法興寺は平城京遷都に伴って飛鳥から新都へ移転し、元興寺となった。
南都七大寺の一つです。
南都七大寺は下記のとおりで天平勝宝元年(749)に定められた墾田の地限の数値
は東大寺の次に多く勢力のあった寺であることが判ります。
興福寺(奈良市) 1,000町歩
東大寺(奈良市) 4,000町歩
西大寺(奈良市)
薬師寺(奈良市) 1,000町歩
元興寺(奈良市) 2,000町歩
大安寺(奈良市) 1,000町歩
法隆寺(生駒郡斑鳩町) 500町歩
住所:奈良市中院町11 TEL:0742-23-1377、0742-23-1376
宗派:真言律宗 曽我馬子により588年に法興寺(飛鳥寺)として建立開始
718年に平城京に元興寺と名を改め移築された。
本尊:智光曼荼羅
公式HP:元興寺公式サイト・元興寺文化財研究所公式サイト (gangoji.or.jp)
元興寺の創建後、飛鳥の法興寺は「本元興寺」と称されたが平安時代に焼失し、
跡地に飛鳥寺が建立された。
年号が刻まれた燈籠としては奈良市内で二番目に古いそうです
「啼燈籠」という名称は、延享年間(1744~1748)に京都の下村某が元興寺から
皇后の神功皇后陵とされる五社神古墳などがある佐紀古墳群へと中心部が移り、5世紀には
大阪平野の百舌鳥古墳群や古市古墳群へと移動していったと考えられています。
上の写真は巨大古墳の分布変遷図 地図は当時の地形を反映しています。
出典:歴史人 別冊 合本古代史の謎 KKベストセラーズ(2014)Page96
住所:奈良市五条町13−46 TEL:0742-33-7900
宗派:律宗 御本尊:廬舎那仏 開基:鑑真 759年創建
公式サイト:唐招提寺とは | 唐招提寺 (toshodaiji.jp)
所在地のGoo地図を添付しておきます。
天平勝宝5年12月26日(754年1月23日)大宰府に到着、鑑真は大宰府観世音寺に
隣接する戒壇院で初の授戒を行う。
天平勝宝6年2月4日に平城京に到着して聖武上皇以下の歓待を受け、
孝謙天皇の勅により戒壇の設立と授戒について全面的に一任され、東大寺に住する
こととなった。
4月、鑑真は東大寺大仏殿に戒壇を築き、上皇から僧尼まで400名に菩薩戒を授けた
これが日本の登壇授戒の嚆矢である。併せて、常設の東大寺戒壇院が建立された。
天平宝字2年(758年)淳仁天皇の勅により大和上に任じられ、政治にとらわれる
労苦から解放するため僧綱の任が解かれ、自由に戒律を伝えられる配慮がなされた。
鑑真大和上70歳
天平宝字3年(759年)新田部親王の旧邸宅跡が与えられ唐招提寺を創建し、
戒壇を設置した。鑑真は戒律の他、彫刻や薬草の造詣も深く、
日本にこれらの知識も伝えた。
また、悲田院を作り貧民救済にも積極的に取り組んだ。鑑真大和上71歳
天平宝字5年(761年)には日本の東西で登壇授戒が可能となるよう、
大宰府観世音寺および下野国薬師寺に戒壇が設置され、戒律制度が急速に
整備されていった。 鑑真大和上73歳
天平宝字7年(763年)5月6日唐招提寺で死去(遷化)した。享年76歳
本殿の御祭神:
第一殿(一宮) 鹿島神宮から迎えられた武甕槌命(たけみかずきのみこと)
第二殿(二宮) 香取神宮から迎えられた経津主命(ふつぬしのみこと)
第三殿 (三宮)天児屋根命(あめのこやねのみこと))
第四殿 (四宮)比売神(ひめがみ)
三宮と四宮は大阪府枚岡(ひらおか)神社から春日の地に迎えて祀られています
「金鶴及銀樹枝」を復元新調した「金鶴洲浜台」は、人間国宝(彫金の重要無形文化財保持者)桂盛仁さんと春日有職奈良人形師(一刀彫師) 太田佳男さんが制作しました。「銀鶴及磯形」(復元新調)も桂盛仁さんの制作です。この神宝は2組制作され、ひと組は神様に捧げるため誰の目にも触れず若宮に奉納され、もうひと組(下の写真)が国立奈良博物館の特別展で初公開されます。
