(昨年3月17日、第32軍司令部壕説明板問題で証言された渡久山朝章さん)
先日、たまった新聞の切り抜きをしていて、渡久山朝章さん(享年85歳)が急逝されたという記事を見つけ、驚いた。
昨春、沖縄県が首里城地下の陸軍第32軍司令部壕の説明板を作るにあたって、検討委員会の文案から、「慰安婦」と「住民虐殺」、さらに英語版では「捨石」を削除したことが大きな問題となった。私もこの問題を放置できないと考え、公文書公開請求で関係資料を取り寄せたり、古書店をまわって当時の関係書籍を探したりした。そして入手したのが、当時、鉄血勤皇隊として司令部壕にいた渡久山朝章さんの『南の巌の果てまで---沖縄学徒兵の記』という本だった。
その後、3月17日には、第32軍司令部壕説明板問題の緊急学習会が開催された。そこで、渡久山朝章さんが壇上に上がり、当時の記憶を証言されたのだ。
「首里城地下の司令部壕で兵隊と一緒になって壕掘り作業などを手伝った。そこに半袖半ズボンの女性が毎日4、5名来て、同じように壕掘りをしていた。周りの兵隊の態度から慰安婦の人たちだと分かった。」、「夕方、壕の前、師範学校の実習田で、スパイ容疑の女性が虐殺される光景を見た。」
そして、渡久山さんは、最後に次のように話をされた。体調が悪いということで辛そうだったが、渡久山さんの声には力がこもっていた。
「人間は、記憶の連続で生きています。この女性たちが確かに壕にいたことと、住民虐殺があったこと、この2つを否定されると自分の記憶も否定されるようで、自分の過去に2つ穴があくような気がします。」、「県はこんなことをして、もう物を言えない死者達に臆することなく説明板を建てられるのですか?」
昨年、私はこの話をブログで次のように書いている。「こうした戦争当時の話を直接聞かせていただけるのも、もう、ここ数年のことだ。まだ、当時の体験者が、このように克明に証言されているのに、歴史の改ざんを許してはならない。」
それが、なんと早くもそれから1年で亡くなられてしまったのだ。急がないと、もう、我々には時間がない。
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なお、第32軍司令部壕の問題については、本ブログ右下の「カテゴリー欄」の「第32軍司令部壕」をご覧ください。
また、第32軍司令部壕のその後については、沖縄平和ネットワークの機関誌(2013.4.8号)に、「情報公開文書から見た第32軍司令部壕問題の経過と現状」を投稿したのでお読みください。