CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ)

神戸・岩国の最新情報を中心に紹介していきます。歴史や時事について調べた結果を紹介。

神戸高商(現神戸大)の初代校長水島 銕也先生の銅像と頌徳碑 on 2016-10-27

2016年10月31日 05時31分03秒 | 神戸情報
2016年10月27日、神戸大学六甲1キャンパス出光佐三記念六甲台講堂
の前の植え込みにある神戸高商(現神戸大)の初代校長水島 銕也先生の銅像と
頌徳碑の写真を撮ってきましたので紹介します。




上の2枚の写真が水島銕也先生の銅像です。

水島 銕也先生についてWikipediaの解説より引用させていただきます。
         (一部加筆)

水島 銕也(みずしま てつや、1864年 - 1928年)は、神戸高等商業学校
(神戸大学の前身)の創立者、初代校長。雅号「愛庵」。

豊前国中津藩出身。姫路中(現兵庫県立姫路西高等学校)卒、神戸商業講習所
(現兵庫県立神戸商業高等学校)卒、高等商業学校(後の東京高等商業学校、
現一橋大学)卒。東京高商初代専攻部主事。府立大阪商業学校(現大阪市立大学)
の校長心得も務めた。

横浜正金銀行勤務等を経て、1902年(明治35年)、東京高等商業学校に続く
2番目の官立高等商業学校として、神戸高等商業学校が開学設立された。
初代校長に就任した水島銕也は、実務を重視する観点から商業学校からの
入学を認めるなど独自の入試制度や教育課程を整備し、東京高等商業学校
との違いを際立たせた。
神戸高商の後身たる神戸大学は、この高商設立をもって開学の起点としている。
1903年5月15日に神戸高商の授業開始された日が神戸大学の創立記念日。
現在、生誕地跡である大分県中津市金谷本町(かなやほんまち)に「水島公園」
とし記念碑が建てられている。
また、水島を記念して神戸高商内に設置された銅像は、その後校地移転に
ともない現在の神戸大学六甲台校地に移築され現在に至っている。

神戸高等商業学校が設立された当時は現在の葺合高校の敷地周辺にあったそうです



上の写真は現地説明板


上の写真は水島 銕也先生です。出典:神戸大学100年史 写真集 Page16


上の写真は神戸市葺合町筒井村にあった当時の神戸高等商業学校(神戸高商)の
校舎です田畑に囲まれた高台にあり当時の学生は親しみを込めて筒台と呼んだ
そうです。出典:神戸大学100年史 写真集 Page14より
写真は1910年頃(明治43)だそうです。




上の2枚の写真は水島銕也先生の頌徳碑と現地説明板です。

神戸高商の初代校長として1903年(明治36)から1925年(大正14)まで
22年間在職されました。
徹底した実践主義を貫いた教育であったそうです。
名言として「黄金の奴隷になるな。士魂商才をもって事業を営め」と
説かれたそうです。
出光佐三氏など多くの有為な人材を輩出された希有な校長です。




上の写真は神戸大学六甲1キャンパスの出光佐三記念六甲台講堂です。


出光佐三記念六甲台講堂は国の登録文化財になっています。
第28-0118号 
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旧制官立神戸商業大学初代学長 田崎慎治先生の銅像 in 神戸大学六甲1キャンパス on 2016-10-27

2016年10月30日 17時08分29秒 | 神戸情報

2016年10月27日、神戸大学六甲1キャンパス本館前に建つ
旧制官立神戸商業大学初代学長 田崎慎治先生の銅像を写真紹介します。




上の写真が田崎慎治先生の銅像です。


上の写真は本館の写真です。
中央入口の左(西側)は経済学研究科、右(東側)は経営学研究科
田崎慎治先生の銅像は経済学研究科の建物真ん中より右側の建立されました。

田崎慎治先生に関する紹介は下に添付の現地説明板を参照してください。


先生は神戸高商の2代目校長でもあり現在、葺合高校の位置にあった神戸高商
の設立地から六甲台への学舎移転に心血を注がれ現在の神戸大学六甲台地区の
基礎を築かれました。

神戸高商の初代学長は水島銕也先生で任期は1903年1月 - 1925年7月
1903年5月15日に神戸高商の授業開始された。
この日が現・神戸大学の創立記念日となっている。
神戸病院(明治2年(1869)設立を祖とする後に県立病院、現医学部)は途中で
医学校が廃校となったため創立記念日の日とはなっていない。
第2代の田崎慎治先生の任期は1925年7月 - 1929年3月

官立神戸商業大学での初代学長田崎慎治先生の任期は1929年4月 - 1942年1月
第2代学長の丸谷喜市先生の任期は1942年1月 - 1944年9月

田崎慎治先生の略歴などを紹介したサイトにリンクさせていただきました。
 http://www.cenb.org.br/articles/display/303





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神戸大学 海事科学学部 深江丸の出航風景と進徳丸メモリアル on 2016-10-13

2016年10月29日 17時39分35秒 | 神戸情報
下記記載のように神戸大学 海事科学学部 深江丸は探査航海のため
神戸大学深江地区繋船池 深江丸係留岸壁を出航しました。
その時の様子を動画で紹介すると共に同日撮った神戸商船大学当時の
練習船「進徳丸」のメモリアル展示の写真を紹介します。


まず上の写真は係留中の深江丸です。
深江丸は昭和62年10月14日に建造された練習船で建造から29年
ですがJAMSTECの協力も得て海洋探査のための最新機器も積み込まれて
います。

2016年10月13日、11時に神戸大学海事科学学部の深江丸は深江を出航
しました。深江丸の出航の様子を動画で紹介します。
深江丸は鹿児島の鬼界カルデラの巨大マグマ溜まりのモニタリングや
エアーガンを使用した地層探査、マルチロービームによる測深など探査を
しながら往路は1200海里(2,200Km)鹿児島からの帰路は600海里
(1,100Km)の探査航海をして10月27日に深江に帰港の予定。
鬼界カルデラは7300年前に大噴火を起こしており神戸でも火山灰は10-20cm
位の層となって確認されています。
神戸でも爆発当時は50cmほどの堆積があったと推定されています。
今後100年で1%程度の確率で大噴火が起きる可能性があり、爆発による
日本の死者は1億人と予測されています。鬼界カルデラのマグマ溜まりは
40~100Km3と推定されています。
航海の安全と研究成果が出ることを祈っています。いってらっしゃい・・・・



神戸大学に平成27年(2015)10月1日に設置された海洋底探査センターが設置
されその事業の第1回目の探査航海となります。
上記海洋底探査センターについては下記サイトに概要が紹介されています。
 http://www.kobe-u.ac.jp/documents/info/usr/press/press_20150918-2.pdf


次に神戸商船大学当時の練習船「進徳丸」のメモリアル展示の話題に移ります。






上の3枚の写真(2016-10-13撮影)が現在の進徳丸メモリアル展示です。

大正13年(1924)2月25日神戸三菱造船所で建造され、神戸商戦大学の前身の
神戸高等商船学校の練習船として同年5月26日 生徒60名を含む乗員126名
で神戸港を出港139日の航海で横浜、室蘭からサンビドロ、ホノルルに寄港
神戸港に戻ってきました。戦前は4本マストの帆船で昭和16年の開戦までに
34回の練習航海(遠洋航海)を実施し有用な海事人材を世に送り出しました。

昭和16年(1941)第二次大戦真珠湾攻撃で開戦後は通信省海務院の管轄となり
昭和16年9月17日からの練習航海(35次)は42次まで8日~48日の
短期練習航海且つ国内の港のみの寄港地による訓練となった。
昭和19年7月から神戸三菱造船所においてバラストなどの陸揚げ後、
帆をとられ汽船練習船として改造された。
緊急物資の輸送船として石炭輸送に従事していた昭和20年7月24日-31日、
二見沖停泊中で米軍艦載機の攻撃を受け全焼した当時の公式記録も消滅。

昭和21年7月31日、引き上げられ再び修理、昭和22年5月30日汽船練習船
進徳丸はよみがえり戦後の商船大学の学生たちを
乗せ、昭和38年3月31日の引退まで世界の海を駆け巡りました。

昭和42年財団法人進徳丸保存会が結成され深江の神戸商船大学に陸揚げされ
余生を送った。
平成7年1月17日の阪神淡路大震災で大被害を被り解体されることとなった。
平成10年3月解体された跡地に進徳丸メモリアルが造られ現在に至っている。


上の写真は現地の説明板です。


上の写真は進徳丸の帆船及び汽船時代の仕様です。


上の写真は帆船時代の進徳丸です。

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伝 飛鳥板蓋宮跡(乙巳の変の舞台)と蘇我入鹿の首塚 on 2016-10-6

2016年10月28日 07時31分19秒 | 奈良情報
2016年10月6日、乙巳の変の舞台となった伝 飛鳥板蓋宮跡と無念の
最期を遂げた蘇我入鹿の首塚を訪問し写真を撮ってきましたので紹介します。








上の4枚の写真が乙巳の変の舞台となった伝 飛鳥板蓋宮跡
現在地表にあるのは飛鳥浄御原宮の復元であり、実際の遺構は地下約1mに
そのまま保存されています。
1番上の写真は井戸跡と言われています。
2007年に「飛鳥・藤原の宮都とその関連遺産群」として世界文化遺産
国内暫定リストに登録されています。


上の写真は現地の説明板です。

ここで飛鳥板蓋宮(あすかいたぶきのみや)について簡単に説明します。
Wikipediayori引用(一部加筆)

642年(皇極天皇元年)1月、皇極天皇は夫である舒明天皇の崩御により即位し、
同年9月19日(10月17日)、大臣である蘇我蝦夷へ新宮殿を12月までに
建設するよう命じた。これにより完成したのが板蓋宮である。
643年(皇極天皇2年)4月、遷る。板蓋宮は、645年7月10日(皇極天皇4年6月12日)
に発生したクーデター(乙巳の変)の舞台となった。
この日、皇極天皇の眼前で大臣の次期後継者である蘇我入鹿が刺殺される
という凶行がなされ、翌日(6/13)蘇我入鹿の父蘇我蝦夷が自邸に火をつけて
自害したことで蘇我氏宗家は滅亡した。ここから「大化の改新」と呼ばれる
政治改革が始まることになる。これにより皇極天皇は同月12日(14日)退位し、
事件の真の首謀者と目される軽皇子が即位することとなった(孝徳天皇)。
孝徳天皇は、難波長柄豊碕(なにわのながらのとよさき)に宮を置いた
(難波長柄豊碕宮)。孝徳天皇と対立していた中大兄皇子(後の天智天皇)
最初は難波宮に移ったが孝徳天皇を置いて飛鳥に戻ってしまう。孝徳天皇は
失意のうちに654年(白雉5年)10月、難波宮で崩御すると
翌年の初めに皇極上皇は板蓋宮において再度即位(重祚)し、斉明天皇となった。
この年の末に板蓋宮は火災に遭い、焼失した。斉明天皇は川原宮へ遷った。



上の写真は飛鳥板蓋宮とその周囲の様子を表したものです。
明日香村発行の「飛鳥京絵図」より(部分)


上の写真は飛鳥板蓋宮跡の北西側にあった飛鳥京苑池跡の展示パネルからの地図
飛鳥板蓋宮は飛鳥京跡内郭に相当

飛鳥京は現在までの発掘調査で宮の歴史は解明されており古い順に次の
ように整理できる。
Ⅰ期、舒明天皇の飛鳥岡本宮(629-636年)の遺構である。
Ⅱ期 その焼け跡に築かれたのが、皇極天皇の飛鳥板蓋宮(643-645年)
   645年に難波宮に遷都後も板蓋宮はそのまま残っており、孝徳天皇が
   654年に崩御すると、皇極天皇が重祚(ちょうそ)して斉明天皇となり、
   以前住んだ板蓋宮をそのまま宮とした。しかし、その宮も重祚した年の
   冬に出火で焼けてしまい、板蓋宮の遺構が中間層として残った。
Ⅲ期 斉明天皇が翌656年に新たに営んだ後飛鳥岡本宮(656-660年)

Ⅳ期 後飛鳥岡本宮は天武・持統天皇にそのまま引き継がれ、拡張されて
   飛鳥浄御原宮(672-694年)と呼ばれた。




現地には上の2枚の写真のようなクイズ形式の歴史を考えさせるパネルがあります




上の写真は多武峰縁起絵巻の蘇我入鹿暗殺の場面と首以外の胴体の遺骸が
運び出される場面です。


上の写真は入鹿を迎えた飛鳥板蓋宮の様子(出展:多武峰縁起絵巻)







