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CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ)

神戸・岩国の最新情報を中心に紹介していきます。歴史や時事について調べた結果を紹介。

牽牛子塚古墳・越塚御門古墳への訪問記 on 2025-3-28

2025年04月08日 16時23分37秒 | 奈良情報
2025年3月28日、雨の中レンタサイクルを借りて牽牛子塚古墳・越塚御門古墳などを
訪問しましたので写真紹介します。
上の写真は北西から観た牽牛子塚古墳・越塚御門古墳
牽牛子塚古墳・越塚御門古墳は建造された当時に復元され2022年3月6日から公開されています。
内部の見学を含めて見学の詳細は下記公式サイトで確認できます。
上の写真は石室の見学に関する現地の掲示



上の写真は南東から観た牽牛子塚古墳・越塚御門古墳の遠景

牽牛子塚古墳・越塚御門古墳の所在地は奈良県高市郡 明日香村越189他
Googleマップを添付しておきます。

牽牛子塚古墳 
牽牛子塚古墳は、7世紀後半ごろ築造され、八角形を3段重ねた形の古墳。
宮内庁は、同県高取町の古墳を斉明陵として指定しているが、研究者は日本書紀などの
記述や天皇陵に多い八角墳の特徴から牽牛子塚古墳を斉明陵とみる
別名、アサガオ塚とも呼ばれます。
被葬者は斉明天皇と娘の間人皇女を667年2月に合葬
上記は日本書紀の記述からほぼ確実とみられています。

但し、宮内庁の陸墓指定では斉明天皇陵は車木ケンノウ古墳(高取町)
=小市岡上陵(おちのおかのうへのみさき)と比定 
 


上の2枚の写真は日本書記の記述部分
出典:2023年5月10日放送 NHK総合テレビ 歴史探偵 名作選 飛鳥の古墳ツアー

関連の記述として
日本書紀の天智天皇の六年の春二月に雨豊財重日足姫天皇(斉明天皇)と
間人皇女とを小市岡上陵に合葬したが、この日、皇孫、太田皇女を陵前の
墓に葬ったとの記述がある。





上の3枚の写真は牽牛子塚古墳及び八角墳の現地説明板

上の2枚の写真は発掘時の写真



上の2枚の写真は牽牛子塚古墳の石室に関する現地説明板

上の写真は斉明天皇のイメージ絵
出典:明日香村埋蔵文化財展示室の展示 2025-3-28撮影

牽牛子塚古墳の副葬品
上の写真は現地説明板

上の写真は明日香村埋蔵文化財展示室の牽牛子塚古墳の副葬品展示
出典:2025年4月2日(水)10ch読売テレビ 若一調査隊


上の2枚の写真は私が撮った明日香村埋蔵文化財展示室の展示
撮影:20205-3-28

越塚御門古墳 
上の写真は越塚御門古墳の現地説明板
被葬者は日本書紀の記述から斉明天皇の孫の大田皇女とされています。 






上の写真の黄色矢印が越塚御門古墳です。
出典:2023年5月10日放送 NHK総合テレビ 歴史探偵 名作選 飛鳥の古墳ツアー

越塚御門古墳の発見の経緯についてWikipediaでは次のように纏められています
2010年10月中旬、牽牛子塚古墳周辺の発掘現場を埋め戻す最中、明日香村教育委員会の
技師である西光慎治は、古墳の南東約20mに埋まっていた1mほどの石に人為的に割れた
痕跡があったため、気になってその周辺を発掘したことが発見に繋がった


