CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ)

神戸・岩国の最新情報を中心に紹介していきます。歴史や時事について調べた結果を紹介。

[ふるさとひょうご 官兵衛自慢」  in 兵庫県立図書館 on 2014-6-29

2014年06月30日 04時15分47秒 | Weblog
平成26(2014)年度 ふるさとひょうご特別展示関連講座 [ふるさとひょうご 官兵衛自慢」が兵庫県立図書館
で6月29日(日)13:30~15:40、第2研修室で行われ参加しました。

副題は~県内ゆかりの地域の発表と情報交換会~

下記の5人のパネラーが15分の持ち時間で黒田官兵衛ゆかり見どころなどを説明されました。

•御着史跡保存会 井内 儀延(よしのぶ)氏、広峰山顕彰会 新福 杉夫氏、
 志方光姫の会 上月 昭信氏、
 宍粟城郭研究会 竹内 克司氏、北播磨黒田官兵衛生誕地の会  長谷川 俊雄氏

コーディネーターは 兵庫県教育委員会 文化財課 副課長 山下 史郎 氏


写真も交えて紹介します。

1.長棟 健二館長 挨拶

  兵庫県立図書館は今年10月1日で40周年を迎えます。

  イベントを色々予定しているが11月23日に兵庫県公館で佐野史郎氏を迎え「ハーンの朗読会」
  を開催する予定です。

 

 
 上の写真は兵庫県立図書館の掲示 小泉八雲没後110年企画展ハーンと家族 松江市の小泉八雲記念館 

  関連サイト

   小泉八雲の旧居 in 松江 on 2011-8-10

  小泉八雲と神戸


2.各地区からの報告   
    NHK 6月30日 20:45からのニュースで紹介されていましたのでその写真も
    混へて紹介します。

  

  

  上の2枚の写真は各地域の幟旗

  
  上の写真は「ふるさとひょうご 官兵衛自慢」の様子

  1)御着史跡保存会 井内 儀延(よしのぶ)氏
  
  御着城主 小寺政職(まさもと)は大河ドラマではダメな殿様として描かれていますが実際には1545年から
  1567年の32年間御着城の城主を務めた。地元での評価は悪くない。
  小寺家は3代(政隆、則職、政職)60年存続しています。
  天正7年(1579)火山に布陣の秀吉1万の軍勢に攻められ2千人の御着勢は敗走し英賀に逃走御着城は開城した。
  小寺政職の子小寺正則は御着城預かりの岡村孫太郎秀治(三木郡細川中村城主)に養育された後に天川と名乗り
  天川氏として現在も続いている。黒田の家臣となった説もあり。
  御国小学校の生徒15名が土日に史跡ガイドをしています。3年になる。
  11月2日に武者行列

 小生作成の関連ブログ
  JR御着駅周辺散策記 その1 御着城跡 on 2013-7-27
  
  下記のブログでリンク集を作成
   JR御着駅周辺散策記 その14 孫太夫墓 on 2013-9-28

  2)広峰山顕彰会 新福 杉夫氏

  
  
  2014年6月25日に訪問していますがブログ記事にしていませんので写真のみ添付







   黒田家の菩提寺の姫路市心光寺にも是非訪問してください

  3)志方光姫の会 上月 昭信氏
   
  
   光姫(てるひめ)のお輿入れのイベントを紹介(小生もブログを作成しています)

   光姫フェスティバル~輿入れの儀行列~ in観音寺(志方城跡) 2014-1-26

    8月26日が光姫の命日でイベントを予定

  4)宍粟城郭研究会 竹内 克司氏
  
  上の写真は宍粟市の篠ノ丸城のレーザー光線計測による城郭図です。

   11月下旬の紅葉まつりに是非おこしください

  5)北播磨黒田官兵衛生誕地の会  長谷川 俊雄氏
    11月16日に官兵衛まつりを挙行


3.パネルディスカッション

  

  写真のみ掲載




NHKニュース 取材で長棟館長。





  

   



