CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ)

神戸・岩国の最新情報を中心に紹介していきます。歴史や時事について調べた結果を紹介。

広東料理 大家好でのランチ on 2016-5-3

2016年05月05日 05時15分26秒 | 神戸情報
2016年5月3日、県民会館で鶉野飛行場の展示会があり出かけていました。

その日は近くの広東料理 大家好でランチをいただきましたので写真紹介します。
大家好は 「タイ チェ ハオ」と読みます

広東料理 大家好の基本情報

住所:神戸市中央区中山手通3-5-8 1階 TEL:078-392-7522
料理ジャンル:中華料理(広東料理、香港飲茶)
営業時間:ランチ11:00~14:00 ディナー17:00~21:00
定休日:第1水曜日、第3水曜日

公式HP:http://guangdong-dajiahao.com/

当日、注文したのは炒飯セット 800円(税抜き)です。
炒飯との取り合わせは水餃子を選択(下の2枚の写真)











上の3枚の写真はお店の前のメニュー表。




上の2枚の写真はお店の外観。鯉川筋に面しています。



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

山陽バス営業開始80周年 on 2016-5-1

2016年05月04日 12時05分01秒 | 神戸情報
山陽バスは、昭和11年5月1日に垂水駅前~神戸高商前間で
営業を開始して以来、2016年5月1日で営業開始後80周年の節目を
迎えたそうです。

80周年の特別サイトが開設され、昔の写真が多く掲載されています。

特設サイト:http://www.sanyo-bus.co.jp/80thanniversary/

山陽バス営業開始80周年を祝福すると共に今後益々のご発展を祈ります

山陽バスが写っている写真が中々見つからないので垂水駅前の日向遺跡発掘時
に小さく山陽バスが写っていますのでこれで代用します。
(下の2枚の写真)








上の写真は山陽バスの垂水駅前営業所と80周年のポスター 撮影:2016-5-4


上の写真は垂水駅北東側の山陽バスの乗り場遠景




上の2枚の写真は垂水駅北西側の山陽バスの乗り場




コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

NHK朝ドラ「とと姉ちゃん」の後半登場の花山伊佐次(実在人物は花森安治)

2016年05月04日 06時30分59秒 | 神戸情報
NHK朝ドラ「とと姉ちゃん」の後半登場の花山伊佐次(実在人物は花森安治)が
神戸で生まれた人物ということで花森安治さんについて調べた。

まずWikipediaより略歴を調べました。(若干 筆者が追記)

花森 安治(はなもり やすじ、1911年10月25日 - 1978年1月14日)は日本の
編集者、グラフィックデザイナー、ジャーナリスト、コピーライター。
生活雑誌『暮しの手帖』の創刊者として、その名を知られる。

明治44年(1911)、神戸市須磨区平田町に生まれる。神戸市立雲中小学校(注1)
の同級に田宮虎彦がいた。旧制兵庫県立第三神戸中学校(現 長田高校)から
旧制松江高等学校に進む。旧制高校時代、校友会雑誌(第20号:1932年12月が
花森の責任編集号)の編集に参加したことが編集者としての出発点になったと語る。

昭和8年東京帝国大学文学部美学美術史学科に入学し、ここでも学生新聞の編集
に携わる。帝国大学新聞は市販されており編集員には1年生5円、2年生10円、
3年生15円の給料が出た。
当時の編集部員に扇谷正造や岡倉古志郎、杉浦明平などがいた。

昭和10年(1935)10月18日東京赤坂の日枝神社で山内ももよと結婚式
昭和11年(1936)12月26日に山内ももよ(もも代)と入籍。
入籍から4ヶ月後の昭和12年4月に長女・花森藍生(土井藍生)が生まれた。