上の3枚の写真は飛鳥寺の西側にある蘇我入鹿の首塚です。


上の写真は多武峰縁起絵巻の蘇我入鹿暗殺の場面の蘇我入鹿の首の拡大図です。
蘇我入鹿の首が首塚まで飛んできて、力尽きたと言われている。


上の写真は飛鳥寺西門跡の発掘現場の説明板です。

首塚のさらに西側には中大兄皇子と中臣鎌足が大きなケヤキの木の下で
蹴鞠をしたと伝わる槻の木の広場の発掘調査も実施されています。
(飛鳥寺西方遺跡)

中臣鎌足(後の藤原鎌足)中大兄皇子(天智天皇)と知り合うきっかけは、
飛鳥寺の西の槻の木の広場での蹴鞠の催しだったことは、良く知られている。
皇子が鞠を力一杯蹴ったら、皮鞋(かわぐつ)が脱げて見学していた鎌足
前に落ちた。鎌足はそれを拾って両手に捧げて進み、ひざまづいて恭しく
奉った。これに対して、皇子もひざまづいて恭しく受け取ったという。
こうして主従の契りを結ぶきっかけを掴んだ二人は、それ以後請安塾の
行き帰りに蘇我氏妥当の策を練ったという。一目をはばかるため、
多武峰に登って打ち合わせをしたというエピソードまで残っている。


上の写真は多武峰(とうのみね)で蘇我本宗家打倒を画策する二人
(出展:多武峰縁起絵巻)

多武峰縁起絵巻は奈良女子大学附属図書館の下記サイトで詳細を見れます
 http://mahoroba.lib.nara-wu.ac.jp/y06/tounomine/
多武峰談山神社所蔵電子画像集
(多武峰縁起絵巻ほか)




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奈良ロイヤルホテル別館 中国料理 沙山華でのディナー on 2016-10-5

2016年10月26日 05時50分17秒 | 奈良情報
2016年10月5日から2泊3日で奈良&明日香の散策を楽しみました。
1日目の宿泊は近鉄新大宮駅が最寄り駅の奈良ロイヤルホテルでした。

夕食付のプランで夕食を奈良ロイヤルホテル別館 中国料理 沙山華で
いただきましたので写真紹介します。

奈良ロイヤルホテル別館 中国料理 沙山華の基本情報

住所:奈良市法華寺町254  TEL:0742-34-1136
料理ジャンル:中華料理
営業時間:11:30~14:30(L.O. 14:00)
     17:30~21:00(L.O. 20:30)

お店の公式サイト:http://www.sazanka-china.jp/


まず前菜の4種盛り合わせ


鮑の澄ましスープ




北京ダック


大海老のあっさり塩味炒め


ホタテの大和茶ガーリック蒸し


蟹肉と高菜入り炒飯




デザート


上の写真は宿泊プランコースのメニュー表


上の写真はお店の外観





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中村直吉氏石柱 in 須磨寺 on 2016-10-23

2016年10月25日 06時53分31秒 | 神戸情報
2016年10月19日に須磨一の谷 皇女和宮像 on 2016-10-17
題してブログ記事を書いた。この中で皇女和宮像を寄進した中村直吉氏に
ついても紹介しています。

須磨寺の敦盛首塚の西側に建っているのを偶然見つけたので写真と共に
紹介します。


上の写真は石柱の正面で下記のように書かれています。

弘法御言 お米どうぞ 愛国  池の坊
一粒萬倍 はこの中江 愛児



上の写真は石柱の左側で下記のように書かれています。

宮城向 心毎朝禮拝    中村直吉
皇室祭 必国旗掲揚



上の写真は石柱の右側で下記のように書かれています。

昭和丁卯 秋
 

昭和2年に建立されたことが判ります




場所が判るようにと石柱の遠景写真2枚を添付

石柱の左側には小河六平の句碑があります
 「海の色 幾代わりして 梅雨の須磨」







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塩田富造氏 頌徳碑 in 湊川神社 on 2016-10-23

2016年10月24日 10時11分05秒 | 役立つ情報
2016-10-19の小生ブログ記事「須磨一の谷 皇女和宮像 on 2016-10-17
で戦中の銅像の金属供出や戦後、進駐軍による接収から皇女和宮像を
守った塩田富造氏について紹介した。

