写真は2008-2-10撮影
本日は我が故郷宇治市にあります末多武利神社(上の写真)を紹介します。
住所:京都府宇治市宇治又振47
末多武利神社でのイベント
5月15日 例祭
12月 中旬日曜日 火焚祭
説明板より引用
末多武利神社 Matafuri Shrine
宇治は無常を意味する「憂し」に通ずるともいわれ、藤原一族のの栄華の舞台となる一方、
この宇治に失意にひしがれた人々も受け入れてきました。宇治民部卿と呼ばれた
藤原忠文(873-947)もその一人で、天慶2年(940)に参議となり、翌年征東大将軍として関東の平将門の乱の
平定に向かいましたが、到着以前に平将門は討たれ事件は解決していました。
忠文は大納言藤原実頼(900-970)の反対により恩賞の対象から外されたので、忠文は実頼を深く恨み、
死後も実頼の子孫に祟ったという。末多武利神社は忠文の御霊を鎮魂する祠といわれています。
The name of Uji is sometimes said to originated the word ushi,meaning"melancholy" or
"sorrow"and referring to the buddist concept of transience,
Thus,while Uji is famous for its close connections to the illustrios Fujiwara family,
it also offered a comforting refuge for the forsaken and forlorn.
One of these was Fujiwara Tadafumi(873-947),also known as Uji Minbu-Kyo,who in 940
was appointed general and sent north to subdue a revolt byTaira no Masakado.
As it happened,the revolt was quelled and Masakado killed before Tadafumi arrived with his forces.
Overlooked when rewards were given out by the regent,Fujiwara Saneyori(900-970),
Tadafumi was so bitter that he is said to have haunted the Saneyori family thereafter.
The Matafuri Shirine was built to appease his avenging or vindictive sprit.
藤原忠文は 参議枝良の3男で母は息長氏の娘。摂津,丹波守などの地方官を歴任し,天慶2(939)年67歳で参議
になった。その後上述の平将門の乱の平定に征東大将軍として出陣、藤原純友の乱では征西大将軍となって
西下し,この鎮定には成功した。宇治の富家殿で鷹を飼養し,宇治川で洗髪するなどの逸話が『江談抄』ほかにみえる。
2008-2-10撮影。
上の写真は関西電力宇治発電所の社宅跡地(昔ここに住んでいました)
で住所は確か又振だったと思います。