ベック式!難単語暗記法ブログ

質の高い暗記法、芸術的なゴロ合わせ、感動の記憶法をあなたに!抜群に効果的な実例満載!

1028(長元元)年 〈平忠常の乱〉★

2017-05-28 | 『新日本史頻出年代暗記』

●平安時代(後一条天皇)
1028(長元元)年 〈平忠常の乱〉★
Taira no Tadatsune rebels in Shimousa province.
威令(いれい)にはただ 皆寄るの。
         1028年      平忠常の乱   源頼信 

安和の変で重要な役割を果たした源満仲の子頼信は摂関家に接近。1028年に前上総介平忠常が房総で乱を起こすと、政府は追討使として頼信を抜擢した。忠常は頼信の威令に対して戦わずして降伏。この平忠常の乱は東国における源氏勢力拡大のきっかけとなった《「頼信」が源氏の勢力を「より伸ば」したわけだ!》。

 


[ポイント]

1.平忠常の乱は、1028(長元元)年、上総でおこる。

[解説]
1.源頼信は房総半島に広がった乱を鎮定し、これが平氏に代わって源氏が東国進出する契機となる。

2014立教大・経済コミュ福祉・観光

 藤原道長が「此世をば 我世とぞ思ふ 望月の かけたる事も 無と思へば」と詠んだのは、土御門殿(つちみかどどの)という屋敷であったが、この屋敷はいったん火災に遭い、上記の歌が詠まれる数ヶ月前に再建されたところであった。再建にあたっては、( ハ )の日記である『小右記』に記されたように、「土御門殿の( ニ )一間を以て、諸の受領に配し営ましむと云々。いまだ聞かざるの事なり。造作の過差、往跡(おうせき)に万倍す」(原漢文)と受領たちが競って造営を分担し、3.源頼光が家中の家具、調度を献上したことで知られている。


問3 下線部3の源頼光に関する記述として正しいのはどれか。次のa~dから1つ選べ。


 a.その弟の源頼信は、平忠常の乱を鎮圧した

 b.その子の源頼義は、後三年合戦で、安倍頼時・貞任による反乱を鎮圧した
 c.その父の源満仲は、藤原純友の乱を鎮圧した
 d.その孫の源義家は、保元の乱の時に後白河天皇と結び勝利した。」

(答:ハ藤原実資、ニ寝殿、問3a dは源義朝)

▼源氏と平氏

イメージ 1

【ベック式!日本文化史ゴロ合わせ暗記術】

【ベック式!魔法の日本史実況中継 (古代編)】

【ベック式!魔法の日本史実況中継 (中世編)】

【ベック式!魔法の日本史実況中継 (近世編)】

【ベック式!魔法の日本史実況中継 (近・現代編)】

にほんブログ村 受験ブログへ

受験 ブログランキングへ

日本史 ブログランキングへ

世界史 ブログランキングへ

 
 

 


1019(寛仁3)年 〈刀伊の入寇〉★

2017-05-26 | 『新日本史頻出年代暗記』

●平安時代(後一条天皇)
 
Invasion of Toi: Jurchen raid north Kyushu but driven back.
刀伊(とい)来りゃゴンと 封じたか。 

1019年        大宰権帥      藤原隆家 

907年、わが国に大きな影響を及ぼしてきた中国の唐が滅び、五代十国の争乱を経て960年に宋が中国を統一。朝鮮では高麗が新羅にかわって半島を統一した。1019年、刀伊とよばれた女真族が対馬・壱岐を襲い、九州北部に侵入した際には、大宰権(ごんの)帥(そち)の藤原隆家が在地の武士団を率いてこれを撃退。以後、これらの国々とはわずかな交流が保たれただけであった。

[ポイント]
1.刀伊の入寇は1019年にあり、藤原隆家らが鎮圧した。


〈2014同志社大・文

 1019年に九州北部でおこった( h )の来襲の際には、大宰権帥の( ケ )の指揮のもと、九州の武士たちがこれを撃退した。

【設問h】空欄( h )に入る語句を漢字で記せ。


【設問ケ】空欄( ケ )に入る人物名を次のうちから1つ選べ。


  1.藤原隆家 2.藤原秀郷
  3.藤原成親 4.藤原伊周


(答:h.刀伊、ケ1 ※2.秀郷は将門の乱)〉

【ベック式!日本文化史ゴロ合わせ暗記術】

【ベック式!魔法の日本史実況中継 (古代編)】

【ベック式!魔法の日本史実況中継 (中世編)】

【ベック式!魔法の日本史実況中継 (近世編)】

【ベック式!魔法の日本史実況中継 (近・現代編)】

にほんブログ村 受験ブログへ

受験 ブログランキングへ

日本史 ブログランキングへ

世界史 ブログランキングへ


969(安和2)年 〈安和の変〉★★

2017-05-24 | 『新日本史頻出年代暗記』

●平安時代(冷泉天皇)

Anna Incident; Minamoto no Takaakira is demoted to Dazai-gon-no-sotsu and sent to Kyushu.
(くろ)く密告 あんた方。 

969年  源満仲   安和の変 源高明 

10世紀の前半には醍醐・村上天皇が「延喜・天暦の治」と称された親政を展開。

しかし、この間にも藤原忠平が摂政・関白をつとめ、太政官の上に立って実権を握った。

そして969年、醍醐天皇の皇子で左大臣の源高明が源満仲の密告によって左遷されるにおよび、藤原実頼以降の摂関常置体制が確立。

この安和の変によって藤原北家の勢力は不動のものとなった。

 

 

[ポイント]
1.安和の変969年)で、源満仲の密告により左大臣源高明が失脚し、藤原氏による他氏排斥は完成する。

2.源高明醍醐天皇の皇子で、儀式書(有職故実書)である『西宮記』を著した。


2014立大・法・経済(経済政策)・異文化コミュ

10世紀から11世紀にかけて、藤原氏(北家)は天皇家と外戚関係を結ぶことで、政治権力を掌握した。当時の貴族は嫁入婚が主流であり、母や母方の祖父の影響は大きかった。藤原氏はこれを利用し、( イ )の変で左大臣の源高明を失脚させて以降、摂政・関白の地位を独占した。摂関政治が確立するなかで、地方政治のあり方も変化した。

(答:イ安和)

 

〈2013早大・文

下線bの人物(源高明)の説明として、誤っているものはどれか。1つ選び、マーク解答用紙の該当する記号をマークしなさい。

 ア 字多天皇の子供であった

 イ 左遷されたとき左大臣であった
 ウ 儀式書である『西宮記』を著した
 エ 大宰権帥として左遷された
 オ 村上天皇の死後、左遷された

(答:ア ※源高明は醍醐天皇の皇子。ウ.口2つ エ.為平親王
擁立を企てたとして左遷。「タ」「ラ」、オ.村上天皇の死は967年 )

 

【ベック式!日本文化史ゴロ合わせ暗記術】

【ベック式!魔法の日本史実況中継 (古代編)】

【ベック式!魔法の日本史実況中継 (中世編)】

【ベック式!魔法の日本史実況中継 (近世編)】

【ベック式!魔法の日本史実況中継 (近・現代編)】

にほんブログ村 受験ブログへ

受験 ブログランキングへ

日本史 ブログランキングへ

世界史 ブログランキングへ


鎌倉新仏教

2017-01-25 | 『新日本史頻出年代暗記』


法栄親道 日一遍。

法然 栄西 親鸞 道元 日蓮 一遍

 

〈2014明大・国際日本(国際日本)

 文章は鎌倉時代の新仏教運動について述べたものである。(中略)
 12世紀頃、京末の都の話である。[ A ]を開祖とする天台宗の総本山がある[ B ]から続々と僧侶が下山し、仏法を民衆の間に広めた。これがいわゆる「鎌倉新仏教」の発端である。やや時代が下ると幾多の新しい仏教教団が形成される。代表的な教団をあげるならば、浄土宗、浄土真宗(一向宗)、臨済宗、曹洞宗、日蓮宗(法華宗)、時宗(時衆)などがそうである。浄土宗の開祖は法然、浄土真宗(一向宗)の開祖は[ C ]、臨済宗は[ D ]、曹洞宗は[ E ]、時宗(時衆)は一遍、日蓮宗(法華宗)はその名の通り日蓮である。

 なかでも、浄土教と[ F ]から伝来した禅宗が群を抜いていた。日本の浄土教の起源は平安時代にさかのぼり、鎌倉時代になるとその勢いが増した。念仏行者・遊行者として知られている[ G ](図1)は平安末期における浄土信仰の代表的な布教者であった。

図1


 浄土教は難行を斥け、[ H ]と称えれば、死にゆく者が救済され、臨終の際、悪人でさえ極楽往生することができると説く。図2のようにこの臨終往生の場面を描いた絵を[ I ]と呼ぶ。

図2

 一方、禅宗は自力、つまり修行の必要性を説き、坐禅などの実践法を重視した。鎌倉の武家に支持された臨済宗は「己事究明」(自分自身そのものを明らかすること)のための修行を重んずる一方で、大陸の最先端の文化も積極的に伝えた。一例を挙げれば、臨済宗の開祖である[ D ]ははじめて日本に[ J ]をもたらしたといわれる。「只管打坐」(ひたすら坐ること)をその教趣とし、同じ禅宗の系譜に属する曹洞宗はより隠遁的であり、おもに北陸を拠点とした。今日でも多くの修学旅行が訪れる福井県の[ K ]は曹洞宗の大本山の一つである。なお、曹洞宗の開祖である[ E ]が著した[ L ]は、いまなお日本の宗教史、思想史上の古典として高く評価されている。

 日蓮宗(法華宗)と時宗(時衆)の場合は、いずれも浄土宗と浄土真宗(一向宗)と同様、男女老若を問わない民衆への布教によって繁栄を迎えた。浄土教の念仏と同様に、[ M ]の著者日蓮の教えは、いわゆる[ N ]を唱えることを信仰の軸とした。時宗(時衆)の開祖である一遍は[ O ]念仏を普及させたため世に知られるようになった。
 このような新しい宗教運動の出現により、日本の仏教の様相はこの時代にすこぶる変遷したと結論できる。

(答:A最澄、B比叡山、C親鸞、D栄西、E道元、F宋、G空也、H南無阿弥陀仏、I来迎図、J茶、K永平寺、L正法眼蔵、M立正安国論、N題目、O踊)〉

2013大学入試センター試験

問1 下線部a法然・親鸞・日蓮らの活動に関連して、彼らの宗教活動と政治権力とのかかわりに関して述べた次の文X・Yについて、その正誤の組合せとして正しいものを、下の1~4のうちから一つ選べ。

X 法然の弟子で、『選択本願念仏集』を著した親鸞は、朝廷により配流された。
Y 南無阿弥陀仏の題目を唱えれば救われると説いた日蓮は、鎌倉幕府により追害された。

 

1X正 Y正  2X正 Y誤
3X誤 Y正  4X誤 Y誤

 

(答:4 ※X『選択本願念仏集』ではなく『教行信証』が正しい、Y日蓮が主張した題目とは「南無妙法蓮華経」のこと。「南無阿弥陀仏」は念仏。日蓮ははじめ伊豆、のち佐渡に流された。) 

〈2005上智大・法外総合人間:「ここをもて ア興福寺の学徒、太上天皇(イ後鳥羽の院と号す、諱(いみな)尊成)、今上(土御門の院と号す、諱為仁)、聖暦、承元丁卯の歳、仲春上旬の候に奏達す。
 ウ主上臣下、法に背き義に違し、忿りを成し怨みを結ぶ。これによりて、エ真宗興隆の大祖源空法師ならびに門徒数輩、罪科を考へず、損りがはしく死罪に坐す。あるひは オ僧儀を改めて姓名を賜ふて カ遠流に処す。キ予はその一つなり。しかればすでに僧にあらず俗にあらず。このゆゑに禿の字をもて姓とす。空師ならびに弟子等、諸方の辺州に坐して五年の居諸を経たりき。
                      (『教行信証』後序)

問1 下線部アについて、興福寺奏状を起草した人は誰か。1つ選びなさい。


 1覚円 2貞慶 3円盛
 4尊円 5高弁 6慈円

(答:問1→2ジョウで尻取り!、問2→5×後白河上皇の誤り、問3→6、問4→2、問5→3、問6→2、問7→6)〉 

問2 下線部イについて、「後鳥羽の院」の説明として正しくないものを1つ選びなさい。

 1 承久の乱の結果、隠岐に配流となり、そこで生涯を終えた

 2 若くして長男の土御門天皇に譲位して上皇となった
 3 北条義時追討の宣旨を発して挙兵したが、幕府軍の前に完敗した
 4 藤原定家・家隆らに命じて『新古今和歌集』の編纂にあたった
 5 政治的手腕にすぐれ、「日本国第一の大天狗」と評された
 6 あらたに西面の武士をおき、軍事力の増強をはかり、院政を強化した

問3 下線部ウには、ある出米事に対する著者の厳しい批判と抗議が見られる。その出来事とは何か、1つ選びなさい。

 1 和田合戦以降、執権が北条氏一族のあいだで世襲されるようになったこと

 2 悪人正機説が、朝幕間で正反対に解釈され、政治的に利用されたこと
 3 源実朝が鶴岡八幡宮で公暁に暗殺された事件
 4 本願寺が東西に二分されるに至った政治的紛争
 5 畿内・西国を中心とした養和の大飢饉の際の朝廷の無策ぶり
 6 法然を師とする専修念仏教団への弾圧

問4 下線部(エ)と(キ)について、「真宗興隆の大祖源空法師」および「予」はそれぞれ誰を指しているか。正しい組み合わせを1つ選びなさい。

 1源信-法然 2法然-親鸞 3法然-唯円

 4親鸞-蓮如 5親鸞-善鸞 6親鸞-唯円

問5 下線部(エ)に関して、「源空法師」の思想に深く影響を受けた人物で、政治的な後援者でもあったのは誰か。1つ選びなさい。

 1源頼家 2北条義時 3九条兼実

 4源通親 5平清盛  6藤原通憲

問6 下線部(オ)について、「僧儀を改めて」とあるが、ここでの意味は何か、1つ選びなさい。
 1改宗する
 2僧籍を剥奪される
 3独身生活をやめ、妻帯する
 4顕密仏教(南都北嶺)のしきたりに従う
 5別の師のもとで学ぶ
 6都での伝道活動を自粛する

