田舎からしたのこの卒業祝いをいただき、
昨日家内が朝早くにコンビニに出かけ内祝いを送る。
今夕田舎から届いたとの電話を受ける。
まだ降雪があったりして春は足踏み状態のようである。
田舎の近況で私の同級生のKさんが風力発電の風車の作業中
だと思うが事故で亡くなった、と知る。
田舎の同窓会や帰省したりしたときに旧交を温めた友人の
早い死を悼む。
田舎の新聞や地方版にもう少し詳報が載っていないかと
探したが見当たらなかった。
その折に、機雷による大惨事の記事が目にとまる。
この機雷事件は1751年(寛延4年)地震による土砂崩れで406(428)人が死亡
した名立崩れに次ぐ大惨事である。
※日本戯曲全集 第35巻 現代篇 第3輯 岡本綺堂・著 春陽堂 1928.12「名立崩れ」
むしろこの機雷事件の方が同時代的なことだけに、また、戦争が
終っても「戦争の悲惨」は残るものだということを思い知らされる。
今なお紛争が終えた地域にばら撒かれた地雷で死傷する悲劇を
繰り返す戦争の悲惨さと重ねあわされる。
つい、田舎のことでネット検索に時間を費やしてしまった。
名立機雷爆発事件を語り継ぐ、高橋良弘さん /新潟
---------毎日新聞から引用--------------
名立機雷爆発事件を語り継ぐ、高橋良弘さん /新潟
◇子どもを守る社会に--高橋良弘さん(65)
戦後間もない1949(昭和24)年3月30日、国籍不明の漂着機雷が名立町(現上越市名立区)の海岸で爆発し、子どもら63人が犠牲になった名立機雷爆発事件から61年を迎える。地区の青少年教育活動を担う「名立の子どもを守り育む会」の会長として、機雷事件を語り継ぐ活動を始めた。「事件の記憶は地元でも薄れかけている。歴史の一ページに終わらせてはならない」という思いだ。
当時、5歳だった。機雷が爆発した現場から約200メートル離れた自宅の寺にいて、大きな爆発音を聞いた。けがはなかったが、戸が倒れ、ガラスが飛び散り、元軍人の父親が軍服を着て救護に飛び出していったことが記憶に残る。
現場を直接は見ていないが、犠牲者は手足をもがれて即死し、親たちは変わり果てたわが子を見て泣き叫んだと、大人になって聞いた。小学校教員になり、事件のことを記した副読本づくりに取り組み、授業で子どもたちに伝えた。退職後、「守り育む会」の発足を機に、地区を挙げてこの事件に向き合うことにした。
遺族や、子どもを失った親たちのほとんどは世を去り、地区に残るのは兄弟姉妹を亡くしたり、自身が負傷した人たち。「そっとしておいてほしい」「60年もたったのだから」と、今さら事件のことを口にすることをためらう人がいるのも承知している。それでも「亡くなった人たちは『こんな事件は二度とあってはならない』と叫んでいるに違いない。ふたをしてはいけない」。当時を知る人が少なくなった今だからこそ、語り継ぐ必要があると感じている。
地区には、犠牲者を供養し「平和をまもる」と刻まれた石碑が立つ。世界の紛争地では地雷やクラスター爆弾による被害が後を絶たず、戦争が残した兵器が子どもたちの命を脅かしている現実は変わっていない。会の名に「守り」という言葉を入れたのも、石碑の言葉をかみしめ、「子どもたちを犠牲にする社会であってはならない」という誓いを込めたからだ。【小川直樹】
==============
■人物略歴
◇たかはし・よしひろ
旧名立町生まれ。小学校教員を勤め、上越市立諏訪小などで校長を歴任した。05年に退職後、実家の正光寺の住職となる。
----------------------------
関連記事もあった。
名立機雷爆発事件:語り継ごう 資料収集など、住民が多彩な取り組み--上越 /新潟
---------毎日新聞から引用-----------
名立機雷爆発事件:語り継ごう 資料収集など、住民が多彩な取り組み--上越 /新潟
◇49年、子どもら63人が死亡
◇資料収集や展示・創作劇 「平和の日」制定も
戦後間もない1949(昭和24)年、名立町(現上越市名立区)の海岸で連合軍が遺棄したとみられる機雷が爆発し、63人が死亡した「名立機雷爆発事件」を後世に語り継ごうという取り組みを、同区の住民が始めた。資料の収集や展示のほか、語り部による証言や創作劇などを通じて子どもたちに事件を伝えるとともに、市に対し「名立平和の日」を制定するよう働きかけるという。
活動を始めたのは、同地区の保護者や学識者、まちづくり団体の関係者ら運営委員25人でつくる「名立の子どもを守り育む会」(高橋良弘会長)。09年4月に発足し、機雷爆発事件の伝承を活動の中心に据えることを決め、活動方針を話し合ってきた。
高橋会長は小学校教員時代、事件後30年などの節目に教材をつくり、事件を児童に伝えてきた。60年が過ぎ、遺族たちが高齢化するなか、「今こそ地域の負の遺産に向き合う最後の機会」と、地域を挙げて取り組むことにした。
20日に勉強会を開き、事件を知らない会員とも思いを共有する。犠牲者を慰霊する地蔵尊が地区内の国道8号脇に立つが、道路拡幅に伴い、海に近い場所に移される。その工事が20日に終わることから、改めて犠牲者の冥福を祈る機会にする。
また、会員の一人が主宰する地元の劇団「いろり座」が、事件を題材にした創作劇の上演を企画しており、会が後押しする。
機雷爆発事件は49年3月30日夕方に起きた。海岸に浮いた機雷が見つかり、子どもたちが見物に集まった。除去作業を始めようとした時に爆発し、人々や家屋が吹き飛ばされた。
死亡した63人のうち、50人以上が中学生以下の子どもたちだった。日本は当時、連合国の占領下だったため、原因調査は行われず、機雷は米国、ソ連のいずれのものかも不明で、犠牲者への補償もなされていない。【小川直樹】
-------------------------
昨日家内が朝早くにコンビニに出かけ内祝いを送る。
今夕田舎から届いたとの電話を受ける。
まだ降雪があったりして春は足踏み状態のようである。
田舎の近況で私の同級生のKさんが風力発電の風車の作業中
だと思うが事故で亡くなった、と知る。
田舎の同窓会や帰省したりしたときに旧交を温めた友人の
早い死を悼む。
田舎の新聞や地方版にもう少し詳報が載っていないかと
探したが見当たらなかった。
その折に、機雷による大惨事の記事が目にとまる。
この機雷事件は1751年(寛延4年)地震による土砂崩れで406(428)人が死亡
した名立崩れに次ぐ大惨事である。
※日本戯曲全集 第35巻 現代篇 第3輯 岡本綺堂・著 春陽堂 1928.12「名立崩れ」
むしろこの機雷事件の方が同時代的なことだけに、また、戦争が
終っても「戦争の悲惨」は残るものだということを思い知らされる。
今なお紛争が終えた地域にばら撒かれた地雷で死傷する悲劇を
繰り返す戦争の悲惨さと重ねあわされる。
つい、田舎のことでネット検索に時間を費やしてしまった。
名立機雷爆発事件を語り継ぐ、高橋良弘さん /新潟
---------毎日新聞から引用--------------
名立機雷爆発事件を語り継ぐ、高橋良弘さん /新潟
◇子どもを守る社会に--高橋良弘さん(65)
戦後間もない1949(昭和24)年3月30日、国籍不明の漂着機雷が名立町(現上越市名立区)の海岸で爆発し、子どもら63人が犠牲になった名立機雷爆発事件から61年を迎える。地区の青少年教育活動を担う「名立の子どもを守り育む会」の会長として、機雷事件を語り継ぐ活動を始めた。「事件の記憶は地元でも薄れかけている。歴史の一ページに終わらせてはならない」という思いだ。
当時、5歳だった。機雷が爆発した現場から約200メートル離れた自宅の寺にいて、大きな爆発音を聞いた。けがはなかったが、戸が倒れ、ガラスが飛び散り、元軍人の父親が軍服を着て救護に飛び出していったことが記憶に残る。
現場を直接は見ていないが、犠牲者は手足をもがれて即死し、親たちは変わり果てたわが子を見て泣き叫んだと、大人になって聞いた。小学校教員になり、事件のことを記した副読本づくりに取り組み、授業で子どもたちに伝えた。退職後、「守り育む会」の発足を機に、地区を挙げてこの事件に向き合うことにした。
遺族や、子どもを失った親たちのほとんどは世を去り、地区に残るのは兄弟姉妹を亡くしたり、自身が負傷した人たち。「そっとしておいてほしい」「60年もたったのだから」と、今さら事件のことを口にすることをためらう人がいるのも承知している。それでも「亡くなった人たちは『こんな事件は二度とあってはならない』と叫んでいるに違いない。ふたをしてはいけない」。当時を知る人が少なくなった今だからこそ、語り継ぐ必要があると感じている。
地区には、犠牲者を供養し「平和をまもる」と刻まれた石碑が立つ。世界の紛争地では地雷やクラスター爆弾による被害が後を絶たず、戦争が残した兵器が子どもたちの命を脅かしている現実は変わっていない。会の名に「守り」という言葉を入れたのも、石碑の言葉をかみしめ、「子どもたちを犠牲にする社会であってはならない」という誓いを込めたからだ。【小川直樹】
==============
■人物略歴
◇たかはし・よしひろ
旧名立町生まれ。小学校教員を勤め、上越市立諏訪小などで校長を歴任した。05年に退職後、実家の正光寺の住職となる。
----------------------------
関連記事もあった。
名立機雷爆発事件:語り継ごう 資料収集など、住民が多彩な取り組み--上越 /新潟
---------毎日新聞から引用-----------
名立機雷爆発事件:語り継ごう 資料収集など、住民が多彩な取り組み--上越 /新潟
◇49年、子どもら63人が死亡
◇資料収集や展示・創作劇 「平和の日」制定も
戦後間もない1949(昭和24)年、名立町(現上越市名立区)の海岸で連合軍が遺棄したとみられる機雷が爆発し、63人が死亡した「名立機雷爆発事件」を後世に語り継ごうという取り組みを、同区の住民が始めた。資料の収集や展示のほか、語り部による証言や創作劇などを通じて子どもたちに事件を伝えるとともに、市に対し「名立平和の日」を制定するよう働きかけるという。
活動を始めたのは、同地区の保護者や学識者、まちづくり団体の関係者ら運営委員25人でつくる「名立の子どもを守り育む会」(高橋良弘会長)。09年4月に発足し、機雷爆発事件の伝承を活動の中心に据えることを決め、活動方針を話し合ってきた。
高橋会長は小学校教員時代、事件後30年などの節目に教材をつくり、事件を児童に伝えてきた。60年が過ぎ、遺族たちが高齢化するなか、「今こそ地域の負の遺産に向き合う最後の機会」と、地域を挙げて取り組むことにした。
20日に勉強会を開き、事件を知らない会員とも思いを共有する。犠牲者を慰霊する地蔵尊が地区内の国道8号脇に立つが、道路拡幅に伴い、海に近い場所に移される。その工事が20日に終わることから、改めて犠牲者の冥福を祈る機会にする。
また、会員の一人が主宰する地元の劇団「いろり座」が、事件を題材にした創作劇の上演を企画しており、会が後押しする。
機雷爆発事件は49年3月30日夕方に起きた。海岸に浮いた機雷が見つかり、子どもたちが見物に集まった。除去作業を始めようとした時に爆発し、人々や家屋が吹き飛ばされた。
死亡した63人のうち、50人以上が中学生以下の子どもたちだった。日本は当時、連合国の占領下だったため、原因調査は行われず、機雷は米国、ソ連のいずれのものかも不明で、犠牲者への補償もなされていない。【小川直樹】
-------------------------
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます