天正10(1582)年6月2日に,明智光秀(1528~82)は,本能寺で主君織田信長を急襲し
自害させた(本能寺の変)。その後,中国地方高松城攻めからから引き返してきた
羽柴(豊臣)秀吉(1536~98)と13日に山崎で戦ったが敗れた(山崎の戦い)。
光秀は再起を期して家臣5-6人と近江坂本城に戻ろうとしたが,
小栗栖(現 京都市伏見区)で土民から竹槍で襲撃され明智藪で自刃した。
その際,首は介錯をした溝尾庄兵衛尉によって知恩院近くまで来たが夜が明けた為
この地(東山区三条通白川橋下る梅宮町)に埋められたと伝えられている。
場所下の地図のとおりであり、餅寅という饅頭屋さんの隣の路地を少し
入ったところにあります。以上は塚の説明書に若干追加。
別の資料では次のように紹介されています。
天正10年6月17日、羽柴秀吉は三井寺で光秀の首実験を行い、翌日この首を
京の粟田口にさらした。
当初、この首は粟田口黒谷通の東に埋められていたが、明和8年(1771)に
この地に住む能狂言の笛ふきをつとめる明田利右衛門(明智の縁者か)が、
栗田口黒谷の五人組連中からもらい受けて自宅のこの地に移し菩提を弔った
という。幕末に「東梅宮・明智光秀墳」の道標が建てられ、明治36年には
歌舞伎俳優の市川団蔵が、「長存寺殿明窓玄智大禅定門」と刻んだ墓石を
造ったといわれる。(「京都の墓碑めぐり」竹村俊則著京都新聞社)
下の写真は餅寅の店の写真です。
下の写真は長存寺殿明窓玄智大禅定門と刻んだ墓石と五輪塔
下の写真は白川沿いで当日(06年10月14日)は河川の清掃が行われていました。