上の写真はNHK番組歴史探偵で解説された西光慎治さん
出典:2023年5月10日放送 NHK総合テレビ 歴史探偵 名作選 飛鳥の古墳ツアー

牽牛子塚古墳 と越塚御門古墳の配置 

上の写真は現地説明板による配置図

上の写真はNHK「歴史探偵」で紹介の牽牛子塚古墳・越塚御門古墳(陵前之墓)
出典:2023年5月10日放送 NHK総合テレビ 歴史探偵 名作選 飛鳥の古墳ツアー


八角形の古墳 

上の写真は八角形の古墳(5つの八角形天皇天皇陵)に関する現地説明板
645年を境として四角形(蘇我氏の影響)から八角形の天皇陵墓が採用されていきました。
下記は5つの八角形天皇陵 
段ノ塚古墳   34代 舒明天皇(在位629年-641年)
牽牛子塚古墳  35代 皇極天皇(在位642年-645年)?
              &37代 斉明天皇?(在位655年-661年)
御廟野古墳(山科陵) 38代天智天皇(在位661年-668年)
野口王墓古墳  40代 天武天皇(在位673年-686年)
        41代 持統天皇(在位690年697年)
中尾山古墳   42代 文武天皇?(在位697年-707年)
 御廟野古墳は飛鳥ではなく京都府山科区にあります。
上の写真はNHK総合テレビ「歴史探偵」で説明された5つの八角形天皇陵
出典:2023年5月10日放送 NHK総合テレビ 歴史探偵 名作選 飛鳥の古墳ツアー
上の写真も同じく八角形の天皇陵の仕様及び所在地に関する現地説明板

飛鳥に関する下記動画にGooで共有 
鈴木亮平、ご飯を食べる時のしあわせそうな表情にほっこり【いざいざ奈良 新CM「飛鳥編」】

関連ブログ 




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中谷本舗 橿原神宮売店で購入した柿の葉寿司 on 2025-3-28

2025年04月05日 05時10分05秒 | 奈良情報
2025年3月28日、雨の中でしたが奈良県橿原市と明日香村を散策してきました。神戸より日帰りでの小旅行です。
帰りに近鉄橿原神宮駅の構内にある中谷本舗 橿原神宮売店で 柿の葉寿司を
購入しましたので写真紹介します。その日の夕食としていただきました。

中谷本舗 橿原神宮売店の基本情報
住所:奈良県橿原市久米町618 近鉄橿原神宮駅構内 TEL:0744-24-6227
創業:大正10年(1921)、奈良・上北山村で米屋として創業
 

上の写真はお店のショーウィンドーの柿の葉寿司
当日は柿の葉すし2種6個入り907円(税込)を購入しました。
上の写真は2種の内容で「鮭」と「鯖」です。
上の写真は当日の夕食
購入した柿の葉寿司とミネストローネのスープです。
ニンジン、玉ねぎがタップリと入っています。
昨年5月9日、妻をすい臓がんで亡くし一人寂しく夕食を食べる毎日です。


上の写真は柿の葉寿司の由来の解説
上の写真はいざさ寿司の由来の解説

上の写真は召し上がり方と保存についての説明書

当日(3月28日)の昼食は下記ブログで書いています。


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奈良県 近鉄飛鳥駅前 食彩酒音 パレットでのランチ on 2025-3-28

2025年04月05日 04時51分31秒 | 奈良情報
2025年3月28日、近鉄飛鳥駅前にある食彩酒音 パレットでランチをいただきましたので
写真紹介します。初訪問のお店です。
当日は雨の中、レンタサイクルで橿原市、明日香村を散策してきました。

食彩酒音 パレットの基本情報  
住所:奈良県高市郡明日香村越11-6  TEL:080-9747-0369 
営業時間:昼11:30~15:00 夜18:00~21:00
定休日:なし 不定休でInstagramで通知
オープン日:2022年11月18日 

所在地のGoogleマップを添付しておきます。

飛鳥駅前100m圏内で駅から徒歩1分以内に立地しています。

上の写真は当日注文したお好み焼き定食 1,420円(税込)
古代米のご飯、味噌汁、ポテトサラダ、漬物、果物(イチゴ)がついています



上の写真はランチのメニュー表です。


上の写真はお店から近鉄飛鳥駅を撮ったものです。
明日香らしく斉明天皇期の石造物を模したモニュメントが展示されています。


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飛鳥宮跡で大型建物の跡発見 天皇や近い人物使用か(2025年3月19日)

2025年03月21日 05時10分19秒 | 奈良情報
飛鳥宮跡で大型建物の跡発見 天皇や近い人物使用か(2025年3月19日)

