牛場 卓蔵(1851年1月29日(嘉永3年12月28日) - 1922年(大正11年)3月5日)は、
明治期から大正期のジャーナリスト、官僚、実業家、政治家として活躍した人物です。
特に山陽鉄道会社(現在のJR山陽本線)の始動期の経営に携わり手腕を発揮しました。
山陽鉄道育ての親として業績が評価されています。
本ブログでは「神戸市垂水区塩屋町の牛場卓蔵の旧宅跡と牛場卓蔵の業績」をテーマ
として紹介していきます。
参考資料
1)兵庫県教育委員会編「郷土百人の先覚者」(1967)Page 165-171
2)山内青渓編 我観社 「兵庫県人物列伝」(1914)Page284
3)塩屋まちづくり推進会編「塩屋見聞録 Vol.2」(2017)
牛場卓蔵の肖像写真
上の写真は山陽鉄道社長の頃の牛場卓蔵(1850-1922)氏 出典:1)Page167
上の写真も牛場卓蔵(1850-1922)氏の肖像 撮影時は不明 出典:2)Page284
牛場卓蔵(1850-1922)氏の略歴
Wikipediaより引用(一部、削除及び加筆)
嘉永3年(1850)12月28日伊勢国安濃郡渋見村(後の安東村、現三重県津市)の井草家
井早平十郎の三男として生まれる。
伊勢国一志郡(後の七栗村、現三重県津市)の牛場圭次郎の養子となる。
(牛場圭次郎の三女の牛場みちと結婚)
明治4(1871)慶應義塾に学び、島田三郎らと共に陸奥宗光の家に寄食する。
在学中の時代は、藩閥政治に対する激しい批判攻撃が叫ばれていた時期で牛場卓蔵も
尾崎行雄、犬養毅、井上角五郎、門野幾之進、北川礼弼、矢田績、高島小金吾らと
自由民権論を唱えた。弁舌さわやかで熱弁は鋭かった。
卒業後、明治9年(1876)内務省に出仕後、明治10年(1877)兵庫県庁に転じ勧業、学校の
両課長となったが、3年のちの明治13年(1880)太政官少書記御用係として内務省に帰り、
翌年太政官統計院少書記官に進んで内閣統計課に出仕した。
明治十四年(1881)の政変で罷免され下野。明治15年(1882)、福沢諭吉が主宰の
新聞『時事新報』の創刊に参画し記事を執筆。この時、中上川彦次郎も一緒に参加。
同年12月末に福沢諭吉の推薦で井上角五郎らと共に朝鮮内部の改革のため赴任し朝鮮政府の
顧問となる。福澤諭吉は明治16年(1883)1月13日の時事新報に「牛場卓造君朝鮮に行く」
と当時の日韓関係を分析した長文の論文を書いています。1883年(明治16年)5月に帰国後、
大蔵省に出仕(主税官)。第2回総選挙(1892)に郷里(三重1区)から出馬、衆議院議員を経て、
1894年(明治27年)、山陽鉄道会社総支配人となる。
食堂車や寝台車を日本の鉄道で初めて導入するなどサービスの向上に努めた。日露戦争時
には大量の軍隊を輸送。1904年(明治37年)、讃岐鉄道を買収し、鉄道連絡船も含めて
自社内で本土と九州、四国を連絡する路線網を築く。その後、日本土木,帝国ブラシや
千代田生命保険取締役を歴任した。
大正11年(1922)3月5日、塩屋の自宅で死去。
息子は牛場徹郎。長女は牛場タヅ(横浜生絲社長 新井領一郎の妻)
牛場徹郎の子供(牛場卓蔵の孫)は牛場友彦、牛場道雄、牛場信彦、牛場大蔵。卓蔵の娘、
田鶴は東洋英和女学校で教育を受け、ニューヨーク在住の実業家新井領一郎と結婚。
新井領一郎と田鶴の長女美代の次女の春子さんは元駐日米国大使のライシャワー氏の妻。
孫の牛場信彦氏(1909-1984)は佐藤栄作政権で外務次官を務めた。外務次官在任期間は
1,183日で2021年に秋葉剛男外務次官に超えられるまでは戦後、最長記録であった。
山陽鉄道と牛場卓蔵
牛場卓蔵は明治21年(1888)1月4日の山陽鉄道発足時に中上川彦次郎に従い山陽鉄道に
入社した(当時38歳)。その後、今西林三郎のあとを受けて総支配人となった。
当時の私鉄は日本鉄道、九州鉄道の他にめぼしいものはなく鉄道局長の井上勝にお百度
を踏み、天下りの役人を迎えていた。初代社長の中上川彦次郎は独特の創意と計画で
事業を推進した。明治24年(1891)中上川彦次郎は経営方針の相違で辞職したが牛場卓蔵は
残留し、明治31年(1898)4月、本山彦一(のちの毎日新聞社長)のあとを受けて取締役に
進んで専務となり、明治34年(1901)4月に松本重太郎の社長引退に伴い3代目の社長に
就任しました。山陽鉄道が実施した特記事項としては明治21年(1888)12月23日
兵庫~姫路間開通営業開始時、姫路駅で駅弁を販売。ボギー車の採用。明治32年(1899)の
食堂車の導入。明治33年(1900)には寝台車を導入。明治36年(1903)には神戸-下関を
11時間30分で走る特急列車を走らせました。
また、讃岐、播但両鉄道を買収して本土と四国との連絡。和洋両式のホテル経営で旅客サービス。
明治39年(1906)12月の鉄道国有法の実施で私鉄界の雄「山陽鉄道」は7,784万円で鉄道、
156万円で兼業資産が国鉄に買収された(明治41年1月)
上の写真は山陽鉄道の本社(兵庫西柳原にあった) 出典:1)Page169
山陽鉄道に関する年表を下に添付しておきます。
明治7年(1874)5月11日 大阪・神戸間の鉄道開業
明治10年(1877)2月5日 京都~神戸間が開業(開業式には明治天皇もご臨席)
明治21年(1888)1月4日 神戸~赤間関(下関)の官許 山陽鉄道が発足 社長 中上川彦次郎 副社長 村野山人
明治21年(1888)6月 山陽鉄道の工事着工
明治21年(1888)11月1日 山陽鉄道 兵庫~明石間開通営業開始
明治21年(1888)12月23日 山陽鉄道 兵庫~姫路間開通営業開始
明治22年(1889)3月 2代目神戸駅(レンガ造り)完成
明治22年(1889) 神戸市 市制実施
明治22年(1889) 9月 山陽鉄道 神戸~兵庫間開通(東海道線と連絡)
明治24年(1891)3月 岡山まで延伸
明治27年(1894)5月 日清戦争勃発
明治27年(1894) 6月 広島まで延伸
明治31年(1898) 3月 三田尻まで延伸
明治32年(1899) 車内でビフテキを食べさせる食堂車を導入
明治33年(1900) 日本で初の寝台車を導入
明治34年(1901)5月27日 馬関(下関)まで開通 関門渡船で九州鉄道に連絡
明治37年(1904)2月 日露戦争勃発
明治39年(1906)12月1日 山陽鉄道を国有化
神戸市垂水区塩屋町4丁目の旧宅
上の写真は牛場卓蔵氏の旧宅の位置を示したものです。(神戸市垂水区塩屋町4丁目)
現在、三菱電機塩屋寮となっています。
出典:Google地図
上の写真は現在の牛場卓蔵氏の旧宅跡 三菱電機の寮となっています。
旧宅は西尾家住宅(旧西尾類蔵邸)などの設計者として有名な設楽貞雄が明治40年
(1907)に建てられました。
牛場卓蔵の人物像
牛場卓蔵は私利私欲も無く、従業員も等しく公平に遇したので慕われた。
酒は一滴も飲まず、国鉄に買収後は塩屋の自宅で過ごした。
上の写真は参考資料1)のPage170で牛場卓蔵の人物像が書かれています。
著作権が切れているのでそのままコピーして添付しました。
牛場卓蔵と神戸商業講習所
神戸商業講習所の開設の経緯について(Wikipediaより引用)
神戸の地で商業・貿易に従事する人材を育成する学校の構想を進めていた兵庫県令・森岡昌純は
西南戦争後、県勧業課長で旧福沢諭吉門下の牛場卓蔵を通じ福沢に接近、1877年(明治10年)
11月、福沢との会談にこぎつけた。この会談で森岡県令は福沢から協力を得ることに成功し、
商業講習所の設立を文部省に申請した。1878年(明治11年)1月26日に開所式が執り行われた。
設立にあたって森岡県令は福沢に一切の教務・事務を委任、慶應義塾から派遣された支配人(校長)
および教師2名その他一切を引き受けるとともに校費の200円は県税より支出することとした
明治12年(1879)9月5日神戸商業講習所は元町3丁目69番地の生島四郎左衛門の
持ち家に移転しています。
関連ブログ:神戸の都市デザインを描いた先駆者 関戸由義について - CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ) (goo.ne.jp)
略歴
上の写真は参考資料1)のPage170-171で牛場卓蔵の略歴が書かれています。
著作権が切れているのでそのままコピーして添付しました。
余談ですが、
赤松啓介 神戸財界開拓者伝 太陽出版(1980)には次の方々が取り上げられています。
石鹸業界の草分け・播磨幸七
花ムシロの王者・赤尾善治郎
日加貿易の始祖・田村新吉
貝釦輸出の開祖・青柳正好
列車食堂の創始者・後藤勝造
麦稈真田輸出の先駆・岡 円吉
鉄道経営の先達・村野山人
燐寸輸出の覇者・直木政之介
宅地造成の先駆・小寺泰次郎
初期財界の世話役・鳴滝幸恭
肥料業界の先達・石川茂兵衛
製紙産業の草分け・ウォルシュ兄弟
石綿興行の創始者・野沢幸次郎
デザイナーの元祖・沢野糸子
貿易商権の確立者・湯浅竹之助
近代理容業の先駆・紺谷安太郎
清涼飲料の先学・和田伊輔
羊毛工業の開発・川西清兵衛
国産ベルトの開発・坂東直三郎
瓦せんべいの元祖・松野庄兵衛
豪州貿易の先駆者・兼松房治郎
元町呉服商の草分け・藤井甚七
洋家具製造の元祖・永田良介
社外船の開発者・山下亀三郎
竹材輸出の先覚・永田大介
ミシン産業の開発・網谷弥助
金融業者の先達・乾 新兵衛
兵庫港経済の再建・神田兵右衛門
海運市場の開発・内田信也
機械貿易の鼻祖・E・H・ハンター
製茶輸出の先駆・山本亀太郎
金融業界の草分け・岸本豊三郎
酒造経営の近代化・嘉納治兵衛
ソウダ工業を創始・北風七兵衛
産業の開発に偉業・金子直吉
商業図案の草分け・小林吉右衛門
近代造船業の創始・川崎正蔵
日比貿易の開拓・太田恭三郎
マッチ工業を確立・滝川弁三
神戸食道楽の開発・松尾清之助
樟脳工業の開発・小林楠弥
港湾運送の近代化・関ノ浦清五郎
新しい製油工業を開発・松村善蔵
電気産業の創始・池田貫兵衛
清涼飲料水の開発・A・C・シーム
缶詰製造の草分け・鈴木 清
日中貿易の巨頭・呉 錦堂
ゴム工業の開発・吉田履一郎
自動車工業の開発・横山利蔵
黎明神戸の先覚・専崎弥五平
清酒輸出の元祖・山邑太左衛門
兵庫運河の開発・池本文太郎
町人学者から実業家・藤田積中
神戸肉の名声を高めた先駆者・山中駒次郎
繊維工業の建設者・武藤山治
生糸貿易の再興・森田金蔵
造船工業の建設・松方幸次郎
農産薬剤の開発・長岡佐介
駅弁立売の草分け・加藤謙二郎
図南殖産の先駆・依岡省三
