(阿波根さんらが建てた伊江島の土地闘争の拠点、団結道場)
名護から本部へ。9時の船で伊江島に渡る。船内には10人ほどの米兵。屈強な大男たちだが、皆、驚くほど若い。船は、30分ほどで、グスク山が中央にそびえる伊江島についた。
宿に荷物を預けて、自転車で島を1周する。アーニー・パイル記念碑からニィヤティヤガマへ。ここは、巨大な海岸洞窟で、戦時中は1000人もの村人たちが避難したという。
辺りは、サトウキビと菊畑が続く。平坦な島で、中央にグスク山の岩山がどこからも目立つ。
飛行場跡を横切り、「伊江島土地を守る会」の「団結道場」へ。阿波根さんらが、「無抵抗の抵抗」という非暴力の闘いを続けた拠点だ。建物の周囲には、いっぴにスローガンが書かれている。当時は、この前に米軍基地のゲートがあったという。
その後、第502特設警備工兵隊出撃の地を訪ねようとしたが、道を聞いても分からず、結局、行けなかった。米軍上陸後の1945年4月5日から、毎晩、計800人が米軍に切り込み攻撃を続けたところだから行きたかったのだが残念。
降り出した雨の中、湧出を通ってアハシャガマへ。ここも標識がほとんどなく、ゴルフ場の人に道を聞きながらやっと見つけることができた。今にも崩れそうな小さなガマだが、ここで、1945年4月22日、百数十人が「集団自決」に追い込まれたという。黙祷の後、小さな石をひらってポケットに入れる。
そして、ヌチドゥタカラの家(反戦平和資料館)へ。阿波根さんが収集した戦時中の軍服、原爆模擬弾、パラシュート、薬莢、そして写真や資料が大量に収納されている。そして阿波根さんの手書きの大きなポスター。館内には、まるで彼の妖気がただよっているようだ。
阿波根さんが、常に運動の最先頭に立ちながら、写真で記録を残し、新聞記事にまで書き込みを入れて保存し、小さなチラシなども丹念に遺していることに感心する。
ちょうど東京からの学生が一人来ていて、館長の謝花さんの話を聞いているところだったので、横に座らせてもらう。阿波根さんの数々のエピソードが興味深い。
(ヌチドゥタカラの家。阿波根さんが必死に集めた資料や遺品に圧倒される)
宿にいったん戻ってから歩いて町をまわる。役場に寄って近くの戦跡の場所を聞くが若い職員はほとんど知らず、役場には資料もない。
公益質屋跡の建物へ。当時の激戦で、壁に無数の弾痕が残った建物がそのまま保存されている。ここは、1929年の世界恐慌のときに、村が、貧しい村民のために、低い利子で生活費を貸付ける福祉施設だったという。
すぐ近くに山グシの陣地壕があるはずだが、村の人たちに聞いても分からない。お婆さんが近くの家から出てきたので聞くと、こっちだといって連れていってくれた。藪の中に小さな壕があった。標識も何もない。戦争当時、日本軍は城山の地下に壕をいくつも掘り、縦横に連なるトンネルの陣地を作った。城山全体がまさに要塞基地だったようだ。地形といい、全員玉砕といい、ここは硫黄島とまるで同じだ。
そして、いよいよグスク山に向かう。急峻な岩山だが、コンクリートの歩道が整備されている。20分ほどで頂上へ。島の全てが見渡せる360度の眺望。風が強く、レイテの日本軍壊滅の地・ブガブガ山に登ったときのことを思い出す。
長い間、頂上の岩陰に座って、ぼんやりと周りを見渡す。それにしても平坦な島だ。まるで逃げ場のない小さな島、四方から米軍が迫ってきたときの村人たちの恐怖が想像される。
伊江島には初めて来ることができたが、沖縄にはまだまだ廻らなければならないところが多い。今までほとんど関心を示さず、何も知らなかったことを恥じ入るほかない。