奈良県の橿原考古学研究所は、明日香村にある「飛鳥宮跡」で、7世紀後半ごろに
建てたとみられる大型の建物の柱の跡を新たに発見したと3月17日に発表しました。
大型の建物が3棟並んで計画的に配置されていたことが判明し、天皇や天皇に
近しい人の居住空間だった可能性があるということです。
世界文化遺産の候補地として推薦が決まっている「飛鳥宮跡」は、聖徳太子が
亡くなった後に中大兄皇子らによる「大化の改新」が行われた時代、7世紀前半の
第34代舒明天皇から7世紀後半の第41代持統天皇までの間、天皇の宮が
置かれたことが知られ、1959年に発掘調査が始まり、橿原考古学研究所が主体と
なって調査を進めてきました。
柱の跡は1辺が約1.7mの四角い柱の穴が35基、碁盤の目のように規則正しく並んでいる。
 東西におよそ35m、南北におよそ15mに渡って続いていて、これまで飛鳥宮で見つかった
建物跡の中では最大だということです。

上の写真は宮殿のイメージ図(明日香村発行 飛鳥京絵図より)

7世紀前後の歴史
538年 仏教伝来(一説では552年)
540年 大伴金村、任那問題で失脚
552年 蘇我稲目と物部尾輿が崇仏論争
562年 新羅が任那を滅ぼす
577年 百済より経論、律師、禅師、仏工、寺工渡来
585年 物部守屋等 仏寺、仏像などを焼き捨てる
587年 崇仏派の蘇我馬子が物部氏を滅ぼす
588年 蘇我馬子が飛鳥寺の造営を開始
592年 蘇我馬子が崇峻天皇を謀殺
      推古天皇即位
593年 聖徳太子が摂政となる、四天王寺建立開始
594年 仏教興隆の詔
600年 第1回の遣隋使を派遣
622年 聖徳太子死去
629年 舒明天皇が即位
642年 皇極天皇(のちの斉明天皇)が即位
645年 孝徳天皇が即位
645年 乙巳の変
646年 大化の改新の詔
652年 班田収授の法
653年 中大兄皇子(のちの天智天皇)飛鳥に移る
655年 斉明天皇が即位
658年 有間皇子が死刑にされる
660年 中大兄皇子が漏刻(水時計)をつくる・・・水落遺跡
663年 白村江の戦いで倭の遠征軍大敗
668年 中大兄皇子が即位し天智天皇、大津宮に都を移す
670年 天智天皇が日本で初めての戸籍をつくる
672年 弘文天皇が即位
673年 壬申の乱がおこり、天武天皇(大海人皇子)が即位
684年 天武天皇が「八色の姓」を定める
686年 持統天皇が即位
689年 持統天皇「飛鳥浄御原令」を完成させる
694年 持統天皇、都を藤原京に移す
697年 文武天皇が即位
698年 薬師寺ができる
701年 大宝律令 国名が「日本」となる

上の写真は遺跡発掘地区の周辺の広域地図






上の6枚の写真は3月18日夕方のNHK総合テレビで放送されたもの


上の写真は前園実知雄氏の著書「律令国家前夜」(2022)の表紙で使用された
飛鳥宮の宮殿の周辺イメージ図。
一番下はエビノコ郭の建物のイメージ図。その上が飛鳥宮の宮殿のイメージ図。

斉明天皇期の宮殿は後飛鳥岡本宮
天武天皇及び持統天皇期の宮殿は飛鳥浄御原宮

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日本書紀に記載の三輪山伝説・箸墓伝説と箸墓古墳

2024年07月24日 04時45分12秒 | 奈良情報
三輪山の神(大物主神)と倭迹迹日百襲姫(やまとととびももそひめ)との
ロマンスは日本書記に書かれており箸墓伝説又は三輪山伝説と呼ばれています。
本ブログではその内容 を紹介します。また箸墓古墳について概要を書いておきます。

