称していた 。

元興寺の所在地のGoo地図を添付

かっての元興寺境内図と五重塔

上の写真は文頭のEO光の番組で紹介された元興寺の境内図
当時は大伽藍を誇っていたことが納得できる図です。

上の写真は元興寺境内絵図の五重塔付近
出典:元興寺文化財研究所編、華厳宗元興寺所蔵石造物調査報告書(2021.2.28)
上の写真は「大和名所図会」の五重塔と観音堂付近
出典:元興寺文化財研究所編、華厳宗元興寺所蔵石造物調査報告書(2021.2.28)

上の写真は元興寺塔跡の現地に掲示の説明板に記載の配置図 撮影:2018-4-8

上の写真は奈良市史料保存館で展示の元興寺伽藍配置図 撮影:2019-2-3

史跡「元興寺塔跡」
所在地:奈良市芝新屋町12 
所在地のGoo地図を添付しておきます。

元興寺塔跡は昭和7年(1932)4月25日に史跡に指定されています。
文化庁のデータベースでは下記説明文が記載されています。
元興寺ハ靈龜二年飛鳥京ヨリ移建セラレ南都七大寺ノ一ナリシガ中世以降堂舍廢頽シ大塔ノミヲ残セシヲ安政六年燒失シテ今其塔阯ヲ存セリ 土壇ハ周囲石壁ヲ繞ラシ上ニ十七個ノ礎石アリ 礎石ハ表面ニ直徑約三尺ノ円形柱受並ニ直徑約九寸ノ大柄ヲ彫リ出シタル形式ニシテ心礎亦其形式相等シク形状稍大ナリ礎石ノ配列ニヨリテ三間三面方約三十二尺ノ塔阯タルコトヲ知ル昭和二年九月心礎周囲ノ地下約一尺二三寸ノ深サニ於テ勾玉 瑠璃玉 捻玉 丸玉、小玉等ノ玉類 和同開珍 萬年通寶 神功開寶等奈良朝時代ノ遺物ヲ發見セリ 

上の写真は現地説明板 撮影:2018-4-8
昭和2年(1927)に発掘調査が実施され塔跡から出土した元興寺塔跡土壇出土品
(金延べ板、金塊、勾玉、瑠璃玉、水晶玉、小銭)と、薬師如来立像(国宝)は、
奈良国立博物館に寄託されています






上の4枚の写真は現地に残る元興寺塔跡の礎石群及び元興寺と刻字された石碑
 撮影:2018-4-8
上の写真は五重塔の礎石の全体図
出典:元興寺文化財研究所編、華厳宗元興寺所蔵石造物調査報告書(2021.2.28)

上の写真はならまち「元興寺 塔跡」の境内に咲くチューリップ
(撮影:2018-4-8)
四季折々の花が楽しめるようです。


元興寺塔跡の入口

上の写真は元興寺塔址への入口と史蹟元興寺塔址と書かれた石碑
撮影:2018-4-8
上の写真は平成30年(2018)が元興寺の創建=平城京移建(養老2年(718))から
1,300年ですよと掲示されていた看板。
上の写真は元興寺創建1,300年に関する説明書き

元興寺観音堂

上の写真は元興寺観音堂(華厳宗)本尊は十一面観音  撮影:2018-4-8
飛鳥に創建された最初の本格的寺院である法興寺が養老2年(718)平城京に移され、
寺名を法興寺から元興寺と改められた。創建時の元興寺は現在「ならまち」と呼ばれる
界隈の大半を含む東西三町、南北五町の寺地に大伽藍が並ぶ平城京で有数の大寺院でした。
元興寺の創建後、飛鳥の法興寺は「本元興寺」と称されたが平安時代に焼失し、
跡地に飛鳥寺が建立された。
元興寺は平安遷都以降、律令制の崩壊に伴い寺勢は衰退してゆき、特に鎌倉時代から
相次ぐ戦乱、一揆、大火、地震で金堂、講堂、南大門など主要な堂宇のほとんどは損壊し、
荒れた伽藍地には民家が建てられた、奈良時代に建立の五重塔も安政6年(1859)
観音堂とともに焼失してしまいました。
そして、元興寺極楽坊, 元興寺観音堂, 元興寺小塔院の三寺院に分かれた。
元興寺観音堂は東大寺の末寺・華厳宗の寺院となった。

啼燈籠



上の写真は啼燈籠と現地説明板 撮影:2018-4-8
円柱部分に正嘉元年(1257)の刻銘があります
 年号が刻まれた燈籠としては奈良市内で二番目に古いそうです
「啼燈籠」という名称は、延享年間(1744~1748)に京都の下村某が元興寺から
京都に持ち帰ったが、毎夜南都(奈良)を向いて「帰りたい」と啼くことから気味が
悪くなって元興寺に返したという伝承に由来するそうです。

「元興寺と奈良町」現地説明板


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奈良市 山上八幡神社への訪問記 on 2017-12-28

