(八原博通『沖縄決戦 高級参謀の手記』に明記されている「第6坑道」(右下))
今日は、少し細かい話と思われる方もいるかもしれないが、重要な話なので取り上げておきたい。
県による第32軍司令部壕の説明板の改ざんは、「慰安婦」「住民虐殺」「捨石」だけではない。まだ、問題が明るみに出ていないが、私には、「第6坑道」の問題がどうしても気になってしかたがないのだ。
県が、「住民虐殺」を削除した理由は、「証言内容の場所が特定できない」というものだ。しかし、「住民虐殺」の場所は、多くの証言や文献で明確に特定されている。第6坑道の坑道口付近なのだ。ところが説明板の文面は「五つの坑道」とされ、図面にも、第1~第5坑道が表示されているだけで、第6坑道はない。
元鉄血勤皇隊・渡久山朝章さんは、17日(土)、教育福祉会館で、「第6坑道で慰安婦の女性らと一緒に働いた。」、「第6坑道口の近くの田で、スパイとされた女性が虐殺された。」とはっきりと証言された。渡久山氏の著作『南の巌の果てまで』にも、彼が働いた第6坑道口周辺の様子が描かれている。
「現場は金城町の斜面原野へ出る第6坑道口であるが、その口を開けた部分の周りは岩石の断崖状となっており、上や左右には巨大な岩石が坑道口を囲むように突出している。」(33頁)
さらに同書には、第6坑道口近くでの虐殺の様子が克明に書かれている。そこでは、虐殺のあった場所を、「第6坑道口の下、大きな溝をへだてて下に広がる私たち師範学校の実習田の中」(91頁)と明記しているのだ。
また、高級参謀として牛島司令官を補佐した八原博通氏の『沖縄決戦 高級参謀の手記」には、第6坑道を明記した地図(上記)が掲載され(この地図は『南の巌の果てまで』にもある)、「第6坑道には、はるばる内地から渡来し、長堂の偕行社に勤務していた芸者十数名と、辻町の料亭若藤の遊女十数名が収容されていた。」(179頁)と書かれている。
さらに琉球新報の連載「首里城地下の沖縄戦 32軍司令部壕」でも、「入口は6ケ所」とされ、鉄血勤皇隊だった弁護士・川崎正剛さんの第6坑道口での虐殺の様子の証言、山城次郎さんの第6坑道口の虐殺現場が「血で真っ赤だった」という証言などを掲載している。第6坑道があったという事実は、もう、否定しようがない。
県は、公文書公開請求の開示でも、渡久山さんや、八原高級参謀の上記の著作を、検討資料の一つとしてあげている。それにもかかわらず、第6坑道の存在を否定するのは何故なのか? 第6坑道、第6坑道口を無くしてしまったから、「虐殺現場が特定できない」のだ。
第6坑道を無くすことは、渡久山さんの証言を否定することでもある。それは、渡久山さんも17日に話されたように、渡久山さんそのものを否定することなのだ。
私は、17日の学習会でもこの問題を指摘したが、まだ、沖縄でこの問題を提起されている人はない。これからもいろんな資料をあたって、調査を続けていきたい。
<追記>
今朝(20日)の朝刊を見ると、19日、検討委員会の委員らが委員会の早急な開催、文言復活等を要求したが、さらに、「新たに、住民虐殺の証言に登場する『第6坑口』を説明板の地図に加えることも提案した。」(沖縄タイムス 2012.3.20)、「さらに、これまで調査が不十分だとされる同壕の第6坑口の調査なども求めた。」(琉球新報 2012.3.20)という。 よかった、この問題についても、検討委員会の委員さんらが取り上げてくれたようだ。