倭迹迹日百襲姫(やまとととびももそひめ)は大物主神(おおものぬしかみ)の妻となった。
神は、昼現れず、夜だけやってきた。
姫は「一度、美しいお姿をお見せ下さい」と頼んだ。
神は「分かりました。あすの朝、あなたの櫛笥(くしげ)に入っていましょう。
決して驚かないように」と答えた。
翌朝、姫が櫛笥を開けると、美しい小さな紐のような蛇がいた。
姫は驚いて叫んだ。蛇は人の形となり「あなたは我慢できずに声を上げ、私に
恥をかかせてしまった。報復としてあなたに恥辱を加えるだろう」と
御諸山(みむろやま)=三輪山に帰っていった。
姫は後悔した。急に座ったところ箸が陰部に突き刺さり命を落としてしまった。
姫は大市(おおいち)に葬られた。その名を名付けて箸墓といった。
箸墓は昼、人が作り、夜は神がつくった。大坂山の石を運んだ。
人々は一列に並び、手から手に渡して運んだ。
以上が伝承の内容です。
箸墓古墳は上記伝承から倭迹迹日百襲姫の「大市墓」として宮内庁が管理しています。

倭迹迹日百襲姫は巫女的な女性で当時の巫女的女性の権威の大きさを物語っている。
日本書紀には倭迹迹日百襲姫は第7代孝霊天皇の皇女であると記載。
古事記では夜麻登登母母曾毘売(やまととももそびめ)命と名のみみえる。

箸墓古墳の基本情報
所在地:奈良県桜井市大字箸中
長さ:全長約280m 後円部径155m 全方部長125m 全方部前面の幅147m
高さ:30m(後円部)、16m(全方部)
段築:後円部は5段、全方部は4段の段築
造営年代:240年~260年(一説)、3世紀後半(一説)
被葬者(主な説):卑弥呼、台与(壱与)、ヤマト王権の初期大王(崇神天皇など)

 上の写真は箸墓古墳のレーザー照射(航空レーザー測量)による段築状態を示したものです。
後円部 5段 、前方部 4段築造
奈良県立橿原考古学研究所 西藤清秀さんが指揮 協力:アジア航測株式会社




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日本最大の円墳 富雄丸山古墳で木製の棺の発掘調査が始まる 結果は来年3月に発表予定 奈良

2023年12月25日 07時10分31秒 | 奈良情報
読売テレビが作成したYoutube動画にGooで共有させていただきました。

日本最大の円墳 富雄丸山古墳で木製の棺の発掘調査が始まる 結果は来年3月に発表予定 奈良
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実は『古墳』!駐車場の植え込み…教授「半信半疑だったので驚き」 貴重な土器も出土(2023年9月8日)

2023年09月10日 17時10分36秒 | 奈良情報
実は『古墳』!駐車場の植え込み…教授「半信半疑だったので驚き」 貴重な土器も出土(2023年9月8日)

世界遺産・法隆寺の駐車場の植え込みは“古墳” 6世紀後半に作られた「舟塚古墳」発掘調査で判明  

関連サイト:


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元興寺塔跡  現地訪問(2018年4月8日)を中心として

2023年08月23日 05時17分27秒 | 奈良情報
2023年8月21日14:00からEO光チャンネル「村瀬先生のぶらり歴史歩き40 奈良・ならまち編」で
標題の元興寺塔跡について紹介がありました。
私は2018年4月8日に現地を訪問しているがブログを作成していないので今回
写真紹介することとしました。

まずは元興寺の概要説明から入ります。
元興寺は1998年ユネスコの世界文化遺産に登録されています。
蘇我馬子が飛鳥に建立した、日本最古の本格的仏教寺院である法興寺がその前身である。
法興寺は平城京遷都に伴って飛鳥から新都へ移転し、元興寺となった。
(ただし、飛鳥の法興寺も元の場所に残り、今日の飛鳥寺となっている)。
南都七大寺の一つです。

南都七大寺は下記のとおりで天平勝宝元年(749)に定められた墾田の地限の数値
は東大寺の次に多く勢力のあった寺であることが判ります。
興福寺(奈良市)  1,000町歩
東大寺(奈良市)  4,000町歩
西大寺(奈良市)  
薬師寺(奈良市)  1,000町歩
元興寺(奈良市)  2,000町歩
大安寺(奈良市)   1,000町歩
法隆寺(生駒郡斑鳩町) 500町歩