問7 下線部(カ)と(キ)について、「遠流に処す」とあるが「予」はどこに流罪となったか、1つ選びなさい。

 1安房 2土佐 3讃岐

 4佐渡 5伊豆 6越後

(答:問1→2、問2→5×後白河上皇の誤り、問3→6、問4→2、問5→3、※ 法然の著作『選択本願念仏集』(『選択集』)は兼実の求めに応じて、法然が著したものである。「くじょざね」→「じょうど」、「ほうねん」 問6→2、問7→6)〉 

 

2012早大・文化構想

 13世紀前半に起きた寛喜の飢饉は、長雨と大風雨による凶作によって引き起こされた。京都の街路に充満した餓死者の死臭がひどかったと記録されている。鎌倉幕府は鶴岡八幡宮で国土安穏の祈禱を行った。こうした社会不安による紛争の増加が、[ B ]を制定した一つの背景になった可能性もある。13世紀後半にも、大地震や異常気象で正嘉の飢饉が起きた。日蓮は『[ C ]』で、天変地異が続発するのは『法華経』の教えに背いているからであるとし、このままでは国内の反乱と他国からの侵略が起きると述べたために、伊豆国伊東へ流された。

問4 空欄Bには日本最初の武家法が入る。漢字5字で記述解答欄紙の解答欄に記入しなさい。


問5 空欄Cに該当する語句を、漢字で記述解答欄紙の解答欄に記入しなさい。

 

(答:B御成敗式目、C 立正安国論 )

 

〈2015関西大・文商法など2月4日実施

 鎌倉時代に地方を行脚した一遍の生涯を描いた『一遍上人絵伝』には、東西を貫く2{(ア)山陽道(イ)南海道(ウ)東海道}に近い吉井川の河原に形成された備前国福岡の市が描かれている。道を挟んで建てられた小屋には、米・鳥・布・履物などの品物が並べられ、往来する人々の間に裸足の一遍の姿がある。」

 

(答:2ア)〉

 

 

〈2014立大・文

次の宗派1・2それぞれについて、日本での開祖を甲群のa~dから主要著書を乙群のa~dからそれぞれ1つずつ選び、その記号をマークせよ。

 

 1曹洞宗 2臨済宗
 甲群)a一遍 b栄西 c親鸞 d道元
 乙群)a教行信証 b興禅護国論
    c正法眼蔵 d立正安国論」

 

(答:1dc、2bb)〉

 

〈2014明大・国際日本(国際日本):「
 禅宗は自力、つまり修行の必要性を説き、坐禅などの実践法を重視した。鎌倉の武家に支持された臨済宗は「己事究明」(自分自身そのものを明らかすること)のための修行を重んずる一方で、大陸の最先端の文化も積極的に伝えた。一例を挙げれば、臨済宗の開祖である[ D ]ははじめて日本に[ J ]をもたらしたといわれる。「只管打坐」(ひたすら坐ること)をその教趣とし、同じ禅宗の系譜に属する曹洞宗はより隠遁的であり、おもに北陸を拠点とした。今日でも多くの修学旅行が訪れる福井県の[ K ]は曹洞宗の大本山の一つである。なお、曹洞宗の開祖である[ E ]が著した[ L ]は、いまなお日本の宗教史、思想史上の古典として高く評価されている。

 

(答:D栄西、J茶、K永平寺、E道元、L正法眼蔵)〉

 

〈2013北海道大学・前期:「Ⅱ 次の文章を読んで、下記の設問(問1~8)に答えなさい。

 鎌倉時代に入ると、京都にa幕府によって六波羅探題が設置され、在京御家人らが帝都・王権を警固・監視する体制が敷かれた。また、中世都市京都においては、寺社勢力の増大と多様化も重要な変化であった。ここでは。b新興勢力ともいうべき禅宗の巨刹、建仁寺と東福寺とを取りあげて見てみよう。
 質実剛健な学問重視の風潮を伝える建仁寺は、c渡海入宋僧の栄西の創建にかかる。だが、栄西の京都進出成功までの道のりは険しかった。栄西は、臨済禅の技法を取り込むことでd中世仏教の主流派のひとつ、天台宗の内部改革を企図していたのだが、当の天台教団、[ ア ]山延暦寺から排撃されてしまう。その後、栄西は、北条政子らの帰依を得て、鎌倉に寿福寺を創建し、1202年、ようやく京都で建仁寺を開くことに成功する。建仁寺の開基は、鎌倉幕府2代将軍の源[ イ ]であり、創建にあたって付された条件は、同寺を、「三宗(真言・天台・禅宗)兼学」の道場とすることだった。出発時から、禅単独の興隆は難しかったのである。
 ところで、e禅宗といえば武家との関係が連想されがちだが、洛南の地に壮麓な伽藍を誇る東福寺は、f摂関家の菩提寺のひとつであった。1236年、朝廷の最大有力者で当時摂政の九条道家が発願して、渡海入宋僧の臨済僧円爾(えんじ)が開山として迎えられている(道家没後の1255年に落慶供養・開堂、1271年に全堂完成)。円爾とその弟子たちは、g博多の貿易商人や中国臨済禅の第一人者と密接な関係を長く保っており、中国からの先進的な宗教や文物の移入が、彼らに期待されたのであろう。以後、東福寺は、九条家の外護(げご)のもと、円爾の門流のみから住持を取る体制をとり、勢力を拡大していった。

問1 空棚[ ア ][ イ ]に入る語句(地名・人名)をそれぞれ記しなさい。

問2 下線部aについて、六波羅探題が設置されるに至った歴史的な経緯を、関係する人物の名を最低二人は挙げつつ、60字以内で説明しなさい。

問3 下線部bについて、臨済宗とならぶ禅の宗派として、曹洞宗がある。

 (1)日本における曹洞宗の開祖は誰か、答えなさい。

 (2)曹洞宗の修行法を端的に示す言葉を、漢字4文宇で答えなさい。

 (3)それに対して、日本の臨済宗が重視するのは、師から与えられた問題を解くことである。その問題は一般に何と呼ばれるか、漢宇2文宇で答えなさい。

問4 下線部cについて、栄西が中国からもたらしたと伝えられ、のちに茶道に発展する喫茶法とはどのようなものか、20字以内で説明しなさい。

問5 下線部dについて
 (1)天台宗の最高位の僧を何と呼ぶか、
 
 (2)また、延暦寺とならぶ天台宗の拠点寺院の名は何か、それぞれ答えなさい。

 (3)また、なぜ天台宗や真言宗が「中世仏教の主流派」といえるのか、60字以内で説明しなさい。

問6 下線部eについて、室町時代になると、幕府の官寺としての「五山の制」が確立する。

 (1)最高位である「五山之上」に位置づけられた寺院の名を答えなさい。

 (2)五山以外の禅宗寺院である大徳寺から出て、『狂雲集』を著した禅僧の名を答えなさい。

問7 下線部fについて、鎌倉幕府最初の摂家将軍の氏名を答えなさい。

問8 下線郡gについて、足利義満に対明通交の再開をすすめ、その結果、自身が使者となって明に渡海した博多の貿易商人は誰か、答えなさい。

(答:問1ア比叡・イ頼家、問2〔解答例〕後鳥羽上皇による承久の乱を破った後、幕府軍の将北条泰時と時房を六波羅探題に任じ、朝廷の監視や西国の統轄にあたらせた。(59字)、問3(1)道元(2)只管打坐(3)公案、問4茶葉をひき湯を入れかき混ぜて飲む抹茶法、問5(1)天台座主(2)園城寺〔三井寺〕(3)〔解答例〕加持祈禱によって朝廷や貴族の帰依を受けて政治的な影響力を持ち、全国各地に多くの荘園を所有し大きな経済力も持っていたから。(60字)、問6.(1)南禅寺(2)一休宗純、問7藤原〔九条〕頼経、※4代将軍、ちなみに4代執権は頼時。問8肥富)〉

 

 


658年 〈阿倍の比羅夫の蝦夷征討〉★

2017-01-02 | 『新日本史頻出年代暗記』

 ●古墳時代(斉明天皇)

In the era of Empress Saimei, ABE no Hirafu was dispatched to the Tohoku region to defeat Ezo and gained more control.e

向こうは蝦夷 開く際。

658年 蝦夷 粛慎 阿倍比羅夫 斉明天皇       

孝徳天皇崩御の後、重祚した斉明天皇は、658年阿倍比羅夫を派遣し、秋田・津軽地方の蝦夷征討を行った。さらに粛慎を撃ったとされている。


1841(天保12)年 〈天保の改革(~1843年)〉★

2016-12-06 | 『新日本史頻出年代暗記』

▲水野忠邦

●江戸時代(仁孝天皇 徳川家慶) 
Senior shogunal councilor Mizuno Tadakuni starts Tempo Reforms.
いやよいテンポ 水野(みずの)さん。
1841年    天保の改革 水野忠邦 株仲間の解散

1841年に大御所徳川家斉が死去すると、水野忠邦は大塩平八郎の乱やアヘン戦争など、体制を揺るがす国内外の厳しい問題に対応するため、天保の改革を断行。

株仲間の解散や人返しの法などを相次いで実施した。

さらに、上知令を出し、財政の安定や対外防備の強化をはかろうとしたが諸大名や旗本の反対にあい、忠邦は失脚。改革はわずか2年でおわった。

A crackdown on various forms of popular culture accompanying the Tenpo Reforms effectively silenced some writers and publishers, especially that produced koshokugabon (book of pornography), and served as an admonishment to others, such as an accusation against Sunshui TAMENAGA; as a result, ninjobon lost its vigor and creative force, and gokan (literally, bound-together volumes of illustrated books) appeared in numbers larger, to make up for that decline of ninjobon.

天保の改革によって特に好色画本が禁圧され、為永春水らが罪に問われるなど戯作者・版元に圧力が加えられると、人情本は衰退し、その穴を埋めるように合巻の刊行点数が増大した。

 



散歩は/上智に/(ひっ)返し水飲解散 日光威張家慶神水(しんすい)倹約!/タメ気炎

(将軍家慶日光社参(43)・印旛沼干拓)(天保の薪水給与令・倹約令)(人情本の永春水弾圧・棄捐令)


三方領知替え)(上知令(あげちれい(じようちれい)((43))(人返しの法)(水野忠邦・株仲間解散


[ポイント]
1.水野忠邦による天保の改革では、上知令株仲間解散三方領知替え問題・人返しの法があった。

[解説]
1.1841(天保12)年、大御所徳川家斉の死後、12代将軍徳川家慶のもとで老中水野忠邦(1794~1851)を中心に幕府権力の強化をめざして天保の改革をおこなわれた。

2.ついで江戸の人別改めを強化し、百姓の出稼ぎを禁じて、江戸に流入した貧民の帰郷を強制する人返しの法を発し、天保の飢饉で荒廃した農村の再建をはかろうとした。この強制で、無宿者や浪人らも江戸を追われ、江戸周辺の農村の治安悪化を引きおこすことになった。


3.また物価騰貴の原因は、十組問屋などの株仲間が上方市場からの商品流通を独占しているためと判断して、株仲間の解散を命じた。幕府は江戸の株仲間外の商人や、江戸周辺の在郷商人らの自由な取引による物価引下げを期待したのである。しかし物価騰貴の実際の原因は、生産地から上方市場への商品の流通量が減少して生じたもので、株仲間の解散はかえって江戸への商品輸送量をとぼしくすることになり、逆効果となった


4.一方、幕府は、相模の海岸防備をになわせていた川越藩の財政を援助する目的から、川越・庄内・長岡3藩の封地をたがいに入れ換えることを命じたが、領民の反対もあって撤回された。川越藩が豊かな庄内藩へ、庄内藩が越後長岡藩へ、越後長岡藩が川越藩へ移るもので、三方領知替(さんぽうりようちが)と呼ばれる。幕府が転封を決定しながらその命令が徹底できなかったことは、幕府に対する藩権力の自立を示す結果となった。


5.さらに水野忠邦は、1843(天保14)年に上知令を出し、江戸大坂周辺のあわせて約50万石の地を直轄地にして、財政の安定や対外防備の強化をはかろうとした。他地域に代替地は用意されたが、譜代大名旗本に反対されて上知令は実施できず、改革の失敗は改めて幕府権力の衰退を示した。

 

〈2016立教大・現心社コミュ福

 19世紀前半には、こうした国内問題に加えて対外問題もあいまって、幕府の弱体化が進んだ。この事態に対処するために老中( ワ )を中心に天保の改革と呼ばれる改革が実施されたが、充分な効果をあげることはできなかった。」

(答:ワ水野忠邦)〉


〈2016関西学院大学・全学部

問7a.享保の改革の上げ米は、大名に1万石につき100石を上納させ、かわりに参勤交代を緩めるもので、寛政の改革で廃止されるまで続けられた。
  b.上知令は江戸・京都周辺を直轄地として財政の安定と対外防衛の強化を図るものであったが、大名や旗本の反対にあい水野忠邦は老中を退いた。」

(答a×1722に開始したが享保の改革中の1730年に廃止、b×京都→大坂)〉


〈2016早大・法:

「問10 下線部「1843年には、c天保の無利子年賦返済令が出ている」のcと関連した、天保の改革の経済改革に関する次の記述のうち、正しいものを1つ選べ。

 あ 新田開発を目指し、商業資本に依拠して実施した印旛沼の干拓事業は、利根川の氾濫で失敗した。

 い 幕府領の年貢増収をはかって、土地・収穫高の再調査を命じる御領所改革を実現した。
 う 農村再建を図るため、江戸に流入した下層民を強制的に帰農させる「人返しの法」を実施した。
 え 江戸・大坂十里四方の知行地を幕府直轄領にする上知令を、大名・旗本の反対に抗して遂行した。
 お 幕政に重要な川越藩松平家強化のため、同家を庄内に、庄内藩酒井家を長岡に、長岡藩牧野家を川越に移した。」

(答:う ※あ・い・え×水野忠邦の失脚で中止、お×庄内藩の農民による激しい反対にあい中止)


〈2016明大・文

史料B
一 [ b ]のもの身上相仕舞(しんじようあいしま)い、[ c ]人別に入(い)り候儀、自今以後決して相成らず。
一 近年御府内へ入り込み、[ d ]等借請居(かりうけお)り候者の内ニハ妻子等もこれ無く、一期(いちご)住み同様のものもこれ有るべし。左様の類(たぐい)ハ早々[ e ]へ呼戻し申すべき事。(「牧民金鑑」)

注)身上相仕舞い…所帯をたたむこと、御府内…江戸、一期…一生涯


問6 空欄b・cに入る語として正しい組み合わせを、次の1~4のうちから一つ選べ。


 1b-宿場 c-江戸
 2b-在方 c-江戸

 3b-江戸 c-在方
 4b-在方 c-宿場


問7 空欄d・eに入る語として正しい組み合わせを、次の1~4のうちから一つ選べ。


 1d-田畑 e-屋敷 
 2d-裏店 e-屋敷

 3d-裏店 e-村方 
 4d-屋敷 e-村方


問8 史料Bに示された政策の説明として正しいものを、次の1~4のうちから一つ選べ。


 1 この政策は、社会不安の要因である下層町人の人口減少を目的としていた。

 2 この政策は、江戸・大坂周辺の大名・旗本領を幕府の直轄地にすることを目的としていた。
 3 この政策により、町入用(町費)の節約分の7割を積み立て、災害や飢饉に備えさせた。
 4 この政策により、初めて住民の宗旨と戸籍が調査され、それを記録した帳簿が作成された。

(答:1)

問9 史料Bの政策が出された時期の出来事として誤っているものを、次の1~4のうちから一つ選べ。


 1 幕府は67年ぶりに日光社参を実行したが、大出費による財政悪化を招いた。

 2 幕府は庶民の風俗を厳しく取り締まり、歌舞伎の江戸三座を浅草のはずれに移転させた。
 3 北町奉行の遠山金四郎は江戸市中の改革をめぐり、南町奉行の鳥居耀蔵と対立した。
 4 幕府は川越・庄内・長岡の3藩の領地を入れ替える転封を実行し、幕府の力を示した。

(答:4)

問10 史料Bの政策が出された前後の時期のことがらI~Ⅲについて、古い順にならべたものとして正しいものを、次の1~4のうちから一つ選べ。

 Iオランダ国王の開国勧告
 Ⅱモリソン号事件
 Ⅲ天保の薪水給与令


 1Ⅲ-Ⅱ-I  2I-Ⅲ-Ⅱ

 3Ⅱ-Ⅲ-Ⅰ  4Ⅱ-I-Ⅲ」

(答:問6→2、問7→3、問8→1、問9→4×庄内藩の農民の反対などで実施できず、問10→3 ※Bは「人返しの法」について書いている)


〈2016慶大・経済B方式

問3 下線部C天保の改革に関する以下の問に答えなさい。
 次の資料は、天保の改革の一環として幕府が発した法令の一部である(必要に応じて文章の一部を省略し、表現を変更した)。幕府がこの法令を発した意図を〔解答欄B〕の所定の欄の範囲内で説明しなさい。

 

  菱垣廻船積問屋どもより、是迄年々金一万二百両ずつ冥加上金納め致し来たり候所、…以来上納に及ばず候、尤も向後右仲間株札は勿論、此外にも都て問屋仲間ならびに組合などと唱え候義は相成らず候

  [資料出所]『江戸町触集成』                            

 

 〔解答例〕物価騰貴の原因は、株仲間による商品流通独占によるとして、株仲間外の商人や在郷商人らの自由な取引による物価引下げを期待し株仲間の解散を命じた。(70字)〉


[ポイント]

1.天保の改革期に、天保の薪水給与令倹約令棄捐令が出され、人情本為永春水の処罰、将軍家慶の日光社参がおこなわれ、印旛沼干拓が試みられた。

[解説]

1.忠邦は享保・寛政の改革にならい、まず将軍・大奥もふくめた断固たる倹約令を出して、ぜいたく品や華美な衣服を禁じ、庶民の風俗もまたきびしく取り締まった。高価な菓子・料理なども禁じたほか、江戸の211軒あった寄席を15軒に減らし、江戸の歌舞伎(三座)を浅草のはずれに移転させ、役者が町を歩く時には編笠をかぶらせた。また1842年、人情本作家の為永春水らも処罰(手鎖50日)した。