2023年07月27日 03時55分54秒 | 奈良情報
2017年12月28日、佐紀古墳群の中にある山上八幡神社を訪問していますので写真紹介します。
下記の記事を書くために称徳天皇(孝謙天皇)の墓所を調べていた時に山上八幡神社の
写真が見つかったので忘れないうちにブログを作成しよう思った次第です。
山上八幡神社は称徳天皇(孝謙天皇)の陵に隣接した場所にあります。

山上八幡神社の基本情報
住所:奈良市山稜町御陵前326番地
御祭神:天照皇大神、天照大御神
    八幡大明神、誉田別命(応神天皇) 
    春日大明神、天児屋根命(アメノコヤネ) 
創建:不詳だが天正4年(1576年)より以前 

所在地のGoo地図を添付しておきます。
 

上の写真は山上八幡神社の正面入口からの遠景 撮影:2017-12-28

拝殿


本殿

奉納絵馬












絵馬について下記ブログで解説されていますのでリンクさせていただきました。

由緒書き
上の写真は由緒書きです。判読しにくいのでそのまま転記しておきます。  「正確な創建年は不明ですが、佐紀町の川辺家所蔵の古文書写しによると、天正4年(1576年)に大職冠鎌足公の末裔にあたる超昇寺兵部小輔氏が息子弘盛と共に一家の安栄を祈るために奉納された祈願文が伝わっており、当社が超昇寺氏の厚い信仰を受けていたことがわかります。
社殿に向かって左後方の杉は天正19年(1591年)に豊臣秀吉公が三韓征伐(朝鮮出兵)の際、その成功を祈り手植えした由緒ある神木があります。

周辺地図
上の写真は現地案内版の地図


上の2枚の写真はGoogle地図です八幡神社と表記 佐紀高塚古墳(称徳・孝謙天皇陵)の東にあります。

第11代垂仁天皇皇后の日葉酢媛命の陵に治定とされている佐紀陵山古墳の南側でもあります。
元禄修陵の文書 『元禄十丁丑年山陵記録』 には、 奈良奉行所からの廻状に対して添下郡西畑村・超昇寺村などの村役人が、 佐紀陵山古墳を字 「御陵山」 と記して 「神功皇后御陵」 と答えている。
江戸時代にはこの古墳を神功皇后陵としていました。

4世紀中盤から後半にかけては第13代成務天皇陵とされる佐紀石塚山古墳や第14代仲哀天皇の
皇后の神功皇后陵とされる五社神古墳などがある佐紀古墳群へと中心部が移り、5世紀には
大阪平野の百舌鳥古墳群や古市古墳群へと移動していったと考えられています。

上の写真は巨大古墳の分布変遷図 地図は当時の地形を反映しています。
 出典:歴史人 別冊 合本古代史の謎 KKベストセラーズ(2014)Page96
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唐招提寺の釈迦念仏会について

2023年07月23日 04時53分27秒 | 奈良情報
唐招提寺では、毎年10月21日から3日間、釈迦念仏会が行われています。

2023年7月18日(火)NHK BSプレミアム 6:30~7:15「国宝へようこそ 第11集 唐招提寺」で
上記釈迦念仏会が紹介されていましたの番組からの写真を利用して纏めてみました。

本論に入る前に唐招提寺の基本情報と所在地のGoo地図を示しておきます。
唐招提寺の基本情報
住所:奈良市五条町13−46 TEL:0742-33-7900
宗派:律宗 御本尊:廬舎那仏 開基:鑑真 759年創建
公式サイト
唐招提寺とは | 唐招提寺 (toshodaiji.jp) 

所在地のGoo地図を添付しておきます。

上述の「釈迦念仏会」の日だけ公開される国宝「金亀舎利塔」には鑑真が唐から携えた
3000粒の釈迦の遺骨(仏舎利)が納められている。
金亀舎利塔の前で3日3晩にわたり法華経の功徳を説き、「南無釈迦牟尼仏」と釈迦の名号が
唱え続けられる。唐招提寺にとってもっとも重要な法会である。

この釈迦念仏会は、建仁2年(1202)8月に、戒律復興運動の基幹として解脱上人貞慶が
創始したもので、上人晩年の大切な事績の一つである。
鑑真没後の唐招提寺は衰退が続き、特に平安遷都以降はひどい衰退ぶりであった。
この状態を憂いた解脱上人貞慶が奈良仏教の復興、原点回帰で奈良仏教界に呼びかけた。
創始から800年以上経つ現在まで継続しています。

貞慶による釈迦念仏会の創始に関する詳細は下記サイトが詳しい

上の写真は唐招提寺釈迦念仏会で公開される金亀舎利塔


  上の写真は堂内の御本尊「金亀舎利塔」を前にした釈迦念仏会の法要



上の3枚の写真は夜間、堂内、仏舎利塔の前で行われる釈迦念仏会の様子
法華経の功徳を説き、「南無釈迦牟尼仏」と釈迦の名号が唱え続けられる。

鑑真和上と唐招提寺について過去にブログを作成していますのでリンクしておきます。

最後に鑑真和上、日本での活動について記載して筆を置きます。

天平勝宝5年12月26日(754年1月23日)大宰府に到着、鑑真は大宰府観世音寺に
   隣接する戒壇院で初の授戒を行う。

天平勝宝6年2月4日に平城京に到着して聖武上皇以下の歓待を受け、
  孝謙天皇の勅により戒壇の設立と授戒について全面的に一任され、東大寺に住する
  こととなった。
  4月、鑑真は東大寺大仏殿に戒壇を築き、上皇から僧尼まで400名に菩薩戒を授けた
  これが日本の登壇授戒の嚆矢である。併せて、常設の東大寺戒壇院が建立された。
 
天平宝字2年(758年)淳仁天皇の勅により大和上に任じられ、政治にとらわれる
  労苦から解放するため僧綱の任が解かれ、自由に戒律を伝えられる配慮がなされた。
  鑑真大和上70歳

天平宝字3年(759年)新田部親王の旧邸宅跡が与えられ唐招提寺を創建し、
 戒壇を設置した。鑑真は戒律の他、彫刻や薬草の造詣も深く、
                     日本にこれらの知識も伝えた。
 また、悲田院を作り貧民救済にも積極的に取り組んだ。鑑真大和上71歳

天平宝字5年(761年)には日本の東西で登壇授戒が可能となるよう、
  大宰府観世音寺および下野国薬師寺に戒壇が設置され、戒律制度が急速に
  整備されていった。 鑑真大和上73歳

天平宝字7年(763年)5月6日唐招提寺で死去(遷化)した。享年76歳


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東大寺東塔院跡 東塔(七重の塔)を中心として

2023年07月11日 05時03分18秒 | 奈良情報
東大寺東塔院跡という題で下記ブログを2018年7月4日に作成しています。

今回、上記ブログを再掲すると共に、新たに七重の塔の相輪の写真などを追加して再編成した。
2023年6月24日(土)NHK BSプレミアム「2時間でまわる東大寺」が放送され
その写真を追加しました。以下、資料1と記す。
本日は東大寺東塔院跡について調べてみました。
写真を中心に紹介します。

上の写真は東大寺大仏殿の内部にある東大寺創建時の模型から東塔院付近を拡大
したものです。 撮影:2018-4-8

東大寺創建時の伽藍 復元模型 on 2018-4-8
上の動画は東大寺創建時の伽藍 復元模型(撮影:2018-4-8)

上の写真は奈良市役所の展示パネルの説明図で東塔の図面です。
その威容が想像できます。

東大寺東塔院跡はその名の通り、創建時に造営された「七重塔」があった場所です。
創建は奈良時代の天平宝字8年(764)頃と言われています。
初代の塔はその後約400年経過した平安末期の治承4年(1180)平重衡の南都焼き討ち
によって一度焼失した。その後鎌倉時代の嘉禄3年(1227)頃に復興を経て、
室町時代(南北朝時代)の嘉禄3年(1362)に落雷に伴う火災で再度焼失し、その後は
再建されることがありませんでした。

かつての東塔は、「東塔院」と呼ばれるように、東西南北4か所の門を有する重厚な回廊
によって塔が囲まれた形を取っていたと言われ、七重の塔の高さは33丈(約100m)と
23丈(約70m)とする2種類の記述があります。

西塔の七重塔については平安中期に 焼失しています。

1970年の日本万国博覧会(大阪万博)で古河グループの古河三水会 が七重塔のレプリカを制作した。
七重の塔のレプリカは86メートルで、冊子にこう意義を記した。本物と同様、塔の頂上に金属製の飾りの相輪(そうりん)(23メートル)を掲げた。
塔は万博終了後に解体されたが、相輪は東大寺に寄贈され、東大寺境内に展示されています。
 




上の3枚の写真は高さ23mの相輪(復元品) 出典:資料1

上の写真は東大寺縁起に書かれた東塔と西塔 相輪の部分は黄色丸で囲まれた部分。 出典:資料1

上の写真は七重塔の相輪の設置場所を示したものです。 出典:資料1


上の2枚の写真は東大寺付近の地図と航空写真で東塔と西塔のあった位置が記載されています。

上の写真は奈良市役所の平城京の模型の東大寺付近拡大図で東塔と西塔の七重の塔の
威容がビジュアルに確認できます。

奈良文化財研究所と東大寺・奈良県立橿原考古学研究所は、2015年に発掘調査団を
組織して、東大寺の東塔院跡の発掘調査を行っています。
写真などは「なぶけんブログ」の記事を参照してください。

2015/11/21と2017/10/7に現地説明会が行われています。
 奈文研の現地説明会資料へのリンク:https://www.nabunken.go.jp/fukyu/account.html

上の写真は奈良県立橿原考古学研究所付属博物館の企画展「2016年発掘調査速報展」
のリーフレットで東大寺東塔院跡の七重塔の基壇の発掘調査の写真が使用されています。

奈良文化財研究所では2017年7月19日から11月10日の期間、東大寺東塔院跡の回廊の一部と
南門の実態解明と東門、西門の位置や遺存状態の確認を目的として発掘調査されました。

現地説明会は2017年10月7日に実施されました。

上の2枚の写真は発掘調査の現場
出典:奈文研ニュース No.67 Nov.2017

成果1:南門の土台=基壇の規模は東西に約16m、南北に約13mあり、
    柱を立てた礎石の配置などから、門の規模は東西約12.9m、南北約7.2m


成果2:回廊の構造は中央を壁で仕切られた2列の複廊

成果3:上記の鎌倉時代の南門と回廊の規模と構造が判明したと同時に創建時の基壇も残存


奈良テレビニュースのサイトで簡明な報道をされていますのでリンクさせていただきます。
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春日大社 摂社「若宮神社」の式年造替(しきねんぞうたい)に伴う諸行事 on 2022年10月

2023年01月04日 03時41分51秒 | 奈良情報
2022年10月、春日大社の摂社「若宮神社」は20年に一度の式年造替(しきねんぞうたい)が行われ
美しい朱色に塗り替えられた若宮神社が完成し、それに伴う諸行事が行われました。

紹介された「式年造替」の諸行事を中心にレビューし写真紹介します。

番組の公式サイト:日曜美術館 - NHK

式年造替の前と後の若宮神社
若宮神社の現在の本殿は「春日造り」で文久3年(1863)に建て替えられたもの。
43回目となる今回の式年造替は屋根のふき替えや水銀朱の塗り替え、神宝の新調などが行われた。
After



手前の木の右手に湧水があります。水に関わる神様が祀られています。

Before
本殿は文久3年(1863)の建造で、仕様は一間社流造、檜皮葺
今回の式年造替では屋根の葺き替え、塗料の塗り替え、神宝の新調などが行われた。

若宮神社と春日大社の基本情報

春日大社の摂社 若宮神社の基本情報
住所:奈良県奈良市春日野町160  問い合わせTEL:0742-22-7788  
御祭神:天押雲根命(あめのおしくもねのみこと)
創建年:保延元年(1135) 造営発願者:藤原忠通(鳥羽上皇の時代)
    御蓋山(みかさやま)の麓に創建されました。 
創建の伝承:1003年、比売神(ひめがみ)を祀る春日大社第四殿で不思議なことが起きた。
 三升の程の水の塊が現れその中から神の化身が現れた。

上の写真は若宮神社本殿の脇に湧出している水溜り



春日若宮おん祭 時代行列(2021年12月17日のYoutube動画)

2014年春日若宮おん祭_お旅所祭・神楽_KASUGA WAKAMIYA ONMATSURI  

おん祭は平安時代からおよそ900年に亘り連綿と続く伝統的な祭礼です。
御旅所祭では平安時代に爆発的に流行った田楽、おん祭にだけ現存する古代舞・細男(せいのお)、
宮中の正式な音楽である舞楽、奈良発祥の御能などが奉納されます。
春日大社(本宮)の基本情報
住所:奈良市春日野町160 TEL:0742-22-7788
公式HP:
春日大社 (kasugataisha.or.jp) 
創建:御蓋山の麓に奈良時代の神護景雲2年(768)、称徳天皇の勅命で創建
本殿の御祭神:
第一殿(一宮) 鹿島神宮から迎えられた武甕槌命(たけみかずきのみこと)
第二殿(二宮) 香取神宮から迎えられた経津主命(ふつぬしのみこと)
第三殿 (三宮)天児屋根命(あめのこやねのみこと))
第四殿 (四宮)比売神(ひめがみ)

三宮と四宮は大阪府枚岡(ひらおか)神社から春日の地に迎えて祀られています

所在地のGoo地図を添付しておきます。四角の赤が若宮神社


式年造替に伴う諸行事

2022年10月14日(金)立柱上棟祭 



「この御殿が神様を末永く守るように」という意味の「陰哉棟(いんざいとう)・陽哉棟(ようざいとう)」などという、独特のかけ声を唱えながら、木づちで3度、棟木を打って修復が終わったことを祝いました。

若宮神社「立柱上棟祭」  ©産経新聞


2022年10月25日(火)神宝検知之儀
 若宮神社の式年造替に合わせて復元新調された平安時代作の古神宝である国宝「金鶴及銀樹枝」と国宝「銀鶴及磯形」が新調され神職により出来栄えが確認された。

上の写真は神宝検知之儀の様子
「若宮御料古神宝類」は 1955年2月2日に一括で49点が国宝に指定されています。
12世紀の工芸品であり、蒔絵弓、平胡籙、金銅尖矢は、千鳥家文書の記事から右大将藤原頼長の献進した神宝であることが知られる。その他の神宝も、平安時代後期における優れた意匠、技巧を見せ工芸史上、また一群の資料としても貴重である。

今回の式年造替では、平安時代作の古神宝である国宝「金鶴及銀樹枝」と国宝「銀鶴及磯形」が復元新調されました。
「金鶴及銀樹枝」を復元新調した「金鶴洲浜台」は、人間国宝(彫金の重要無形文化財保持者)桂盛仁さんと春日有職奈良人形師(一刀彫師) 太田佳男さんが制作しました。「銀鶴及磯形」(復元新調)も桂盛仁さんの制作です。この神宝は2組制作され、ひと組は神様に捧げるため誰の目にも触れず若宮に奉納され、もうひと組(下の写真)が国立奈良博物館の特別展で初公開されます。

特別展の基本情報は下記のとおりです。
特別展「春日大社 若宮国宝展―祈りの王朝文化―」
会期:2022年12月10日(土)~2023年1月22日(日)
会場:奈良国立博物館 東・西新館

上の写真は金鶴洲浜台


上の写真は金鶴洲浜台(右)と銀鶴及磯形(左)の揃い組

上の写真は今回新調された若宮本殿の正面を飾る御簾(みす)「御翠簾(ごすいれん)」 
この御翠簾は京都市左京区の工房「みす平」 の8代目の前田平八さんと長男平宗さんと
次男平志郎さん が協力して製作されました。


2022年10月28日(金)若宮本殿遷座式
若宮本殿遷座式は28日の夜に行われ秋篠宮ご夫妻の次女の佳子さまが参列されました。
式の中身は修復を終えた本殿にご神体を戻す神事。

上の写真は神様が若宮本殿にお移りされた後の本殿遠景

2022年10月29日(土)遷座後の奉納雅楽
上の写真は式年造替を祝い奉納された宴の舞楽「太平楽」

上の写真は「狛桙」

上の写真は蘭陵王

春日権現験記絵
 
「春日権現験記絵」は鷹司家―皇室(明治8年・同11年献上)から国 ( 宮内庁三の丸尚蔵館)に移管され
令和3年(2021)9月30日、国宝に指定されています。
春日社の神々の霊験譚を集めた絵巻物で、全20巻93段が完存する。発願者である西園寺公衡(1264~1315)による延慶(えんきょう)2年(1309)の目録によれば、詞は鷹司基忠(1247~1313)ら4名が分担執筆し、絵は高階隆兼(生没年不詳)が描いた。全段にわたって中世の人々の信仰や生活が活写され、その入念かつ繊細な絵画表現と絵具の発色の美しさは他の追随を許さず、情報量の豊かさでも有数の絵巻物である。鎌倉時代のやまと絵絵巻の最高峰として極めて高く評価されています。

上の写真は春日権現験記絵の巻十三で描かれた若宮神社
鳥居の周辺の木の位置も現在と変わらず正確に描かれているのが判る。


上の写真は現在の若宮神社の遠景
本殿、拝舎、細殿及び神楽殿、手水舎から構成されています。

上の写真は春日権現験記絵で描かれた若宮神社の本殿 瑠璃燈籠
瑠璃燈籠は今回の式年造替で新調されました。

上の写真は新調前の瑠璃燈籠

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[歴史探偵] 飛鳥の古墳ツアー NHKで紹介された飛鳥の八角形の古墳

2022年08月30日 04時29分26秒 | 奈良情報

2022年8月24日10時からNHK総合テレビで標題の八角形の古墳について放送されていました。

八角形の古墳は一般的には天皇陵と言われています

NHKが下のYoutube動画を制作されましたのでリンクさせていただきました。

 [歴史探偵] UFO?CG?いえいえ奈良・飛鳥の古墳です!| NHK - YouTube

 

そこで、八角形の古墳について上記番組の放送内容をレビューすると共に

関連事項も補足して纏めてみました。

645年を境として四角形(蘇我氏の影響)から八角形の天皇陵墓が採用されていきました。

段ノ塚古墳   34代 舒明天皇(在位629年-641年)

牽牛子塚古墳  35代 皇極天皇(在位642年-645年)?

              &37代 斉明天皇?(在位655年-661年)

御廟野古墳(山科陵) 38代天智天皇(在位661年-668年)

野口王墓古墳  40代 天武天皇(在位673年-686年)

        41代 持統天皇(在位690年697年)

中尾山古墳   42代 文武天皇?(在位697年-707年)

 御廟野古墳は飛鳥ではなく京都府山科区にあります。

 

段ノ塚古墳(舒明陵)

段ノ塚古墳(だんのづかこふん)は、奈良県桜井市忍坂にある古墳。形状は八角墳。

古墳時代終末期の古墳である。

宮内庁により「押坂内陵(おさかのうちのみささぎ)」として第34代舒明天皇の陵に治定

牽牛子塚古墳

飛鳥時代の女帝・斉明天皇(594~661年)の墓ではないかとされる奈良の牽牛子塚古墳

2022年3月までに復元され、石に覆われたピラミッドのような姿がよみがえった。

側には、斉明天皇の孫の大田皇女の墓と言われる越塚御門古墳もあり、古墳の内部で

時代背景などを解説する映像が上映される。2022年3月6日より一般公開

陵前之墓と書かれているところが越塚御門古墳で斉明天皇の孫の大田皇女が葬られたと

日本書紀に記載されています。

上の写真は斉明天皇と間(はし)人皇女は天智6年(667)2月27日に合葬されたと日本書記に記述

上の写真は2010年に発掘調査された牽牛子塚古墳

関連ブログ

 奈良県立橿原考古学研究所 土曜講座 「牽牛子塚古墳外周部の調査」 on 2016-8-6 - CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ) (goo.ne.jp)

 

関連サイト

 牽牛子塚古墳の整備完了 斉明天皇陵か、6日公開: 日本経済新聞 (nikkei.com)

 牽牛子塚古墳・越塚御門古墳整備公開 | 明日香村観光ポータルサイト | 旅する明日香ネット (asukamura.com)

 牽牛子塚古墳・越塚御門古墳 復元公開|奈良県観光[公式サイト] あをによし なら旅ネット|明日香村|山の辺・飛鳥・橿原・宇陀エリア|歴史・文化|観光 (nara-kankou.or.jp)

御廟野古墳(山科陵)

 Wikipediaより御廟野古墳の解説を引用させていただきました。

御廟野古墳(ごびょうのこふん)は、京都府京都市山科区にある古墳。形状は八角墳。古墳時代終末期の古墳である。宮内庁により「山科陵(やましなのみささぎ)」として第38代天智天皇の陵に治定されている。

本古墳は、被葬者の実在性にも、天皇陵古墳に比定することにも問題がない、つまり、「天智天皇陵」と呼称してもほぼ間違いのない古墳である。このような古墳は非常に稀であり、他には天武・持統合葬陵の野口王墓があるだけである。なお明治天皇の伏見桃山陵以降、現在に至るまで天皇陵は上円下方墳の形式で築造されているが、その手本となったのが大正時代当時に上円下方墳と見做された本古墳である。

築造年代は7世紀末から8世紀。古墳の大きさは、上円下方墳と見做す場合、上円対辺長約46メートル、下方辺長約70メートル、高さ8メートルである。

上の2枚の写真は天智天皇山科陵を訪問した際のものです。 撮影:2017年4月13日

天智天皇は初めて漏刻を作り水時計を作りました。関連ブログにリンクしておきます。

 天智天皇陵前の日時計の碑 on 2017-4-13 - CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ) (goo.ne.jp)

野口王墓古墳

野口王墓(天武・持統天皇陵)についてWikipediaでの解説を引用させていただきます。
天武・持統天皇陵の別名:野口王墓、檜隈大内陵
野口王墓(のぐちのおうのはか)は、奈良県明日香村に所在する古墳時代終末期の
八角墳である。
天皇陵であり、天武・持統合葬陵に比定・治定(陵墓と決定されること)されている。
宮内庁発行の『陵墓要覧』による陵名は檜隈大内陵(ひのくまのおおうちのみささぎ)。
日本書紀には「大内陵」と記述される。

墳丘は現在東西約58メートル、南北径45メートル、高さ9メートルの円墳状である。
本来の墳形は八角形・五段築成、周囲に石段をめぐらすとされる。
2室からなる切石積みの石室があり、天武天皇の夾紵棺(きょうちょかん)と持統天皇の
金銅製骨蔵器が納められているとされている。本古墳は、天皇が埋葬された古墳として
考えてよく、被葬者の実在性も問題がない。治定が信頼できる数少ない古代の陵墓である。
同様の事例には、天智陵(御廟野古墳)を上げることが出来る。
しかし1235年(文暦2)に盗掘にあい大部分の副葬品が奪われた。その際天武天皇の
棺まで暴かれ、遺体を引っ張り出したため、石室内には天皇の遺骨と白髪が散乱していた
という。持統天皇の遺骨は火葬されたため銀の骨壺に収められていたが、骨壺も
奪い去られ、無残な事に中の遺骨は近くに遺棄されたという。

 

上の2枚の写真は天武・持統天皇陵の正面の写真と
            天武天皇、持統天皇 檜隈大内陵と書かれた石碑。
陵墓の築造年代は 687年(持統天皇元年)です。

上の写真は番組で紹介された野口王墓古墳(天武・持統天皇陵)

中尾山古墳

中尾山古墳についてWikipediaの解説を引用紹介します。

中尾山古墳(なかおやまこふん)は、奈良県高市郡明日香村平田にある古墳。形状は八角墳。国の史跡に指定されている。

第42代文武天皇の真陵とする説が有力視される。

奈良盆地南東縁、文武天皇陵(栗原塚穴古墳)から北に延びる丘陵頂部に築造された古墳である。丘陵上には文武天皇陵のほか高松塚古墳が所在する。鎌倉時代に盗掘に遭っているほか、1974年(昭和49年)・2020年度(令和2年度)に発掘調査が実施されている。

墳形は八角形で、対辺長約19.5メートル・高さ4メートル以上を測る[1]。墳丘は3段築成で、版築によって構築される[1]。墳丘の1段目・2段目は基壇状の石積みとし、3段目は盛土のみとする。墳丘周囲には三重の外周石敷が巡らされる[1]。主体部の埋葬施設は横口式石槨で、底石・奥壁・閉塞石・天井石各1石、側壁各2石、隅石(柱石)4石(1石は欠失)の計10石(現存9石)から構成される。石槨内面には平滑な磨きがかけられて水銀朱が塗布されるほか、石槨中央部に火葬骨の蔵骨器が納められたと見られる。副葬品は詳らかでない。

この中尾山古墳は、古墳時代終末期の8世紀初頭頃の築造と推定される。天皇陵級の古墳に見られる八角墳である点、豪壮な横口式石槨を有する最高級の火葬墓(火葬墳)である点で特異な古墳になる。被葬者は明らかでないが、近年では第42代文武天皇(707年崩御)の真陵とする説が有力視される(現墓は南の栗原塚穴古墳に治定)。

古墳域は1927年(昭和2年)に国の史跡に指定されている[2]。

以下の記述は下記ブログより再掲載

 2021年4月28日放送、歴史探偵「飛鳥の八角形古墳」を視聴して - CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ) (goo.ne.jp)

 「中尾山古墳」が文武天皇陵と確実に宮内庁はいつまで“ねじれ構造”を放置するのか - CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ) (goo.ne.jp)

上の写真は中尾山古墳(文武天皇陵)現地の遠景です。 撮影:2011-5-16

高松塚古墳の近くにあります

文武天皇陵は別名粟原塚穴(あわらつかあな)、ジョウセン塚古墳とも
言われる。
享保19年(1734)の『大和志』では、「平田村の西に在り。
俗に中尾の石墓と呼ぶ」(現在の中尾山なかおやま古墳)としている。
明治14年(1881)に現在地に指定替えとなった。

以下現地の説明板より引用させていただきます。
陵名を檜隈安古岡上陵(ひのくまのあこのおかのうえのみささぎ)と称する。
文武天皇は、追尊岡宮天皇(草壁皇子)の皇子で慶雲4年(707)6月に
崩御され、11月に飛鳥岡で火葬の上、この陵に葬られたことが「続日本紀」に
見られる。

以上は下記ブログより再掲載

 奈良散策記 その7 第42代文武(もんむ)天皇陵 : 散策とグルメの記録 (exblog.jp)

 

八角形の証拠135度

 

今迄述べてきた八角形の天皇陵以外に八角形の古墳としては

奈良県高市郡高取町の束明神古墳(草壁皇子の真弓山稜か)、方形墳の上に八角形の墳丘を

造っている可能性のある明日香村の岩屋山古墳などが八角形墳の可能性を指摘されている。

岩屋山古墳については下記ブログで書いています。

 岩屋山古墳 on 2016-10-7 - CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ) (goo.ne.jp)

 

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奈良県橿原市の藤原宮跡で大極殿後殿とみられる基壇が見つかる

2022年08月13日 05時19分17秒 | 奈良情報

奈良県橿原市の藤原宮(694~710年)跡の中枢部に当たる

大極殿北側で大極殿後殿とみられる基壇(建物の土台)跡が見つかり、
国立奈良文化財研究所(以下 奈文研)が2022年8月4日に発表した。
 
上述のニュースを神戸新聞で知った。
 
今回の発掘は2022年5月より奈文研が大極殿があったとされる場所の
すぐ後方(北側)の565㎡を発掘調査して東西約14m、南北約15mの
基壇を検出した。天皇の控室「後殿」は後の平城宮、平安宮にも設置
されています。後殿は小安殿という名称で呼ばれることもあります。
 

奈文研の2019年度の調査では、大極殿院の東面回廊に取りつく新たな

回廊の跡(大極殿後方東回廊)が確認された。同西回廊もあったと考えられている。

2019年に発見された基壇から、現場を見た木下正史・東京学芸大名誉教授

(考古学)は、この二つの回廊の真ん中に建物があった可能性を指摘する。

天皇が出御する前に衣装を整えたり、休憩をしたりするなどの場面で使う

控室のような施設ではないかと話す。

以上の文章は下記ブログより再掲載。

このブログで報道機関のニュース報道のリンク集を作成しています。

 奈良県橿原市の藤原宮跡で大極殿後殿とみられる基壇が見つかる : 散策とグルメの記録 (exblog.jp)