元興寺の基本情報
住所:奈良市中院町11  TEL:0742-23-1377、0742-23-1376
宗派:真言律宗 曽我馬子により588年に法興寺(飛鳥寺)として建立開始
718年に平城京に元興寺と名を改め移築された。
本尊:智光曼荼羅

公式HP:元興寺公式サイト・元興寺文化財研究所公式サイト (gangoji.or.jp)
奈良時代の僧坊と講堂の一部を伝える元興寺極楽坊境内として世界遺産になっています。
1977年までは「元興寺極楽坊」と称していた 。

元興寺の所在地のGoo地図を添付

かっての元興寺境内図と五重塔

上の写真は文頭のEO光の番組で紹介された元興寺の境内図
当時は大伽藍を誇っていたことが納得できる図です。

上の写真は元興寺境内絵図の五重塔付近
出典:元興寺文化財研究所編、華厳宗元興寺所蔵石造物調査報告書(2021.2.28)
上の写真は「大和名所図会」の五重塔と観音堂付近
出典:元興寺文化財研究所編、華厳宗元興寺所蔵石造物調査報告書(2021.2.28)

上の写真は元興寺塔跡の現地に掲示の説明板に記載の配置図 撮影:2018-4-8

上の写真は奈良市史料保存館で展示の元興寺伽藍配置図 撮影:2019-2-3

史跡「元興寺塔跡」
所在地:奈良市芝新屋町12 
所在地のGoo地図を添付しておきます。

元興寺塔跡は昭和7年(1932)4月25日に史跡に指定されています。
文化庁のデータベースでは下記説明文が記載されています。
元興寺ハ靈龜二年飛鳥京ヨリ移建セラレ南都七大寺ノ一ナリシガ中世以降堂舍廢頽シ大塔ノミヲ残セシヲ安政六年燒失シテ今其塔阯ヲ存セリ 土壇ハ周囲石壁ヲ繞ラシ上ニ十七個ノ礎石アリ 礎石ハ表面ニ直徑約三尺ノ円形柱受並ニ直徑約九寸ノ大柄ヲ彫リ出シタル形式ニシテ心礎亦其形式相等シク形状稍大ナリ礎石ノ配列ニヨリテ三間三面方約三十二尺ノ塔阯タルコトヲ知ル昭和二年九月心礎周囲ノ地下約一尺二三寸ノ深サニ於テ勾玉 瑠璃玉 捻玉 丸玉、小玉等ノ玉類 和同開珍 萬年通寶 神功開寶等奈良朝時代ノ遺物ヲ發見セリ 

上の写真は現地説明板 撮影:2018-4-8
昭和2年(1927)に発掘調査が実施され塔跡から出土した元興寺塔跡土壇出土品
(金延べ板、金塊、勾玉、瑠璃玉、水晶玉、小銭)と、薬師如来立像(国宝)は、
奈良国立博物館に寄託されています






上の4枚の写真は現地に残る元興寺塔跡の礎石群及び元興寺と刻字された石碑
 撮影:2018-4-8
上の写真は五重塔の礎石の全体図
出典:元興寺文化財研究所編、華厳宗元興寺所蔵石造物調査報告書(2021.2.28)

上の写真はならまち「元興寺 塔跡」の境内に咲くチューリップ
(撮影:2018-4-8)
四季折々の花が楽しめるようです。


元興寺塔跡の入口

上の写真は元興寺塔址への入口と史蹟元興寺塔址と書かれた石碑
撮影:2018-4-8
上の写真は平成30年(2018)が元興寺の創建=平城京移建(養老2年(718))から
1,300年ですよと掲示されていた看板。
上の写真は元興寺創建1,300年に関する説明書き

