本日は徳川大坂城の築城時、石垣に使われなかった残念石を利用した兵庫県立舞子公園の
銘石の写真とその歴史について書いていきます。
参照資料
1)神戸新聞NEXT 2022年7月18日 舞子公園の巨大な石、その正体は徳川大坂城の石垣材 400年前の刻印も発見|総合|神戸新聞NEXT
2)神戸新聞 2022年12月27日 夕刊
舞子公園銘石 激動の物語
大坂城石垣に不採用・・・神戸商業高校の庭石→2001年以降現在
兵庫県立舞子公園の銘石の写真
上の3枚の写真は「兵庫県立 舞子公園」と書かれた銘石の近中遠景
撮影:2024年11月22日
銘石は、兵庫県が公園改修に合わせて2001年に設置されたものです。
巨石を割るための「矢穴」から城に使用された石垣の原石であることが判ります。
銘石の寸法は最長縦約2.5m、横約3.5m、高さ約1m 出典:1)
豊臣秀吉が築いた大坂城は1615年大坂夏の陣での落城後、徳川幕府によって再築されました。
その際、石垣石の採石・運搬・石積みといった石垣普請は公義普請で行われ、主に西国諸藩が担当。
当時の徳川将軍は徳川秀忠。工事は藤堂高虎 が指揮した。
再築にあたって将軍徳川秀忠は「石垣は秀吉のつくった石垣の倍の高さにするように」と
藤堂高虎に指示したため現在のような立派な姿になっています。
奈文研の高田祐一さんによる解析
高田さんは江戸幕府が大名を動員して再建した大坂城関連の石切り場を研究
舞子公園の銘石を最新の画像解析技術を屈指し解析した結果、次の事が判明
・工事を担った大名は松江の堀尾家と土佐の山内家
両家の刻印が確認された
・人名や年月も刻まれていた
舞子公園の銘石の歴史
大坂城石垣に不採用・・・神戸商業高校の庭石→2001年以降現在
徳川大坂城の石垣の建設時期は大坂夏の陣(1615)以降の17世紀前半
(大坂城第1期工事は1619年(元和5年)から1620年(元和6年))
舞子公園銘石は徳川大坂城東六甲採石場 で加工された残念石
1970年代には「神戸商業高の庭石だった」と高田裕一氏が特定
現在の舞子公園銘石は2001年以降に2000年に閉校になった神戸市立神戸商業高校
(東灘区西岡本、現・六甲アイランド高校)から搬入されました
残念石とは
採石されたものの城の石垣に使われず、石切場などに残置された石材のことを
「せっかく切り出されたのに石垣に使われなくて残念だったね」ということで
「残念石」と呼ばれています。
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