土着産業の開発・小曽根喜一郎
天王温泉の開発・秋田幸平
米穀商の近代化・高徳藤五郎
神戸築港の建設・沖野忠雄
燐寸輸出の先駆・秦 銀兵衛
都市開発の先覚・加納宗七
都市計画の先覚・関戸由義
電気事業の開発・田中 胖
薬剤業界の開祖・横田孝史
新聞業界の先覚・鹿島秀麿
生糸貿易の中興・小田万蔵
緞通輸出の先覚・松井和吉
洋品雑貨の創始・丹波謙蔵
農工金融の開発・伊藤長次郎
電話取引の創始・村上政之助
都市開発の先覚・山本繁造
石灰工業の創始・樫野恒太郎
上述した1)の本で取り上げられた人物(産業・経済の分野)とその功績をピックアップして筆を置きます。
赤字は上述リストとダブル人々。
全く知らない人物も多いが今後これらの人物も調べてみたいと思っています。
雅陶「淡路焼」の創始者・賀集眠平 Page83-88
但馬牛改良の功労者・前田周助 Page89-95
西宮酒造界を発展させた女丈夫・辰馬きよ子 Page96-102
稲の新品種「神力」育ての親・丸尾重次郎 Page103-108
都市計画の先駆者・加納宗七 Page109-114
塩業の危期を打開した功労者・井上惣七 Page115-120
近代造船業の開拓者・川崎正蔵 Page121-126
日本金融界の基礎を築いた勤王の士・原六郎 Page127-132
日豪貿易のパイオニア・兼松房次郎 Page133-139
関西での機械製糸の創始者・橋本龍一 Page140-145
六甲山の開発者・アーサー・ヘルケス・グルーム Page146-152
鉄道に半生をささげた人・村野山人 Page153-158
明治しょうゆ業界の担い手・横山省三 Page159-164
山陽鉄道育ての親・牛場卓蔵 Page165-171
播州そうめんの改良者・澤野利正 Page172-177
マッチ産業の王者・滝川辨三 Page178-184
丹波開発の父・田艇吉 Page185-190
治水の神さま・沖野忠雄 Page191-197
中播の開発者・内藤利八 Page198-204
三木金物の育ての親・重松太三郎 Page205-210
神戸銀行の創立者・岡崎藤吉 Page211-217
建築界に新風を吹きこんだ文化人・河合浩蔵 Page216-224
人造肥料の創始者・多木久米次郎 Page225-231
カナダ貿易の開拓者・田村新吉 Page232-237
毛織・航空業界のリーダー・川西清兵衛 Page238-244
労働の近代化をはかった川崎造船社長・松方幸次郎 Page245-251
経営の才に長じた事業の鬼・金子直吉 Page252-258
捕鯨日本の先駆者・中部幾次郎 Page259-265
海運業の風雲児・山下亀三郎 Page266-272
人道主義に生きた実業家・武藤山治 Page273-279
殺虫剤アースの発明者・木村秀蔵 Page280-286
経営と事業の神さま・小林一三 Page287-293
自力更生を説いた農民の父・山脇延吉 Page294-300
神戸製鋼所育ての親・田宮嘉右衛門 Page301-307
郷土にささげた一生・宮本源三郎 Page308-313
漁業共同販売の創設者・小畑種吉 Page314-320
ゴム産業の先駆者で幅広い活動家・榎並充造 Page321-326
播州そろばんの改良者・藤木吉松 Page327-333
柳かごの創始者・作花良七 Page334-340
酒米の王者「山田錦」普及の功労者・藤川禎次 Page341-345
播州織物の高級化に尽くす・小澤通秀 Page346-351