CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ)

神戸・岩国の最新情報を中心に紹介していきます。歴史や時事について調べた結果を紹介。

2024年9月の神戸市の最高気温と最低気温

2024年09月12日 04時29分26秒 | 神戸情報
9月に入っても真夏日が続く毎日です。
昨日(9月11日)19時前のNHK総合テレビで標題のデータが気象予報士の南さん
から紹介されました。非常に判り易い図なので記憶のためにブログとしました。


9月9日の35.9度Cの猛暑日は過去1番遅い猛暑日との解説もありました。

関連サイト:

全国的に見ればそれでも神戸の最高気温はましな方だと思います。

熱中症に充分注意してお過ごしください。

足などの痙攣(こむら返り)も熱中症の症状の一つと考えられています。
こむら返り対策としてブログを作成しています。ご参照ください。


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徳川家康の戒名はなんと19文字の長い戒名です

2024年09月11日 05時21分59秒 | Weblog
徳川家康の戒名は「東照大権現安国院殿徳蓮社崇誉道和大居士」
読み方は「とうしょうだいごんげんあんこくいんでんとくれんしゃすうよどうわだいこじ」で
なんと19文字の長い戒名です。

遺言に沿って、仏式の神道説により家康公の御霊を「東照社(東照宮の前身)」に
東照大権現として祀り、増上寺から「安国院殿徳蓮社崇誉道和大居士」という戒名を授かった

参考として一番短い戒名は幸田露伴の「露伴」

徳川家康(1542年-1616年)の墓所は以下の通りです。
 ・久能山東照宮(静岡県)
 ・日光東照宮(栃木県)
 ・高野山(和歌山県)
 ・南宗寺(大阪府)
 ・圓光寺(京都府)
 ・大樹寺(愛知県)

各墓所について下のサイトで詳しく書かれていますのでリンクさせていただきました。

最近、覚園寺の重要文化財 石造宝篋印塔(開山塔と大燈塔)を調べていた際、
東照宮奥社宝塔(徳川家康の廟)を見つけたので写真紹介します。

上の写真は徳川家康の墓(東照宮奥社宝塔)
出典:重要文化財14 建造物Ⅲ 文化庁監修 毎日新聞社(1972)Page 74
著作権失効

この神域は昭和40年(1965)350年大祭以降は特別に公開されています。
徳川家康はこの地に、没後1年経った元和3年(1617年)に改葬されたと言われています。
高さは5mほどあり、もともとは元和8年(1622)に木造で創建されましたが、寛永18年(1641)に石造に改められました。さらに地震で倒壊した為、天和3年(1683)に
鋳銅製に改められました。1908年8月1日に国の重要文化財に指定されました。

今回作成のブログは内容が薄いので重要文化財14 建造物Ⅲ 文化庁監修 毎日新聞社(1972)
Page 74より徳川家3代将軍(徳川家光)、4代将軍(徳川家綱)、5代将軍(徳川綱吉)の
墓の写真を添付して筆を置きます。いずれも重要文化財に指定されています。



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藤原道長の御岳詣がNHK大河ドラマ「光る君へ」第34回「目覚め」で放送される

2024年09月10日 05時24分51秒 | Weblog
9月8日放送のNHK大河ドラマ「光る君へ」第34回「目覚め」で寛弘4年(1007)
世の安寧と一条天皇中宮「彰子」の懐妊を祈願するため御岳詣(金峯山への参拝)に
時の権力者「藤原道長(966-1027)」が嫡男の藤原頼道、中宮権大夫の源俊賢を
伴って京を出立する場面が放送されました。(下の2枚の写真)




御岳詣について
宇多天皇は899年に出家し宇多法皇となったその翌年(900年)頃に金峰山寺に参詣し御岳詣の
先駆となった。その後、藤原道長や師通ら皇室や有力貴族が登拝してからは
「御嶽詣」が盛んに行われるようになっています。
金峯山寺の中興の「聖宝」が参拝路を整備したことも貴族の参詣を呼び込む事となりました。
平安時代は末法思想の広がりにより、当時の貴族や多くの人々は56億7千年後の
弥勒如来の出現と仏法の再生を願い経塚の造営を盛んに行っています。


本ブログではその場面を紹介すると共に実際の旅程を御堂関白記の記述から
御岳詣の前後の記録を辿っていきます。月日はすべて旧暦

寛弘四年(1007年) 八月二日 都を出発

  二日、乙巳。金峰山に参る。丑時を以て出立す。御物忌に立つ。門を出づる間、塩湯を以て衆人に灑ぐ。中御門より西行し、大宮より南に出づ。二条より朱雀門大路に到る。礼橋の下にて解除す。羅城門より出で、鴨河尻にて舟に乗る。時に辰。八幡宮に参る。午時、奉幣す。諷誦。信布三十端。宮より出づ。身主渡より東に渡る。内記堂と云ふ処に宿す。

 寛弘四年(1007年)八月三日 奈良に到着
 三日、丙申。大安寺に宿す。扶公、事を儲く。華美に依りて、其の処にあらざるに依り、南中門の東腋に宿す。御明・諷誦。信布三十端。

寛弘四年(1007年)八月四日
 四日、丁酉。井外堂に宿す。雨、日を尽くして降る。御明・諷誦。信布十端。

寛弘四年(1007年)八月五日
 五日、戊戌。終日、雨降る。軽寺に宿す。御明・諷誦。信布十端。

寛弘四年(1007年)八月六日
 六日、己亥。天晴る。壺坂寺に宿す。御明・諷誦。信布三十端。

寛弘四年(1007年)八月七日
 七日、庚子。観覚寺に到る。沐浴す。御明・諷誦。信布三十端。現光寺に到る。御明・諷誦。信布三十端。野極に宿す。此の間、雨下る。御明・諷誦。信布十端。

寛弘四年(1007年)八月八日
 八日、辛丑。終日、雨下る。宿す。

寛弘四年(1007年)八月九日
 九日、壬寅。時々、雨下る。寺祇園に宿す。宝塔にて昼、飯を為す。両寺に皆、諷誦を修し、御燈を奉る。

寛弘四年(1007年)八月十日
 十日、癸卯。時々、雨下る。御在所の僧房金照の房に着す。午時、沐浴し、解除す。

寛弘四年(1007年)八月十一日 大峯山寺への参拝
 十一日、甲辰。早旦、湯屋に着し、水十??を浴む。解除して、御物の前に立つ。小守三所に参上す。金銀・五色の絹幣・紙の御幣等・紙・米等を献ず。護法、又、同じ。三十八所に詣づ。同じく又、幣等を供す。五師朝仁、之を申す。被物を賜ふ。次いで御在所に参り、綱二十条・細盖十流を献ず。御明燈を供し、経を供養す。法華経百部・仁王経□□は三十八所の御為、并びに主上・冷泉院・中宮・東宮等の御為。理趣分八巻、八大竜王の為の心経百十巻を、七僧・百僧を請じ、供養し了んぬ。講師・呪願に綾の褂一重、五僧に白き褂一重。
 十一日。百僧に絹一疋・袈裟一条。未前に七僧に法服・甲袈裟を送る。余には宿衣。御燈申上の僧に単重。七僧の布施、□□□□□□□□□□百僧の布施、米二石・信濃三端。諷誦百端。満寺の僧供料、米百石。又、前年、手づから書き奉る金泥法華経一部、此の度、書き奉る弥勒経三巻・阿弥陀経・心経等を、同道の僧七口を以て申上す。講師、覚運大僧都。呪願、定澄大僧都。読師、扶公法橋。唄、懐寿。三礼、明尊。散花、定基。堂達、運長。皆、被物あり。件の経等、宝前に金銅の燈楼を立て、其の下に埋め、常燈を供すなり。今日より初む。今日、諷誦を修す。五師・三綱に禄を給ふ。別当金照・朝仁等に白き褂一重。自余に単重。権大夫、経を供養す。七僧・三十僧。七僧に疋絹。金照に単重・米三十石を加ふ。□□□源中納言、之に同じ。我が経に次いで、女方、経十部を供養す。我が御明の百万燈、皆、所々の御為に有り。事了りて所々を見るに、霧下りて、意のごとく見えず。房に還る。金照に褂を賜ひ、即ち下向す。夜に入りて、寺に宿す。祇園

寛弘四年(1007年)八月十二日
 十二日、乙巳。天晴る。宝塔に着く。膳を進る。又、金照の申すに依りて、石蔵に着く。金照の房を定む。其の寺、甚だ美なり。膳を進る。即ち野極に立つ。馬に乗る。下道より水辺に着く。頼光・維叙・業遠等、来たる。余の人々、誡に依りて、来たらず。夜に入りて、宿す。

寛弘四年(1007年)八月十三日 舟で大和川を下る
 十三日、丙午。天晴る。広大野より□□に着す。国司、膳を儲く。仮屋数屋を立つ。国司に馬を給ふ。泉河の岸上の仮屋に着す。大和守の為す所なり。即ち舟に乗る。

寛弘四年(1007年)八月十四日 都に帰着
 十四日、丁未。暁、淀に来たりて、車に乗る。鴨河の精進所に着す。精縄を以て解除す。土御門に着す。即ち大内、并びに東宮に参り、退出す。

大峯山寺、藤原道長が奉納した経塚、経筒を含めて下記ブログで詳述しています。
 

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折口信夫父子墓碑へのバーチャル訪問

2024年09月09日 15時46分17秒 | バーチャル探訪
石川県羽咋市一ノ宮町にある折口信夫父子墓碑にバーチャル訪問したいと思います。
このブログ記事を書くキッカケになったのは2024年7月2日読売新聞朝刊30面に
折口信夫父子の墓という名称で文化部の待田晋哉さんが記事を書かれていました。


上の写真が折口信夫父子の墓碑です。
墓碑には「もっとも苦しきたたかひに最くるしみ死にたるむかしの陸軍中尉 
折口春洋ならびにその父信夫の墓」と刻まれています。


折口信夫(1867-1953)が折口春洋の死を嘆き、自ら墓碑を選定、昭和24年に春洋の生家藤井家の墓地に建てたものです。

気多大社境内に設置の折口博士父子の歌碑と共に折口信夫父子の墓が下記サイトでも紹介されています。

折口信夫(1867-1953)博士の一生
明治20年(1887)2月11日大阪府西成郡木津村(現大阪市浪速区敷津西町)に父秀太郎(医業)、母こうの四男として生まれる。
明治43年(1910)國學院大學を卒業。大阪で中学校教師をしたのち、國學院大學に勤め、国文学、民俗学、芸能学、言語学と研究分野を広げる。大正10年(1921)9月國學院大學教授となり、昭和3年(1928)5月慶應義塾大学教授を兼任、昭和7年(1932)3月に文学博士となる。
一方で詩歌の才能に優れ、釈迢空の筆名で独自の歌風を確立する。
生涯独身で、門弟の鈴木金太郎、藤井春洋等と同居。昭和19年(1944)7月21日に春洋を養嗣子とする。
昭和24年(1949)7月、春洋の生地である羽咋市一ノ宮町に父子墓を建てた。 昭和28年(1953)9月3日午後1時11分、胃癌のため没した。享年66歳。

さらに詳細な年譜は下記サイトに詳しく書かれています。

私がこれまでに書いた折口信夫に関する写真と記述を再掲載しておきます。

上の2枚の写真は奈良県明日香村の飛鳥坐神社の境内にある折口信夫博士に由来の歌碑と説明板
撮影:2016年12月22日
民俗学・国学者であり、「死者の書」の著述で知られる折口信夫氏は、飛鳥坐神社の
宮司の家に養子に入ったこともあり、そのことを終生誇りに思っていたそうです。
説明板には81代宮司の飛鳥助信(1781-1859)を祖父にもつとの記述が見えます。
現在の宮司は87代目。
国文学者である折口信夫は飛鳥坐神社の神主家・飛鳥助信(飛鳥坐神社の神官の子
を意味する。母方の祖父)、造酒ノ介(彼はもと、大和の明日香村岡寺前の
岡本善右衛門の8男であったが、同地の古社飛鳥坐神社の累代の神主家飛鳥助信
の養子となった)の孫に当たる。

そのため、境内には釈超空(折口信夫)の歌碑があるというわけだ。

飛鳥坐神社への訪問記



上の2枚の写真は談山神社境内にある折口信夫(釈迢空(しゃく ちょうくう))の歌碑と折口信夫氏の紹介板
撮影:2013年7月6日

談山神社への訪問記は下記ブログで書いています。



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ダイニング SACHI でのランチ on 2024-9-4

2024年09月05日 04時34分22秒 | 神戸情報
2024年9月4日に訪問した神戸市須磨区のダイニング SACHI でのランチを
写真紹介します。前回の訪問が2014年12月26日なので10年ぶりの訪問です。

ダイニング SACHI の基本情報  

住所:神戸市須磨区東落合2-11-2  TEL:078-754-8778
料理ジャンル:和食
営業時間:11:00~17:00 
定休日:日曜日+月曜日
オープン日:2014年6月10日



所在地のGoogleマップを添付しておきます。
 


いきなりですが、まずメニュー表を紹介します。
当日は楓 1,540円(税込)を注文しました。

 
料理はまず先付が出てきます(上の写真)
上の写真は楓のメイン膳です。
ヘルシーで美味しくいただきました。
人気店でお客さんの数も多く、予約していないお客様を断っている状況もありました。

上の写真はお店の入口外観

上の写真は駐車場の案内です。

上の写真はテークアウトメニューです。

上の写真は9月の定休日


野菜味噌の紹介掲示

神戸市須磨区の和食のグルメ処としてお奨めできるお店です。

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カフェ&レストラン「たるみの森」でのランチ on 2024-9-3

2024年09月04日 05時10分25秒 | 神戸情報
2024年9月3日、カフェ&レストラン「たるみの森」でランチをいただきましたので
写真紹介します。訪問は4回目のお店です。

 
カフェ&レストラン「たるみの森」の基本情報
住所:神戸市垂水区神田町4−29 2F TEL:078-707-1600
営業時間:11:00~22:00(金土日、祝日) 月火木は11:00~17:00 
定休日:水曜日

所在地のGoogleマップを添付しておきます。(JR,山電の垂水駅から約2分のところに立地)

上の写真はリーフレットに記載のお店の地図です。
私がよく利用している花百咲(はなひさき)の近くのお店です。

当日は私が好きなチキンステーキが売り切れだったので肩ロースステーキ1,490円(税別)を
注文しました。アイスコーヒー200円(税別)も注文しています。
合計金額は1,859円(税込)でした。

ステーキであればサーロインステーキを注文したかったがこちらも売り切れ
人気メニューがこの2つであることが判ります。

上の写真は当日、注文した肩ロースステーキが掲載のメニュー表です。










上の6枚の写真はその他のメニュー表です。

Google口コミに投稿すればティラミスがサービスで出てきます。

過去の訪問記 






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累計訪問者数 305万uuを突破 on 2024-9-2

2024年09月03日 04時04分22秒 | Weblog

昨日(2024年7月25日)に累計の訪問者数が305万uuを突破しました。

憶えの為、記載しておきます。
本ブログ(Gooブログ)も2004年に開設していますので20年程続けています。
あと何年生きれるか判りませんが死ぬまで継続出来ればイイナと考えています。

Gooブログ初投稿は下記の記事です。(2004年6月3日)

 
上の写真が初投稿で使用した写真です。
次のように書いています。
2004年5月19日、雨で増水した錦帯橋の写真です。
岩国に来て3年になりますが川原が水に浸かったのを
見たのは初めてです。

直近の週間アクセス数 
    (2024.8.11〜 2024.8.17)         9,629UU、36,351PV 230位
    (2024.8.18〜 2024.8.24)         9,088UU、35,135PV 235位
             (2024.8.25〜 2024.8.31)          11,159UU、34,773PV 180位

アクセスしていただいた方々に感謝致します
これを励みに無理をしない程度に継続していきたいと思います。
尚、2024年9月2日(月)現在の総閲覧数は11,145,242PVです。

300万を突破した時の記録

295万を突破した時の記録

290万を突破した時の記録 

285万を突破した時の記録

280万を突破した時の記録

275万を突破した時の記録

270万を突破した時の記録

265万を突破した時の記録

260万を突破した時の記録

255万を突破した時の記録

250万を突破した時の記録

245万を突破した時の記録

240万を突破した時の記録

235万を突破した時の記録

230万を突破した時の記録

225万を突破した時の記録

220万を突破した時の記録
 
215万を突破した時の記録
210万を突破した時の記録
205万を突破した時の記録
200万を突破した時の記録
195万を達成した時の記録
190万を達成した時の記録
185万を達成した時の記録
下記ブログでさらに以前のアクセス数の推移を記載しています。
 
写真が無いと無味なので最近撮った写真を紹介します。

上の写真は神戸市垂水区のJR垂水駅近くで建設が進められている垂水図書館の建設現場
背景の建物はレバンテ1号館 撮影:2024年8月29日(木)

最近は熱中症にならないように外出を控えているためにあまり写真がありません。
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神戸デパートは1965年から1995年に神戸市長田区「アスタくにづか1番館」の位置に存在していました

2024年09月01日 04時46分42秒 | 昔こんなものがあった 平成編
神戸デパートは大橋第一地区市街地改良事業として周辺のビルとともに昭和40年(1965)に
完成し、同年11月23日にオープンしました。
当時の商圏の中心は完全に三宮に移っており商圏を引き戻すための核店舗として
「神戸デパート」は約15億円を投じて、地下1階・地上7階・塔屋2階で昭和39年5月に着工し
昭和40年11月23日に開店を迎えた。

完成後
上の写真は昭和40年大橋第一地区市街地改良事業として周辺のビルとともに完成した神戸デパート
出典:神戸アーカイブ写真館編 西新開地(西神戸)物語(2015)Page67

改造工事中
上の写真は市街地改造中の神戸デパートなど建物
出典:神戸アーカイブ写真館編 西新開地(西神戸)物語(2015)Page66

改造工事前

上の写真は昭和36年(1961)改造工事前の神戸デパート付近
出典:神戸アーカイブ写真館編 西新開地(西神戸)物語(2015)Page66
 
Wikipediaでは神戸デパートを次のように解説されています。
1965年(昭和40年)11月23日に130店舗が入居して開業した商業施設。 
神戸都市振興株式会社(現存せず)が山陽本線新長田駅南側の
神戸市長田区腕塚町5丁目に開設していた。
入居に際しては神戸都市振興株式会社と契約するが、入居する床部分との契約ではなく、
同社の株式を所有する手法であった。契約上では床部分は入居者へ貸し出さず
あくまで神戸都市振興株式会社の所有であり、このため、多くの面積を利用する業者は
核テナントではなく主要株主であり、官が管理する施設であるとともに
民営の施設(公設民営)である。この手法は、店舗配置にとらわれない
全体的な空間設計を可能とした。



上の2枚の写真は神戸デパート完成式典(昭和40年)の様子です。
出典:神戸アーカイブ写真館編 西新開地(西神戸)物語(2015)Page67

昭和49年(1974)放火による火災



上の2枚の写真は昭和49年(1974)2月17日(日)の深夜に少年による放火が原因による
火災の消火作業の様子。火災は翌日2月18日の19時32分に鎮火した。
1~5階までの床面積の約67%(6,289㎡)を焼失した。
出典:神戸アーカイブ写真館編 西新開地(西神戸)物語(2015)Page70

阪神淡路大震災に被災
上記のように神戸デパートは火災に遭ったが、再建され再びオープンした。
しかし、平成7年(1995)1月17日の阪神・淡路大震災に被災し、建物は形状をとどめていたが
使用不能と判定され閉店となった。同年の暮れから翌年にかけて解体された。
閉店後しばらく経って、周辺一体が震災復興再開発地区となり、住商一体型の
「アスタくにづか1番館」が建設され、平成11年(1999)11月21日に完成した。

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