明治時代は女性が働くことをよく思わない人々がたくさんいました。
そんな中で医師シーボルトの娘の楠本いねは蘭学者で宇和島藩 外科医の二宮敬作からは
医学の基礎を学び、石井宗謙からは産科医術を 、村田蔵六(後の大村益次郎)からは
オランダ語を教わり産科医術を修行した後、明治3年(1870)に東京で産科医院を開業しました。
このことから日本初の女性医師とされています。
明治6年(1873)には宮内庁御用掛の産科医になっています。
楠本いねについてもう少し詳しく記述していきます。
上の写真は楠本いね(1827-1903)の写真。
出典:出典:湯本豪一監修「日本人はじめて百科」①(2008)Page47
1827年5月31日、ドイツの医師・博物学者として有名なシーボルトとシーボルトお抱えの
遊女だった瀧(お滝)(1807年 - 1869年) の娘として生まれる。
イネの出生地は長崎市銅座町で、シーボルト国外追放(1829年、イネ2歳)まで出島で 暮らす。
以下、Wikipedia(楠本イネ)からの引用です。
イネは、シーボルト門下で卯之町(現在の西予市宇和町)の町医者二宮敬作から医学の基礎を学び、石井宗謙から産科を学び、村田蔵六(のちの大村益次郎)からはオランダ語を学んだ。
1859年(安政6年)からはヨハネス・ポンペ・ファン・メーデルフォールトから産科・病理学を学び、1862年(文久2年)からはポンペの後任であるアントニウス・ボードウィンに学んだ。後年、京都にて大村が襲撃された後にはボードウィンの治療のもと、これを看護しその最期を看取っている。
1858年(安政5年)の日蘭修好通商条約によって追放処分が取り消され、1859年(安政6年)に再来日した父シーボルトと長崎で再会し、西洋医学(蘭学)を学ぶ。シーボルトは、長崎の鳴滝に住居を構えて昔の門人やイネと交流し、日本研究を続け、1861年(文久元年)には幕府に招かれ外交顧問に就き、江戸でヨーロッパの学問などの講義をしている。
1859年(安政6年)からはヨハネス・ポンペ・ファン・メーデルフォールトから産科・病理学を学び、1862年(文久2年)からはポンペの後任であるアントニウス・ボードウィンに学んだ。後年、京都にて大村が襲撃された後にはボードウィンの治療のもと、これを看護しその最期を看取っている。
1858年(安政5年)の日蘭修好通商条約によって追放処分が取り消され、1859年(安政6年)に再来日した父シーボルトと長崎で再会し、西洋医学(蘭学)を学ぶ。シーボルトは、長崎の鳴滝に住居を構えて昔の門人やイネと交流し、日本研究を続け、1861年(文久元年)には幕府に招かれ外交顧問に就き、江戸でヨーロッパの学問などの講義をしている。
明治
ドイツ人と日本人の間に生まれた女児として、当時では稀な混血であったので差別を受けながらも宇和島藩主・伊達宗城から厚遇された。宗城よりそれまでの「失本イネ」という名の改名を指示され、楠本伊篤(くすもと いとく)と名を改める。1871年(明治4年)、異母弟にあたるシーボルト兄弟(兄アレクサンダー・フォン・シーボルト、弟ハインリヒ・フォン・シーボルト)の支援で東京の築地に開業したのち、福澤諭吉の口添えにより宮内省御用掛となり、金100円を下賜され明治天皇の女官葉室光子の出産に立ち会う(葉室光子は死産の後死去)など、その医学技術は高く評価された。異母弟ハインリヒとその妻岩本はなの第一子の助産も彼女が担当した(その子は夭折)。その後、1875年(明治8年)に医術開業試験制度が始まるが、女性であったイネには受験資格がなかったことと、晧台寺墓所を守るため、東京の医院を閉鎖し長崎に帰郷する。1884年(明治17年)、医術開業試験の門戸が女性にも開かれ、すでに57歳になっていたため合格の望みは薄いと判断し、イネはこの試験を受験しなかったとする通説があるが、当該試験は新たに開業を志すものを対象とした試験であったため、町医者として豊富な経験を持つイネは受験する必要がなかったというのが実情である.
この試験に合格し開業した荻野吟子が「日本初の女医」として話題になるが、あくまで国家試験に合格した女医一号であり、イネを含め野中婉、稲井静庵、松岡小鶴、榎本住、光後玉江、高場乱など多数の女性医者がすでに存在していた。62歳のとき、実の娘の楠本高子(タダ、後述)一家と同居のために長崎の産院を閉鎖し再上京、医者を完全に廃業した。以後は弟ハインリヒの世話となり余生を送った。1903年(明治36年)、鰻と西瓜の食べあわせによる食中毒(医学的根拠はない)のため、東京の麻布で死去した。享年77。墓所は長崎市晧台寺にある。
楠本イネを描いた小説などは下記のとおりです。
1)司馬遼太郎『花神』。新潮文庫ほか、主人公大村益次郎に恋するヒロインとして描かれている
2)吉村昭『楠本いね』(短編小説『日本医家伝』収録)。新版は中公文庫、他に新潮社「自選作品集」に収録
3)吉村昭『ふぉん・しいほるとの娘』(長編小説、主人公)。新版は新潮文庫(上下)、岩波書店「歴史小説集成六」
4)宇神幸男『幕末の女医楠本イネ シーボルトの娘と家族の肖像』現代書館、2018年
国家試験に合格した女医1号の荻野吟子(1851-1913)について簡単に記載しておきます。
ドイツ人と日本人の間に生まれた女児として、当時では稀な混血であったので差別を受けながらも宇和島藩主・伊達宗城から厚遇された。宗城よりそれまでの「失本イネ」という名の改名を指示され、楠本伊篤(くすもと いとく)と名を改める。1871年(明治4年)、異母弟にあたるシーボルト兄弟(兄アレクサンダー・フォン・シーボルト、弟ハインリヒ・フォン・シーボルト)の支援で東京の築地に開業したのち、福澤諭吉の口添えにより宮内省御用掛となり、金100円を下賜され明治天皇の女官葉室光子の出産に立ち会う(葉室光子は死産の後死去)など、その医学技術は高く評価された。異母弟ハインリヒとその妻岩本はなの第一子の助産も彼女が担当した(その子は夭折)。その後、1875年(明治8年)に医術開業試験制度が始まるが、女性であったイネには受験資格がなかったことと、晧台寺墓所を守るため、東京の医院を閉鎖し長崎に帰郷する。1884年(明治17年)、医術開業試験の門戸が女性にも開かれ、すでに57歳になっていたため合格の望みは薄いと判断し、イネはこの試験を受験しなかったとする通説があるが、当該試験は新たに開業を志すものを対象とした試験であったため、町医者として豊富な経験を持つイネは受験する必要がなかったというのが実情である.
この試験に合格し開業した荻野吟子が「日本初の女医」として話題になるが、あくまで国家試験に合格した女医一号であり、イネを含め野中婉、稲井静庵、松岡小鶴、榎本住、光後玉江、高場乱など多数の女性医者がすでに存在していた。62歳のとき、実の娘の楠本高子(タダ、後述)一家と同居のために長崎の産院を閉鎖し再上京、医者を完全に廃業した。以後は弟ハインリヒの世話となり余生を送った。1903年(明治36年)、鰻と西瓜の食べあわせによる食中毒(医学的根拠はない)のため、東京の麻布で死去した。享年77。墓所は長崎市晧台寺にある。
楠本イネを描いた小説などは下記のとおりです。
1)司馬遼太郎『花神』。新潮文庫ほか、主人公大村益次郎に恋するヒロインとして描かれている
2)吉村昭『楠本いね』(短編小説『日本医家伝』収録)。新版は中公文庫、他に新潮社「自選作品集」に収録
3)吉村昭『ふぉん・しいほるとの娘』(長編小説、主人公)。新版は新潮文庫(上下)、岩波書店「歴史小説集成六」
4)宇神幸男『幕末の女医楠本イネ シーボルトの娘と家族の肖像』現代書館、2018年
国家試験に合格した女医1号の荻野吟子(1851-1913)について簡単に記載しておきます。
荻野吟子は夫から性病をうつされ、男性医師による治療に屈辱を感じて医師を志した。
明治6年(1873)に上京して漢方医に学んだ後、東京女子師範学校(今のお茶の水女子大学)
を経て私立医学校を卒業しました。当時、女性に医師試験の受験資格はなかったが、
知人の助けもあり明治18年(1885)ついに受験許可を得て合格。
日本で初めての公認の女性医師となりました。
上の写真は荻野吟子の写真
出典:湯本豪一監修「日本人はじめて百科」①(2008)Page47
北海道の瀬棚町の荻野医院の跡地には顕彰碑が建っているようです。