NHK大河ドラマ「光る君へ」を熱心に観ています。
そこで本日は竜星涼さんが演じる藤原隆家(979ー1044)と隆家が活躍した「刀伊の入寇」
にスポットを当て調べてみました。
参考資料
1)10月8日(火)にEテレで放送の知恵泉「人生はやりなおせる!ツッパリ貴族 藤原隆家」
藤原隆家は、祖父・藤原兼家、父・藤原道隆が共に関白を務めた中関白家に生まれ、
「さがな者(あらくれ者)」として有名でした。「長徳の変」(995年)では花山法皇を襲撃し、
出雲権守へ左遷、実質的には配流となっています。
「刀伊の入寇」(1019年)では朝鮮半島から攻めてきた女真族を制圧しました。
刀伊の入寇では貴族でありながら地元(大宰府周辺)の豪族を指揮し活躍しました。
長徳の変はNHK大河ドラマ「光る君へ」では5月12日、第19回「放たれた矢」で放映されました。
「刀伊の入寇」は第46回 12月8日(日)?に放送されると思います。
大宰府周辺の豪族として「大蔵種材(たねき)」、「藤原助高」「藤原友近」が出演予定。
2024年NHK大河ドラマ『光る君へ』では、父・道隆の死後、一家没落の憂き目に遭いながらも、
冷静かつ闊達な性格で乗りこえていく人物(演:竜星涼)として描かれています。
藤原隆家の役は当初、永山 絢斗被告が演じる予定であったが乾燥大麻を所持した疑いで
逮捕・起訴された為、竜星涼さんが演じることとなった。
刀伊の入寇についてWikipediaでは次のように解説されています。
刀伊の入寇(といのにゅうこう)は、寛仁3年(1019年)3月末から4月にかけて、
女真の一派とみられる集団を主体とした海賊が壱岐・対馬を襲い、さらに
九州に侵攻した事件。刀伊の来寇ともいう。
刀伊(とい)とは、高麗語で高麗以東の夷狄(いてき)である東夷(とうい)を指すtoiに、
日本の文字を当てたとされている。
15世紀の訓民正音発布以降の、ハングルによって書かれた書物では되
(そのまま「トイ」)として表れる。
この事件に関しては『小右記』『朝野群載』等が詳しい。
朝鮮の史書『高麗史』などにはほとんど記事がない。
上の写真は刀伊の入寇のイメージ 出典:1)
上の写真は刀伊=女真族のイメージ 出典:1)
読売新聞のサイト(下記リンク)で「 刀伊入寇 」について詳しく記載されています。
上記サイトの解説の要約を記載しておきます。(一部加筆)
「 刀伊入寇 」と呼ばれる異賊(女真族)の侵攻は、寛仁3年(1019年)3月28日、
対馬と壱岐から始まった。50余隻の船団に乗って武装した賊が突然、島に押し寄せ、
老人や子供は殺し成人を捕らえて拉致し、家を焼き、家畜を食べた。
大宰権帥(大宰府の長官代理)だった藤原隆家は刀伊軍迎撃の総指揮官となり、
大宰大監(大宰府の局長)だった 大蔵種材 (生没年不明)らとともに
九州の豪族らを指揮し賊を撃退している。
対馬では島民18人が殺され116人が拉致され、牛馬199匹が食い殺された。
壱岐では 壱岐守 (首長)の藤原 理忠 (?~1019)が防戦したが、
理忠を含む148人が殺され239人が拉致されて生き残った島民は35人だけだったという。
九州も含めトータルで1,000人位が拉致されたと言われています。
刀伊軍は4月7日、筑前(福岡県)沿岸の怡土(いと) 、志摩、 早良(さわら) 郡に侵攻する。
4月8日には博多湾に浮かぶ 能古島 を攻略して拠点とし、9日には博多に出撃した。
博多では防衛拠点の警固所を襲撃し 筥崎宮 を焼こうとしたが種材の奮闘で失敗している。
刀伊軍は大宰府軍が放つ 鏑矢(かぶらや) の音に動揺して引き揚げたという。 上の写真は大宰府周辺のイメージ 出典:1)
藤原隆家は1019年当時、大宰府の現場責任者 大宰権師に任じられていた
刀伊の入寇で前線で指揮あいたことが記載された藤原実資の著書「小右記」
出典:1)
上の2枚の写真は刀伊の入寇で鏑矢で女真族を追い払ったイメージと鏑矢
鏑矢は戦闘の開始の時に用いられていた弓矢で非常に大きな音を発することから
女真族が驚いて退却したのではと推測されています。 出典:1)
平安時代以前の外敵の侵入と朝廷の対応というテーマで読売新聞が下記サイトで
年表形式で詳しく纏められています。