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チョイさんの沖縄日記

辺野古や高江の問題等に関する日々の備忘録
 

伊江島から辺野古へ

2007年11月01日 | 沖縄日記・沖縄の戦跡


             (百数十人が強制集団死を強いられたアハシャガマ)

 朝、自転車で再度、ヌチドゥタカラの家に走る。阿波根さんの写真集「人間の住んでいる島」を購入。
 その後、昨日、行けなかった芳魂之塔へ。この辺りは、「血塗られた丘」と称された激戦地だったという。
 ここには、伊江島で戦死した住民約1500人と日本兵約2000人、そして、本島や圏外での村出身戦没者など、合計4244人の名前が刻まれている。当時、島にいた一般住民は3000人だったというから、その半分が死んでしまったことになる。
 そして、川平の第2小隊壕へ。入口はもうコンクリートでふさがれ、中はのぞけない。グスク山の周囲には一面に地下塹壕が掘られ,トンネルが縦横に走っていたらしい。
 伊江島に米軍が上陸したのは、1945年4月16日。21日には、米軍がグスク山の山頂を確保し、島の完全占領を宣言したが、その後も、こうした塹壕から、日本兵や軍服を着せられた民間人らが、竹やりや爆弾をかかえて飛び出してきたという。こうした斬り込みには、10代の女子救護班や婦人協力隊までが参加して無惨な最期をとげた。

 戦闘が終わっても、伊江島島民の受難は続いた。
 全島を占領した米軍は、1945年5月、残った島民2100名全員を慶良間諸島に強制移住させた。そのうち1700人が送られた渡嘉敷島では、山中になおも立てこもる赤松隊に投降を呼びかけるため、6人の伊江島民が米軍に呼び出された。男だけでは疑われるというので、うち3人は女性だった。6人は、投降勧告文を持たされ山に入った。しかし、日本軍は、この6人を「米軍のスパイ」として捕らえ、自らの墓穴を掘らせ、そこで全員を切り殺したという。(この赤松大尉の弟が、現在、大江・岩波沖縄戦裁判を起こし、教科書から「軍の関与」を削除させるきっかけとなった。)

 島民が島へ帰ることを許されたのは、1947年。緑の全く残っていない島で、人々は苦労して耕作を始めた。しかし、すぐに米軍の「銃剣とブルドーザー」による土地強奪が始まる。1955年には、米兵300名が完全武装で島に上陸、ブルドーザーで家屋を破壊し、放火を続けた。
 砲弾による島民6名の死亡、102名が死んだ波止場での爆弾処理船の爆発事故、スクラップ解体中の死亡事故、演習場内での米兵による狙撃事件、---島民にあらゆる苦難が続いた。
 食べるものもなく、作物をつくる土地も失った住民らは、テントで暮らしながら、座り込みによる抗議や、柵内での耕作などを続けたが、飢餓と栄養失調で倒れる住民があいついだ。1955年には30歳の主婦が栄養失調で亡くなったという。
 その年の7月、全体が生きるために窮状を訴えようと、本島を縦断する「乞食行進」を開始した。「土地は取り上げられ、多くの子供たち等を抱え食糧はない。---乞食するのは恥であるが、武力で土地を取り上げ、乞食させるのはなお恥です。」と横断幕を掲げ、翌年2月まで、いつも20~30人の村民たちが行進を続けたという。
 こんな伊江島の土地闘争の中心人物が阿波根さんだった。彼の2冊の岩波新書は、もうほとんど本屋に並んでいないが、ヌチドゥタカラの家で買うことができた。

 10時の船で本部に戻る。船には今日も、米兵の姿が目立つ。売店ではドル紙幣も使えるとの表示。売店の親父さんと少し話し合う。「伊江島の基地の地主は、月に10万円もの地代をもらっている。基地がなくなったら、島は食えなくなってしまう。」というのが彼の意見だった。

 本部から、昨日、ヌチドゥタカラの家で会った鈴木さん、土の宿のスタッフ・イイヅカさんと車で辺野古へ。すさまじい雨で、座り込みのテントには、支援者の姿はなく、晋さんと安次嶺さんだけしかいない。それでも、ゆっくりと話し合えた。



 那覇には午後3時着。今日、オープンしたばかりの県立美術館へ行き、石川まおさんの写真展を見る。写真集「港町エレジー」を購入。
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