CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ)

神戸・岩国の最新情報を中心に紹介していきます。歴史や時事について調べた結果を紹介。

大津市坂本 明智光秀の所縁の場所訪問記 on 2020-3-3 その9 宇佐山城跡と宇佐八幡宮

2020年03月31日 04時42分34秒 | 滋賀県情報

2020年3月3日、大津市坂本で明智光秀の所縁の場所を訪ね歩きました。
本日はその第9回で宇佐山城跡と宇佐八幡宮を紹介します。

宇佐山城は琵琶湖の南西、近江国と山城国を隔てる比叡山塊の南に位置する標高336mの

宇佐山山頂に築かれた山城です。宇佐山城は織田信長が森可成に命じて築かせた城で、

森可成の死後の元亀2年(1571)に明智光秀が入城し、「比叡山焼き討ち」の拠点とした城です。

シリーズ過去の記事:

第1回 坂本城本丸跡

第2回 明智光秀像と坂本城跡公園
 明智光秀の略年譜を掲載

第3回 東南寺

第4回 坂本城址の石碑

第5回 明智塚

第6回 聖衆来迎寺

第7回 石積みの郷公園

第8回 盛安寺

 

宇佐山城跡

宇佐山城の文献上の初見は、奈良・興福寺の僧である多聞院英俊が記した『多聞院日記』で、
永禄13年(1570)3月20日の稿に、「信長が配下の森可成に命じて宇佐山に築城させ、
江南と京都を結ぶ道路を封鎖した」と記されています。4月23日に元亀に改元。

元亀元年(1570)9月16日から同年12月17日までの志賀の陣で戦場の一つとなった場所である。

上の写真は宇佐八幡宮下の宇佐山城址への入り口

上の写真は地元の志賀小学校が山上の主郭(本丸)に至る道に道しるべを作成しています。

赤いリボンなどもつけられていました。

しかしながら、当日は単独行動で何か異変があってはいけないので自重し登坂を途中で中止しました。

山城探索の好きな人達が詳しく山頂までの紹介をされていますのでリンクさせて頂きます。

 https://signboard.exblog.jp/28885263/

 https://www.jiji.com/jc/v4?id=usayama010001

 https://ameblo.jp/danhaya/entry-12373755522.html

上の写真は京阪南滋賀駅付近から臨む宇佐山 頂上(本丸跡)にはNHK、民放のアンテナが

建っているそうです。

 

宇佐八幡宮

住所:大津市神宮町13 御祭神:八幡大神(応神天皇)

創建:治暦元年(1065) By 源頼義

Goo地図を添付しておきます。

 

 

外観遠景

上の写真は正面からみた宇佐八幡宮

上の写真は側面からみた宇佐八幡宮

御足形

上の写真は御足形の神域。説明書によれば錦織郷に居を構えていた源頼義

(源頼朝の5代前)が八幡宮を創建せんと検分の時この岩の上に神鳩が現れ頼義公を

建立の地に導いた。依って治暦元年(1065)宇佐八幡宮が建立された。

金殿井

上の写真は天智天皇(626-672)が病気を癒したとの伝承がある霊泉で

1,351年前、中臣之金によって発見されたことから金殿井と呼ばれています。

境内の紹介をもう少し詳しくしたいのですが30,000字の制限からこの辺で終えます

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修復完了した大楠公像 in 湊川公園 on 2020-3-28

2020年03月30日 05時05分37秒 | 神戸情報

2019年7月に仮置き場から修理に出されていた湊川公園の大楠公像は修復を終えて

湊川公園南側に帰還しました。(神戸新聞の報道によれば2020-3-23着)

同じく神戸新聞の報道によれば3月27日には湊川神社によるお祓い等、関係者で

完工式が行われたとのこと。

そこで3月28日(土)に湊川公園に出かけ写真を撮ってきましたので紹介します。

 

大楠公像

上の写真は湊川公園の大楠公像正面側近影

昨年(2019)7月から馬の左足かかと部分などに破損が見つかり東京で修復が

行われていました。またクリーニングも行われ奇麗になっています。

上の写真は大楠公像正面の遠景

上の写真は湊川公園の大楠公像 裏側から観た遠景

この写真で湊川公園のどの辺に大楠公像が設置されたかが判ると思います。

大楠公銅像建設記

上の写真は大楠公銅像建設記です。昭和10年(1935)7月神戸新聞社によって建立。

記載内容を要約して記しておきます。

昭和10年(1935)5月25日の大楠公600年祭にあたり大楠公の銅像が無かったので

神戸新聞が創業40周年事業として湊川の戦いのあった湊川公園の銅像建設計画を

発議し募金をもとめたところ15万人より賛同が得られ3万円余の募金が集まった。

銅像の原型は帝国美術院会員の斎藤嘉巌が制作。

武装武具の考証は東京 岡保之助 台座は神戸の石松石材工業所

台座の文字は神戸市長の勝田銀次郎 

裏面の文章は神戸新聞で漢詩人の成田松坡の筆

地鎮祭は昭和10年(1935)5月22日に挙行された。同年7月1日に神戸市へ引き渡し

神戸市が作成したものは下に添付

 

大楠公六百年斎行記念之碑

大楠公六百年斎行記念之碑の正面

昭和10年(1935)8月 大楠公600年大祭奉賛会長 勝田銀次郎により建立

上の写真は大楠公六百年斎行記念之碑の裏面と側面

宮内省、皇族の方々、募金賛同者や募金額などが記載されています。

 

 

大楠公像の設置場所の変化を記載しておきます。

昭和10年(1935) 神戸新聞社から寄贈 公園南側(新開地側)に設置
昭和46年(1971) 湊川公園駐車場建設により公園北側に移設
平成29年(2017) 新兵庫区庁舎建築により公園内に仮移設

令和2年(2020) 3月27日修復が完了し湊川公園の南側(新開地側)に設置

 

関連ブログ

湊川公園内の楠公像の移転先

 

湊川公園の楠木正成像(大楠公像)の仮移設と説明板 on 2018-3-21&2018-5-15

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京都府亀岡市 八百捨 でのランチ on 2020-3-24

2020年03月29日 04時42分53秒 | 京都情報

2020年3月24日、京都府亀岡市の京料理・仕出し 八百捨でランチを頂きました

ので写真紹介します。

八百捨は江戸時代から旅籠を営みはじめ、130年前からは八百屋、現在は京料理店

として長くこの地を支えてきた名店の一つです。

八百捨(やおすて)の基本情報

住所:亀岡市旅籠町19 TEL:0771-22-0449

営業時間:9:00~19:00 ランチは11:00~14:00  

定休日:木曜日(祝日の場合は営業)

公式サイト:http://yaosute.jp/

所在地のGoo地図を添付しておきます。

上の2枚の写真は当日注文したランチ懐石 1,200円(税別)

繊細な味付けでペロリと食べてしまいました。

お値段もリーズナブルでお勧めします。

公式サイトにおすすめランチメニューとして写真入りで紹介されています。

落ち着いた雰囲気で食事を楽しめ、叔母さま族にも満足頂けると思います。

上の写真は食後のホットコーヒー 1,200円の料金内です。

上の写真はランチ懐石以外のメニュー表(店前に掲示)

お寿司や幕の内があります。

上の写真はお店の外観です。

上の写真は旧山陰道の筋(八百捨のある場所付近)

この付近に本陣がありました。亀山は亀山城の城下町であると同時に京都と

丹波・丹後・山陰方面を結ぶ山陰道の宿場町でもありました。

旅籠町には大名などが宿泊する本陣が置かれると共に旅籠が建ち並んでいた。

 

上の写真は亀岡市観光協会が作成したリーフレットの中で紹介された八百捨

 

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神戸花時計が「ワケトン」に変わっています on 2020-3-22

2020年03月28日 05時26分35秒 | 神戸情報

2020年3月22日、神戸花時計の写真を撮ってきましたので写真紹介します。
テーマは「ワケトン」で本年2月20日より3月下旬まで展示される予定です。

神戸花時計の基本情報

住所:神戸市中央区加納町6丁目-4(東遊園地) TEL:078-322-5420(建設局公園部管理課)
公式サイト:http://www.city.kobe.lg.jp/culture/leisure/mark/hanadokei/index.html
設置時期:昭和32年(1957)4月6日
更新時期:平成21年(2009)2月
旧地から移動期間:平成30年(2018)11月29日~平成31年(2019)3月28日

上の2枚の写真は今回撮影した神戸花時計です テーマは「ワケトン」

展示期間は2020年2月20日から3月下旬までです。

上の写真は展示の説明

上の写真は花時計移転のお知らせの掲示

2020年の花時計

第1回

 テーマ:「てんせつの雪の結晶」 展示期間:2020年1月16日~2月19日

写真が無いので神戸市のサイトにリンク

 https://www.city.kobe.lg.jp/documents/7167/202001.pdf

 

第2回

 上述の今回撮影の「ワケトン」 展示期間:2020年2月20日~3月下旬

 

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大津市坂本 明智光秀の所縁の場所訪問記 on 2020-3-3 その8 盛安寺

2020年03月27日 05時07分28秒 | 滋賀県情報

2020年3月3日、大津市坂本で明智光秀の所縁の場所を訪ね歩きました。
本日はその第8回で盛安寺を紹介します。
盛安寺は明智光秀が祈願所として使用した寺で別名は明智寺とも呼ばれていた。

供養塔や陣太鼓が残る西教寺の末寺です。

 

シリーズ過去の記事:

第1回 坂本城本丸跡

第2回 明智光秀像と坂本城跡公園
 明智光秀の略年譜を掲載

第3回 東南寺

第4回 坂本城址の石碑

第5回 明智塚

第6回 聖衆来迎寺

第7回 石積みの郷公園

 

盛安寺の基本情報

住所:大津市坂本1-17-1 TEL:077-578-2002

宗派:天台真盛宗 山号:瑞應山 院号:法王院 御本尊:阿弥陀如来坐像

霊場:湖国十一面観音菩薩霊場 第二番、びわ湖百八霊場湖西 第七番

創建:宗祖真盛上人(1443-1495)により創建

再建:文明18年(1486)越前朝倉氏の家臣である杉若盛安(すぎわかせいあん)が再建

   盛安寺は杉若盛安の名前に由来

再興:比叡山の焼き討ちで焼失明智光秀により再興

  

明智光秀の供養塔

灯篭の左側の小さな五輪塔が明智光秀の供養塔

本堂には位牌「秀岳宗光大居士 霊位」天正10年6月14日があります。

盛安寺の説明書き

盛安寺は穴太の里「高穴穂宮跡」(成務天皇の宮)のあるところで天智天皇も勅願で

創建された崇福寺の遺物でもあります。

太鼓楼

この太鼓楼の中に明智公陣太鼓があります。元亀・天正年間前期(1570-1575)の

ある夜「暁の鼓」を打って坂本城に敵の急襲を知らせたものとされ、その恩賞として

明智光秀より「庄田八石」(太鼓田)を与えられた。

上の写真は山門付近から撮った太鼓楼の遠景

 

本堂

本堂はと棟札より慶安5年(1652)に建立された。

平成5年(1993)に大津市の指定文化財に指定されています。

客殿(国重文)

 

客殿の写真を撮れなかったので案内リーフレットの境内図を添付

客殿は伏見城の遺材で建てられたと伝えられています。

建築年代は不詳ですが西教寺の客殿や聖衆来迎寺の客殿との比較から17世紀前半と

推定されています。平成5年(1993)8月に国の重要文化財(建造物)に指定。

殿内には障壁襖絵(長谷川宗圓の屏風とともに)には桃山期の狩野派の壮麗な

絵巻が観られます。前庭も見どころだそうです。

 

穴太衆積み石垣

鐘楼

観音堂

 

 

庫裡

 

収蔵庫

十一面観音立像(国重文)

十一面観音像の拝観は5、6、10月の毎土曜日とGW、正月3ヶ日のみ

井上靖の小説「星と祭り」や白洲正子の「十一面観音巡礼」で取り上げられています

この十一面観音は延暦寺開山の伝教大師(最澄)の師範行表の作

明智光秀ゆかりの地巡り~盛安寺~

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累計訪問者数 125万UUを突破 on 2020-3-25

2020年03月26日 04時44分11秒 | Weblog

2020年3月25日に累計の訪問者数が125万uuを突破しました。
憶えの為、記載しておきます。

本ブログも2004年に開設していますので15年余続けています。
あと何年生きれるか判りませんが死ぬまで継続出来ればイイナと考えています。

直近の週間アクセス数(2020.3.15 〜 2020.3.21)6,100UU、20,988PV 577位
 
          (2020.3.8 〜 2020.3.14)5,943UU、15,481PV 589位

          (2020.3.1 〜 2020.3.7) 5,569UU、28,486PV 639位

アクセスしていただいた方々に感謝致します。
これを励みに無理をしない程度に継続していきたいと思います。


尚、2020年3月25日(水)現在の総閲覧数は5,134,462PVです。

以前のメモ(115万UU達成時)に過去の推移も含めてリンクしています(下記のブログ)