本ブログでは今後、再レビューする際の基礎資料として藤原宮の大極殿院の過去の

発掘成果を整理してみました。

2021年10月6日、朝のNHK総合テレビで藤原宮跡で建物の跡発見 天皇が使った

「控え室」かという見出しでニュース報道があった。

奈良県橿原市の藤原京(694~710年)の中枢部・藤原宮跡で、天皇が重要儀式を行う

大極殿の北側に、建物を建てるための基壇(土台)が見つかった。奈良文化財研究所

が2021年9月30日発表した。尚、現地見学会は10月2日に実施されたそうです。

上の写真は大極殿院の発掘成果。今回の調査区(565㎡)を緑で囲みました

原出典:奈文研 飛鳥・藤原宮発掘調査概報8(昭和53年4月)Page19

ここで基礎資料として藤原京の広域図と藤原宮の中の建物配置について書籍より添付

上の写真は藤原京の広域図

出典:平田稔、金子裕之 著「飛鳥・藤原京の謎を掘る」Page272

上の写真は藤原京広域図

出典:奈良文化財研究所概要2019 Page73

 

 

上の写真は藤原宮内の建物配置

出典:平田稔、金子裕之 著「飛鳥・藤原京の謎を掘る」Page172

藤原宮には大極殿(政治・儀式の中心建物)、内裏(皇居)、朝堂(役所)などがあり

約1Km四方の面積があった。

大極殿院の敷地は東西約120m、南北約165m。この中央に大極殿があったとされる

飛鳥浄御原宮から藤原宮に持統天皇が移り住んだのは持統8年(694)、平城遷都(710年)

まで文武天皇と元明天皇と三代の天皇が住み続けた。

これから使用する写真は2021年10月6日、朝のNHK総合テレビの放送によります。

上の3枚の写真は大極殿(木が生い茂っている部分の上(南))の北側(手前)の黄色の部分が

建物の基壇の全体。調査区の西南部では基壇の盛り土(東西8m、南北4m)が確認された。

基壇は藤原宮期とみられる。専門家は大極殿の「後殿」などと呼ばれる建物があった可能性も

指摘しており、宮都の発展過程を考える上で注目される。

奈良文化財研究所(奈文研)は今回(2021年)、大極殿の北方約1900㎡を調べた。

現時点では、礎石を据えつけた穴などは見つかっていないことから建物を配置する

計画はあったが、「最終的に着手に至らなかったことも考えられる」。

奈文研の2019年度の調査では、大極殿院の東面回廊に取りつく新たな回廊の跡

(大極殿後方東回廊)が確認された。同西回廊もあったと考えられている。

上の写真は奈良市役所の1階に展示の平城京の復元模型図で、今回発掘された建物と

同じような建物が大極殿の北側に大極殿後殿と言われる建物があった。

大極殿後殿は二つの回廊の真ん中の建物で「天皇が出御する前に衣装を整えたり、休憩を

したりするなどの場面で使う控室のような施設ではないか」と専門家が指摘しています。

平安宮(京都)にも、大極殿の背後に小安殿という施設があったという。

また、藤原京より前に建設された難波宮との類似性も注目されています。

 

上の写真は大極殿院の発掘現場の遠景(木の茂っている大極殿跡の北側)

これからの写真は長岡京の発掘調査現地説明会(2015-10-25)関連資料です。

 




上の写真は向日市文化資料館の資料に現地説明会のトレンチ場所を重ねた
ものです。

それでは14時から行われた長岡宮大極殿院回廊北西隅の現地説明会について
話題を替えます。

推定で200名ほどのファンが説明に耳を傾けた。

回廊は推定で東西約105m、南北121mである。回廊は3本の柱で支える構造の
複廊と呼ばれるもので奈良時代に建立された薬師寺の回廊と同じ構造との説明
がありました。今回の調査の成果は下記の3点であるとの説明がありました。
(1)大極殿北面回廊の礎石据え付け穴及び東北の凝灰岩の抜き取り  
   痕跡を検出(凝灰岩は平安京で使用)
(2)大極殿院内部の石敷及び長岡京期整地土を検出
(3)回廊下層から埋没古墳を検出

 

2015年10月25日14時から、京都府向日市鶏冠井町大極殿55-2他で進められている
長岡宮跡第508次調査の発掘現場で現地説明会

 

上の写真は2017年12月28日撮影の平城宮大極殿(復元建物) 屋根の上の鴟尾に注目

関連ブログ:

 「平城京」復元模型 in 奈良市役所 on 2017-12-28 - CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ) (goo.ne.jp)

 奈良県橿原市の藤原宮跡で大極殿後殿とみられる基壇が見つかる : 散策とグルメの記録 (exblog.jp)

 

最後に奈文研が調査した平城宮第132次発掘調査現地説明会(昭和56年(1981)8月22日)

に掲載されている大極殿後殿関連の資料を添付して筆を置きます。

難波宮(聖武期)

平城宮

平安宮

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