特別展の基本情報は下記のとおりです。
会期:2022年12月10日(土)~2023年1月22日(日)
会場:奈良国立博物館 東・西新館
2022年8月24日10時からNHK総合テレビで標題の八角形の古墳について放送されていました。
八角形の古墳は一般的には天皇陵と言われています。
NHKが下のYoutube動画を制作されましたのでリンクさせていただきました。
[歴史探偵] UFO?CG?いえいえ奈良・飛鳥の古墳です!| NHK - YouTube
そこで、八角形の古墳について上記番組の放送内容をレビューすると共に
関連事項も補足して纏めてみました。
645年を境として四角形(蘇我氏の影響)から八角形の天皇陵墓が採用されていきました。
段ノ塚古墳 34代 舒明天皇(在位629年-641年)
牽牛子塚古墳 35代 皇極天皇(在位642年-645年)?
&37代 斉明天皇?(在位655年-661年)
御廟野古墳(山科陵) 38代天智天皇(在位661年-668年)
野口王墓古墳 40代 天武天皇(在位673年-686年)
41代 持統天皇(在位690年697年)
中尾山古墳 42代 文武天皇?(在位697年-707年)
御廟野古墳は飛鳥ではなく京都府山科区にあります。
段ノ塚古墳(舒明陵)
段ノ塚古墳(だんのづかこふん)は、奈良県桜井市忍坂にある古墳。形状は八角墳。
古墳時代終末期の古墳である。
宮内庁により「押坂内陵(おさかのうちのみささぎ)」として第34代舒明天皇の陵に治定
牽牛子塚古墳
飛鳥時代の女帝・斉明天皇(594~661年)の墓ではないかとされる奈良の牽牛子塚古墳は
2022年3月までに復元され、石に覆われたピラミッドのような姿がよみがえった。
側には、斉明天皇の孫の大田皇女の墓と言われる越塚御門古墳もあり、古墳の内部で
時代背景などを解説する映像が上映される。2022年3月6日より一般公開。
陵前之墓と書かれているところが越塚御門古墳で斉明天皇の孫の大田皇女が葬られたと
日本書紀に記載されています。
上の写真は斉明天皇と間(はし)人皇女は天智6年(667)2月27日に合葬されたと日本書記に記述
上の写真は2010年に発掘調査された牽牛子塚古墳
関連ブログ
奈良県立橿原考古学研究所 土曜講座 「牽牛子塚古墳外周部の調査」 on 2016-8-6 - CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ) (goo.ne.jp)
関連サイト
牽牛子塚古墳の整備完了 斉明天皇陵か、6日公開: 日本経済新聞 (nikkei.com)
牽牛子塚古墳・越塚御門古墳整備公開 | 明日香村観光ポータルサイト | 旅する明日香ネット (asukamura.com)
牽牛子塚古墳・越塚御門古墳 復元公開|奈良県観光[公式サイト] あをによし なら旅ネット|明日香村|山の辺・飛鳥・橿原・宇陀エリア|歴史・文化|観光 (nara-kankou.or.jp)
御廟野古墳(山科陵)
Wikipediaより御廟野古墳の解説を引用させていただきました。
御廟野古墳(ごびょうのこふん)は、京都府京都市山科区にある古墳。形状は八角墳。古墳時代終末期の古墳である。宮内庁により「山科陵(やましなのみささぎ)」として第38代天智天皇の陵に治定されている。
本古墳は、被葬者の実在性にも、天皇陵古墳に比定することにも問題がない、つまり、「天智天皇陵」と呼称してもほぼ間違いのない古墳である。このような古墳は非常に稀であり、他には天武・持統合葬陵の野口王墓があるだけである。なお明治天皇の伏見桃山陵以降、現在に至るまで天皇陵は上円下方墳の形式で築造されているが、その手本となったのが大正時代当時に上円下方墳と見做された本古墳である。