元興寺観音堂

上の写真は元興寺観音堂(華厳宗)本尊は十一面観音  撮影:2018-4-8
飛鳥に創建された最初の本格的寺院である法興寺が養老2年(718)平城京に移され、
寺名を法興寺から元興寺と改められた。創建時の元興寺は現在「ならまち」と呼ばれる
界隈の大半を含む東西三町、南北五町の寺地に大伽藍が並ぶ平城京で有数の大寺院でした。
元興寺の創建後、飛鳥の法興寺は「本元興寺」と称されたが平安時代に焼失し、
跡地に飛鳥寺が建立された。
元興寺は平安遷都以降、律令制の崩壊に伴い寺勢は衰退してゆき、特に鎌倉時代から
相次ぐ戦乱、一揆、大火、地震で金堂、講堂、南大門など主要な堂宇のほとんどは損壊し、
荒れた伽藍地には民家が建てられた、奈良時代に建立の五重塔も安政6年(1859)
観音堂とともに焼失してしまいました。
そして、元興寺極楽坊, 元興寺観音堂, 元興寺小塔院の三寺院に分かれた。
元興寺観音堂は東大寺の末寺・華厳宗の寺院となった。

啼燈籠



上の写真は啼燈籠と現地説明板 撮影:2018-4-8
円柱部分に正嘉元年(1257)の刻銘があります
 年号が刻まれた燈籠としては奈良市内で二番目に古いそうです
「啼燈籠」という名称は、延享年間(1744~1748)に京都の下村某が元興寺から
京都に持ち帰ったが、毎夜南都(奈良)を向いて「帰りたい」と啼くことから気味が
悪くなって元興寺に返したという伝承に由来するそうです。

「元興寺と奈良町」現地説明板


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奈良市 山上八幡神社への訪問記 on 2017-12-28

2023年07月27日 03時55分54秒 | 奈良情報
2017年12月28日、佐紀古墳群の中にある山上八幡神社を訪問していますので写真紹介します。
下記の記事を書くために称徳天皇(孝謙天皇)の墓所を調べていた時に山上八幡神社の
写真が見つかったので忘れないうちにブログを作成しよう思った次第です。
山上八幡神社は称徳天皇(孝謙天皇)の陵に隣接した場所にあります。

山上八幡神社の基本情報
住所:奈良市山稜町御陵前326番地
御祭神:天照皇大神、天照大御神
    八幡大明神、誉田別命(応神天皇) 
    春日大明神、天児屋根命(アメノコヤネ) 
創建:不詳だが天正4年(1576年)より以前 

所在地のGoo地図を添付しておきます。
 

上の写真は山上八幡神社の正面入口からの遠景 撮影:2017-12-28

拝殿


本殿

奉納絵馬












絵馬について下記ブログで解説されていますのでリンクさせていただきました。

由緒書き
上の写真は由緒書きです。判読しにくいのでそのまま転記しておきます。  「正確な創建年は不明ですが、佐紀町の川辺家所蔵の古文書写しによると、天正4年(1576年)に大職冠鎌足公の末裔にあたる超昇寺兵部小輔氏が息子弘盛と共に一家の安栄を祈るために奉納された祈願文が伝わっており、当社が超昇寺氏の厚い信仰を受けていたことがわかります。
社殿に向かって左後方の杉は天正19年(1591年)に豊臣秀吉公が三韓征伐(朝鮮出兵)の際、その成功を祈り手植えした由緒ある神木があります。

周辺地図
上の写真は現地案内版の地図


上の2枚の写真はGoogle地図です八幡神社と表記 佐紀高塚古墳(称徳・孝謙天皇陵)の東にあります。

第11代垂仁天皇皇后の日葉酢媛命の陵に治定とされている佐紀陵山古墳の南側でもあります。
元禄修陵の文書 『元禄十丁丑年山陵記録』 には、 奈良奉行所からの廻状に対して添下郡西畑村・超昇寺村などの村役人が、 佐紀陵山古墳を字 「御陵山」 と記して 「神功皇后御陵」 と答えている。
江戸時代にはこの古墳を神功皇后陵としていました。

4世紀中盤から後半にかけては第13代成務天皇陵とされる佐紀石塚山古墳や第14代仲哀天皇の
皇后の神功皇后陵とされる五社神古墳などがある佐紀古墳群へと中心部が移り、5世紀には
大阪平野の百舌鳥古墳群や古市古墳群へと移動していったと考えられています。

