昭和40年代に閉鎖されるまで神戸市須磨区潮見台に「藤田ガーデン」と呼ばれた
明治期に藤田財閥を築いた大阪実業家の重鎮、藤田伝三郎の別邸がありました。
現在はマンションになっておりその面影は無い。
神戸新聞 須磨マンスリー 今昔八景 幻の社交場「藤田ガーデン」その面影を
探るという記事が2019年6月25日の朝刊29面で紹介されています。
現在の「藤田ガーデン跡地」とかっての藤田ガーデンについて写真紹介すると共に
藤田伝三郎(藤田男爵)及びその一族について調べた結果を記載していきます。
上の写真はかって潮見台にあった藤田ガーデン(藤田別邸)の建屋
明治時代後期(はっきりとした年月は不明)に建設された当時は政財界人を接待
する迎賓館的なものであった。
戦後は貴婦人が集う社交場として開放されていたと聞いています。
上述の神戸新聞の記事によれば、「須磨の人々の記憶に残るのは、昭和30年代に別邸
の御殿や庭園を活用しオープンした藤田ガーデンで、施設内には御婦人だけで使用
できるバンガローやビヤガーデン、御殿式サロンなどがあった。花見や避暑、月見、
クリスマスといった四季折々のイベントに加え、ダンスやハワイアンパーティも
開かれていた。御婦人方のパラダイスと言える場所であった。」
上の2枚の写真は昭和5年(1930)に印刷の須磨周辺の地図で藤田邸として地図に
記載されています。東隣には藤田男爵の甥の久原房之助の別邸も記載されています
さらに、その東側には荻野邸と思われる建物が確認できます。
地図には記載されていませんが久原邸の南側には川崎家の別邸もありました。
藤田邸の南側には八本松という地名あり。
敷地の広さは約8千坪であったとか・・・・・
上の写真は国道2号線から観たマンション「須磨シーサイドヒルズ」
Suma Seaside Hills
現在の住所としては神戸市須磨区潮見台町2丁目
上の写真は須磨海岸から観たマンションの遠景
上の2枚の写真はマンションの北側から撮ったものです。
上の写真はマンションの北側でかっての藤田ガーデンの敷地であった潮見台南公園
住所表示は神戸市須磨区潮見台町2丁目21-3
藤田ガーデンのの名ごこりと思われるのは石がそうであろうと推察
須磨神戸市編入50周年記念誌「須磨」の年表に昭和38年(1963)4月藤田ガーデン
にて「第1回美術家まつり」開催とあります。
美術品収集家でもあった藤田財閥の当主たちは「藤田美術館」に秀品を集め一般の
人にも開放されています。
次に、藤田別邸にかってあった2つの石造品についての話題に話を変えます。
1つ目は現在、一の谷の潮音寺に安置されている不動明王の摩崖仏である。
この摩崖仏はかって藤田男爵の別邸にあったが昭和13年(1938)7月3日~5日の
大水害で一の谷川の河口まで土砂とともに流され埋まっていたもので神戸市元町の
永田良介商店の方々をはじめ信仰ある皆様により掘り起こされ潮音寺に手厚く
祀られたものである。梵音山潮音寺は昭和47年(1972)の建立時、不動堂も建立
一の谷不動尊として摩崖仏も安置された。摩崖仏は暦応4年(1341)2月、石大工
行有の他、桜井市多武峰周辺で活躍した藤原系一門の作で南北朝時代(後村上天皇
足利尊氏らが活躍した時代)のものである。
高さ2.7m、厚さ61cm、幅1.03m
全国的にも有名な石造品である。摩崖仏は元々、奈良県天理市にあったもので藤田別邸
が建設された時(明治末~大正初期)に藤田別邸まで運搬された。
上の写真が潮音寺不動堂(護摩堂)に安置されている不動明王の摩崖仏
撮影:2019-7-4
