CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ)

神戸・岩国の最新情報を中心に紹介していきます。歴史や時事について調べた結果を紹介。

川上地蔵 in 神戸市須磨区大手町

2019年11月30日 06時12分01秒 | 神戸情報

本日は神戸市須磨区にある川上地蔵、正式名は有馬家墓所石仏で平成11年(1999)
2月24日に神戸市の有形文化財に指定されているお地蔵様の石像について紹介します。
大手の石地蔵と呼ばれることもあるようです。
川上地蔵の名前の由来は大手町を南北に流れる東細沢谷川(まとう谷川)の上流にある
地蔵菩薩という意味で川上地蔵という名前になったものと思われる。

川上地蔵の基本情報
所在地住所:神戸市須磨区大手町8(有馬家の墓所)
所有者:有馬四郎 氏

暦応4年(1341)南北朝時代の作で 丸彫といわれる形式の石造のお地蔵様です。
有馬家墓所の位置について国土地理院の2万5000分の1の地図で示します。

中央の経緯度 北緯34度39分33.9秒  東経135度7分26.4秒 
+印が有馬家墓所(川上地蔵)の位置です。

有馬家の墓所の中の地蔵堂の中に川上地蔵があります。
したがって写真は撮ることが不可能だったので須磨区役所が作成した冊子
史跡をたずねて「須磨の散歩道」Page51より写真をコピーさせていただきました。

右手に錫丈、前掛けで見えておりませんが左手には宝珠を持った高さ 約1.5mの石像です。

丸彫りというのは一塊の木や石から、像の全体を彫り出すこと。また、その作品です。

蓮座の花弁は全面に7弁あります。下部の蓮座は16弁。

背面に「暦応第四大願主阿闍梨弥□」と書かれていることからこの石像が暦応4年(1341)

作で真言宗の僧 弥□が願主となって製作されたことが判ります。

上の写真は地蔵道と書かれた石碑です。飛松中学校の西側から有馬家墓所方面に進んで

行くと右手の飛松中学校の校庭が見えるところ付近にあります。

撮影:2019-11-24

上の2枚の写真は川上地蔵が収蔵されている地蔵堂の堂宇 撮影:2019-11-24

地蔵堂だけが残存しています。かっては右手に墓守の住居が残存していましたが

倒壊して現在は残骸のみ残った状態でした。地蔵堂の左手前には手水鉢が見られます。

手水鉢の側面には地蔵堂を造営した人々の銘が刻まれ昭和3年(1928)8月の刻印

もあることからこの頃に有馬家の墓所が整備されたものと思われる。

元禄5年(1692)に書かれた「大手村寺社取調帳」による地蔵堂の前身は

高照寺地蔵堂の名前が見られること御詠歌に「かわかみや いずこなるらん

こうしょうじ じぞうのやまは まつかぜのおと」とあり高照寺地蔵堂が有馬家墓所

地蔵堂の前身であることが判る。

参考として2011-12-17に撮影の地蔵堂と墓守の建物を添付しておきます。

上の写真は川上地蔵と地蔵堂の入り口です 撮影:2019-11-24


上の写真は同じく有馬家墓所の中にある宝篋印塔です。
川上地蔵よりやや古い鎌倉時代の造営であろうと推定する。
撮影:2011-12-17

地蔵菩薩についてWikipediaによる解説を引用させていただきます。
「地蔵菩薩 (じぞうぼさつ)、サンスクリット語クシティ・ガルバ(क्षितिघर्भ [kSiti gharbha])
は仏教の信仰対象である菩薩の一尊。クシティは「大地」、ガルバは「胎内」「子宮」の意味で、
意訳して「地蔵」と言う。また持地、妙憧、無辺心とも訳される。三昧耶形は如意宝珠と
幢幡(竿の先に吹き流しを付けた荘厳具)、錫杖。種子(種字)はカ (ha)。

大地が全ての命を育む力を蔵するように、苦悩の人々をその無限の大慈悲の心で包み込み、
救う所から名付けられたとされる。一般的には「子供の守り神」として信じられており、
よく子供が喜ぶお菓子が供えられている。

一般的に、親しみを込めて「お地蔵さん」、「お地蔵様」と呼ばれる。」

上の写真は有馬家墓所付近から南側を撮ったもので現在は勝福寺が管理する墓地と

飛松中学校の校庭です。 撮影:2019-11-24


参考として大手村であった時代の様子が伺える地図を添付しておきます。

上の写真は明治43年(1911)の大手を中心とした地図です。

川上地蔵の位置を赤字で記載しています。

川上地蔵の東側には奥の新池と口の新池が存在していました。

細沢谷川の他にの旧大手村西側の清水池から流れる火(樋)ノ谷川の川筋も

推定ですが書入れておきました。

この火ノ谷川が大手村と東須磨村を分ける境界となっていました。

うえの地図は田辺真人著のものです。

地図に川上地蔵の位置と墓及び鐘鋳場が書かれています

出典:大手村小史:市街地における失われた農村の姿

    歴史と神戸 -- 10巻3号(48号) -- 1971.6のPage3

上の写真は大国正美著の古地図で見る神戸のPage268よりの絵図で

川上地蔵の場所が地蔵堂であったこと墓所であったことが判ります。

大手村を南北に流れる細沢谷川(まとう谷川)が妙法寺川に合流している様子が

確認できます

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累計訪問者数 115万iPを突破 on 2019-11-28

2019年11月29日 04時02分02秒 | Weblog

2019年11月28日に累計の訪問者数が115万uuを突破しました。
憶えの為、記載しておきます。

本ブログも2004年に開設していますので約15年続けています。
あと何年生きれるか判りませんが死ぬまで継続出来ればイイナと考えています。

直近の週間アクセス数(2019.11.17 〜 2019.11.23)5,410UU、19,304PV 690位
 
          (2019.11.10 〜 2019.11.16)4,920UU、26,366PV 739位

          (2019.11.3 〜 2019.11.9) 4,645UU、20,005PV 793位

アクセスしていただいた方々に感謝致します。
これを励みに無理をしない程度に継続していきたいと思います。


尚、2019年11月29日(金)現在の総閲覧数は4,623,625PVです。

過去のアクセス数に関するメモ


週間アクセス数 9918位に on 2011-7-10~7-16

累計訪問者数 40万iPを突破 on 2014-10-13

 
累計訪問者数 45万iPを突破 on 2015-9-24

累計訪問者数 50万iPを突破見込み on 2016-5-1

累計訪問者数 55万iPを突破 on 2016-10-31

累計閲覧数 200万PVを突破 on 2017-3-13

累計訪問者数 60万iPを突破  on 2017-4-1

累計訪問者数 65万iPを突破  on 2017-8-24

訪問者数、閲覧数に異変

累計訪問者数 70万iPを突破  on 2017-12-26


累計訪問者数 75万iPを突破 on 2018-4-28


累計訪問者数 80万iPを突破 on 2018-8-3


累計訪問者数 85万iPを突破 on 2018-10-27

累計訪問者数 90万iPを突破 on 2019-1-7

累計訪問者数 95万iPを突破 on  2019-3-14

累計訪問者数 100万iPを突破 on  2019-5-15

累計訪問者数 105万iPを突破 on  2019-7-17

累計訪問者数 110万iPを突破 on  2019-9-20

写真が無いと味気ないので最近撮影した写真を添付しておきます。

上の5枚の写真は名谷中央公園(神戸市須磨区)の紅葉風景 撮影:2019-11-25


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天理市の東殿塚古墳の円筒埴輪に船の線刻画

2019年11月28日 06時41分32秒 | 考古学

1997年7月14日、天理市教育委員会は天理市中山町の3世紀末~4世紀初頭の前方後円墳

東殿塚古墳で舳先に鳥が止まった船の線刻画が見つかったと発表しました。

線刻画は鰭付き円筒埴輪に描かれています。1号から3号まで3つの船画があります。

上の写真は東殿塚古墳1号船画です。

この船画が描かれた背景について考察していきたいと思います。

東殿塚古墳の発掘調査を担当した天理市教育委員会技師の青木勘時さんは次のように

語っておられます。

壮大な船画を描いた埴輪を墓前に樹立させてしまうほどの被葬者は、まさに大王としての

威厳をもった人物と思う。古墳祭祀のスタイルを確立しようとした東殿塚古墳の造営の

思想的背景に、海の向こうのあの世に渡るという葬送観があったことを示している。

 

上の写真は東殿塚古墳の1号船画と2号船画

上の写真は東殿塚古墳の1号船画と2号船画の実物 撮影:2019-11-30

兵庫県立考古博物館の展示

上の写真は兵庫県立考古博物館の展示の説明パネル 撮影:2019-11-30

上の写真は東殿塚古墳 裏面 3号船線刻画の展示 撮影:2019-11-30

 

3号船画は裏側に描かれています。 

 

3号船画は参照サイトの1)でも確認できます。

 出典:天理市埋蔵文化財調査報告 第7集 西殿塚古墳.東殿塚古墳(2000)Page89

船に乗り他界へ向かう人物までは描かれていないが高貴な人物にのみ使用された衣笠が

船上に描かれています。

舳先に近い大きな屋形には船の主人公(被葬者)が入り、船尾側の小さな屋形には魏志倭人伝

に書かれている持衰(じさい)が入っていたものと推察されます。

持衰は航海中衣服は汚れたまま、髪や髭の手入れは許されず、ノミ・シラミをとることも

ままならず、肉は食べられず女性もダメというタブーを守らせる人のことで、航海が無事に

終われば、大事にまつりあげられるが、そうでない場合は殺されてしまいます。

 舳先には鶏がとまって被葬者の水先. 案内役をつとめています。 

船は波除板なみよけいた(竪板)を取り付けた外洋を航行できる準構造船である。

当時、田原本町の唐古・鍵遺跡あたりまでは大阪湾から大和川でこのような大型船が

入港していたと考えられます。

船と葬送に関する遺物には上述の埴輪船画(天理市・東殿塚古墳)の他に次のようなものがあります。

船形木棺(埼玉さきたま稲荷山古墳・静岡県若王子古墳群・千葉県大寺山洞穴など)

船形埴輪(三重県宝塚一号墳、兵庫県池田古墳など)

上の3枚の写真は兵庫県立考古博物館の展示の宝塚1号墳の船形埴輪の展示

 撮影:2019-11-30


船形屍床(熊本県石貫穴観音横穴群など)

船の古墳壁画(福岡県五郎山古墳・珍敷塚(めずらしづか)古墳・鳥船塚古墳など)


上の2枚の写真は兵庫県立考古博物館の展示「古墳と船と他界」

上の2枚の写真は兵庫県立考古博物館の特別展示「埴輪の世界」のリーフレット


 

参照サイト:

 

 1)  https://74589594.at.webry.info/201010/article_3.html

 2) 天理市埋蔵文化財調査報告 第7集 西殿塚古墳.東殿塚古墳(2000)PDFファイル

 3)  https://www.city.matsusaka.mie.jp/uploaded/attachment/13645.pdf

 4)  http://www.hyogo-koukohaku.jp/publication/remains/5tpuaj0000003t9i-att/5tpuaj0000003t9q.pdf

 5) 春成秀爾 著 国立歴史民俗博物館研究報告 第80集 1999年3月 埴輪の絵 PDFファイル

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JR西日本赤穂線 西片上駅から備前市役所までの史跡 on 2019-10-4 その8 旧山陽道 片上宿(方上津)

2019年11月27日 04時49分45秒 | 旅行記

2019年10月4日(金)、岡山県の備前市に所用があった為、JR西日本赤穂線の西片上駅

から備前市役所まで歩いて行った。旧山陽道で碑が設置されており見どころが多い。

途中で見つけた史跡を写真紹介していきます。

今回はその第8回で旧山陽道 片上宿(方上津)について写真紹介します。

シリーズ過去の記事:

第1回 JR西日本赤穂線 西片上駅から備前市役所までの史跡 on 2019-10-4 その1 宇佐八幡宮

第2回 JR西日本赤穂線 西片上駅から備前市役所までの史跡 on 2019-10-4 その2 潮光山正覚寺

第3回 JR西日本赤穂線 西片上駅から備前市役所までの史跡 on 2019-10-4 その3 往還名主跡

第4回   JR西日本赤穂線 西片上駅から備前市役所までの史跡 on 2019-10-4 その4 刀工備州祐高造之宅跡

第5回  JR西日本赤穂線 西片上駅から備前市役所までの史跡 on 2019-10-4 その5 片上鉄道跡

第6回 JR西日本赤穂線 西片上駅から備前市役所までの史跡 on 2019-10-4 その6 津山街道

第7回 JR西日本赤穂線 西片上駅から備前市役所までの史跡 on 2019-10-4 その7 清水紫琴(豊子)生誕の地

 

 

上の2枚の写真は旧山陽道 片上宿(方上津)と書かれた碑

東側の隣の宿場の三石宿まで2里半(10Km)、西側の隣の藤井宿まで4里半(18Km)

という文字も側面に刻まれています。

津であることから港であったことが判ります。

そこで地図を添付しておきます。地図で備前市役所付近が上述の碑があった場所です。

地図で判るように方上津は深い入江になっており天然の良港であったと推察できます。

 

 
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2019年B-1グランプリ in 明石 on 2019-11-24 優勝は「津ぎょうざ小学校」

2019年11月26日 06時00分50秒 | 神戸市以外の兵庫県

明石市市制100周年及び明石城築城400周年記念の目玉イベントのB-1グランプリが

明石城(明石公園)を中心とした6つの会場と明石市役所を中心とした3会場の合計9会場で

11月23日(土)と11月24日(日)に行われました。

私は11月24日に見てきました。その様子を写真紹介します。

神戸新聞によるとB-1グランプリ大会実行委員会の発表で31万4千人来場者(2日間の合計)。

全国から55の出展者がグランプリを目指し競い合った。

B-1グランプリのイベントは今年で11回目だそうです。

下記サイトで明石市市制100周年及び明石城築城400周年記念に関して(イベント予定)

ブログを作成していますのでリンクしておきます。

明石市市制施行100周年イベント予定 目玉は11月23日-24日開催のB-1グランプリ

今回のイベントで終了し11月30日(土) 桜の記念植樹・築城400周年閉会式典で閉幕予定

前置きが長くなりました。早速写真紹介に入っていきます。

上の写真は明石公園のテニスコートから第1会場(千畳芝)に向かう途中に見つけた静岡県

袋井市の「袋井宿たまごふわふわほっと隊」の荷物を運搬してきたトラック。

今回の投票の結果このチームは第3位になりました。

第1会場(千畳芝)

上の写真は秋田県本荘市のPRパネル

上の写真は秋田県由利本荘市の①本荘ハムフライ・ハム民の会のブース

上の写真は第1会場の出展者のリスト

上の写真は長崎県雲仙市の②小浜ちゃんぽん愛好会のPR用看板

上の写真は岩手県久慈市の④久慈まめぶ部屋のブース

上の写真は⑤亀山みそ焼きうどん本舗のブース

上の写真は⑦対馬とんちゃん部隊のブースの前のPR看板

上の写真は第1会場での待ち時間のリスト

第2会場(補助競技場)

見に行けず出展者のリストのみ添付

上の写真は第2会場の出展者の待ち時間リスト

第3会場(陸上競技場)

上の写真は第3会場(陸上競技場)の展示の遠景

上の写真は第3会場の出展者のリスト

上の写真は第3会場の出展者の待ち時間リスト

こどもSOUZOUスタジアム(野球場)

初めて野球場のグランド内に入りました。(上の4枚の写真)

第4会場(協会駐車場)

見に行けず出展者のリストのみ添付

こちらの会場で展示の㉘津ぎょうざ小学校はゴールドグランプリ(優勝)に輝いたそうです。

上の写真は第4会場の待ち時間リスト

第5会場(西芝生広場)


上の写真は第5会場の待ち時間リスト

上の写真は㉙小樽あんかけ焼きそば親衛隊のブース

上の写真は愛知県高浜市の㉚高浜とりめし学会のブース

第6会場(東芝生・仲よし広場)

上の写真は大阪府高槻市の㉞高槻うどんギョーザの会のブース

上の写真は宮城県石巻市の㉝石巻黄色い焼きそばアカデミーのブース

上の写真は広島県府中市の㊱備後府中焼きを広める会のブース

上の写真は岩手県北上市の㊲北上コロッケまるっとLabのブース

上の写真は第6会場の待ち時間リスト

上の写真は第1会場から第6会場までの位置を示した地図です。

明石市役所を中心とした3会場(第7,8,9会場)は海峡エリアと称していました。

こちらの会場には見に行きませんでした。

第7会場(市役所駐車場2階)

上の写真は第7会場(市役所駐車場2階)の出展者リスト


上の写真は第7会場の待ち時間リスト

こちらの会場からは北海道釧路市の「釧路ザンタレなんまら盛り揚げ隊」がシルバーグランプリ

(2位)に輝きました。

第8会場(中崎小学校)

上の写真は第8会場(中崎小学校)の出展者リスト

 

 

上の写真は第8会場の待ち時間リスト

第9会場(中崎遊園地)

上の写真は第9会場(中崎遊園地)の出展者リスト

 

 


上の写真は第9会場の待ち時間リスト

上の写真は第7会場から第9会場までの位置を示したものです。

B-1グランプリの公式サイトによれば投票結果は以下のとおりです。


1位  ㉘三重県津市津ぎょうざ小学校(第4会場)

2位  ㊶北海道釧路市 釧路ザンタレなんまら盛り揚げ隊(第7会場)

3位  ⑧静岡県袋井市 袋井宿たまごふわふわほっと隊(第2会場)

4位  ㉙北海道小樽市 小樽あんかけ焼そば親衛隊(第5会場)

5位  ㉞大阪府高槻市 高槻うどんギョーザの会(第6会場)

6位  ⑱兵庫県加古川市 うまいでぇ!加古川かつめしの会(第3会場)

7位  ㊿岡山県津山市 津山ホルモンうどん研究会(第8会場)

8位  ㉛岩手県下閉伊郡岩泉町 いわいずみ炭鉱ホルモン鍋発掘隊(第5会場)

9位  ㊷愛媛県今治市 今治焼豚玉子飯世界普及委員会(第7会場)

10位  ⑦長崎県対馬市 対馬とんちゃん部隊(第1会場)


地元のあかしたまご焼ひろめ隊の皆様(約50人の隊員)はお揃いのたこ帽子で第8会場で

ブースを運営すると共にホスト役として盛り上げ役として活躍する様子が2019年11月24日、

神戸新聞の明石版で報じられていました。

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飛鳥池から出土の木簡に「飛鳥寺」

2019年11月25日 05時12分38秒 | 考古学

飛鳥寺の東南部の飛鳥池遺跡(明日香村村岡)で「飛鳥寺」と記載された木簡が出土したと

国立奈良文化財研究所飛鳥藤原宮跡発掘調査部より1997年9月7日に発表されました。

このニュースをレビューしました。

日本で最古の寺院とされる飛鳥寺の名称が文献以外で確認されたのは初めてで、日本書紀

(720年)の記述をさかのぼる藤原京期(694-710)から飛鳥寺の名称が使用されていた

ことが明らかになりました。 奈良新聞:1997-9-8

上の写真は飛鳥寺の文字が確認できた木簡。

「世牟止言而□□本止飛鳥寺」(~せむと言いて□□本と飛鳥寺)と読める

同時に出土した木簡に大宝元年以前の行政区分を示す「評」の文字があることから。

大宝元年(701)以前に飛鳥寺という名称が使用されていたことが判明した。

 

飛鳥寺は持統天皇(687-697)の時代に大官寺、坂田寺、川原寺、豊浦寺と共に

飛鳥五大寺であった。


飛鳥寺(安居院)の基本情報

 住所:奈良県高市郡明日香村飛鳥682 TEL:0744-54-2126
 宗派:真言宗豊山派 御本尊:飛鳥大仏(釈迦如来) 山号:鳥形山
 法号:法興寺、元興寺
 開基:蘇我馬子 推古4年(596)

 

飛鳥寺への訪問記

  日本最古の大寺院 飛鳥寺 on 2016-10-6

 

 

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JR西日本赤穂線 西片上駅から備前市役所までの史跡 on 2019-10-4 その7 清水紫琴(豊子)生誕の地

2019年11月24日 05時49分49秒 | 旅行記

2019年10月4日(金)、岡山県の備前市に所用があった為、JR西日本赤穂線の西片上駅

から備前市役所まで歩いて行った。旧山陽道で碑が設置されており見どころが多い。

途中で見つけた史跡を写真紹介していきます。

今回はその第7回で清水紫琴(豊子)生誕の地について写真紹介します。

シリーズ過去の記事:

第1回 JR西日本赤穂線 西片上駅から備前市役所までの史跡 on 2019-10-4 その1 宇佐八幡宮

第2回 JR西日本赤穂線 西片上駅から備前市役所までの史跡 on 2019-10-4 その2 潮光山正覚寺

第3回 JR西日本赤穂線 西片上駅から備前市役所までの史跡 on 2019-10-4 その3 往還名主跡

第4回   JR西日本赤穂線 西片上駅から備前市役所までの史跡 on 2019-10-4 その4 刀工備州祐高造之宅跡

第5回  JR西日本赤穂線 西片上駅から備前市役所までの史跡 on 2019-10-4 その5 片上鉄道跡

第6回 JR西日本赤穂線 西片上駅から備前市役所までの史跡 on 2019-10-4 その6 津山街道

 

上の写真は清水紫琴(豊子)生誕の地の碑

側面の説明板には次のように書かれています。

女権運動に身を投じ「女学・雑誌」の記者となる。

「こわれ指輪」で文壇に登場し、女流作家として活躍した。

上の写真はもう片方の説明板

代表作「したゆく水」「移民学園」など

(1868-1933)と書かれています。

Wikipediaより引用して補足して紹介します。

清水紫琴は1868年1月(慶応3年12月)清水貞幹と留以との三女として備前国和気郡片上村
(現.備前市)に生まれる。
父親の清水貞幹は漢学・国学に通じた人物で、1870年(明治3年)に備前国和気郡片上村
(現.備前市)より一家で京都に転居した。
1881年(明治14年)まで京都府庁勧業課などに勤務、舎密局で化学製品の実験製造なども
担当した。豊子には姉2人兄2人妹1人がいる。
京都府立第一高等女学校卒。1885年(明治18年)、自由民権派の弁護士・岡崎晴正と結婚。
晴正とともに自由民権運動に携わるが、晴正は結婚前から交際していた女性を紫琴と
結婚後も妾として囲っていたため、1888年(明治21年)自由民権運動家でありながら晴正と
異なり男女同権の立場を取っていた植木枝盛と出会い、その後は女権運動に携わるようになる。
男女同権の立場から一夫多妻や二重結婚を否定するようになり、1889年(明治22年)晴正と離婚。
翌1890年(明治23年)『女学雑誌』記者となり、翌1891年(明治24年)、「こわれ指環」で
文壇に登場。この頃自由党所属の政治家・自由民権運動家である大井憲太郎によって
妊娠させられ正式に結婚しないまま出産し、その子供を兄の養子とした。
1892年(明治25年)、農芸化学者の古在由直と結婚し、古在紫琴の名で女性作家として活動したが、
1901年(明治34年)、「夏子の物思ひ」以後、筆を絶つ。
作家の山口玲子は『泣いて愛する姉妹に告ぐ - 古在紫琴の生涯』(草土文化、1977年)を上梓している。

昭和8年(1933)7月31日没

最初の夫・岡崎晴正は岩手県出身の免許代言人で、免許代言人制度が誕生した翌年の1877年(明治10年)
に免許取得。全国各地の代言人は法律の専門知識を活かして事件の解決に取り組むとともに、
盛んに政談演説会を開き、日本の自由民権運動・政党運動をリードしたが、岡崎も1880年(明治13年)に
盛岡市内の芝居小屋で開かれた「政談演説討論会」で他の免許代言人らとともに「国会は是や否や」
を巡る討論に参加している。のちに奈良の代言人中心の知識人グループ「興和会」(寧良交諭会)の
中心的メンパーとなり、1887年(明治20年)には妻の紫琴とともに奈良瓦堂劇場に二千人を集めた演説会に
登壇するなど、奈良民権家、大同団結運動派の人々と活動し、興和会発行の『興和之友』の特別寄稿家
でもあった植木枝盛と紫琴が知り合うきっかけとなった1888年(明治21年)の懇親会にも同席していた。
紫琴との間に男児をもうけたが、結婚4年後の1889年(明治22年)に離婚。
2人目の夫・古在由直との間に4男1女をもうけるが、三男と長女は夭折。長男・由正は東洋史学者・幣原坦の
次女・澄江と結婚。次男・由重は哲学者。天文学者の古在由秀は由正・澄江夫妻の長男であり、農学者の
古在豊樹は由重の子なので、由秀と豊樹はともに紫琴の孫にあたる。
大井憲太郎との子・清水家邦(1891年生)は紫琴の兄・清水謙吉の養子となったが1901年に謙吉が亡くなり、
祖父貞幹が面倒をみたのち、小山慎平(貞幹の弟子で紫琴の姉・貞の夫。倉敷町初代町長)に育てられ、
岡山商業高校(現・岡山県立岡山東商業高等学校)、慶應義塾理財科を卒業し、古在家とも親しく交流が
あった。大学卒業後はチュコスロバキアでの外交関係その他の職についた。

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高畑誠一の軌跡を辿る~カイザー(皇帝)と呼ばれた男~内子自治センター開館15周年記念特別企画展

2019年11月23日 06時10分43秒 | バーチャル探訪

内子自治センター開館15周年記念特別企画展「高畑誠一の軌跡を辿る~カイザー(皇帝)と

呼ばれた男~」が11月1日より12月8日まで愛媛県の内子自治センター、内子町ビジターセンター、

内子町立歴史民俗資料館で開催されています。

観覧する予定は無いが神戸に所縁の鈴木商店のロンドン支店長として活躍した「高畑誠一」

を顕彰する特別企画展であるので内容を理解するために記事としました。

 

上記のPDFファイルへリンクしておきます。

  https://www.town.uchiko.ehime.jp/uploaded/life/123138_197691_misc.pdf

 高畑誠一について簡単に紹介します。

明治20(1887)年、愛媛県内子町生まれ。父・宗次郎、母・タキセの長男。

没年は 昭和53(1978)年。生家は内子町ではかなり古い家系で、高畑誠一で14代目になる。

呉服、食料品、日用雑貨までなんでも扱う小売店をやっていた。

旧制西条中学校(現愛媛県立西条高等学校)を経て神戸高等商業学校

(現神戸大学)を経て鈴木商店に入社。高畑誠一は25歳で鈴木商店のロンドン支店長に抜擢

され第一次世界大戦のヨーロッパにおいて三国間貿易を導入するなど手腕を振るった。

ロンドン支店長時代に金子直吉から天下三分の宣誓書を受領したことでも知られる。

 天下三分の宣言書(宣誓書)」は鈴木商店の大番頭の金子直吉がロンドン支店長の
高畑誠一(後に日商(現在の双日)を創立)に宛てた巻物にした書簡で、高畑を補佐
させるため金子がロンドン行きを命じた小川実三郎が神戸出立の朝、挨拶のため須磨
一の谷の金子直吉邸を訪れた時に書かれたものである。小川実三郎はシベリア鉄道で
ロシアからスェーデン、ノルウェー経由でロンドンに入りこの書簡を高畑に手渡した。

鈴木商店の関係者の間で後年 、その内容から「天下三分の宣誓書」と呼ばれた手紙は、
金子直吉が鈴木商店全員に発した大号令であった。 「三井、三菱と天下を三分しよう」
という金子の溢れるばかりの気迫と自信に満ちた手紙を受け取った高畑誠一は、後に
日経新聞の「私の履歴書」経済人15(1981)の中で「当時の鈴木の社員は、この金子さんの
大号令に、まるで魔術でもかかったように勇気づけられて突撃した。」と述懐している。

この書簡は長らく高畑家が所蔵していたが太陽鉱工に寄贈され、現在は神戸市立博物館に
寄託されています。

高畑誠一の妻は鈴木よね(お家さん)の孫娘の千代子さん。

以下はWikipediaよりの引用
昭和2年(1927)に鈴木商店の経営が破綻すると、昭和3年(1928)高畑は、台湾銀行の

森広蔵頭取や三菱財閥の各務鎌吉などの支援を得て、永井幸太郎とともに、鈴木商店の子会社

だった日本商業会社を日商株式会社と改め再出発を図り、同社を日本でも屈指の総合商社に育て上げる。

昭和20年(1945)には日商の代表取締役会長に就任した(~1963年)。

その間1957年には日本火災海上保険(現・損害保険ジャパン日本興亜)の社長に就任している。

またロンドン時代に始めたというゴルフとの関係も深く、1926年に発足した関西ゴルフユニオン

(後の関西ゴルフ連盟)の設立に関与したほか、当時公式な日本語版ルールブックが存在しなかった

ことから1934年には独自に日本語に翻訳したルールブックを出版するなど、日本における

ゴルフの普及に大きく貢献した。ゴルフクラブのヘッドカバーの考案者でもある。


神戸新聞が巨大商社・鈴木商店が残したもの「遥かな海路」のシリーズNo.19(2016-10-9)で

高畑誠一について詳細に紹介しています。

上述した内容に書かれていないことを記載しておきます。

「高畑のロンドン駐在は、鈴木の経営が悪化して呼び戻される大正15年(1926)まで約15年

に及んだ。当時の華やかな生活ぶりを写した一枚が、愛媛ゆかりの偉人を紹介する「愛媛人物

博物館」(松山市)に残る。正装した男女約20人が納まる。ロンドン郊外の高級住宅地

ハムステッドの自宅で開いたパーティの記念写真だ。高畑は日本郵船の客船のコックだった

日本人を雇い、自宅にたびたび客を招いた。日銀総裁や大蔵大臣を務めた井上準之助、明治

から昭和の実業家藤山雷太・・・・・大正11年(1922)に結婚した鈴木の店主鈴木よねの

孫、千代子も温かくもてなした。

川崎造船所の初代社長、松方幸次郎が訪英した際には、鈴木の支店の一室を貸し、英国船舶省

に川崎の貨物船12隻の売買契約を結ぶサポートをした。松方が収集した絵画などの美術品

「松方コレクション」にも資金面などで協力した。

健康のためにと始めたゴルフにはとくに熱が入った。大正10年(1921)、皇太子だった

昭和天皇のロンドン訪問時に4人の一流選手を招いた試合を企画した。

大正15年(1926)に帰国後は三木市の広野ゴルフ倶楽部の設立に尽力し、日本初の

ルールブックを作った。

孫の高畑次郎さん(当時81歳)と親類の久保栄子さん(当時82歳)が高畑誠一の

在りし日の暮らしや人柄を語っています。

「おじいさんは努力家、勉強好き食後は書斎にこもっていた」

「簡単に話しかけられる雰囲気ではなかった」

 

鈴木商店関連のブログ:

  玉岡かおる講演会 on 2018-9-8

   このブログで過去に書いた鈴木商店関係のブログにリンクさせています。

  兵庫県劇団協議会の発足50周年記念「大正7年の長い夏」の上演案内

  

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JR西日本赤穂線 西片上駅から備前市役所までの史跡 on 2019-10-4 その6 津山街道

2019年11月22日 04時40分36秒 | 旅行記

2019年10月4日(金)、岡山県の備前市に所用があった為、JR西日本赤穂線の西片上駅

から備前市役所まで歩いて行った。旧山陽道で碑が設置されており見どころが多い。

途中で見つけた史跡を写真紹介していきます。

今回はその第6回で津山街道について写真紹介します。

シリーズ過去の記事:

第1回 JR西日本赤穂線 西片上駅から備前市役所までの史跡 on 2019-10-4 その1 宇佐八幡宮

第2回 JR西日本赤穂線 西片上駅から備前市役所までの史跡 on 2019-10-4 その2 潮光山正覚寺

第3回 JR西日本赤穂線 西片上駅から備前市役所までの史跡 on 2019-10-4 その3 往還名主跡

第4回   JR西日本赤穂線 西片上駅から備前市役所までの史跡 on 2019-10-4 その4 刀工備州祐高造之宅跡

第5回  JR西日本赤穂線 西片上駅から備前市役所までの史跡 on 2019-10-4 その5 片上鉄道跡

上の写真は北への主要な道である津山街道の碑

側面の説明で書かれている内容を転記します。

昔は津山往来とよばれ、江戸時代は津山方面に行く道であった。

現在の和気町福富には片上まで2里、天瀬には片上まで3里と記された道標がある。

岡山藩主池田家和意谷墓所の墓石を運んだ道の玄関口とされる。

 

上の写真も津山街道の碑

片上自治会協議会により平成30年(2018)2月に建立されたことが判ります

 

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典によれば - 津山街道は次のように解説されています。

 岡山県中部,岡山市と津山市を結ぶ南北方向の街道。津山往来,または岡山往来とも呼ばれた。

岡山市中心部から金川,福渡,弓削 (久米南町 ) を経て津山にいたる。福渡はこの街道の旭川

渡河点であり、「津山へ八里,岡山へ八里」の中間地点でもあった。

現在は国道 53号線の一部をなす。

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「雅子さまは祭祀を理解できない」宮内庁から注がれた冷視線

2019年11月21日 04時55分53秒 | Gooニュース


gooニュース
https://news.goo.ne.jp/article/jisin/nation/jisin-https_jisin.jp_p_1800436

 

天皇・皇后両陛下にとって一世に一度の大嘗祭が2019年11月14日の18:30から

翌日未明の3:15まで行われました。

上の写真は大嘗宮 出典:NHKTV(2019-11-14 おはよう日本)

上の写真は斎田 出典:NHKTV(2019-11-14 おはよう日本)

 

 

上の3枚の写真は大嘗祭会場の大嘗宮及び御祭服に身を包まれた天皇皇后両陛下

国及び国民の安寧と五穀豊穣を祈られました。

出典:NHKTV(2019-11-15 おはよう日本)


関連ブログ:

  即位礼正殿の儀  NHK「京都御所~秘められた千年の美~」を視聴して

  皇位継承に関わる51の儀礼・行事について

  即位礼正殿の儀における松の間前庭の参列者と旛

  改元に関する話題 その1 光文事件

  改元に関する話題 その2 平成改元 30年へて新証言

  改元に関する話題 その4 新元号は「令和」公表 on 2019-4-1

  新天皇陛下の即位の儀式 その2  2019年5月8日 賢所に期日奉告の儀ほか

  新天皇陛下の即位の儀式 その3  2019年5月10日 「奉幣の儀」=即位礼の期日報告

  令和元年10月22日、即位礼正殿の儀の解説 By NHK「シブ5時」の解説

  海外メディアが報じた即位礼正殿の儀

 

 

 
 
 
 
 
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