塩田富蔵氏は大楠公顕彰会役員で後の須磨信用組合理事長で塩田組社長で
須磨の神戸南洋植物パークを開設した人物として知られています。

本ブログでは塩田富造に関わる湊川神社の頌徳碑を中心として紹介します。




上の2枚写真は湊川神社内の塩田富造氏の頌徳碑


上の写真は頌徳碑の拡大版  昭和28年(1953)建立

読み難いと思いますので全文を転記します。

神宮祭主北白川房子題詠

太平洋戦争ニ際シ我ガ日本ノ戦災ニ被リタルモノ全國土ニ普シ湊川神社ノ
如キ亦其一トナス即チ社殿一切ヲ消滅セシメ餘ス所ハ唯死灰ト残礎ノミ
然モ終戦後幾何ナラズ我國民ノ敬神報國ノ精神ハ猛然トシテ振起シ遂ニ
再建ノ工ヲ完ウシ啻ニ旧観ニ復スルノミナラズ更ニ神徳ヲ中外ニ赫灼
タラシム宮造ヲ見ルニ至レリ而シテ之ヲ此ニ至ラシメタル主ナル一人ハ
即チ塩田富造君其人トナス君ハ香川県ノ人出テ神戸港ニ業ヲ創メ二十餘年
塩田株式會社ヲ設テ専ラ綿花檢査業ニ従事ス其ノ勤勉ト其ノ正直ト其ノ精確ト
而シテ商機ヲ観ルノ俊敏ニシテ実行力ノ徹底セルトハ大ニ中外ノ信用ヲ
博シ暮年其功ヲ成スニ至レリ君為人勤儉カ行國家ニ対シテハ尊皇愛國ノ
精神ヲ賢持シ社会ニ対シテハ共存同栄相互扶助ノ主義ヲ実行シ而シテ畢生ノ
志趣ハ奉仕献身維レ努ム即チ君ガ湊川神社造営ニ際シ御本殿祝詞殿
透塀石灯籠ニ基皆独力ヲ以テ建設寄進セリ而シテ昭和二十六年二月十五日
起工奉告祭同十月二十五日ノ上棟祭昭和二十七年十月二十四日ノ遷座祭二
十五日ノ奉祝祭凡テ君ノ独力奉斎シタルモノトス然モ君ハ一切ノ奉仕ヲ
挙ゲテ自ラ知ラザルモノノ如ク其ノ石灯籠ヘモ献納者トシテ自己ノ名ヲ刻スル
ヲ屑シトセズ所謂右手ノ施ス所ヲ左手ニ知ラシメザルモノ君ヲ於テ之ヲ見ル
横井小楠嘗テ楠公ヲ詠ジテ曰ク君自天成好男子何曽一點愛名心ト此句楠公精神
ノ最モ優秀ナル特色ヲ道破セルモノトナス即チ塩田君其人ノ行動亦楠公精神ヲ
体得シタルモノニ幾シト謂フベシ君ノ國家社会ニ奉仕シタル
善行ハ更ニ記スベキモノ少カラズ今茲ニ其最モ著明ナルモノヲ挙グルニ過ギズ予
塩田君ト相識ル日尚浅シ然モ湊川神社宮司藤巻正之君トハ多年ノ友人トシテ
君ガ子ニ 向ッテ塩田君ノ功徳ヲ語リ之ヲ記センコトヲ乞フヤ誼寔ニ
辞スバカラザルモノアリ仍テ其語ル所ノ一斑ヲ誌シテ之ニ應ズ藤巻君ハ嘗テ
湊川神社宮司トシテ其ノ造営ノ任ニ當リ其ノ工成ルヤ去テ僻遠ノ一神社ニ
奉仕シテ其ノ老ヲ養ヘリ然モ湊川神社ノ戦災ニ罹ルヲ聞クヤ慨然トシテ老ヲ
忘レ衆議ノ推ス所トナッテ再ビ宮司ノ職ヲ奉ジ前陸軍大将宇垣一成翁ヲ総裁
トシテ再建ノ業ニ従事シ拮据五年此ニ再ビ造営ノ任務ヲ完ウセリ其ノ神社ニ
奉仕スルノ志誠ニ嘉スベキモノアリ仍テ併セテ之ヲ記スト云爾   
                     昭和二十八年一月十五日

                     九十一翁蘇峯 菅原正敬撰文
                     湊川神社宮司 藤巻正之欽書

裏面には 岡野工業所 施工 と書かれています。


上の写真は塩田富造氏頌徳碑の上部の和歌 次のように書かれています。

さら尓(に)また
みいつ高く母(も)
輝かむ
新木(にいき)かぐわし
清き御社(おんやしろ)


塩田富造氏は湊川神社の境内地に高層建物が建設される計画があった昭和34年
から昭和37年にかけて塩田氏の私財を投じ危機から救った恩人でもあります。
さらに湊川神社の宝物殿も寄進された。

詳細は添付写真のとおり


塩田富造氏の胸像が湊川神社宝物館の2階の階段を上がった所にあります。
写真撮影禁止の場所で写真を撮れなかったので写真が添付されているサイト
にリンクさせていただきます。

 http://hizou.30maps.com/map/24123








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正岡子規と神戸市須磨

2016年10月23日 07時30分04秒 | 神戸情報
正岡子規(1867~1902)と神戸市須磨区の関係は明治28年(1889)4月
正岡子規が新聞「日本」の記者時代日清戦争の従軍記者として中国遼東半島へ
行くがその帰途の5月17日に御用船・佐渡国丸の船上で吐血5月22日の
午後、船は神戸市和田岬に着き
検疫所を経て翌日の夕方、当時下山手8丁目
にあった県立神戸病院に入院、7月23日までの2か月を病院の2階2号室
で過ごす。7月23日になって吐血も収まり須磨海浜保養地に転地し須磨浦療病院
で治療を続け8月20日には病状も良くなり、郷里松山に帰り、当時松山中学
に赴任していた夏目漱石の下宿(愚陀仏庵)で過ごす。
すなわち、正岡子規が神戸に滞在した期間は約3か月である

3か月の逗留期間に詠んだ正岡子規の俳句を紹介すると共に現在までに建立
された正岡子規の句碑を写真で紹介していきます。

本論に入る前にWikipediaより正岡子規の略歴を引用紹介します。(一部加筆)

※日付は1872年までは旧暦
1867年(慶応3年)9月17日:伊予国温泉郡藤原新町(現・松山市花園町)
              に松山藩士・正岡常尚の長男として生まれる
              本名常規,幼名処之助,のちに升(のぼる)
1868年(明治元年):湊町新町に転居(現湊町4丁目1番地)
1872年(明治5年)4月:父・常尚が死去
1873年(明治6年):寺子屋式の末広学校に通う
1875年(明治8年) 1月:勝山学校(現・松山市立番町小)へ転校
          4月:祖父観山死去。土屋久明に漢学を学ぶ
1878年(明治11年):初めて漢詩を作り久明の添削を受ける
1879年(明治12年)12月:勝山学校卒業
1880年(明治13年)3月:松山中学(現・松山東高)入学
         三並良,竹村鍛らと「同親会」を結成。
         河東静渓(竹村鍛・河東碧梧桐の父)に指導を受ける。
1883年(明治16年) 5月:大学予備門受験のために松山中学を退学
          6月:東京へ出る
          10月:共立学校(現・開成高)入学。
1884年(明治17年)9月:東京大学予備門(のち第一高等中学校)へ入学。
            俳句を作り始める
            この年から3年間,ベースボールに熱中
1888年(明治21年) 7月:第一高等中学校予科卒業
          9月:本科へ進級 常磐会寄宿舎に入る。
1889年(明治22年) 夏目金之助(漱石)と落語を介して交遊を始める。
     4月3日:常磐会の友人と2人で、菊池謙二郎の実家のある水戸まで、
         徒歩旅行を行う
     5月9日:喀血。初めて「子規」と号す。
1890年(明治23年) 7月:第一高等中学校本科卒業
          9月:東京帝国大学文科大学哲学科入学
1891年(明治24年)1月:国文科に転科
1892年(明治25年) 10月:退学
          12月:日本新聞社入社
1895年(明治28年)4月:日清戦争に記者として従軍、その帰路に喀血
1896年(明治29年)1月:子規庵で句会
1898年(明治31年)3月:子規庵で歌会
1900年(明治33年)8月:大量の喀血
1902年(明治35年)9月19日:死去。享年34。東京都北区田端の大龍寺に眠る。

辞世の句「糸瓜咲て痰のつまりし仏かな」「痰一斗糸瓜の水も間にあはず」
「をとゝひのへちまの水も取らざりき」より、子規の忌日9月19日を
「糸瓜忌」といい、雅号の一つから「獺祭(だっさい)忌」ともいう。


神戸市須磨での生活について(正岡子規 28-29歳)
 (1)県立 神戸病院時代

 (2)須磨浦療病院 須磨海浜保養院時代

上記の2つに分けて記述する。

(1)県立 神戸病院時代(明治28年5月23日~7月23日)

   正岡子規が入院した頃は病状も重篤でしばらくは俳句を詠む状態では
   なかった。入院後4~5日して高浜虚子(当時21歳)や川東碧悟桐(22歳)
   が京都から駆けつけ、さらにはご母堂も東京から駆けつけ正岡子規の看護
   にあたった。

   毎朝のように高浜虚子が諏訪山付近の畑からのイチゴを購入して子規を
   喜ばせたエピソードが残っている。

   病状が落ち着いてからの作句と思われるが次の句を残している。

   ほととぎす山手通りと覚えたり

   露あかしいちご畑の山かつら

   もりあげて病うれしき苺かな

(2)須磨浦療病院 須磨海浜保養院時代(明治28年7月23日~8月20日)
   
   須磨浦療病院は明治22年8月12日、鶴崎平三郎氏が創始した日本発の
   サナトリウムである。現在も須磨浦病院と名前が変わったが鶴崎氏の
   子孫が経営されています。須磨海浜保養院は須磨浦公園「みどりの塔」
   付近にあった施設で須磨浦療病院への通院患者が多く宿泊していた。

   正岡子規の病状もある程度落ち着いており須磨の地に移ることを楽しみ
   にしていたようで次の句が残されている。

   うれしさに 涼しさに須磨の恋しさに


   ここでこの時期に詠まれた正岡子規の句で句碑になっているものを写真
   と共に紹介します。






上の3枚の写真は須磨浦公園にある正岡子規と高浜虚子の句碑

ことづてよ 須磨の浦わに 昼寝すと  子規
 子規50回忌
月を思ひ 人を思ひて 須磨にあり  虚子


上記の句で子規の句は高浜虚子の東帰にことづてとして詠んだもの
虚子の句はホトトギス誌の正岡子規の50年忌記念号からとったもので
県会議員の酒井一雄氏が私費を投じ昭和28年(1953)4月に建立されたものです。
碑の文字は夫々直筆から採ったもので五十嵐播水の協力を得て句碑は完成しました。

 はじめは須磨海浜保養院即時の正岡子規の句は
夕涼み仲居に文字を習はする 」を選んでいたが、「仲居」の文字があっては
ということから急遽変更となり上記の句になったエピソードも残っています。 


上の写真は須磨寺の仁王門を入った左手にある正岡子規の句碑

 「暁や 白帆過ぎ行く 蚊帳の外」と書かれています。
この石碑は昭和9年(1934)9月 正岡子規33年忌に弟子の青木月斗が建立
したものです。 

 
上の写真は現光寺にある正岡子規の句碑

読みさして月が出るなり須磨の巻

須磨時代に詠んだ正岡子規の句を列挙しておきます。

人も無し 木陰の椅子の 散松葉」

すずしさや 須磨の夕波 横うねり

夏山の 病院高し 松の中

涼しさを 足に砕けて 須磨の波

夏の日の あつもり塚に 涼みゐて

病気なおさねば去なじと思う
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平成29年(2017)厄年表

2016年10月22日 07時27分47秒 | 役立つ情報
平成29年(2017)厄年表を添付しました。

厄年は満年齢ではなく「数え年」で数えます
誕生日の前の人は2歳、誕生日後の人は1歳を満年齢に加えた年齢が
数え年となります。




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玉串拝礼の作法

2016年10月22日 07時11分16秒 | 役立つ情報
地鎮祭、竣工際、解体清祓式、慰霊祭などで玉串拝礼が行われますが
その作法について写真で紹介します。




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