CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ)

神戸・岩国の最新情報を中心に紹介していきます。歴史や時事について調べた結果を紹介。

宇治市 末多武利神社

2009年08月02日 18時33分58秒 | 宇治情報

写真は2008-2-10撮影

本日は我が故郷宇治市にあります末多武利神社(上の写真)を紹介します。 
住所:京都府宇治市宇治又振47

末多武利神社でのイベント
5月15日  例祭
12月 中旬日曜日 火焚祭

説明板より引用
末多武利神社 Matafuri Shrine
宇治は無常を意味する「憂し」に通ずるともいわれ、藤原一族のの栄華の舞台となる一方、
この宇治に失意にひしがれた人々も受け入れてきました。宇治民部卿と呼ばれた
藤原忠文(873-947)もその一人で、天慶2年(940)に参議となり、翌年征東大将軍として関東の平将門の乱の
平定に向かいましたが、到着以前に平将門は討たれ事件は解決していました。
忠文は大納言藤原実頼(900-970)の反対により恩賞の対象から外されたので、忠文は実頼を深く恨み、
死後も実頼の子孫に祟ったという。末多武利神社は忠文の御霊を鎮魂する祠といわれています。

The name of Uji is sometimes said to originated the word ushi,meaning"melancholy" or
"sorrow"and referring to the buddist concept of transience,
Thus,while Uji is famous for its close connections to the illustrios Fujiwara family,
it also offered a comforting refuge for the forsaken and forlorn.
One of these was Fujiwara Tadafumi(873-947),also known as Uji Minbu-Kyo,who in 940
was appointed general and sent north to subdue a revolt byTaira no Masakado.
As it happened,the revolt was quelled and Masakado killed before Tadafumi arrived with his forces.
Overlooked when rewards were given out by the regent,Fujiwara Saneyori(900-970),
Tadafumi was so bitter that he is said to have haunted the Saneyori family thereafter.
The Matafuri Shirine was built to appease his avenging or vindictive sprit.

藤原忠文は 参議枝良の3男で母は息長氏の娘。摂津,丹波守などの地方官を歴任し,天慶2(939)年67歳で参議
になった。その後上述の平将門の乱の平定に征東大将軍として出陣、藤原純友の乱では征西大将軍となって
西下し,この鎮定には成功した。宇治の富家殿で鷹を飼養し,宇治川で洗髪するなどの逸話が『江談抄』ほかにみえる。


2008-2-10撮影。
上の写真は関西電力宇治発電所の社宅跡地(昔ここに住んでいました)
で住所は確か又振だったと思います。
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太閤堤 宇治川右岸で発見 REV1

2009年07月14日 06時37分34秒 | 宇治情報

2007年9月8日の土曜日に標題の説明会があり行って来ました。
当日配布資料より簡略して太閤堤について説明いたします。
1.発掘調査のきっかけ
今回の発掘調査は京阪宇治駅西側一帯に計画された
土地区画整理事業に伴うもので弥生時代から
古墳時代にかけての集落遺跡を中心とする乙方遺跡
保護のため文化財保護法に基づき実施されました
この中で宇治川寄りの調査区で今まで存在の
判らなかった宇治川旧護岸遺跡(太閤堤の一部)が
見つかった。
2.発掘された護岸遺跡の内容
幅5.5m、高さ2.2mの堤が南北に75mの
宇治川右岸護岸施設で江戸時代後期の洪水で
埋没して陸化していたため今まで存在が判らなかった。
護岸の構造は傾斜30度の法面の下端に径20cm
の松杭を打ち、割り石を数段積み上げて水流に備え、
上半分から天端(馬踏:ばふみ)にかけて割石を
きれいに貼り付け化粧しています。
石出は基部の幅9m、長さ8.5mの平面台形形状の
石垣積みです。
この護岸工事に使用された石は粘板岩で3kmほど
上流の天ヶ瀬ダム付近の川岸から切り出され船で
運搬されたものと考えられます。
昭和54年に見つかった填島堤遺跡でも同様の石が
使用されています。
3.太閤堤について
「太閤堤」とは、豊臣秀吉が伏見築城に伴い、
宇治川の川筋付け替えに関係して築いた堤防
のことで宇治から向島までの「填島堤」、
宇治から小倉までの「薗場堤」、小倉から向島までの
「小倉堤」の計12Kmの総称として一般に用いられています。
太閤堤の築堤開始は「村井重頼覚書」などによれば
文禄3年(1594)のことで、宇治川を
小椋池から切り離し、向島まで延長する填島堤から
工事が始まったとされています。
今回見つかった右岸の護岸に関する記録は
今のところ見つかっていません。

京洛主義へのリンク詳細記事あり

現地説明会公式サイト
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宇治上林商店

2008年04月06日 15時44分48秒 | 宇治情報

上の写真は宇治の上林商店の外観である。非常に立派な長屋門である。
住所:宇治市宇治橋通り1丁目
TEL:0774-22-2513    FAX:0774-22-4962
上林家は大永4年(1524)には茶園の経営者として史料にでてきており、
少なくとも480年以上の歴史を誇っている老舗の茶園経営者である。
もともとは丹波上林郷(京都府綾部市)に居住していたが永禄年間(1558-1569)
初代久重が宇治に移住した。桃山時代には豊臣秀吉に重用され茶頭取として
宇治の総支配を命じ宇治郷の代官にも任じられていた。

上林商店の中にはお茶に関する資料が保存展示されています。
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お茶の通円

2005年12月05日 06時16分48秒 | 宇治情報
宇治川の東詰宇治橋の袂に通円があります。
(京阪宇治駅を降りると正面)
お茶屋として非常に長い歴史を誇る。
玉露は勿論のことここのかりがねが美味しく
現在も郵送してもらっている。

宇治神社の近所に通円茶屋も経営している。
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薫君---源氏物語

2005年12月04日 17時14分16秒 | 宇治情報
写真は源氏物語ミュージアムで薫君が馬上に
乗っている姿です。
2人の姫君のところに通う姿もいいが、
この姿も中々のものである。
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塔の島十三重の塔

2005年12月03日 06時56分21秒 | 宇治情報
宇治川の中に塔の島という浮島が平等院のほぼ前にあります。
そこに十三重の塔があります。
「十三重の塔」は高さ15.2mあり、わが国最大の古石塔です。
弘安9年(1286)奈良西大寺の僧叡尊が宇治橋の架け替えに伴い、
宇治橋供養のために建立しました。
その後天災で破損再建が繰り返された。現在のもには
明治41年(1908年)に再興された。
再興前の約150年は洪水により宇治川の中にあった。
国の重要文化財に指定されています。
コメント (1)
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宇治神社と宮詣で

2005年12月02日 06時06分39秒 | 宇治情報
2004年2月29日に宇治訪問寺時宇治神社に寄った。
子供の宮詣でをしていた家族があり記念撮影されていた。
この家族のバックが宇治神社本殿の写真である。
(国の重要文化財)
場所は平等院から塔の島を経由し朝霧橋を渡ると正面に
宇治神社の鳥居があります。宇治神社と宇治上神社が
ある場所の周辺は応神天皇の皇子で宇治十帖の八宮の
モデルとも言われている「莵道稚郎子(うじのわきいらつこ)」
の邸宅跡と考えられている。
「離宮社」や「離宮八幡」などと呼ばれることもある。
毎年6月8日に離宮祭が行われ、また田楽も復興したそうです。
莵道はうじという呼び方の他に「とどう」とも読む私が
通っていた小学校の名前が莵道(とどう)小学校である。
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源氏物語45帖橋姫

2005年12月01日 06時07分06秒 | 宇治情報
光源氏の息子である薫が下記の歌を八条の宮に贈った。
「橋姫の心を汲みて高瀬さす棹の雫に袖ぞ濡れぬる」
これが橋姫の巻名の由来である。
薫が慕う父光源氏の異母弟八の宮の2人の娘大君と
中の宮特に大君に対し薫は恋心をおぼえた。
八の宮の宇治の屋敷を舞台とした物語である。
写真は琴を奏でる大君。
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橋寺 放生院(ほうじょういん)

2005年11月30日 06時03分01秒 | 宇治情報
橋寺放生院は京阪宇治駅から宇治川沿いに南へ行くとすぐ
のところにあり、雨宝山と号する真言律宗のお寺です。
代々宇治橋の橋守をしてきたお寺でもあります。
創建は諸説があり定まりませんが鎌倉時代に奈良西大寺の
叡尊が宇治橋の架替えの際に行った橋供養のため建立との
説が有望です。
本堂には国の重要文化財で本尊の地蔵菩薩像と不動明王像
が祭られています。
「宇治橋断碑」とよばれる宇治橋創建の経緯が記された石碑
が建っています今は保存の為にカバーの建物の中にある。
もともとは橋畔にあったものですが、いつのまにか流出して
行方がわからなくなっていたが寛政3年(1791)付近の土中
から断片が発見され「帝王編年記」という書物に収められて
いた碑文の全文により、欠如していた部分を補って再建されました。
宇治橋は大化2年(646年)に架橋されたと刻まれています。
西大寺の僧叡尊(えいそん)による再興時、宇治川中州の
浮島(塔の島)に十三重石塔を建立し、盛大な放生会
(ほうじょうえ)を営んだことから放生院と名付けられました。
写真は2004-2-29撮影本堂の外観
2004-2-29の訪問記はこちら(宇治橋断碑の写真あり)
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光源氏の邸宅「六条院」

2005年11月29日 18時18分41秒 | 宇治情報
すべて源氏物語での話であるというのが前提であるが
源氏物語の主人公である光源氏が35歳の年の8月
六条御息所から伝領した邸宅を含む敷地に
「六条院」を造営しました。
光源氏が造営した「六条院」は4つの町に分かれ
それぞれ春夏秋冬の季節に合わせた庭が造られて
いました。春の町には紫の上・夏の町には花散里
秋の町には秋好中宮・冬の町には明石の君が住みました。
春の部屋の1/100の模型が宇治の源氏物語ミュージアムに
展示されています。(写真:2004-2-29撮影)
2004-2-29の訪問記はこちら

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