昭和12年(1937)に東京帝国大学卒業、佐野繁次郎の面接を受け伊東胡蝶園
(のちのパピリオ[1])宣伝部に入社、広告デザインに携わる。
尚、大学卒業論文のテーマは「衣装の美学的考察
1930年代末期から手がけた化粧品広告には、既に手書き
文字で顧客に語りかける、その後の『暮しの手帖』を誌面のキーともなる、
個性的なスタイルを確立させている。太平洋戦争に応召するが、疾病により除隊
し、その後は敗戦まで大政翼賛会の外郭団体に籍を置き、国策広告に携わる。
当時の代表的なキャッチコピー「欲しがりません 勝つまでは」は花森が考案
したものと、しばしば言われるがこれは事実ではない。
大政翼賛会と新聞3社による「国民決意標語」の募集に、東京在住の男性が
小学生の娘の名前で応募した作品を花森が採用したものである。
ただし、この点に関して、花森は一切弁明をしなかった。

除隊されたとは言え、戦争の不条理と悲惨さの一端を経験した、彼は終戦後の
昭和21年(1946)、編集者・画家の大橋鎭子(社長)と共に衣装研究所を設立し
雑誌『スタイルブック』を創刊した。そして1948年に、生活雑誌
『美しい暮しの手帖』(後に『暮しの手帖』に改題)を創刊する。
昭和26年(1951)には、暮しの手帖社と改称。『暮しの手帖』は生活者の側に
立って提案や長期間・長時間の商品使用実験を行うユニークな雑誌で、
中立性を守るという立場から、企業広告を一切載せない、という理念の元に
今日まで発行されている。編集長として自ら紙面デザインや取材に奔走し、
死の2日前まで第一線で編集に当たった。なお『暮しの手帖』の表紙画は、
創刊号から死の直前に発行された第2世紀52号まで、全て花森の手によるもの
である[2]。暮らしの手帳は徹底的な商品テストも好評で全盛期には100万部
を越える人気雑誌です。


(注1)雲中小学校は神戸市内では明親小学校に次いで2番目に古い学校で、
   明治6年(1873)4月の創立です。



花山伊佐次役唐沢寿明が演じている。

1972年の著書『一銭(正しくは金を略した字)五厘の旗』では「僕らの暮らしを
何よりも第一にする」という強い決意を謳っています。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

東大寺創建時の東塔院跡の発掘調査に関する話題 

2016年05月03日 05時13分51秒 | 奈良情報
奈良市の華厳宗大本山東大寺で東塔院七重塔跡発掘を進めている調査団は4月22日、
平家の平重衡が治承4年(1180)12月に焼き討ち後の復興で大勧進職を務めた
栄西禅師の同塔再建への関与を示す文字瓦20点以上が出土したと発表した。
瓦には「七重塔」を示す「七」の字があり、団長の鈴木嘉吉・元奈良国立文化財
研究所所長は「東塔に栄西(ようさい)は大して関わっていないと思っていたが、
再建に果たした役割を見直さないといけない」と述べた。


上記のような新聞報道やテレビでの報道がありました。

注)後白河法皇は東大寺焼打ち後、直ちに復興の意思を表し、勧進聖らに
東大寺再建のための勧進活動への協力を求め、養和元年(1181)、その責任者
として俊乗房重源(1121~1206)を大勧進職に任命。
文治元年(1185)には大仏の開眼供養、建久6年(1195)には大仏殿落慶供養、
さらに南大門などの復興後、元久元年(1204)東塔院の復興に着手したが
2年後の建永元年(1206)、重源は86歳で入滅した。東塔院再建は栄西
(ようさい)、行勇(ぎょうゆう)という大勧進職に引き継がれ、重源の死から
20年以上たって嘉禄3年(1227)頃にようやく完成したとみられる。



2015年7月から実施されている東大寺東塔跡の発掘調査は実施されその成果は
2015年11月21日に現地説明会でその一部が披露された。
現地説明会配布資料:http://www.todaiji.or.jp/images/pdf/toutouinnato.pdf

