那覇の裁判所の向いに、城岳という小高い丘がある。いつも辺野古アセスや高江の裁判の傍聴に来ながら、なかなか訪れることができなかったところだ。
大戦当時、ここには人工の壕が作られ、1944年の10.10空襲以後、那覇無線通信所の本拠として使われた。1945年3月からは、一時、県庁壕として使われている。全長500mもある大きな壕で、当時は、13ケ所の開口部があったらしいが、今は、蓋をされている。壕の中には、切り込みの際に置いていった大量の軍靴や雑のう、水筒が散乱しているという。
周囲を回ったが、入口はなかなか分からなかった。那覇高校(旧県立二中)の正面の道を入ったところに、ブロックで封鎖された壕の入口が見つかった。しかし、周辺には、何の説明もない。
山頂部の公園には、拝所がある。このコンクリートの丸い台座は、旧日本軍の通信塔の台座だったという。
公園の一角には、鉄血勤皇隊など沖縄戦でなくなった県立二中の職員、生徒を祀る「二中健児の塔」がある。県立二中では、144人が鉄血勤皇隊に動員され、そのうち127人が戦死したという。碑の裏面には、これらの戦死者たちの名前がぎっしりと刻名されている。