今日は休みにしたので、いつもの周回コースでも走ろうかと思ったが、家内の「のんびりしたら?」の一言で安きに超流動性のある(つまり安きに流れやすい)私はへなへなとPCの前に居座ることになってしまった。少しだけ買い物のお手伝いをした程度でもったいない一日であったがのんびりと過ごすことができた。(これで144文字)
やはりツイッターの文字制限は私には合わない。機動的であるのかも知れぬが携帯電話ですらマナーモードにしており着電、着信にすぐ対応することはない。こどもたちは即座に対応しているが、私には振り回されているような気がするし、そんな臨機応変なんて無理だろう。「スピード」中心の、それが当たり前の世界って疲れる忙しない世の中だと思う。文明・文化の進歩というのは、情報が即座に入手できるようになるのも一つの現れだろうが、即座に反応しなければならない世界ではなかろう、と思うわけだ。
新しい技術を拒む必要はないが振り回されることなく適度に利用すればいいと思う。
地デジへの移行を推進するためにアナログテレビの画面の上下をバラックバンド(黒帯)にして地デジ移行を促す表示などに使うらしい。まぁ、4:3でなく16:9サイズの画面表示になるわけでいいのでは、と思う。現に映画の放映ではそのようにしているので別に違和感はないように思う。
それにしても、家の誰もが地デジ移行について関心がないようで誰も「うちは、どうするの?」なんて言い出さない。このままだと「この時間を持ちましてアナログ地上波の送信を停止いたしまう。今後はデジタル信号受像機でのご愛顧をお願いいたします。」なんていう「歴史的」場面に居合わせることになるのかも知れない。
こういう世帯は「情報弱者」の救済対象には当てはまらないらしい。だが、生活保護所帯でデジタル放送の受信を準備できない場合救済措置が取られるらしい。なんだかよくわからないが文化的な生活の水準としてテレビを見れることが挙げられているのだろう。誰かさんではないが「ラジオではダメなの?」。生活保護とか何らかの施策による救済の水準は文化的・健康的な(最低限の)水準を保障するのが国や自治体の役目であろう。だが、その水準の設定が曖昧な気がする。
私は救済の水準をフルタイムで働く人の給与水準を上回らないところに設定するのが妥当と思う。それで文化的で健康的な生活ができないとすればフルタイムで働く人も同様なはずだから、むしろフルタイムで働く人の給与水準を何とかする施策を講じた上で生活保護の水準を考慮すべきだと思う。
否、声高の者の水準が既にあるなら、その水準を下回る人たちの生活を何とかするのが政治だろう。物言わないから、と放置するのが現代の政治とは思えない。それでは、相変わらずの利益代弁・誘導政治ではないか。私は何らかの理由で働けない人々の生活に自助努力でなんとかしろとは考えない。むしろ国民として国民であることを幸福に思う政治の手が差し伸べられるのが理想だと思う。であるから、働く人がフルタイムで働いても生活保護の受給所帯の水準に達しないこともあることに対して納得できない。もっと、明示的に実態を明らかにし救済の手を差し伸べるべきだし、そのような人たちに救済の道があることを政府・自治体が積極的に政策を打つ出すべきだと思う。セーフティ・ネットってそういうものではなかろうか。それが十分機能するなら国民の統一番号制も意味のあることだと思う。
あぁあ、ツイッターの文字制限の10倍も由無し言をつぶやいてしまった。私にはホームページよりもツイッターよりもブログというのが合っているようだ。
そうそう、午後の再放送の水戸黄門はなんと1話完結ではなく今日が前編、明日が後編になるらしい。ステレオタイプな番組だとけなす家内が一言「明日も休んだら?」。
うっ、私にはできない・・・
やはりツイッターの文字制限は私には合わない。機動的であるのかも知れぬが携帯電話ですらマナーモードにしており着電、着信にすぐ対応することはない。こどもたちは即座に対応しているが、私には振り回されているような気がするし、そんな臨機応変なんて無理だろう。「スピード」中心の、それが当たり前の世界って疲れる忙しない世の中だと思う。文明・文化の進歩というのは、情報が即座に入手できるようになるのも一つの現れだろうが、即座に反応しなければならない世界ではなかろう、と思うわけだ。
新しい技術を拒む必要はないが振り回されることなく適度に利用すればいいと思う。
地デジへの移行を推進するためにアナログテレビの画面の上下をバラックバンド(黒帯)にして地デジ移行を促す表示などに使うらしい。まぁ、4:3でなく16:9サイズの画面表示になるわけでいいのでは、と思う。現に映画の放映ではそのようにしているので別に違和感はないように思う。
それにしても、家の誰もが地デジ移行について関心がないようで誰も「うちは、どうするの?」なんて言い出さない。このままだと「この時間を持ちましてアナログ地上波の送信を停止いたしまう。今後はデジタル信号受像機でのご愛顧をお願いいたします。」なんていう「歴史的」場面に居合わせることになるのかも知れない。
こういう世帯は「情報弱者」の救済対象には当てはまらないらしい。だが、生活保護所帯でデジタル放送の受信を準備できない場合救済措置が取られるらしい。なんだかよくわからないが文化的な生活の水準としてテレビを見れることが挙げられているのだろう。誰かさんではないが「ラジオではダメなの?」。生活保護とか何らかの施策による救済の水準は文化的・健康的な(最低限の)水準を保障するのが国や自治体の役目であろう。だが、その水準の設定が曖昧な気がする。
私は救済の水準をフルタイムで働く人の給与水準を上回らないところに設定するのが妥当と思う。それで文化的で健康的な生活ができないとすればフルタイムで働く人も同様なはずだから、むしろフルタイムで働く人の給与水準を何とかする施策を講じた上で生活保護の水準を考慮すべきだと思う。
否、声高の者の水準が既にあるなら、その水準を下回る人たちの生活を何とかするのが政治だろう。物言わないから、と放置するのが現代の政治とは思えない。それでは、相変わらずの利益代弁・誘導政治ではないか。私は何らかの理由で働けない人々の生活に自助努力でなんとかしろとは考えない。むしろ国民として国民であることを幸福に思う政治の手が差し伸べられるのが理想だと思う。であるから、働く人がフルタイムで働いても生活保護の受給所帯の水準に達しないこともあることに対して納得できない。もっと、明示的に実態を明らかにし救済の手を差し伸べるべきだし、そのような人たちに救済の道があることを政府・自治体が積極的に政策を打つ出すべきだと思う。セーフティ・ネットってそういうものではなかろうか。それが十分機能するなら国民の統一番号制も意味のあることだと思う。
あぁあ、ツイッターの文字制限の10倍も由無し言をつぶやいてしまった。私にはホームページよりもツイッターよりもブログというのが合っているようだ。
そうそう、午後の再放送の水戸黄門はなんと1話完結ではなく今日が前編、明日が後編になるらしい。ステレオタイプな番組だとけなす家内が一言「明日も休んだら?」。
うっ、私にはできない・・・
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