東大寺創建時(天平勝宝4年(752)及び鎌倉期の復興された当時の
東大寺伽藍配置は下の写真(東大寺縁起より)上述の現地説明会資料にも掲載
されています。





東大寺大仏殿の裏手に大正期工学博士 天沼俊一氏によって制作された50分の1
の模型があり東塔院の様子が実感できます。

2014年11月12日に撮った上述の東大寺境内模型の動画を添付しておきます。















上の写真は2016-4-23NHKテレビの報道による東大寺東塔院の発掘の様子です



西塔跡は2017年から発掘調査を開始し、5年かけて詳しい規模や礎石の配置
などを調べる。2021年から東塔の基壇の整備に入りたいという計画だそうです

瓦などは4月29日~5月13日、東大寺ミュージアム(奈良市)で公開中


出土の瓦を写した動画へリンク
  http://www.sankei.com/west/news/160422/wst1604220091-n1.html




コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

神戸市垂水区 多聞寺の杜若(かきつばた) on 2016-5-2

2016年05月02日 17時25分44秒 | 神戸情報
2016年5月2日、多聞寺の杜若(かきつばた)の写真を撮ってきましたので
紹介します。

多聞寺の基本情報
住所:神戸市垂水区多聞台2 TEL:078-782-4445 
山号:吉祥山 宗派:天台宗
多聞寺は空海の弟子・慈覚大師が開基した古刹で開基年は平安時代のはじめ
貞観5年(863)と伝えられています。
寺の説明書きでは貞観2年(860)に開創と書かれています。
下の2枚の写真が本堂で正徳2年(1712)の再建と伝えられています。
最盛期には本堂、坊頭が23坊もあったそうです。


多聞寺の主な年間行事

1月1日  修正会
1月5日  修正会結願法要 鬼追式
2月    節分
3月    彼岸会
5月    観華会
8月16日 盂蘭盆
9月    彼岸会
12月大晦日 除夜の鐘

毎月3日 本尊縁日 護摩供
随時   止観(天台座禅) 実習道場


多聞寺の追儺式(鬼追式)

古くに中国から伝わった、年の終わりに方相氏が悪鬼を駆逐する追儺行事が、
やがて寺院の年頭の行事である、天下泰平・五穀豊穣・招福攘災を祈る修正会に
附属する行事、追儺で踊るようになったものです。
現在は正月から小正月、節分にかけて、真言宗・天台宗を中心とする寺院で踊られます。
慶雲3年(706)文武天皇の時に流行した疫病を追い払おうと、宮中で大晦日に
鬼払いの儀式として行われたのが始まりとされています。
東大寺での修正会は天平勝宝4年(752)から行われている。
修正会は平安時代中期以降は諸大寺で一般的におこなわれるようになった。
創建が863年である多聞寺の追儺式がいつ頃から始まったのかは不明では
あるが恐らく1000年前後からの伝統があり約1,000年の歴史がある






それでは杜若の写真を堪能して下さい。(下の5枚の写真)












かきつばたはあやめ科の植物で花の中央部に白の斑紋があるのが特徴です。
かきつばたの名前の由来は在原業平の歌ら衣  つつなれにし ましあれば
るばる来ぬる  びをしぞ思ふ

によるものだそうです。


上の写真のように5月8日(日)には観華会の「聲明懺法」呂曲の法要などのイベントが
あります。昨年の観華会の様子を綴った小生のブログにリンクしておきます。

多聞寺の杜若(かきつばた)と観華会の聲明懺法 (しょうみょうせんぼう)呂曲 on 2015-5-10


上の写真は仁王門(大門)





コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

累計訪問者数 50万iPを突破見込み on 2016-5-1

2016年05月01日 05時00分24秒 | Weblog
2016年5月1日に累計の訪問者数が50万iPを突破する見込みです。憶えの為、
記載しておきます。

本ブログも2004年に開設していますので12年間続けています。
あと何年生きれるか判りませんが死ぬまで継続出来たらと考えています。

また2015年10月5日のランキングが過去最高の884 位(1,717pv 523ip)
であったことも付記しておきます。

直近の週間アクセス数(2016-4-24~4-30)1,568ip 7,807pv 3,499位

週間アクセス数の最上位は2016年3月20日~3月26日の1,698位



アクセスしていただいた方々に感謝致します。
これを励みに無理をしない程度に継続していきたいと思います。



アクセス数については節目の数値を突破した時にメモしていこうと考えています。

過去のアクセス数に関するメモ

週間アクセス数 9918位に on 2011-7-10~7-16

 累計訪問者数 40万iPを突破 on 2014-10-13
 
累計訪問者数 45万iPを突破 on 2015-9-24



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする