本日は神戸市須磨区にある川上地蔵、正式名は有馬家墓所石仏で平成11年(1999)
2月24日に神戸市の有形文化財に指定されているお地蔵様の石像について紹介します。
大手の石地蔵と呼ばれることもあるようです。
川上地蔵の名前の由来は大手町を南北に流れる東細沢谷川(まとう谷川)の上流にある
地蔵菩薩という意味で川上地蔵という名前になったものと思われる。
川上地蔵の基本情報
所在地住所:神戸市須磨区大手町8(有馬家の墓所)
所有者:有馬四郎 氏
暦応4年(1341)南北朝時代の作で 丸彫といわれる形式の石造のお地蔵様です。
有馬家墓所の位置について国土地理院の2万5000分の1の地図で示します。
中央の経緯度 北緯34度39分33.9秒 東経135度7分26.4秒
+印が有馬家墓所(川上地蔵)の位置です。
有馬家の墓所の中の地蔵堂の中に川上地蔵があります。
したがって写真は撮ることが不可能だったので須磨区役所が作成した冊子
史跡をたずねて「須磨の散歩道」Page51より写真をコピーさせていただきました。
右手に錫丈、前掛けで見えておりませんが左手には宝珠を持った高さ 約1.5mの石像です。
丸彫りというのは一塊の木や石から、像の全体を彫り出すこと。また、その作品です。
蓮座の花弁は全面に7弁あります。下部の蓮座は16弁。
背面に「暦応第四大願主阿闍梨弥□」と書かれていることからこの石像が暦応4年(1341)の
作で真言宗の僧 弥□が願主となって製作されたことが判ります。
上の写真は地蔵道と書かれた石碑です。飛松中学校の西側から有馬家墓所方面に進んで
行くと右手の飛松中学校の校庭が見えるところ付近にあります。
撮影:2019-11-24
上の2枚の写真は川上地蔵が収蔵されている地蔵堂の堂宇 撮影:2019-11-24
地蔵堂だけが残存しています。かっては右手に墓守の住居が残存していましたが
倒壊して現在は残骸のみ残った状態でした。地蔵堂の左手前には手水鉢が見られます。
手水鉢の側面には地蔵堂を造営した人々の銘が刻まれ昭和3年(1928)8月の刻印
もあることからこの頃に有馬家の墓所が整備されたものと思われる。
元禄5年(1692)に書かれた「大手村寺社取調帳」による地蔵堂の前身は
高照寺地蔵堂の名前が見られること御詠歌に「かわかみや いずこなるらん
こうしょうじ じぞうのやまは まつかぜのおと」とあり高照寺地蔵堂が有馬家墓所
地蔵堂の前身であることが判る。
参考として2011-12-17に撮影の地蔵堂と墓守の建物を添付しておきます。
上の写真は川上地蔵と地蔵堂の入り口です 撮影:2019-11-24
上の写真は同じく有馬家墓所の中にある宝篋印塔です。
川上地蔵よりやや古い鎌倉時代の造営であろうと推定する。
撮影:2011-12-17
地蔵菩薩についてWikipediaによる解説を引用させていただきます。
「地蔵菩薩 (じぞうぼさつ)、サンスクリット語クシティ・ガルバ(क्षितिघर्भ [kSiti gharbha])
は仏教の信仰対象である菩薩の一尊。クシティは「大地」、ガルバは「胎内」「子宮」の意味で、
意訳して「地蔵」と言う。また持地、妙憧、無辺心とも訳される。三昧耶形は如意宝珠と
幢幡(竿の先に吹き流しを付けた荘厳具)、錫杖。種子(種字)はカ (ha)。
大地が全ての命を育む力を蔵するように、苦悩の人々をその無限の大慈悲の心で包み込み、
救う所から名付けられたとされる。一般的には「子供の守り神」として信じられており、
よく子供が喜ぶお菓子が供えられている。
一般的に、親しみを込めて「お地蔵さん」、「お地蔵様」と呼ばれる。」
上の写真は有馬家墓所付近から南側を撮ったもので現在は勝福寺が管理する墓地と
飛松中学校の校庭です。 撮影:2019-11-24
参考として大手村であった時代の様子が伺える地図を添付しておきます。
上の写真は明治43年(1911)の大手を中心とした地図です。
川上地蔵の位置を赤字で記載しています。
川上地蔵の東側には奥の新池と口の新池が存在していました。
細沢谷川の他にの旧大手村西側の清水池から流れる火(樋)ノ谷川の川筋も
推定ですが書入れておきました。
この火ノ谷川が大手村と東須磨村を分ける境界となっていました。
うえの地図は田辺真人著のものです。
地図に川上地蔵の位置と墓及び鐘鋳場が書かれています
出典:大手村小史:市街地における失われた農村の姿
歴史と神戸 -- 10巻3号(48号) -- 1971.6のPage3
上の写真は大国正美著の古地図で見る神戸のPage268よりの絵図で
川上地蔵の場所が地蔵堂であったこと墓所であったことが判ります。
大手村を南北に流れる細沢谷川(まとう谷川)が妙法寺川に合流している様子が
確認できます