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

姫路の黒田官兵衛ゆかりの地訪問記 on 2014-6-25 その4 播州黒田武士の館

2014年06月29日 05時26分42秒 | 神戸市以外の兵庫県
2014年6月25日、姫路市の黒田官兵衛ゆかりの地を訪問しました。本日はその第4回で山陽電鉄の
妻鹿駅が最寄り駅である播州黒田武士の館を写真紹介します。


過去のシリーズへのリンク

 初回(第1回) 妻鹿(国府山)城址

 姫路の黒田官兵衛ゆかりの地訪問記 on 2014-6-25 その2 母里太兵衛の生誕の碑と元宮八幡神社

 姫路の黒田官兵衛ゆかりの地訪問記 on 2014-6-25 その3  黒田職隆廟


播州黒田武士の館の基本情報

住所:姫路市飾磨区妻鹿東海町107  TEL:079-245-4685
 個人施設のため要予約

館主:神澤輝和さん 播磨の黒田武士顕彰会(2006年設立)の副会長
   神澤輝和氏は28歳のときに14代黒田家当主の黒田長禮公に会ったのがきっかけで
   黒田家についての資料収集が始まったとのこと。



上の写真は播州黒田武士の館の全体の外観です。


入り口付近には黒田官兵衛(1546-1604)以外に大好きな船の関連Goodsが並べられています。


上の写真が展示室正面の収集品の展示です。


上の写真は黒田官兵衛の父 黒田職隆の胴巻き


上の写真は黒田家譜


上の写真は黒田官兵衛の妹 妙春に関するパネル
 弘治元年(1555年) - 寛永3年3月15日(1626年4月11日)
 英賀城の城主・三木通秋の家臣・三木清閑(惣兵衛)に嫁ぐ。黒田政家の母。


上の写真は黒田官兵衛の妹 妙圓に関するパネル
 弘治2年(1556年) - 元和4年3月28日(1618年4月23日)
  
 黒田家臣尾上武則の妻。 







コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

姫路の黒田官兵衛ゆかりの地訪問記 on 2014-6-25 その3  黒田職隆廟

2014年06月29日 04時23分59秒 | 神戸市以外の兵庫県
2014年6月25日、姫路市の黒田官兵衛ゆかりの地を訪問しました。本日はその第3回で山陽電鉄の
妻鹿駅が最寄り駅である黒田官兵衛の父黒田職隆の墓(黒田職隆廟)を写真紹介します。


過去のシリーズへのリンク

 初回(第1回) 妻鹿(国府山)城址

 姫路の黒田官兵衛ゆかりの地訪問記 on 2014-6-25 その2 母里太兵衛の生誕の碑と元宮八幡神社



黒田官兵衛の父の黒田職隆(もとたか)は天正13年(1585)8月22日(新暦換算:1585年9月15日)
国府山城で没した。国府山城南方に黒田職隆の廟所があり、地元では「筑前さん」と親しまれている。
官兵衛の父・職隆の没後420年となった平成17年以降、黒田職隆廟所で黒田家と親交の深い心光寺住職を
招いて墓前祭を毎年営まれているそうです。



筑前さん参道と黒田職隆公廟所と書かれた看板。







上の3枚の写真が黒田職隆廟です。

黒田職隆廟と書かれた石碑の裏に昭和52年(1977)3月建立の石碑にこの頃黒田職隆廟が
修復されたことが書かれています。当時の妻鹿町総代 柳田久一氏らが尽力されました。

「播州黒田武士の館」の展示写真パネルで黒田職隆廟の過去の写真がありましたので
 添付させていただきます。(下記の2枚の写真)





江戸時代に国府山城塚という存在は知られていましたが黒田氏所縁の姫路の心光寺の住職により
戒名が確認され墓にきざまれた戒名から黒田職隆の墓であることが確認されました。
詳細を紹介したサイトがありましたのでリンクさせていただきます。
  http://www.geocities.jp/kurodazensi/314.html



上の写真は説明書きです。


上の写真は廟内にあった卒塔婆です。



平成26年(2014)1月16日に黒田職隆廟所は姫路市指定史跡名勝天然記念物に
指定されています。(第84号)