上の写真は巨大古墳の分布変遷図 地図は当時の地形を反映しています。
 出典:歴史人 別冊 合本古代史の謎 KKベストセラーズ(2014)Page96
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唐招提寺の釈迦念仏会について

2023年07月23日 04時53分27秒 | 奈良情報
唐招提寺では、毎年10月21日から3日間、釈迦念仏会が行われています。

2023年7月18日(火)NHK BSプレミアム 6:30~7:15「国宝へようこそ 第11集 唐招提寺」で
上記釈迦念仏会が紹介されていましたの番組からの写真を利用して纏めてみました。

本論に入る前に唐招提寺の基本情報と所在地のGoo地図を示しておきます。
唐招提寺の基本情報
住所:奈良市五条町13−46 TEL:0742-33-7900
宗派:律宗 御本尊:廬舎那仏 開基:鑑真 759年創建
公式サイト
唐招提寺とは | 唐招提寺 (toshodaiji.jp) 

所在地のGoo地図を添付しておきます。

上述の「釈迦念仏会」の日だけ公開される国宝「金亀舎利塔」には鑑真が唐から携えた
3000粒の釈迦の遺骨(仏舎利)が納められている。
金亀舎利塔の前で3日3晩にわたり法華経の功徳を説き、「南無釈迦牟尼仏」と釈迦の名号が
唱え続けられる。唐招提寺にとってもっとも重要な法会である。

この釈迦念仏会は、建仁2年(1202)8月に、戒律復興運動の基幹として解脱上人貞慶が
創始したもので、上人晩年の大切な事績の一つである。
鑑真没後の唐招提寺は衰退が続き、特に平安遷都以降はひどい衰退ぶりであった。
この状態を憂いた解脱上人貞慶が奈良仏教の復興、原点回帰で奈良仏教界に呼びかけた。
創始から800年以上経つ現在まで継続しています。

貞慶による釈迦念仏会の創始に関する詳細は下記サイトが詳しい

上の写真は唐招提寺釈迦念仏会で公開される金亀舎利塔


  上の写真は堂内の御本尊「金亀舎利塔」を前にした釈迦念仏会の法要



上の3枚の写真は夜間、堂内、仏舎利塔の前で行われる釈迦念仏会の様子
法華経の功徳を説き、「南無釈迦牟尼仏」と釈迦の名号が唱え続けられる。

鑑真和上と唐招提寺について過去にブログを作成していますのでリンクしておきます。

最後に鑑真和上、日本での活動について記載して筆を置きます。

天平勝宝5年12月26日(754年1月23日)大宰府に到着、鑑真は大宰府観世音寺に
   隣接する戒壇院で初の授戒を行う。

天平勝宝6年2月4日に平城京に到着して聖武上皇以下の歓待を受け、
  孝謙天皇の勅により戒壇の設立と授戒について全面的に一任され、東大寺に住する
  こととなった。
  4月、鑑真は東大寺大仏殿に戒壇を築き、上皇から僧尼まで400名に菩薩戒を授けた
  これが日本の登壇授戒の嚆矢である。併せて、常設の東大寺戒壇院が建立された。
 
天平宝字2年(758年)淳仁天皇の勅により大和上に任じられ、政治にとらわれる
  労苦から解放するため僧綱の任が解かれ、自由に戒律を伝えられる配慮がなされた。
  鑑真大和上70歳

天平宝字3年(759年)新田部親王の旧邸宅跡が与えられ唐招提寺を創建し、
 戒壇を設置した。鑑真は戒律の他、彫刻や薬草の造詣も深く、
                     日本にこれらの知識も伝えた。
 また、悲田院を作り貧民救済にも積極的に取り組んだ。鑑真大和上71歳

天平宝字5年(761年)には日本の東西で登壇授戒が可能となるよう、
  大宰府観世音寺および下野国薬師寺に戒壇が設置され、戒律制度が急速に
  整備されていった。 鑑真大和上73歳

天平宝字7年(763年)5月6日唐招提寺で死去(遷化)した。享年76歳


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