 累計訪問者数 115万iPを突破 on 2019-11-28

前回(120万UU達成時)の同じ題のブログにリンクしておきます。

 累計訪問者数 120万UUを突破 on 2020-1-29 

写真が無いと味気ないので最近撮影した写真を添付しておきます。

上の写真は昨日(2020-3-25)のNHKテレビの報道で「東京オリンピックが1年程度延期」

上の写真は亀岡市南郷公園の明智光秀像 撮影:2020-3-24

上の写真は麒麟がくる京都大河ドラマ館に展示の明智光秀の写真  撮影:2020-3-24

上の2枚の写真は今春4月?に完成を目指して工事が進む サンガスタジアム 京セラ

 撮影:2020-3-24

上の写真は亀岡市丹波亀山城御土居(坂部公園内)の桜 2分崎程度の開花

撮影:2020-3-24

京都では既に開花宣言がされていますが神戸では本日(2020-3-26)に開花宣言か?

明智光秀により築城された亀山城は内堀、外堀、惣堀の3重の堀と御土居で

仕切られていた。坂部公園には亀山城跡の南東に残る御土居跡が残っています。

御土居は堀を掘った土を利用して造られた防御壁で当時の様子が伺えます。

亀山城周辺の地図を添付して筆を置きます。

 

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YURT 神戸店(ユルト)でのランチ on 2020-3-22

2020年03月25日 07時11分55秒 | 神戸情報

2020年3月22日、旧居留地101番にあるユルトでランチをいただきましたので

写真紹介します。神戸での元気企業「POTOMAK」が運営する会社です。

POTOMAKはTooth Tooth他のお店を経営しています。

YURT神戸店の基本情報

住所:神戸市中央区江戸町101番地 三共生興スカイビル1F TEL:078-381-6686

営業時間:11:00~24:00  定休日:不定休

運営会社:POTOMAK

公式サイト:https://www.potomak.co.jp/brand/yurt/

所在地のGoo地図を添付しておきます。

上の写真は当日注文したワンプレートB(1,000円)とドリンクバー200円

価格は税別です。

上の写真はメインの「いろいろキノコのジンジャーポーク」の拡大版

 

上の写真は私が選択したメニューが掲載のメニュー表

上の写真は店頭のランチメニュー看板

上の写真は店頭のパンケーキなどのカフェメニュー

 YURT神戸店のメニューの詳細は下記サイトで確認できます。

 https://r.gnavi.co.jp/k113425/menu6/

上の写真はお店の外観 近景と遠景

 

 

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JR三宮駅北口で見つけた下水マンホール蓋 on 2020-3-19

2020年03月24日 04時11分20秒 | 神戸情報

2020年3月19日、フラワーロードの彫刻作品の写真を撮る目的でJR三宮駅の

周辺にいました。

JR三宮駅の北口、市営地下鉄への降り口付近で表題の下水マンホール蓋を

見つけましたので写真紹介します。

文字では「LOVE KOBE」「KOBE OSUI」神戸港開港150周年の「150」

絵では神戸ポートタワー、王子動物園のパンダと象、市章山、錨山、須磨の水族園のイルカ

港のカモメ、船、海などが描かれています。

上の写真は下水マンホール蓋のある場所を示したものです。

当日は気温も上昇し歩いていると汗をかくような陽気でした。

日本の七十二候 第九候「菜虫蝶と化る(なむしちょうとなる)」

 3月15日~19日

日本の七十二候 第十候「雀始めて巣くう(すずめのはじめてすくう)」

 3月20日~24日

桜のつぼみがふくらんで開花宣言を待ちわびる頃でもあります。

新型コロナで気がめいるような情勢ですが早く解消され「春よ来い」と

口づさみたいこの頃です。

 

2020年3月22日にJR三宮駅の南側の下水マンホール蓋の写真も撮っていますので

添付しておきます。

上の写真は神戸国際会館前の横断歩道の渡り口付近のマンホール蓋です。

上の写真は神戸市役所2号館の前の雨水のマンホール蓋

 

神戸のマンホール(過去のブログ)

神戸市灘区ミュージアムロードの下水マンホール蓋 on 2020-2-15

 

JR三宮駅ガード下(一貫楼前)で見つけた下水マンホール on 2019-12-10

 
 

 三宮で見つけたマンホール 撮影日:2017-8-22

  神戸市の汚水マンホールのデザインをもとにぬり絵で描いた作品

  有馬温泉の汚水のマンホール蓋

  レバンテ垂水1番館 南側の下水マンホール on 2018-10-12

  神戸市の消火栓の蓋 on 2017-4-19
 
 神戸市下水道のマンホールに描かれた神戸

 市役所1号館の前のマンホール

 三宮センターサウスの通りのマンホール

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大津市坂本 明智光秀の所縁の場所訪問記 on 2020-3-3 その7 石積みの郷公園 

2020年03月23日 05時37分08秒 | 滋賀県情報

2020年3月3日、大津市坂本で明智光秀の所縁の場所を訪ね歩きました。
本日はその第7回で石積みの郷公園を紹介します。

元亀2年(1571)の比叡山の焼き討ちの時に打ち鳴らされた鐘や穴太衆の

石垣を紹介する公園でJR湖西線の比叡山坂本駅のすぐそばにあります。


シリーズ過去の記事:
第1回 坂本城本丸跡

第2回 明智光秀像と坂本城跡公園

 明智光秀の略年譜を掲載

第3回 東南寺

第4回 坂本城址の石碑

第5回 明智塚

第6回 聖衆来迎寺

石積みの郷公園の住所は大津市坂本7丁目32−22

Goo地図を添付しておきます。

 

 

生源寺の破れ鐘

右奥に見えている鐘楼の中の鐘は最澄の生まれた生願寺から移設されたもので通称「破れ鐘」

と呼ばれています。織田信長による比叡山焼き討ちの際に、危を告げるために釣鐘を打ち鳴らし

続けたところ、ひび割れたと言われるのが「破(わ)れ鐘」です。

生源寺は、京阪坂本駅の近くに所在する寺院で、境内には最澄の産湯の水を汲んだ井戸が

残されていることから、最澄の生誕地と伝わっています。

 

穴太衆の石垣

 

関連ブログ

 比叡山延暦寺と坂本 訪問記 on 2017-10-10~1017-10-12 その5 穴太衆積み石垣

延暦寺の門前町の坂本では古くから穴太衆が住み石垣を築く技術を伝承し

高い技術があった。明智光秀はこの技術を城の石垣づくりに活用した。

 

若き日の最澄像

 

公園の遠景

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大津市坂本 明智光秀の所縁の場所訪問記 on 2020-3-3 その6 聖衆来迎寺

2020年03月22日 05時00分25秒 | 滋賀県情報

2020年3月3日、大津市坂本で明智光秀の所縁の場所を訪ね歩きました。
本日はその第6回で聖衆来迎寺を紹介します。

坂本城から移築された山門や森蘭丸の父親の森可成の墓があります。

森可成(よしなり)は宇佐山城主で織田信長に敵対する浅井・朝倉軍に対峙防戦

しましたが比叡山の僧兵が浅井・朝倉方についたこともあり戦死しました。


シリーズ過去の記事:
第1回 坂本城本丸跡

第2回 明智光秀像と坂本城跡公園

第3回 東南寺

第4回 坂本城址の石碑

第5回 明智塚

 

聖衆来迎寺の基本情報

住所:大津市比叡辻2-4-17 TEL:077-578-0222

宗派:天台宗 山号:紫雲山 御本尊:阿弥陀如来、釈迦如来、薬師如来の三仏

創建:延暦9年(790)最澄により開山 創建当時は地蔵教院

改称:長保3年(1001)源信(恵心僧都)がこの寺に入り改称、念仏道場として再興

中興:大永7年(1527)真玄(近江守護六角高頼の五男の高信)により中興

Goo地図を添付しておきます。

  

表門(国重文)

上の2枚の写真は山門の中景と遠景

表門は、明智光秀が築城した坂本城の城門を移築したとの寺伝がありましたが、

平成21年(2009)~23年(2011)に行われた解体修理により、櫓門の二階部分を

取り除き一階部分の上に本瓦葺の屋根を載せたと考えられるとのこと。

使われた工具の加工痕が坂本城築城の年代と一致すること、聖衆来迎寺と明智光秀

との深い繋がりがあったことから、坂本城の城門を移築したことがほぼ明らかに・・・

 

説明板

書かれている内容を要約すると

聖衆来迎寺は延暦9年(790)伝教大師(最澄)が開創、 創建当時は地蔵教院

長保3年(1001)源信(恵心僧都)がこの寺に入り改称、念仏道場として再興

国の重要文化財である本殿、客殿、開山堂、明智光秀が築城した旧坂本城門の

表門、森可成の墓など、歴史とのかかわりのの深い寺である。

寺標

森可成の墓

上の2枚の写真は森可成の墓の正面と側面

この墓があったおかげで信長の比叡山焼き討ちの難を逃れた。

したがってこの寺には多くの文化財が残され近江の正倉院と呼ばれることも・・・

元亀元年(1570)の志賀の陣で浅井・朝倉連合軍に対して奮戦したが森可成は

討ち死にした。Wikipediaより森可成の最期についての記述を引用紹介します。

可成の最期については記録に次の様に書き残されている。
「浅井長政、朝倉義景の大軍、短兵急に戦うによって、森可成、織田九郎防戦火花を散らし、
九天九地の下を通り、終日合戦なり。浅井、朝倉新手を入れ替えて攻め戦うによって、
織田九郎、森可成両将とも下坂本瀬戸在家にて討ち死になり」とある。享年48。 
討ち死にしたものの坂本で数日間に渡って浅井・朝倉連合軍の行軍を妨害し近江に
釘付けにした為、連合軍は信長の背後を突くことは出来なかった。
宇佐山城も家臣の各務元正、肥田直勝などが奮戦、落城を免れた。
後日、2人は信長から賞賛を賜った。

森可成の首は密かに聖衆来迎寺の住職により運ばれ荼毘に伏された。

この事象により信長は比叡山焼き討ちの対象にしなかったと推察されています。

森可成(もりよしなり)は大永3年(1523)、森可行の子として
尾張国葉栗郡蓮台(現岐阜県羽島郡笠松町)に生まれます。
美濃国の守護大名である土岐氏に仕え、斎藤道三により土岐氏が滅ぼされた後の
天文23年(1554)には尾張国で織田信長に仕えました。
信長の家督相続と尾張国統一に尽力した生涯でした。
織田家においては柴田勝家より以前に信長に仕えた年長組で、美濃衆として活動。
槍の名手で、関兼定銘の十文字槍の使い手でした。
武勇の誉れ高く「攻めの三左」という異名を誇ったとも。
数多くの武勇伝が伝わっていますが、
信長の上洛後は京都周辺の寺社や堺の会合衆などに宛てて
非常に多くの文書を発給しており、
織田家の重臣として政務にも大きく関わっていたと推測できます。

子宝に恵まれ、生まれた六男三女とも正室えいとの間の子供であり、
愛妻家であったそうです。
<子供>
男子:
可隆(手筒山城攻めで討死・享年19初陣)
長可(小牧・長久手合戦で即死享年27)
蘭丸(成利)(本能寺の変で討死享年18)
坊丸(長隆)(本能寺の変で討死享年17)
力丸(長氏)(本能寺の変で討死享年15)
忠政(美作津山藩初代藩主)
女子:
娘(青木秀重室)
娘・うめ(木下勝俊室)
娘・碧松院(関成政室)

 

織田秀信の母・寿々(鈴姫)の墓

織田秀信は信長の孫(幼名は三法師)

寿々姫=鈴姫(徳寿院)は織田信忠の側室で塩川長満の娘の他に森可成の娘、

武田信玄の娘(松姫)という説もあり

寿々姫の法名は「徳寿院殿繁林恵昌大姉」

本堂(国重文)

上の写真は本殿の遠景

開山堂(国重文)

客殿(国重文)

 

 

境内社

鐘楼

石仏

本坊

放生池

境内の石造品(宝篋印塔、宝塔など)

見応えのある寺の境内であった。

国宝に指定されている絹本著色六道絵 15幅(鎌倉時代)をはじめ数多くの重要文化財

を所蔵。文化財は、毎年8月16日に虫干しされ公開される。絵画、工芸品等の大部分は、

平素は京都国立博物館やびわ湖文化館などに寄託されている。

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