築造年代は7世紀末から8世紀。古墳の大きさは、上円下方墳と見做す場合、上円対辺長約46メートル、下方辺長約70メートル、高さ8メートルである。
上の2枚の写真は天智天皇山科陵を訪問した際のものです。 撮影:2017年4月13日
天智天皇は初めて漏刻を作り水時計を作りました。関連ブログにリンクしておきます。
天智天皇陵前の日時計の碑 on 2017-4-13 - CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ) (goo.ne.jp)
野口王墓古墳
野口王墓(天武・持統天皇陵)についてWikipediaでの解説を引用させていただきます。
天武・持統天皇陵の別名:野口王墓、檜隈大内陵
野口王墓(のぐちのおうのはか)は、奈良県明日香村に所在する古墳時代終末期の
八角墳である。
天皇陵であり、天武・持統合葬陵に比定・治定(陵墓と決定されること)されている。
宮内庁発行の『陵墓要覧』による陵名は檜隈大内陵(ひのくまのおおうちのみささぎ)。
日本書紀には「大内陵」と記述される。
墳丘は現在東西約58メートル、南北径45メートル、高さ9メートルの円墳状である。
本来の墳形は八角形・五段築成、周囲に石段をめぐらすとされる。
2室からなる切石積みの石室があり、天武天皇の夾紵棺(きょうちょかん)と持統天皇の
金銅製骨蔵器が納められているとされている。本古墳は、天皇が埋葬された古墳として
考えてよく、被葬者の実在性も問題がない。治定が信頼できる数少ない古代の陵墓である。
同様の事例には、天智陵(御廟野古墳)を上げることが出来る。
しかし1235年(文暦2)に盗掘にあい大部分の副葬品が奪われた。その際天武天皇の
棺まで暴かれ、遺体を引っ張り出したため、石室内には天皇の遺骨と白髪が散乱していた
という。持統天皇の遺骨は火葬されたため銀の骨壺に収められていたが、骨壺も
奪い去られ、無残な事に中の遺骨は近くに遺棄されたという。
上の2枚の写真は天武・持統天皇陵の正面の写真と
天武天皇、持統天皇 檜隈大内陵と書かれた石碑。
陵墓の築造年代は 687年(持統天皇元年)です。
上の写真は番組で紹介された野口王墓古墳(天武・持統天皇陵)
中尾山古墳
中尾山古墳についてWikipediaの解説を引用紹介します。
中尾山古墳(なかおやまこふん)は、奈良県高市郡明日香村平田にある古墳。形状は八角墳。国の史跡に指定されている。
第42代文武天皇の真陵とする説が有力視される。
奈良盆地南東縁、文武天皇陵(栗原塚穴古墳)から北に延びる丘陵頂部に築造された古墳である。丘陵上には文武天皇陵のほか高松塚古墳が所在する。鎌倉時代に盗掘に遭っているほか、1974年(昭和49年)・2020年度(令和2年度)に発掘調査が実施されている。
墳形は八角形で、対辺長約19.5メートル・高さ4メートル以上を測る[1]。墳丘は3段築成で、版築によって構築される[1]。墳丘の1段目・2段目は基壇状の石積みとし、3段目は盛土のみとする。墳丘周囲には三重の外周石敷が巡らされる[1]。主体部の埋葬施設は横口式石槨で、底石・奥壁・閉塞石・天井石各1石、側壁各2石、隅石(柱石)4石(1石は欠失)の計10石(現存9石)から構成される。石槨内面には平滑な磨きがかけられて水銀朱が塗布されるほか、石槨中央部に火葬骨の蔵骨器が納められたと見られる。副葬品は詳らかでない。
この中尾山古墳は、古墳時代終末期の8世紀初頭頃の築造と推定される。天皇陵級の古墳に見られる八角墳である点、豪壮な横口式石槨を有する最高級の火葬墓(火葬墳)である点で特異な古墳になる。被葬者は明らかでないが、近年では第42代文武天皇(707年崩御)の真陵とする説が有力視される(現墓は南の栗原塚穴古墳に治定)。
古墳域は1927年(昭和2年)に国の史跡に指定されている[2]。
以下の記述は下記ブログより再掲載
2021年4月28日放送、歴史探偵「飛鳥の八角形古墳」を視聴して - CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ) (goo.ne.jp)
「中尾山古墳」が文武天皇陵と確実に宮内庁はいつまで“ねじれ構造”を放置するのか - CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ) (goo.ne.jp)
上の写真は中尾山古墳(文武天皇陵)現地の遠景です。 撮影:2011-5-16
高松塚古墳の近くにあります。
文武天皇陵は別名粟原塚穴(あわらつかあな)、ジョウセン塚古墳とも
言われる。
享保19年(1734)の『大和志』では、「平田村の西に在り。
俗に中尾の石墓と呼ぶ」(現在の中尾山なかおやま古墳)としている。
明治14年(1881)に現在地に指定替えとなった。
以下現地の説明板より引用させていただきます。
「陵名を檜隈安古岡上陵(ひのくまのあこのおかのうえのみささぎ)と称する。
文武天皇は、追尊岡宮天皇(草壁皇子)の皇子で慶雲4年(707)6月に
崩御され、11月に飛鳥岡で火葬の上、この陵に葬られたことが「続日本紀」に
見られる。」
以上は下記ブログより再掲載
奈良散策記 その7 第42代文武(もんむ)天皇陵 : 散策とグルメの記録 (exblog.jp)
八角形の証拠135度
今迄述べてきた八角形の天皇陵以外に八角形の古墳としては
奈良県高市郡高取町の束明神古墳(草壁皇子の真弓山稜か)、方形墳の上に八角形の墳丘を
造っている可能性のある明日香村の岩屋山古墳などが八角形墳の可能性を指摘されている。
岩屋山古墳については下記ブログで書いています。
岩屋山古墳 on 2016-10-7 - CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ) (goo.ne.jp)
奈良県橿原市の藤原宮(694~710年)跡の中枢部に当たる
奈文研の2019年度の調査では、大極殿院の東面回廊に取りつく新たな
回廊の跡(大極殿後方東回廊)が確認された。同西回廊もあったと考えられている。
2019年に発見された基壇から、現場を見た木下正史・東京学芸大名誉教授
(考古学)は、この二つの回廊の真ん中に建物があった可能性を指摘する。
「天皇が出御する前に衣装を整えたり、休憩をしたりするなどの場面で使う
控室のような施設ではないか」と話す。
以上の文章は下記ブログより再掲載。
このブログで報道機関のニュース報道のリンク集を作成しています。
奈良県橿原市の藤原宮跡で大極殿後殿とみられる基壇が見つかる : 散策とグルメの記録 (exblog.jp)
本ブログでは今後、再レビューする際の基礎資料として藤原宮の大極殿院の過去の
発掘成果を整理してみました。
2021年10月6日、朝のNHK総合テレビで藤原宮跡で建物の跡発見 天皇が使った
「控え室」かという見出しでニュース報道があった。
奈良県橿原市の藤原京(694~710年)の中枢部・藤原宮跡で、天皇が重要儀式を行う
大極殿の北側に、建物を建てるための基壇(土台)が見つかった。奈良文化財研究所
が2021年9月30日発表した。尚、現地見学会は10月2日に実施されたそうです。
上の写真は大極殿院の発掘成果。今回の調査区(565㎡)を緑で囲みました
原出典:奈文研 飛鳥・藤原宮発掘調査概報8(昭和53年4月)Page19
ここで基礎資料として藤原京の広域図と藤原宮の中の建物配置について書籍より添付
上の写真は藤原京の広域図
出典:平田稔、金子裕之 著「飛鳥・藤原京の謎を掘る」Page272
上の写真は藤原京広域図
出典:奈良文化財研究所概要2019 Page73
上の写真は藤原宮内の建物配置
出典:平田稔、金子裕之 著「飛鳥・藤原京の謎を掘る」Page172
藤原宮には大極殿(政治・儀式の中心建物)、内裏(皇居)、朝堂(役所)などがあり
約1Km四方の面積があった。
大極殿院の敷地は東西約120m、南北約165m。この中央に大極殿があったとされる。
飛鳥浄御原宮から藤原宮に持統天皇が移り住んだのは持統8年(694)、平城遷都(710年)
まで文武天皇と元明天皇と三代の天皇が住み続けた。
これから使用する写真は2021年10月6日、朝のNHK総合テレビの放送によります。
上の3枚の写真は大極殿(木が生い茂っている部分の上(南))の北側(手前)の黄色の部分が
建物の基壇の全体。調査区の西南部では基壇の盛り土(東西8m、南北4m)が確認された。
基壇は藤原宮期とみられる。専門家は大極殿の「後殿」などと呼ばれる建物があった可能性も
指摘しており、宮都の発展過程を考える上で注目される。
奈良文化財研究所(奈文研)は今回(2021年)、大極殿の北方約1900㎡を調べた。
現時点では、礎石を据えつけた穴などは見つかっていないことから建物を配置する
計画はあったが、「最終的に着手に至らなかったことも考えられる」。
奈文研の2019年度の調査では、大極殿院の東面回廊に取りつく新たな回廊の跡
(大極殿後方東回廊)が確認された。同西回廊もあったと考えられている。
上の写真は奈良市役所の1階に展示の平城京の復元模型図で、今回発掘された建物と
同じような建物が大極殿の北側に大極殿後殿と言われる建物があった。
大極殿後殿は二つの回廊の真ん中の建物で「天皇が出御する前に衣装を整えたり、休憩を
したりするなどの場面で使う控室のような施設ではないか」と専門家が指摘しています。
平安宮(京都)にも、大極殿の背後に小安殿という施設があったという。
また、藤原京より前に建設された難波宮との類似性も注目されています。
上の写真は大極殿院の発掘現場の遠景(木の茂っている大極殿跡の北側)
これからの写真は長岡京の発掘調査現地説明会(2015-10-25)関連資料です。
上の写真は向日市文化資料館の資料に現地説明会のトレンチ場所を重ねた
ものです。
それでは14時から行われた長岡宮大極殿院回廊北西隅の現地説明会について
話題を替えます。
推定で200名ほどのファンが説明に耳を傾けた。
回廊は推定で東西約105m、南北121mである。回廊は3本の柱で支える構造の
複廊と呼ばれるもので奈良時代に建立された薬師寺の回廊と同じ構造との説明
がありました。今回の調査の成果は下記の3点であるとの説明がありました。
(1)大極殿北面回廊の礎石据え付け穴及び東北の凝灰岩の抜き取り
痕跡を検出(凝灰岩は平安京で使用)
(2)大極殿院内部の石敷及び長岡京期整地土を検出
(3)回廊下層から埋没古墳を検出
2015年10月25日14時から、京都府向日市鶏冠井町大極殿55-2他で進められている
長岡宮跡第508次調査の発掘現場で現地説明会
上の写真は2017年12月28日撮影の平城宮大極殿(復元建物) 屋根の上の鴟尾に注目
関連ブログ:
「平城京」復元模型 in 奈良市役所 on 2017-12-28 - CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ) (goo.ne.jp)
奈良県橿原市の藤原宮跡で大極殿後殿とみられる基壇が見つかる : 散策とグルメの記録 (exblog.jp)
最後に奈文研が調査した平城宮第132次発掘調査現地説明会(昭和56年(1981)8月22日)
に掲載されている大極殿後殿関連の資料を添付して筆を置きます。
難波宮(聖武期)
平城宮
平安宮