神戸市北区の有馬温泉の三恩人と言えば行基、仁西、豊臣秀吉の3人です。
また神戸全体の三恩人は神功皇后、平清盛、伊藤博文である。
神戸に大きく貢献した伊藤博文の神戸時代の足跡を辿りたいと思います。
伊藤博文は初代の兵庫県知事で知事であった期間は下記のとおりです。
自:慶応4年5月23日 新暦換算では1868年7月12日
至:明治2年4月10日 新暦換算では1869年5月21日
伊藤博文の兵庫県知事時代は上記のように1年にも満たない短期であったが26歳
の伊藤博文は若輩ではあったが1863年に長州ファイブの一員として英国に留学
さらに英国から帰国後の1864年に高杉晋作、井上馨とともに下関戦争の戦後処理
1868年1月(旧暦)に起きた神戸事件の処理、さらに政府の要職参与にも
なっていた外交問題などに精通した大物の政治家であった。
尚、伊藤博文が兵庫県知事就任時は伊藤俊輔と称していました。
の伊藤博文は若輩ではあったが1863年に長州ファイブの一員として英国に留学
さらに英国から帰国後の1864年に高杉晋作、井上馨とともに下関戦争の戦後処理
1868年1月(旧暦)に起きた神戸事件の処理、さらに政府の要職参与にも
なっていた外交問題などに精通した大物の政治家であった。
尚、伊藤博文が兵庫県知事就任時は伊藤俊輔と称していました。
前置きが長くなったが伊藤博文の神戸への貢献事項を箇条書きで示します。
(1) 神戸病院の設置と医学伝習所開設 1869年4月(旧暦)
(2) 徳川道の建設費用(2万4千両)を谷勘兵衛より工面
(3) 小学校の前身兵庫学校を開設 1868年6月10日(旧暦)
のちに明親小学校と命名
(4) 兵庫県県庁を兵庫城跡から坂本村へ移す
(2) 徳川道の建設費用(2万4千両)を谷勘兵衛より工面
(3) 小学校の前身兵庫学校を開設 1868年6月10日(旧暦)
のちに明親小学校と命名
(4) 兵庫県県庁を兵庫城跡から坂本村へ移す
その他下記のような業績があります。
・日本初の混浴禁止令
・福原遊郭の設置
・湊川神社の創建
・新聞の魁となる「湊川濯余」の認可
・神戸事件の処理
・福原遊郭の設置
・湊川神社の創建
・新聞の魁となる「湊川濯余」の認可
・神戸事件の処理
明治42年(1909)、伊藤博文は中国ハルピンで暗殺されました。
明治44年(1911)に大倉喜八郎からの寄付により大倉公園が神戸市へ寄付され
公園内に伊藤博文像が建設されました。
神戸市の文書「故伊藤公爵銅像建設顛末(てんまつ)」によると、約2万4千円の寄付
が集められ、銅像を造ったそうです。
上の2枚の写真は大倉山に建設された伊藤博文像です。
当時は周辺に高い建築物も無く、銅像は神戸港を行き交う船からも見えたそうで
す。その後1942年、第2次世界大戦中に銅像本体は金属供出され、台座だけが
残り、現在に至っています。
像の設置場所ですが設置当初は大倉山公園の一番高い位置に設置されていましたが
公園内に公会堂を建設しようとの動きが昭和10年(1935)から昭和15年(1940)
頃までにあったが太平洋戦争への突入など戦局が急変し鉄の統制もあり土地の整地
などが進めれられたものの公会堂建物の建設は実施されなかった。その際
銅像は現在地に移設されました。正確な移設年月日は未調査で不明。
像の高さは3.03mあったそうです。
原形制作は小倉惣次郎
台座を設計したのは京都大学初代建築学科教授の武田五一です。
台座がピラミッド状となっているのは明治42年(1909)暗殺され伊藤博文の
霊廟の意味あいが込められています。
また台座が国会議事堂中央搭と類似していますが大正7年(1918)コンペで
採用された国会議事堂の設計者は上記武田五一の愛弟子吉武東里(よしたけとうり)
らが師匠の意匠を取り入れて設計されたからです。
霊廟の意味あいが込められています。
また台座が国会議事堂中央搭と類似していますが大正7年(1918)コンペで
採用された国会議事堂の設計者は上記武田五一の愛弟子吉武東里(よしたけとうり)
らが師匠の意匠を取り入れて設計されたからです。
現在の台座だけの写真については以前ブログ記事を作成しています。
上の写真は国会議事堂の建物です(2014-12-14のNHKテレビ画面より)
銅像は当初明治37年(1904)、伊藤博文が湊川神社の創建に奔走したことから、
有志により湊川神社本殿の右横に設置されましたが、翌年、日露戦争
の講和条約の内容に激昂した群集に引き倒されてしまったそうです。
暴徒化した人達により神戸港に沈める直前にようやく警官隊に奪い返され、その後
長州出身の服部一三知事を経由して郷里の萩に送られました。
上の写真は明治37年(1904)から1年足らず湊川神社に設置された伊藤博文公の銅像
出典:神戸佳族 Vol.54(2016年5・6)Page13
朝日新聞デジタル(2017年11月13日05時47分)では
「神戸・大倉山公園に残る台座 肝心の銅像は?」と題して記事を書かれていますので
リンクさせていただきました。
終わりに神戸市須磨区西落合のいづみ会の皆様が作製した伊藤博文像を添付します。
モザイクアートで描かれたものです。2014-11-24 北須磨文化センターにて撮影。
不思議と日本全国、そうなっている。嘘と思うならきちんと調査すればよい。
民間主導で進めないと、博文公の銅像は出来ない。自信を持って忠告します。殺した韓国の方が堂々とねつ造の石碑を世界中に建て、竹島を日本人を拉致殺害して盗った韓国の方が、堂々と島根に言って被害者いじめを繰り返す。・・・いつから日本人達は中国人や朝鮮人の奴隷になったのか、これは奴隷そのもの。植民地支配された国家そのものの姿。市民が立ち上がらないで誰が銅像を建てられる?日本全国、ネットで資金を募集してもよい。
>小倉惣次郎... への返信
誤りを指摘していただき大変ありがたく存じます。
記事を訂正しておきます。