CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ)

神戸・岩国の最新情報を中心に紹介していきます。歴史や時事について調べた結果を紹介。

熊本県嘉島町の上官塚遺跡の古墳群から囲い付の家形埴輪が出土(九州で2例目)

2024年08月18日 05時08分25秒 | 考古学
熊本県嘉島町の上官塚遺跡の古墳群(5世紀前半ごろ)で、住居とその囲いを
かたどった埴輪が出土した。町によると、住居と囲いがセットで発掘されるのは
「小熊山古墳・御塔山古墳」(大分県杵築市)に次いで九州では2例目。
今秋から熊本県立装飾古墳館(山鹿市)で一般公開が予定されている。
 住居形の埴輪(幅43cm、高さと奥行き33cm)は赤く彩色され、
壁面には鏡をつり下げた様子を示したとみられる円形の模様が確認できる。
囲い形(幅62cm、高さ14cm、奥行き40cm)は、上部に切り込みがある。
上官塚遺跡では、これまでも円筒形の埴輪や甕棺などが多数出土している。
住居と囲いをかたどった埴輪は、町の土地区画整理事業に伴う埋蔵文化財調査で
2006年(平成18年)までに発掘された。

以上は8月16日、神戸新聞(夕刊)より引用

上官塚遺跡の古墳群から出土の囲い付の家形埴輪の写真や資料を下記の
嘉島町文化財調査報告第11集「上官塚遺跡」発行:令和6年3月29日より
(奈良文化財研究所 データベース)

ピックアップして紹介します。



上の写真は囲い付の家形埴輪の家形埴輪

上の写真は上記、家形埴輪の実測図

上の写真は囲い付の家形埴輪の囲い部分

上の写真は上記、囲い部分(囲形埴輪)の実測図


囲い付の家形埴輪のイメージは東京新聞の下記サイトに掲載されています。


uenosyasinnha
上の写真は上官塚古墳群と上官塚遺跡の遠景
上の写真は上官塚古墳群の中の囲い付の家形埴輪が出土したSZ09



上の写真はSZ09の家形埴輪などの出土状況


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発掘調査のウラ側 吉野ケ里遺跡バックヤードツアー、卑弥呼の関する資料及び発掘調査のニュース

2023年11月23日 05時21分14秒 | 考古学
2023年11月5日に実施された「バックヤードツアー」に関するYoutube動画が
ありましたので忘れないうちにGooで共有させていただきました。

発掘調査のウラ側 吉野ケ里遺跡バックヤードツアー 佐賀 KBC NEWS

下記文章で紹介されています。
11月5日、国指定特別史跡・吉野ヶ里遺跡で行われた「バックヤードツアー」には、佐賀県内外から応募した考古学ファン17人が参加しました。 普段は公開されていない収蔵施設に入り、出土品の数々を見学しながら保管する上での注意点などについて専門の職員から説明を受けました。 吉野ヶ里遺跡では今年4月、邪馬台国時代と重なる弥生後期の有力者のものと見られる石棺墓が見つかり「すわ卑弥呼か」と話題になりました。 結局、人骨や副葬品は見つかりませんでしたが、ツアーでは墓の石蓋に触れることが出来ます。

非常に話題となったNewsなので記憶に留めるためにLINK集を作成
国指定特別史跡・吉野ケ里遺跡(神埼市郡)で6月24日、北墳丘墓西側の「謎のエリア」で
見つかった石棺墓の特別公開が始まったニュースです。

邪馬台国時代の石棺墓に「感動した」 吉野ヶ里遺跡で一般公開   


 人骨や副葬品など邪馬台国九州説を裏付ける証拠は発見出なかった。

 吉野ヶ里遺跡で新たに見つかった「石棺墓」 誰が埋葬されていたのか? 専門家の見解は 【佐賀県】 (23/06/15 18:40)  

 吉野ヶ里遺跡 新発見の「石棺墓」記された“印”の謎に迫る【シリタカ!】  



9月23日からの発掘調査再開のニュースです。

吉野ヶ里遺跡の概要
 

吉野ヶ里遺跡の発掘調査と特別史跡指定、歴史公園整備の経過
吉野ヶ里遺跡の発掘調査は、工業団地計画に伴い昭和 61(1986)年5月から開始 しましたが、国内最大規模の弥生時代環壕集落跡や墳丘墓の発掘などにより、平成元 (1989)年2月以来大いに注目されてきました。その後、吉野ヶ里遺跡を取り巻く状 況は、平成元(1989)年3月の工業団地計画中止と遺跡保存の決定、翌2(1990)年・ 3(1991)年の史跡・特別史跡としての指定、平成4(1992)年の国営公園化の閣 議決定、平成7(1995)年 11 月からの歴史公園整備工事着手、平成 13(2001)年 4月 23 日の第1期開園と急速な展開を遂げました。歴史公園整備は平成 25(2013) 年3月 20 日に「古代の森ゾーン」が概成し、国営公園部分についてはほぼ完成してお り、現在は多くの来園者で賑わっています。

吉野ヶ里遺跡の関連ということで2017年3月28日に訪問した大阪府立弥生文化博物館の展示より
卑弥呼に関連する資料をピックアップして写真紹介します。
出典で特記記載してある写真以外は上述の弥生文化博物館の展示資料からの写真です。

卑弥呼の衣装

 
上の2枚の写真は卑弥呼の衣装を復元した展示と説明パネル

卑弥呼の食事

上の写真は卑弥呼の食卓の説明パネル

卑弥呼の生きた年代
生誕:不明 死去:248年頃
関連事項 189年頃 共立される(魏志倭人伝より)倭国大乱は147年から189年
     239年、243年、247年 魏に使者を送る(魏志倭人伝より)
     239年 卑弥呼がナシメ(難升米)を使者として魏に送る
     魏の王より卑弥呼の使いが100枚の銅鏡、金印を賜ったことで有名
         金印には「親魏倭王」と刻印されている。
     240年 魏の使者梯儁(ていしゅん)が卑弥呼のところにくる
       この頃、邪馬台国と狗奴国(くなこく)との争いが激しくなる
     243年 卑弥呼がウキグ(伊声耆)、ヤクヤコ(掖邪狗)を魏に送る
     245年 卑弥呼が魏の使者に送る。狗奴国との様子を告げる。
     247年 卑弥呼、狗奴(くな)国王と戦う
     248年 卑弥呼死去後内乱起きるが宗女台与(とよ)が女王となり治まる
         邪馬台国が狗奴国を滅ぼす
     266年 邪馬台国女王台与( 壱与)、西晋に献使
     こののち日本では国内の統一が進み大和朝廷が成立する。


上の2枚の写真は卑弥呼が生きた時代の東アジア

卑弥呼の登場によりムラの段階からクニ(邪馬台国)へと移行していった
ことを説明したパネル
写真に卑弥呼の館(1番上の建物)が描かれています。
吉野ケ里遺跡は佐賀県吉野ケ里町と神埼市にまたがる遺跡群。国内最大規模の環濠集落跡がある。
弥生時代前期に2・5ヘクタールだった集落が中期に20ヘクタール、後期には
40ヘクタール超に拡大しており、小さなムラがクニに拡大する過程が確認できるとして
1991年に国特別史跡に指定された。
約600メートル続く甕棺墓(かめかんぼ)列や、銅剣などを副葬した弥生時代中期の有力者の墓が見つかっている

邪馬台国の組織
上の写真は邪馬台国の組織図
出典:歴史人 2023年10月号(No.154) Page34
卑弥呼が生きていた頃、万物を支配する力を人々は「神」と呼んでいた。
山にも海にも川にも、その他すべてのものには「神」が宿っていると考えられていました。
神に一番近いのが遠い祖先の霊。祖先の言葉を理解し、神の声を聞き取ることが出来る人を
「巫女」と呼び人々は崇めた。卑弥呼は巫女でも一番偉い巫女の女王。
邪馬台国の女王でもあった。卑弥呼には弟王のトネリが居た。
卑弥呼には夫はおらず、弟の王が卑弥呼を助け、政治の補佐をして国を治めていた。
トネリには側近で邪馬台国の政治を取り仕切っているナシメ(難升米)がいた。
卑弥呼が女王になって以降、卑弥呼の顔を見たものは皆無であった。
卑弥呼の言葉は全て弟王によって人々に伝えられた。

箸墓古墳の関する説明パネル

上の写真は箸墓古墳が卑弥呼の墓の候補であるとした根拠を示す土器のAMS年代測定結果
を説明したパネル  

卑弥呼の館

上の写真は卑弥呼の館の模型展示


上の2枚の写真は復元 卑弥呼の館 縮尺模型1/50
右半分(上) 左半分(下)
上の写真は卑弥呼の住まいの中心部 卑弥呼は神殿の奥に住んでいます。


卑弥呼の宝石箱


上の写真は吉野ケ里遺跡の出土品を復元した「胸飾り」と「ガラス管玉」
出典:兵庫県立考古博物館の春季特別展「弥生時代って知ってる?」2021年7月4日、観覧 

卑弥呼と鏡の世界
魏の年号である景初3年(239)卑弥呼は魏へ使いを送った。これに対して、魏の皇帝の曹芳は
卑弥呼を親魏倭王に封建した。さらに銅鏡100枚を授けた。
景初3年の年号の入った三角縁神獣鏡は島根県の神原神社古墳より1面出土している。
この三角縁神獣鏡は卑弥呼が連合国に分与した1枚であるという説もあるが疑問視されている。





漢委奴国王の金印



上の2枚の写真は「漢委奴国王(かんのわのなのこくおう)」と刻まれた金印の複製品
と説明パネル。倭の字がにんべんが無いことに注目。
天明4年(1784)福岡市の志賀島(しかのしま)で出土(甚兵衛さんが発見)
重さ109g 一辺2.3cmの角印  現物は福岡市立博物館蔵
上の写真は「漢委奴国王(かんのわのなのこくおう)」と刻まれた金印の複製品 の展示
出典:兵庫県立考古博物館の春季特別展「弥生時代って知ってる?」2021年7月4日、観覧 
西暦57年、九州北部の玄界灘に面した奴国の王が中国の都・洛陽に使者を送り金印を授与した。

魏志倭人伝



「中平」年銘の鉄刀

上の写真は「中平」銘の太刀の説明パネル
上の写真は「中平」銘の太刀の展示(左)、卑弥呼の食卓の展示(中)と
卑弥呼の宝石箱の展示と説明パネル(右)の遠景

邪馬台国の候補地


上の写真は邪馬台国とその周辺諸国の推定地(九州説&畿内説)
出典:真鍋和子著 邪馬台国の女王卑弥呼(1997)Page21
上の写真は魏志倭人伝にみる邪馬台国への道
出典:帝国書院 地図で訪ねる歴史の舞台(2016)Page41

邪馬台国の戸数は7万戸ということから畿内又は九州に絞られます

九州北部の弥生遺跡
上の写真は弥生遺跡の中で先進的な技術である銅剣、銅鐸、銅矛、銅戈、ガラス玉、銅釧、鏡
などを製造するための鋳型の遺物を出土した弥生遺跡です。
九州北部では鋳型が出土した弥生遺跡は多く古くから先進的な地域であったことが判ります。


上の写真は鋳型の種別。

近畿地方の弥生遺跡
上の写真は同じく鋳型が出土した近畿地方の主な弥生遺跡
邪馬台国との関連で言えば唐古・鍵遺跡が纏向遺跡(邪馬台国の候補地)のすぐ近くに立地

池上曽根遺跡
上の写真は池上曽根遺跡の発掘の歴史とムラの歴史
上の写真は池上曽根遺跡周辺の地形図(推定図)
上の写真は池上曽根遺跡から出土の木製呪術具(左の2つ)
上の写真は池上曽根遺跡の復元された大型建物

弥生時代の新技術


吉野ヶ里遺跡
上の写真は吉野ヶ里遺跡の全容を図示した地図
出典:帝国書院 地図で訪ねる歴史の舞台(2016)Page41

上の写真は日本最大規模の環濠を持つ吉野ケ里遺跡(復元集落) 
出典:兵庫県立考古博物館の春季特別展「弥生時代って知ってる?」2021年7月4日、観覧 
上の写真は吉野ヶ里遺跡周辺の地図

関連ブログ





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神戸市埋蔵文化財センター 令和4年度秋季企画展「元素でたどる考古学」観覧記 on 2022-9-23

2022年10月16日 06時01分48秒 | 考古学
2022年9月23日、神戸市埋蔵文化財センターで開催中の令和4年度秋季企画展「元素でたどる考古学」を観覧しました。
その様子を写真紹介します。

11月27日(日)までが会期ですので
まだ行かれていない方は是非、ご観覧ください。

令和4年度企画展「元素でたどる考古学」の開催要項
 会期:9月23日~11月27日 開催中
 時間:10:00~17:00(入館は16:30まで)
 休館日:毎週月曜日(祝日の場合は開館) 入館料:無料
 場所:神戸市埋蔵文化財センター(神戸市西区糀台6丁目1西神中央公園内)
     TEL:078-991-8311

PRリーフレット
上の写真はPRリーフレトの表面
 写真の遺物は以下のとおりです。
  銅Cu 本山遺跡銅鐸(東灘区)      弥生中期
  炭素C 戎町遺跡の炭化米(須磨区)   弥生中期
  カルシウムCa 新方遺跡の鹿角製指輪(西区) 弥生前期
  鉄Fe 西岡遺跡の鉄釘(東灘区)     古墳後期
  水銀Hg 長田神社境内遺跡の水銀朱付着縄文土器 縄文晩期
  シリコンSi 白水瓢塚古墳のガラス玉(西区) 古墳前期
 


上の写真はPRリーフレトの裏面

6種の元素展示風景(遠景)


上の写真は展示の遠景です
 前述のように6種の元素別に展示されています。
 手前より炭素C、カルシウムCa、水銀Hg

上の写真は鉄Feと銅Cuの展示遠景

上の写真はケイ素の展示遠景

上の写真は赤色顔料(Hg)が付着した人骨などの展示
たつの市 白鷺山1号棺(左)、新宮東山2号墳1号棺(右)

周期律表


炭素に関連する分析
 赤外線写真
  
上の写真は木簡の文字を赤外線写真で読み取り解読していった例


年代を知る測定法
1)炭素14年代測定法
炭素 14 年代法は,放射性炭素(14C)が 5730 年の半 減期で放射壊変する   ことを利用した年代測定法である。 1970 年代末に試料の炭素同位体を直接
測定する加速器 質量分析法(AMS 法)が実用化され,従来の放射能計 測法  より分析時間の短縮が図られた。
Wikipediaより炭素14年代測定法の歴史を記載しておきます。
1947年にシカゴ大学のウィラード・リビー (Willard Frank Libby) が発見。
               同氏は1960年にノーベル化学賞を受賞。
1952年頃から学習院大学と理化学研究所で研究を開始。
1961年 マリー・テーマーズらが液体シンチレーション法を開発。
1979年 民間の測定請負会社が設立される。

暦年較正
大気中の14C濃度が一定で半減期が5568年として算出された14C年代に対し、過去の 宇宙線強度や地球磁場の変動による大気中の14C濃度の変動、及び
半減期の違い(14Cの半減期5730±40 年)を較正して、より実際の年代値に
近いものを算出することである。

 2)年輪年代法

 3)酸素同位体比年輪年代法

元素を調べる方法


原産地をさぐる


埴輪の胎土分析の結果、五色塚古墳、舞子浜遺跡、幣塚古墳、念仏山古墳の
埴輪の原料の土が同一産地であることが判明との展示あり。
分析装置としては波長分散型X線分析計や蛍光X線分析計が使用されます。
金属を視る
パネル展示(イオン化傾向、X線で視る)

62.鉄地銀象嵌刀装具 明石市寺山古墳


元素と歩む考古学
ミューオンによる古墳内部の透視について説明パネルなど
実際に箸墓古墳で研究をされています。

過去の企画展



下記のブログにさらに昔の企画展観覧記にリンクを張っています。

  
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福岡・船原古墳で鉄かぶと発掘朝鮮半島からの舶載品か九州初

2021年09月19日 10時03分45秒 | 考古学


gooニュース
https://news.goo.ne.jp/article/mainichi/nation/mainichi-20210917k0000m040198000c

福岡県古賀市教育委員会は9月17日、船原古墳から朝鮮半島から渡来してきた

鉄兜の一種である竪矧板革綴冑(たてはぎいたかわとじかぶと)を確認したと発表した。

縦長の鉄の板(幅約4・5~5センチ、長さ約14センチ)22枚を革ひもでとじた形状で、

同形状の冑の出土は国内で7例目、九州・山口では初。

5世紀後半~6世紀前半の朝鮮半島で出土する冑の構造と近い。

冑は古墳の石室入り口の1号土坑で出土した。

 

船原古墳について過去に書いたブログは以下のとおりです。

 福岡県 古賀市 船原古墳から出土の金銅製装飾馬具 - CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ) (goo.ne.jp)

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福岡県 古賀市 船原古墳から出土の金銅製装飾馬具

2020年09月26日 07時11分29秒 | 考古学

2014年5月10日 NHK Eテレで下記の内容の番組を録画を最近、視聴しました。

ETV特集「発見!謎の金銅製馬具~古代日本と朝鮮半島の交流史~」

平成25年(2013)3月、福岡県古賀市で朝鮮半島の新羅からもたらされたと見られる

金銅製装飾馬具が発見された。韓国では、これまで日本独自のものと見られていた

前方後円墳や“倭系甲冑”と呼ばれる日本由来の武具が発見されるなど、古代の日本と

朝鮮半島の交流の歴史に新たな見方を与える発見が相次いでいる。番組では最新の

調査と日韓の考古学者の議論を通して、古代の日本と朝鮮半島の交流史を探っていく。
出演者【出演】慶北大学校教授…朴天秀、国立歴史民俗博物館教授…松木武彦、

   【キャスター】礒野佑子

本ブログでは船原(ふなばる)古墳から出土の金銅製装飾馬具に焦点を絞り、

発掘調査の報告書の内容も踏まえて纏めてみました。

尚、上記番組内容全体を下記サイトで纏められていますのでリンクさせていただきました。

 http://inoues.net/museum2/5gatsu10nichi.html(邪馬台国大研究)

 

参照資料

 1)船原古墳Ⅰ 古賀市文化財調査報告書68集 古賀市教育委員会 2016年3月31日

 2)船原古墳Ⅱ 古賀市文化財調査報告書73集 古賀市教育委員会 2019年3月31日

 3)国史跡船原古墳保存活用計画 古賀市 2018年3月

 4)上述のNHK Eテレ番組

 5)時を越えた宝箱 船原古墳遺物埋納坑 古賀市教育委員会

 6)奈良市埋蔵文化財調査センター作成の資料

 7)森浩一 日本古代文化の探求 馬 社会思想社 昭和49年(1974)10月30日

 

古賀市と船原古墳の位置

上の写真は古賀市の位置図 出典:3)のPage11

上の写真は船原古墳の位置図 出典:3)のPage12

船原古墳の航空写真

上の写真は船原古墳の航空写真 出典:4)

 

1号土坑の位置図

上の写真は1号土坑の位置図 着色部 出典:1)のPage76

 

1号土坑から出土の遺物

 

上の写真は発掘調査時の1号土坑の写真 出典:3)のPage39

 

上の写真は1号土坑遺物出土状況 出典:2)のPage9

船原古墳は、6世紀末から7世紀初頭に造られた、現存長37.4m、復元全長45m以上の

前方後円墳です。また、古墳に隣接して発見された遺物埋納坑からは、多数の豪華な

馬具をはじめ、総数500点を超える出土品が見つかりました。

平成25年(2013)4月に現地説明会が行われ、出土した豪華な馬具が大きな話題となりました。

遺物埋納坑から見つかった出土品の中には、国内初の発見であるガラス製の飾りが付いた

雲珠・辻金具や、国内3例目となる馬冑など希少なものが含まれていることが分かりました。

それらの出土品の類例は、朝鮮半島のみであるいは朝鮮半島で多く確認されています。

また、古墳の石室内ではなく墳丘の外に掘った土坑に多量の品々を埋めるという例自体、

国内初のものです。

上述のTV番組ではヤマト王権との関係から古賀市の首長が新羅の支配者から送られた

豪華な馬具を急いで隠すために埋めたものと推測されていました。

527年に筑紫国国造磐井の乱があり528年にヤマト王権から派兵された物部 麁鹿火

(もののべ の あらかび/あらかい)により鎮圧されましたが磐井の嫡嗣の葛子は

身の危険を感じ、当時海上交通の拠点であった糟屋屯倉(かすやのみやけ)を

ヤマト王権に差し出したと日本書紀に記載されています。

その糟屋屯倉は船原古墳の周辺にある鹿部田渕遺跡が有力な候補地となっています。

 

馬具の各部名称

上の写真は主な馬具の名称 出典:5)

上の写真は馬具の各部名称 出典:6)のPage5

 

馬具の歴史と馬具の各部の役割概要

上の写真は馬具の歴史と各馬具の役割説明 出典:5)

上の写真は姫塚古墳から出土の馬形埴輪に付記そや馬具の名称 出典:7)のPage65

 

出土した馬具

上の写真は金銅製歩揺付飾金具(雲珠)のCG 出典:4)

上の写真は雲珠(うず)の周辺の辻金具と杏葉(ぎょうよう) 出典:4)

上の写真は馬具の全体 CG画像 出典:4)

鈴も金銅製です。

上の写真は辻金具(イモガイ装飾)の出土状況とCG画像 出典:4)

上の写真はガラス装飾辻金具 鶏林路14号は嘉出土 出典:4)

上の写真は金銅製鳳凰文心葉形杏葉(ぎょうよう)のCTスキャン像 出典:4)

上の写真は馬冑(ばちゅう) 出典:3)Page45

 

関連動画

VR船原古墳~最先端技術で古代九州北部を読み解け~ / ミライアングル

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兵庫県発掘調査速報 四つ葉の形をした瓦質の硯(すずり)の展示 on 2020-3-1

2020年04月20日 06時10分23秒 | 考古学

2020年3月1日、兵庫県立考古博物館で表題の展示がされていました。

展示内容を写真紹介すると共に発掘現場の福田小川原遺跡(たつの市誉田町)に

ついても概要を紹介します。

展示内容

上の写真は福田小川原遺跡(たつの市誉田町)から出土した四つ葉の形をした瓦質の硯(すずり)

硯は、鎌倉時代の土師器の羽釜や須恵器の甕、白磁の皿などとともに、たくさんの河原石と

一緒に穴の中から見つかりました。このことから硯は約800年前と同定されています。

 

上の写真は展示されていた場所での説明パネル。

発掘担当者は兵庫県まちづくり技術センター埋蔵文化財調査部の松崎光伸さん

文章が読み難い場合は下記のPDFファイルを参照願います。

 http://www.hyogo-koukohaku.jp/events/p6krdf0000007no2-att/mainhall_report_202003.pdf

 

福田小川原遺跡

福田小川原遺跡(たつの市誉田町)は林田川左岸の沖積地に立地しており斑鳩寺などで

有名な太子町との境界地。

国道179号の拡幅工事に伴い発掘調査されました。

発掘調査の結果、弥生時代から中世にかけての遺構が見つかっています。

主な遺構は弥生時代の溝、古墳時代から飛鳥時代の竪穴住居跡4棟、中世墓5基、中世の溝

竪穴住居跡はいずれも方形で、住居内から台石、砥石、煮炊きや貯蔵用土器など生活に

密接した遺物が出土しています。

 

四つ葉の形をした硯(すずり)の出土例

 岐阜県丸石古窯跡群:https://www.pref.gifu.lg.jp/kyoiku/bunka/bunkazai/27221/ibutsu/tono_ibutu/chm-84-152.html

 ふくやま草土千軒ミュージアム(広島県立歴史博物館)https://www.pref.hiroshima.lg.jp/site/rekishih/25q00241.html

 岡山県笠岡市園井土井遺跡:

http://www.tok2.com/home/ryutaroh/Imai/SonoyiDoiIseki/DoyiIseki.html

 

 

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3月15日今日は何の日

2020年03月15日 07時05分10秒 | 考古学

NHKラジオでは標題の番組が放送されています。

本日の放送からNHKラジオが選択したItemsを紹介します。

 

昭和22年(1947) 東京都35区から22区に

昭和36年(1961) 日光東照宮の薬師堂が火災で焼失

昭和47年(1972) 沖縄返還が確定(批准書が締結)

平成29年(2017) 警察が逮捕令状ない状態でのGPS捜査に違法判決

 

今日は何の日Web
上記のサイトにはNHKラジオでの記載以外の記事もたくさん載っています。

Wikipediaで記載事項も含めてその他の記事を添付しておきます。

その他の記事の一部です

797年(延暦16年2月13日)  『続日本紀』全40巻が完成する。
1521年-マゼランがフィリピンに到達
1717年(享保2年2月3日) - 徳川吉宗が大岡忠相を江戸南町奉行に登用する。
1774年 - ジョゼフ・プリーストリーが酸素を発見。
1781年 - アメリカ独立戦争: ギルフォード郡庁舎の戦い
1806年(文化3年1月26日) - 江戸幕府が文化の薪水給与令(撫恤令)を出す。
1890年 - 琵琶湖疏水の第1期工事が竣工。
1895年 - 京都で平安遷都1100年を記念して平安神宮を創建。
1906年 - ロールス・ロイス創業。

1917年-ロマノフ王朝が滅亡、ロシア2月革命成立

1920年-金融恐慌始まる

1927年-東京で銀行取り付け騒ぎ。昭和恐慌
1928年-共産党員1600余人を検挙。3・15事件

1957年-衆議院が原水爆禁止を決議
1972年-新幹線新大阪~岡山開業

写真が無いと寂しいので最近撮った写真を添付しておきます。

上の2枚の写真は須磨パティオの花壇 撮影:2020-3-13

 

 

 

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天理市の東殿塚古墳の円筒埴輪に船の線刻画

2019年11月28日 06時41分32秒 | 考古学

1997年7月14日、天理市教育委員会は天理市中山町の3世紀末~4世紀初頭の前方後円墳

東殿塚古墳で舳先に鳥が止まった船の線刻画が見つかったと発表しました。

線刻画は鰭付き円筒埴輪に描かれています。1号から3号まで3つの船画があります。

上の写真は東殿塚古墳1号船画です。

この船画が描かれた背景について考察していきたいと思います。

東殿塚古墳の発掘調査を担当した天理市教育委員会技師の青木勘時さんは次のように

語っておられます。

壮大な船画を描いた埴輪を墓前に樹立させてしまうほどの被葬者は、まさに大王としての

威厳をもった人物と思う。古墳祭祀のスタイルを確立しようとした東殿塚古墳の造営の

思想的背景に、海の向こうのあの世に渡るという葬送観があったことを示している。

 

上の写真は東殿塚古墳の1号船画と2号船画

上の写真は東殿塚古墳の1号船画と2号船画の実物 撮影:2019-11-30

兵庫県立考古博物館の展示

上の写真は兵庫県立考古博物館の展示の説明パネル 撮影:2019-11-30

上の写真は東殿塚古墳 裏面 3号船線刻画の展示 撮影:2019-11-30

 

3号船画は裏側に描かれています。 

 

3号船画は参照サイトの1)でも確認できます。

 出典:天理市埋蔵文化財調査報告 第7集 西殿塚古墳.東殿塚古墳(2000)Page89

船に乗り他界へ向かう人物までは描かれていないが高貴な人物にのみ使用された衣笠が

船上に描かれています。

舳先に近い大きな屋形には船の主人公(被葬者)が入り、船尾側の小さな屋形には魏志倭人伝

に書かれている持衰(じさい)が入っていたものと推察されます。

持衰は航海中衣服は汚れたまま、髪や髭の手入れは許されず、ノミ・シラミをとることも

ままならず、肉は食べられず女性もダメというタブーを守らせる人のことで、航海が無事に

終われば、大事にまつりあげられるが、そうでない場合は殺されてしまいます。

 舳先には鶏がとまって被葬者の水先. 案内役をつとめています。 

船は波除板なみよけいた(竪板)を取り付けた外洋を航行できる準構造船である。

当時、田原本町の唐古・鍵遺跡あたりまでは大阪湾から大和川でこのような大型船が

入港していたと考えられます。

船と葬送に関する遺物には上述の埴輪船画(天理市・東殿塚古墳)の他に次のようなものがあります。

船形木棺(埼玉さきたま稲荷山古墳・静岡県若王子古墳群・千葉県大寺山洞穴など)

船形埴輪(三重県宝塚一号墳、兵庫県池田古墳など)

上の3枚の写真は兵庫県立考古博物館の展示の宝塚1号墳の船形埴輪の展示

 撮影:2019-11-30


船形屍床(熊本県石貫穴観音横穴群など)

船の古墳壁画(福岡県五郎山古墳・珍敷塚(めずらしづか)古墳・鳥船塚古墳など)


上の2枚の写真は兵庫県立考古博物館の展示「古墳と船と他界」

上の2枚の写真は兵庫県立考古博物館の特別展示「埴輪の世界」のリーフレット


 

参照サイト:

 

 1)  https://74589594.at.webry.info/201010/article_3.html

 2) 天理市埋蔵文化財調査報告 第7集 西殿塚古墳.東殿塚古墳(2000)PDFファイル

 3)  https://www.city.matsusaka.mie.jp/uploaded/attachment/13645.pdf

 4)  http://www.hyogo-koukohaku.jp/publication/remains/5tpuaj0000003t9i-att/5tpuaj0000003t9q.pdf

 5) 春成秀爾 著 国立歴史民俗博物館研究報告 第80集 1999年3月 埴輪の絵 PDFファイル

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飛鳥池から出土の木簡に「飛鳥寺」

2019年11月25日 05時12分38秒 | 考古学

飛鳥寺の東南部の飛鳥池遺跡(明日香村村岡)で「飛鳥寺」と記載された木簡が出土したと

国立奈良文化財研究所飛鳥藤原宮跡発掘調査部より1997年9月7日に発表されました。

このニュースをレビューしました。

日本で最古の寺院とされる飛鳥寺の名称が文献以外で確認されたのは初めてで、日本書紀

(720年)の記述をさかのぼる藤原京期(694-710)から飛鳥寺の名称が使用されていた

ことが明らかになりました。 奈良新聞:1997-9-8

上の写真は飛鳥寺の文字が確認できた木簡。

「世牟止言而□□本止飛鳥寺」(~せむと言いて□□本と飛鳥寺)と読める

同時に出土した木簡に大宝元年以前の行政区分を示す「評」の文字があることから。

大宝元年(701)以前に飛鳥寺という名称が使用されていたことが判明した。

 

飛鳥寺は持統天皇(687-697)の時代に大官寺、坂田寺、川原寺、豊浦寺と共に

飛鳥五大寺であった。


飛鳥寺(安居院)の基本情報

 住所:奈良県高市郡明日香村飛鳥682 TEL:0744-54-2126
 宗派:真言宗豊山派 御本尊:飛鳥大仏(釈迦如来) 山号:鳥形山
 法号:法興寺、元興寺
 開基:蘇我馬子 推古4年(596)

 

飛鳥寺への訪問記

  日本最古の大寺院 飛鳥寺 on 2016-10-6

 

 

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