黒田職隆廟はNHK大河ドラマ「軍師官兵衛」 8月10日放送 第32回 さらば父よ!の
官兵衛紀行で紹介される予定です。












コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

姫路の黒田官兵衛ゆかりの地訪問記 on 2014-6-25 その2 母里太兵衛の生誕の碑と元宮八幡神社

2014年06月28日 03時47分15秒 | 神戸市以外の兵庫県
2014年6月25日、姫路市の黒田官兵衛ゆかりの地を訪問しました。本日はその第2回で山陽電鉄の
妻鹿駅が最寄り駅である母里太兵衛の生誕の碑と元宮八幡神社を写真紹介します。


過去のシリーズへのリンク

 初回(第1回) 妻鹿(国府山)城址



上の写真は母里太兵衛の生誕の地の石碑です。
この碑は昨年(2013年)7月14日、妻鹿連合自治会など地元の方の尽力でNHK大河ドラマ
「軍師官兵衛」に合わせて造立されました。

 神戸新聞NEXTに除幕式の様子を記事にされています。(下記リンクを参照)
  http://www.kobe-np.co.jp/rentoku/kanbee/news/201312/0006582899.shtml

碑には母里太兵衛生誕之地と刻まれています。
また、母里太兵衛を紹介した説明板も設置されていました。(下の写真)



説明板には下記のように書かれています。

母里太兵衛友信(もりたへえとものぶ)

播磨国妻鹿の国人曽我一信の子として妻鹿にて誕生。
槍術に優れた剛力の勇将として知られ、黒田軍の大将を務めた。
黒田二十四騎の中でも特に重用された黒田八虎の一人です。
また、民謡「黒田節」に謡われる名槍「日本号」を福島正則から呑み獲った晩話でも知られる

「酒は呑め呑め 呑むならば 日本一(ひのもといち)のこの槍を 
   呑み取るほどに呑むならば これぞ真の黒田武士」


ニュース神戸発の「官兵衛参上」2014年3月20日放送でも紹介されました。
  http://www.nhk.or.jp/kobe/gunshikanbee/news/20140320/index.html




上の2枚の写真は元宮八幡神社の近景と遠景です。
元宮八幡神社は、御旅山の山上に移る以前の御旅山八幡神社の元宮です。

元宮八幡神社の基本情報
住所:姫路市飾磨区妻鹿780  TEL:079-245-0413
御祭神:応神天皇
御旅山八幡神社が山上に遷座した時期:寛永13年(1636)or 元禄7年(1694)
昭和54年(1979)に改築

拝殿の右側には15年戦争(太平洋戦争)戦没者の慰霊碑があります。 
178柱の名前が刻まれています


上の写真は改築紀年碑(右)と雲道筆塚(左)の石碑です。

雲道筆塚の裏側に記載された説明

「筆塚の記
  当妻鹿町出身の書家
  稲田雲道君の発意に賛同し
  有志相諮(はか)り顕彰をかねてここに
  筆塚を建立す
  退筆に感謝の誠を捧げて奉納
  し益々精進されんことを希う
    昭和54年5月

     建立発起人代表 柳田久一
     妻鹿町総代   大石一雄」



  


姫路市白浜町て2013年10月14日、15日に行われた松原八幡神社秋季例大祭、通称「灘のけんか祭り」
で披露された母里太兵衛友信像。祭りに使う屋台の装飾に使用されたものです。
  「播州黒田武士の館」の展示写真パネルより





コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

姫路の黒田官兵衛ゆかりの地訪問記 on 2014-6-25 その1 妻鹿(国府山)城址

2014年06月27日 03時55分34秒 | 神戸市以外の兵庫県
2014年6月25日、姫路市の黒田官兵衛ゆかりの地を訪問しました。本日はその初回で山陽電鉄妻鹿駅が最寄り駅
である妻鹿(国府山)城址を写真紹介します。


上の写真は山陽電鉄妻鹿駅にある周辺地図です。妻鹿(国府山)城址には市川沿いに歩いていくことにしました。

拡大版はこちら
  http://seiyo39.blog.eonet.jp/default/files/P1270535_1.JPG
   画像の上の+をクリックするとさらに拡大します


上の写真は妻鹿駅付近から観た国府山の遠景です。

天正8年(1580)4月黒田官兵衛は豊臣秀吉に姫路城を譲り自らは妻鹿国府山城に移ります。
妻鹿城(めがじょう)「甲山城」ともいわれる「国府山城(こうやまじょう)は鎌倉時代末期から南北朝時代
に、妻鹿孫三郎長宗(めがまごさぶろうながむね)が築城したと伝えられています

永禄10年(1567)黒田官兵衛の父職隆は隠居し家督を継ぐ(職隆44才)この時、官兵衛は小寺家家老に
なっています。(黒田官兵衛22歳 光姫と結婚した年でもありました。
黒田官兵衛の父職隆の隠居後の住まいとして国府山城に入城しています。
2014年6月15日放送のNHK大河ドラマ「軍師官兵衛」の第24回「帰ってきた軍師」の最後に紹介される
官兵衛紀行で播磨国総社とともに妻鹿城址の碑が紹介されました。
播磨国総社は2013年3月31日に三ツ山大祭で訪問し下記3つのブログ記事を書いています。

三ツ山大祭 10箇所の造り物巡り on 2013-3-31

三ツ山大祭が閉幕 65万人の人手 次回は2033年

平成5年(1993)の三ツ山大祭

官兵衛紀行では「豊臣秀吉から領地1万石を与えられ、官兵衛は晴れて大名となりました。
新たに黒田家の旗を制定した官兵衛は、歴代の姫路城主が信仰した播磨国総社に参詣。
職隆と共に7日にわたって祈とうを受けたと伝わっています。」とナレーションが入りました。


上記NHK大河ドラマ「軍師官兵衛」の第24回「帰ってきた軍師」の官兵衛紀行で紹介された妻鹿城址の碑


上の写真は市川の左岸の堤から上記妻鹿城址の碑がある荒神社に降りる道と甲山(国府山城跡)の木々。


上の写真は荒神社の境内で拝殿への参道。


上の写真は国府山城の再現図。

拡大版はこちら
 http://seiyo39.blog.eonet.jp/default/files/P1270545_1.JPG


上の写真は国府山城の説明看板。

拡大版はこちら
  http://seiyo39.blog.eonet.jp/default/files/P1270546_1.JPG




上の3枚の写真は荒神社境内にある目薬の木と説明パネル。

説明パネルの拡大版はこちら
  http://seiyo39.blog.eonet.jp/default/files/P1270548_1.JPG


上の写真は妻鹿城址の碑の下にある説明の碑です。

拡大版はこちら
  http://seiyo39.blog.eonet.jp/default/files/P1270549_1.JPG










コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

古湊川、旧湊川、新湊川

2014年06月26日 04時26分23秒 | 神戸情報
2014年6月21日、湊川隧道でミニコンサートがあり出かけました。
湊川隧道の中に下記の写真のようなパネル展示(古湊川はどこを流れていたのか)があり、非常に
上手く纏められており感心しました。



上沢、下沢、水木、三川口など現在も残る名前がほぼ古湊川の流域にあることがよく判ります。


また、岡方歴史倶楽部のパネル展示で古湊川、旧湊川、新湊川の水路の地図が紹介されていたので
引用紹介します。


上の写真は旧湊川と新湊川の流路の地図と明治時代の海岸線が書かれています。
旧湊川は天井川で氾濫するたびに堤を積み上げていって交通機関の妨げとなり町の発展を阻害していた
ことさらに神戸港に土砂を流すため港の水深が浅くなり機能低下を招くことから明治の初期から兵庫の
3恩人と言われる北風正造、神田兵右衛門、藤田積中らは旧湊川を埋立し川の流路を変更することを
提唱してきました。
新湊川への付け替えの動機や工事の経過などについて説明書き他より紹介します。
湊川隧道(みなとがわずいどう)=会下山トンネルから新湊川トンネルへ

湊川は明治29年(1896)8月30日に決壊し荒田町、福原一帯に大きな被害をもたらした。
この洪水がきっかけで湊川の付け替え工事の話が浮上し実際に工事が進められることと
なった。
湊川隧道は湊川の付け替えに伴い明治30年(1897)11月より4年の歳月の工事を経て
明治34年(1901)7月に当時の土木技術の粋(the best)を結集して建設されました。
付け替えられた湊川は新湊川として今日に引き継がれています。
現在の新湊川は六甲山系からの天王谷川と石井川が合流して新湊川となり、
さらに苅藻川と合流し大阪湾に注いでいます。
平成7年(1995)1月17日の阪神淡路大震災により湊川隧道の下流側の坑口の崩壊や
煉瓦積みに剥離や亀裂が生じた為県の河川災害復旧助成事業により従来の幅7.3mに
対して幅12.8m断面積にして2倍以上の新湊川トンネルが建設され平成14年(2002)
3月に完成しました。
新湊川改修事業に伴い、湊川隧道(会下山トンネル)は河川トンネルとしての役目を
終えました。
しかし、構築後100年以上になる湊川隧道は当時の高度な土木技術で造られた貴重な
土木遺産として、保存する運動が起こり今でも築造当時のまま残されています。


以上は小生のブログ(下記サイト)より再掲。
 湊川隧道(会下山トンネル)から新湊川トンネル


上の写真パネルには古湊川、旧湊川の流路が描かれています。


上の写真も岡方歴史倶楽部の展示で摂陽山海古覧(せつようさんかいこらん)から旧湊川が描かれています。
 摂陽山海古覧に関する基本情報は下記のとおりです
 年代: 明治時代
 景観年代: 江戸時代後期
 作者 :若林秀岳

 解説:六甲山から開港前の神戸を眺めた図です。

 全容は神戸市立中央図書館のアーカイブを参照してください。(下記サイト)
  http://www.city.kobe.lg.jp/information/institution/institution/library/arc/items/046.html

1796年(寛政8年)~1798年(寛政10年)年に刊行された摂津名所図会には次のように記述されています。


湊川(みなとがわ) 兵庫の北口にあり。
水源、丹生山田・東小部・西小部・藍那小河等の渓川、三流会して石井村に至り、千鳥滝といひ、
 下流、兵庫拝に至って海に入る。
常は流水少なく、水碓に取る事多し。古は、石井より壊下山(えげやま)の麓を西へ流れ、兵庫の町の西より大和田浜にて海に入る。
平相国、兵庫築島せらるるの時、洪水の難を避けん為に、今のごとく川違ひありしなり。


平清盛(平相国)が古湊川を旧湊川の流路に替えたことが記載されているが真偽は不明。
この説は承安3年(1173)平清盛が大輪田泊の大規模な修築工事(経ケ島という人口島を築いた)の際、
会下山の南の塩槌山の土砂で経ケ島を造成したという伝説に基づくものです。


上の写真は摂津名所図会の中の旧湊川の画です。
真ん中に西国街道が湊川を横切っているのが判ります。






コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

昭和天皇の神戸への行幸

2014年06月25日 04時23分15秒 | 神戸情報

第124代昭和天皇(1901.4.29-1989.1.7)の神戸への行幸というテーマで記事を書きます。

最近、「昭和天皇、香淳皇后お手植えの松 in 小束山県有林 on 2014-6-16」という題で
ブログ記事を書きました。 

昭和29年(1954)4月6日に国土緑化を目的としたイベント第5回全国植樹祭が神戸市と三田市であり
天皇皇后両陛下が当地に来場され植樹されたことについて書いたものです。

昭和天皇の神戸への行幸についてすべてを網羅することは出来ないが下の2枚の写真の出典
及び過去の小生のブログさらにインターネットで調べた情報から表題のテーマに迫っていきます。


 出典1:アサヒグラフ 緊急増刊 1989年1月25日号

 出典2:市民のグラフ こうべ No.199 新聞に見る神戸100年(下) 1989年5月

(1)昭和4年(1929)6月7日の行幸 

  小生のブログ(http://seiyo39.exblog.jp/18769407/)で紹介しています。

 記事の中から文面をそのまま引用紹介します。
  

行幸記念碑は昭和天皇が御大典(即位の礼、昭和3年)の翌年の昭和4年(1929)に、
初めて神戸に行幸されたことを記念して昭和4年10月に建立されました。
 昭和4年(1929)6月7日に神戸税関に寄られています
市民挙げて奉迎歌をもってお迎えしたこと、昭和天皇(当時28)が貿易の状況について
ご下問された記録が残っています。

行幸記念碑がある場所の前は国道174号線です。
国道174号線は日本一短い(187m)ことで有名です。



上の写真は神戸税関の前の行幸記念碑です。

この時の行幸について詳しく書かれたサイトにリンクさせていただきます。
  http://www.customs.go.jp/kobe/tokeitou/2011-9/kobore.htm

上の2枚の写真は昭和4年(1929)6月7日の昭和天皇陛下の行幸

上述の税関以外に県庁、市役所、海洋気象台を見学されました。

出典:神戸新聞編 写真集 むかしの神戸 -明治・大正・昭和(1974)Page106

(2)昭和5年(1930)10月26日の行幸

 海軍特別大演習と銘打った観艦式が神戸港外で行われた。

(3)昭和5年(1930)9月20日~10月末 海港博覧会時の行幸

 海港博覧会は兵庫埠頭、湊川公園、関西学院跡(王子動物園付近)の3会場で実施

 通算、1,400万人の人出でにぎわった。

 昭和5年 神戸 観艦式記念海港博覧会の風景【戦前絵葉書コレクション】

(4)昭和22年(1947)6月12日の行幸

  戦後、初めて神戸へ行幸された写真を2点上記の出典より紹介します。

上の写真は灘の「本嘉納」見学の様子。出典1より


上の写真は出典2からのもので商船ビル屋上からの写真と宿舎にもなった神戸一中における写真。
当時の市長は小寺氏であった。

(5)昭和29年(1954)4月6日の行幸
 既述のとおり第5回全国植樹祭で巡行されました。

(6)昭和56年(1981)5月24日行幸
  ポートピア81を見学されました。
  兵庫県入りは昭和43年10月の但馬訪問以来との表記あり。


上の写真(出典2より)が当時の様子です。神戸新聞記事引用あり。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

エッチング=銅版画の最新作

2014年06月24日 04時39分12秒 | Weblog
先週(2014-6-20)に刷ったエッチング=銅版画の最新作を写真紹介します。



上の写真は以前に作成していた作品で清涼寺の阿弥陀如来坐像(重文 指定)を素材としています。
今回はバックをエッチング作製部を金色で印刷し、メゾチントで作成の阿弥陀如来坐像は
濃い茶色の系統で刷りました。
2つの版を重ね合わせて刷りました。

以前に刷った作品にリンクしておきます。
  http://seiyo39.exblog.jp/17598993/





上の2枚の写真、ベースを銅板ではなく1mm厚のプラスチック板に直接法の凹版にして
刷ったものです。少し大きな版の作品をつくるための練習としてトライしてみました。

直接法の凹版画の作品です。


兵庫県立美術館のエッチング教室で一番の落ちこぼれ生徒の作品です。



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

山本亀太郎君紀功碑  in  諏訪山公園 on 2014-2-20

2014年06月23日 04時49分00秒 | 神戸情報
本日は諏訪山公園にある山本亀太郎君紀功碑を写真紹介します。撮影は2014年2月20日です。

碑のある場所は山本通りから諏訪山公園金星台への昇り口から少し行ったところにあります。

山本亀太郎は神戸商工会議所の3代目の会頭であり、横浜の大谷喜兵衛と並び製茶貿易の世界で
名を馳せた人物である。
下記の文献(出典)から簡単に山本亀太郎を紹介します。
国立国会図書館の 近代デジタルライブラリー - 成功と失敗
タイトル:成功と失敗
著者:宮村無声 編
出版者:又間精華堂
出版年月日:明36.10
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/757458
コマ番号 38-40で全文を見れます。

山本亀太郎は弘化4年(1847)大阪で生まれた。父親は丹波で百姓をしていたが大阪に出てきて
茶商を始めた15歳で父と死に別れ茶商を引き継いだ山本亀太郎はまず宇治山城に行き製茶方法の会得や
お茶の品質評価法などを学んだ。慶応2年(1866)、20歳の頃から製茶貿易に携わることとなった。
慶応4年(1868)神戸で製茶問屋を開業した。
神戸で有志とともに神戸製茶改良会社を立ち上げ副社長となっている。

第2回勧業博覧会(1881(明治14)年3月1日~6月30日 東京上野公園で開催)の評議員
明治16年(1883)全国製茶共進会審査員

神戸株式取引所の設計にも関与
明治17年(1884)茶業組合中央本部の顧問、兵庫県茶業組合頭取、神戸区茶業組合会長
兵庫県茶業組合通常会議長などを兼任
明治19年(1886)神戸貿易会所の解散を受けて貿易為替会社を設立。
明治23年(1890)藍綬褒章
明治24年(1891)日本製茶会社取締役、茶業組合中央会議所相談役、神戸商業会議所会頭
明治32年(1899)米国ワシントンの万国商業大会に参列 大統領や各省大臣に面会

写真の紹介が遅くなりました。




上の2枚の写真が山本亀太郎君紀功碑です。
神戸商業会議所会頭に11年奉職など山本亀太郎の功績を讃える文が書かれています。
明治44年(1911)3月に65歳で亡くなったことも判ります。
明治35年(1902)以降はお茶の産地が静岡に移り神戸港に代わり清水港へのシフトが急激に進んだ
15年後の1917年には神戸港からのお茶の輸出は完全に消滅してしまった。
この動きの影響で山本亀太郎の晩年期は山本商店の倒産、生糸貿易への参入失敗などが重なり
脳出血で世を去った。少し悲しい終末であった。



上の写真は碑の裏側で大正2年12月に建立されました。
碑の建立には小曾根喜一郎、川崎芳太郎、瀧川辨三、武藤山治、鈴木岩次郎、松方幸次郎など錚々たるメンバー
が名を連ねて観世していることが判ります。
山本亀太郎の偉大さを物語るものでもあると思います。


  
神戸向け茶商のはじまり 山城茶業史より
  http://www.yamashiro-kodo.gr.jp/contents/siryou/his_2.html

上記サイトより神戸における製茶貿易に関する記述を引用紹介します。

「茶の貿易商としては、92番ヘリヤ商会、34番モリヤン・ハイマン商会、3番スミス・ベーカー商会などとよんだ。
そして、この外国商館への売込み問屋としては、神戸には山本亀太郎・西口清助・鷲尾磯七・園部住蔵などの
各店があった。上狛の茶商は、この売込み問屋へ主として茶を納めたのである。」


山本亀太郎の功績として明治20年(1887)の神戸銀行の設立も忘れてはならない事項である。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

すし・うどん・丼の「亀屋」でのランチ on 2014-6-21

2014年06月22日 05時09分29秒 | 神戸情報
湊川公園近くにある、すし・うどん・丼のお店「亀屋」でランチをいただきましたので写真紹介します。
撮影:2014-6-21

2014年6月21日(土)、湊川隧道の見学と夢野中学校のミニ・コンサートを聴くために市営地下鉄
湊川公園で下車し途中に亀屋に寄りました。前にも食べたことがありますがブログ記事にするのは
初めてです。

亀屋の基本情報
住所:神戸市兵庫区上沢通1−3−2 湊川公園パークハウス 1F
TEL:078-511-8139
料理ジャンル:すし・うどん・丼  定休日:火曜日

昭和40年くらいから開業されているそうです


上の写真は当日注文した親子丼 600円(税込)です。





上の2枚の写真は亀屋のメニュー表です。





上の2枚の写真は店の飾りつけ。


上の写真はお店の外観です。

当日の夢野中学吹奏楽部の皆さまによるミニ・コンサートの様子

湊川隧道 ミニ・コンサート on 2014-6-21

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする