(具志頭城跡からギーザパンタを望む)
20日(金)、久しぶりに30度を超える好天。午後から南部戦跡を訪ねた。摩文仁の丘から少し東に走ると八重瀬町に入る。海岸近くの小さな丘が具志頭城跡。ここは自然の断崖上に、14世紀中ごろに築城された古いグスクだ。
すぐ西にはギーザパンタの断崖が広がる。ここは、大戦当時、南部戦線で追い詰められた多くの住民や日本兵らの「死の終着駅」となった。米兵たちは、「スーイサイドクリフ」と呼んでいたという。
当時、日本軍は、すぐ東の港川海岸を米軍の上陸地点と想定し、地上部隊3000人とマルレ(海の特攻艇)を配備していた。この具志頭城跡にも、3基の砲台が海に向かって設置されていたという。
城跡は公園として整備され、海の展望が素晴らしい。しかし、後ろには、大戦で死んだ大勢の村の人たちの名前が一面に刻まれ、慰霊碑や忠魂碑などが並んでいる。(上の写真右は、住民が建てた慰霊の塔・魄粋之塔、ここには10,150柱が収骨されている。)
具志頭城跡の下には自然洞窟を拡張したクラシンウンジョウの壕がある。スパッと切り落としたような大きな岩壁の下に、いくつかの入口が開いている。全長150mもある大きな壕だ。米軍の港川上陸に備えた地下陣地壕で、高射砲部隊(約300人)なども配置されていたという。
壕に隣接した岩場には、コンクリート製の銃眼が港川を見下ろしている。(右は外部から見た銃眼)
壕の壁面の棚はロウソク台だったらしい。壁面にはツルハシの跡も残っている。今日は、奥に入れなかったが、中には、カマド跡のある炊事場もあり、地面には軍靴や缶詰類などが散らかっているという。
この日も、大型バスで高校生らが大勢来ていたが、この壕付近には、標識も説明板も何も設置されていなかった。帰っていろいろ調べても、この壕の大戦当時の様子については、あまり分っていないようだ。 歴史を知る周辺住民らの多くが死んでしまったこともあるだろうが、なんとか総合的な調査をして全容を明らかにしてほしいものだ。