2つ目は現在、須磨寺護摩堂の東側にある十三重塔です。
奈良県山辺郡の来迎寺にあったものを、須磨一の谷、藤田邸(もと男爵)に移された後、
昭和36年(1961)に川崎重工業社長だった手塚氏が譲り受け、手塚氏がその年の9月6日
福祥寺(須磨寺)に寄進されたものです。
上の写真は須磨寺護摩堂東側の十三重塔 撮影:2014-3-8
花崗岩でできており、高さは5.24mだそうです。
礎石(軸石)の北面中央に嘉暦2年7月(1327)の刻銘があります。
鎌倉時代に建てられた数少ない石造の遺品で県の指定文化財になっています。
下部(軸部)には金剛界四仏をあらわす梵字が彫られています。
彫り方の特徴から薬研彫りであることが判るそうです。
塔の上部は上から宝珠・水煙・九輪・請花となっています。
相輪の先の四方に小さな突起が見られる部分=水煙は石造の十三重塔には大変珍しい
ものだそうです。
藤田伝三郎と一族についてWikipedia(一部加筆)より略歴を引用紹介します。
概要
藤田傳三郎(1841年7月3日(天保12年5月15日) - 明治45年(1912)3月30日)は、
明治時代の大阪財界の重鎮で、藤田財閥の創立者である。建設・土木、鉱山、電鉄、
電力開発、金融、紡績、新聞などの経営を手がけ、多くの名門企業の前身を築いた。
大企業としてはDOWAホールディングスがある。藤田の名前が付いた有名企業は
藤田観光であり、太閤園、椿山荘、小涌園などを創設した。
また有能な経営者を多数育て、美術品の収集家、慈善事業家、数寄者としても
名高い。号を香雪と称す。藤田組の創始者。男爵(民間人で初めての男爵)。
長州藩(現在の山口県萩市)の出身。元奇兵隊士。
長男は藤田平太郎、次男は藤田徳次郎、三男は藤田彦三郎。
甥に田村市郎:日本水産(ニッスイ)の創業者、久原房之助:日立製作所の創業者。
上の写真は藤田男爵の肖像写真 出典:Wikipedia
生い立ち
長州藩・萩(現山口県萩市)の酒屋の四男に生まれた。家業は醸造業のほか、藩の下級武士に 融資をおこなう掛屋を兼営していた。幕末の動乱期に高杉晋作に師事して奇兵隊に投じ、
木戸孝允、山田顕義、井上馨、山縣有朋らと交遊関係を結び、この人脈が後に藤田が政商として活躍する素因となった。
明治2年(1869年)、長州藩が陸運局を廃止して大砲・小銃・砲弾・銃丸などを払い下げた時、
藤田はこれらを一手に引き受け、大阪に搬送して巨利を得た。同年、大阪に出て革靴の製造からスタートし、建設業に手を広げた藤田は、明治10年(1877年)の西南戦争で陸軍に被服、食糧、機械、軍靴を納入、人夫の斡旋までして、三井・三菱と並ぶ利益をあげた。
財閥の形成
贋札事件の直後は陸軍や大阪府からの発注が途絶え、苦境に立たされた。
しかし明治14年(1881年)、それまでの藤田傳三郎商社を藤田組に組織替えして再出発を図った。藤田組は鉄道建設をはじめ、大阪の五大橋の架橋、琵琶湖疏水などの工事を請け負い、
建設業で躍進すると共に明治16年(1883年)には大阪紡績(東洋紡の前身)を立ち上げ、紡績業にも進出した。
さらに明治17年(1884年)、小坂鉱山(秋田県)の払い下げを受けると、技術革新に力をいれ、
明治30年代後半には、銀と銅の生産で日本有数の鉱山に成長させた。
そのほか、阪堺鉄道(南海電鉄の前身)、山陽鉄道(国鉄に吸収)、宇治川電気(関西電力の前身)、
北浜銀行(後に三和銀行)などの創設に指導的役割を果たした。
毎日新聞も行き詰った「大阪日報」を藤田が大阪財界人に呼びかけ「大阪毎日新聞」として再興した。
このように、多角的事業経営に乗り出し財閥を形成していった。
湊川の付け替え:明治30年(1897)に着工、 明治34年(1901)竣工
明治17年(1884)9月に北風正造は神田兵右衛門、藤田積中、長谷川彦一、
光村弥兵衛、小野正直、松原良太らと共に湊川付け替えの見積もり概算書を提出
起工に向けて寄付などで支援した。
大阪商法会議所(五代や藤田)にも支援を依頼
明治20年(1887)6月 藤田伝三郎が兵庫県知事に「湊川附換之儀御願」藤田伝三郎が個人で兵庫県知事より、すべて私費でなら許可の指示を受ける。
明治21年(1888)3月 藤田伝三郎、鴻池善右衛門、村野山人ら7名で再願い
その後も紆余曲折を経て湊川隧道を掘削することで決着。藤田伝三郎も大きな役目
を果たした。
経過の詳細 https://web.pref.hyogo.lg.jp/kok11/ko05_1_000000019.html
児島湾干拓事業:65年の歳月をかけて昭和38年(1963)に完成。詳細は略
美と教育:
藤田が集めた美術品は「藤田コレクション」として名高い。
大阪市都島区網島町の旧藤田邸跡にある藤田美術館(現在休館中)には、
藤田と息子平太郎と徳次郎が集めた国宝9点、重要文化財51点を含む数千点が収納されている。
藤田の大阪本邸は太閤園、東京別邸は椿山荘、箱根別邸は箱根小涌園、
京都別邸はホテルフジタ京都に衣替えし、藤田観光が経営する。
美術品蒐集だけでなく、慈善事業や学校教育のための寄付に励み、
自身は兼ねがね徒手空拳から大富豪になったので「富者の楽しみ」と
「貧困の味」をよく知っていると語っていた。
また日本女子大学の化学館、慶應義塾大学の旧図書館の建設や、
早稲田大学の理工学部の創設などには、藤田からの多額の寄付があてられた。
尚、藤田が明治十八年の淀川洪水によって被害を受けた大長寺(後に移転)の敷地を
買い取って建てた大阪本邸(網島御殿)の土地は戦後に分割されて藤田美術館、太閤園の他、藤田邸跡公園、大阪市公館になっている。
藤田伝三郎の略歴年譜:
明治6年(1873年)井上馨が設立した先収会社の設立に参画する。
明治9年(1876年)井上馨の斡旋により藤田三兄弟による「協約書」が作成され、後の藤田組の基盤がつくられる。
明治10年(1877年)西南戦争が勃発すると征討軍の軍需物資を用立てて巨額の富を得る。
明治11年(1878年)大阪商法会議所創設の際、発起人の一人となる。
明治12年(1879年)藤田組贋札事件で伝三郎は逮捕されるが、後に冤罪が判明して釈放される。
明治13年(1880年)愛媛県の市ノ川鉱山の経営に関与して鉱業に進出。大阪硫酸製造会社を創設する。
明治14年(1881年)関西貿易社設立へ参加する。同年、社名を藤田組に変更する。
資本金は6万円。その内訳は藤田伝三郎3万円、藤田鹿太郎と久原庄三郎は各15000円である。
明治15年(1882年)琵琶湖の太湖汽船を設立する。
明治16年(1883年)大阪紡績初代取締役頭取に就任する。
明治17年(1884年)9月、政府から秋田県の小坂鉱山の官業払い下げを受ける。この鉱山は以後藤田財閥の中核となっていく。そして、阪堺鉄道(後に南海電鉄)の設立に参画する。
明治18年(1885年)大阪商法会議所第二代会頭に就任する。(初代は五代友厚)
明治20年(1887年)3月、渋沢栄一、大倉組の大倉喜八郎と組んで土木事業に進出し、有限責任日本土木会社を設立する。大阪商品取引所理事長に就任する。
明治21年(1888年)1月、山陽鉄道設立に参画する。同年、大阪毎日新聞成立に参画する。
明治22年(1889年)岡山県の児島湾干拓事業の認可を受ける。
明治25年(1892年)11月、有限責任日本土木会社解散。
明治26年(1893年)6月、大倉喜八郎が単独経営の大倉土木組(現・大成建設)を創設し、日本土木会社の事業は大倉土木組に継承され、藤田組の所有であった軍需・土木事業が譲渡される。
明治26年(1893年)12月、藤田組の本社を合名会社に改組し、合名会社藤田組としてグループ企業の中枢管理機関となる。
明治30年(1897年)1月、北浜銀行の設立に参画する。
明治32年(1899年)5月、本山彦一の下で児島湾干拓事業を開始
(埋立が完了したのは昭和38年(1963年))。
同時に1600町歩にも及ぶ藤田農場の開発に着手する。
この頃、小坂鉱山の事務所長であった久原房之助(久原庄三郎の四男)が鉱山事業の立て直しに成功し、経営の多角化と投機の失敗で借金が膨らんでいた藤田組を持ち直させた。この功績は誠に大である。明治38年(1905年)、久原房之助は藤田組の取締役となっていたが、藤田三兄弟が財産争いを起こして紛糾し、嫌気がさして退社した。同年、茨城県の赤沢銅山を買収して日立鉱山と改名し、久原鉱業所を設立した。そして、日立鉱山を中心に手広く事業を行って久原財閥を形成していった。やがて、これが久原の妻の兄にあたる鮎川義介によって経営されるようになり、日産コンツェルン(鮎川財閥)となっていく。ちなみに、小坂鉱山から日立鉱山に移った小平浪平は、そこで後年の日立製作所の基礎を作って足場を固めて行った。
明治38年(1905年)共同経営者として名を連ねていた伝三郎の甥達が相次いで独立した為、伝三郎の単独経営となる。
明治39年(1906年)宇治川電気設立に参画する。
明治44年(1911年)大阪亜鉛鉱業を設立する。民間人初の男爵に受勲。
明治45年(1912年)伝三郎死去。長男の藤田平太郎が家業を継ぐ。
児島湾埋立事業で第二区が完成し、その区域が児島郡藤田村と命名される。
大正4年(1915年)4月、秋田県の花岡鉱山を買収。
大正5年(1916年)9月、岡山県の柵原鉱山を買収。
大正6年(1917年)藤田銀行を設立。鉱山部門を藤田鉱業株式会社として分離する。
昭和3年(1928年)金融恐慌により藤田銀行が破産する。
昭和12年(1937年)3月、合名会社藤田組と一度分離した藤田鉱業株式会社が合併し、株式会社藤田組を設立する。
昭和20年(1945年)12月、同和鉱業株式会社に社名を変更。藤田鉱業株式会社を再び分離する。
昭和23年(1948年)藤田鉱業株式会社の名称を藤田興業株式会社に変更する。
昭和30年(1955年)藤田興業株式会社から藤田観光株式会社を分離する。
昭和32年(1957年)9月、分離していた藤田興業株式会社を合併する。
平成2年(1990年)1月、興産株式会社を合併する。
平成3年(1991年)4月、東京熱処理工業株式会社を合併する。サーモテック事業本部を設置する。
平成12年(2000年)4月、社内カンパニー制を導入する。
平成18年(2006年)10月、DOWAホールディングス株式会社に社名を変更し、持株会社制に移行する。事業会社DOWAメタルマイン、DOWAエコシステム、DOWAエレクトロニクス、DOWAメタルテック、DOWAサーモテックを設立する。
2021年2月12日に藤田観光が大阪市の太閤園を売却という報道がありましたので
リンクしておきます。
藤田観光「太閤園」売却へ 財務改善の方針へ - CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ) (goo.ne.jp)