2.印旛沼の堀割工事による干拓にも、再度取組みがなされたが、忠邦が失脚すると、工事は中止された。


3.アヘン戦争の結果を知った幕府は、異国船打払令を緩和し、1842年、天保の薪水給与令を出した。


4.また物価騰貴は、旗本や御家人の生活も圧迫したので、幕府は、1843年に、棄捐令を出し、あわせて札差などに低利の貸出しを命じた。このような生活と風俗へのきびしい統制と不景気とがかさなり、人びとの不満は高まっていった。


5.1843(天保14)年には、将軍家慶67年ぶりに日光社参を実行して幕府権力の起死回生をはかろうとしたが、大出費による財政悪化と、夫役に動員された農民たちの不満をもたらすだけの結果となった。

 

〈2016明大・文

問9 史料Bの政策が出された時期(天保の改革)の出来事として誤っているものを、次の1~4のうちから一つ選べ。

 1 幕府は67年ぶりに日光社参を実行したが、大出費による財政悪化を招いた。

 2 幕府は庶民の風俗を厳しく取り締まり、歌舞伎の江戸三座を浅草のはずれに移転させた。
 3 北町奉行の遠山金四郎は江戸市中の改革をめぐり、南町奉行の鳥居耀蔵と対立した。
 4 幕府は川越・庄内・長岡の3藩の領地を入れ替える転封を実行し、幕府の力を示した。」

(答:4×庄内藩の農民の反対などで実施できず)〉


〈2012関西学院大・済国際総合

問5.下線部e天保の改革で行なわれた施策として、誤っているものを下記より選びなさい。

 ア.倹約令を出し、華美な衣服などを禁じ、風俗の取締を行なった。

 イ.商品流通の独占を回避するために、人返しの法を定めた。
 ウ.諸藩の専売制を禁じた。
 エ.将軍の権威を示すため、日光社参を行なった。」

(答:イ×江戸に流入する貧民などに対する人口抑制策)〉


【ベック式!日本文化史ゴロ合わせ暗記術】

【ベック式!魔法の日本史実況中継 (古代編)】

【ベック式!魔法の日本史実況中継 (中世編)】

【ベック式!魔法の日本史実況中継 (近世編)】

【ベック式!魔法の日本史実況中継 (近・現代編)】

にほんブログ村 受験ブログへ

受験 ブログランキングへ


日本史 ブログランキングへ

世界史 ブログランキングへ



1811(文化8)年 〈ゴローニン事件〉★

2016-12-03 | 『新日本史頻出年代暗記』

▲ゴローニン

●江戸時代(光格天皇 徳川家斉) 
Golovnin, captain of the Rissian naval vessel Dianna, is captured and imprisoned by the Japanese while surveying the Kuril Islands.
人(ひと)灰色の 牢にいた。
           1811年 箱館   ゴローニン  高田屋嘉兵衛

1804年に通商を求める目的で来日したレザノフは通商を拒否されると、ロシア軍人を雇い、択捉島や樺太を略奪。

1811年、ロシア艦長ゴローニンは千島列島を測量中、捕らえられ、箱館に監禁された。

ロシアは翌年、択捉場所請負人高田屋嘉兵衛を抑留、ゴローニンは送還された嘉兵衛の尽力で釈放(ゴローニン事件)。ゴローニンは拘留中に『日本幽囚記』を書いた。

高田屋嘉兵衛

 

高行楽連れのこへかへ五郎。

(大黒屋光太夫(だいこくやこうだゆう))(ラクスマン)(津太夫(つだゆう)・ザノフ)(ゴローウニン・高田屋嘉兵衛(たかだやかへえ))

 

[句意]高校大学で楽(らく)して勉強しない人には、疲れる(就職)浪人のカベがある、という句。「疲れる」はゴロのためやや苦しいが、(つだれる)と読んで下さい。ラクスマン→レザノフ→ゴローニンの順が分かればよいと思うので、「れ」だけで「レザノフ」の再現をお願いします。

 

[ポイント]
1.大黒屋光太夫ラクスマンに、津太夫レザノフに送還され、高田屋嘉兵衛ゴローウニンと交換された。

[解説]
1.ラクスマンは、1792年、女帝エカチェリーナ2世の命により伊勢の船員大黒屋光太夫(1751~1828)ら3名の送還と通商要求のため、根室に来航した。老中松平定信は、ラクスマンに対して、長崎入港許可証を交付して退去させた。桂川甫周(かつらがわほしゅう)が大黒屋光太夫から聴取して著した漂流記が『北槎聞略(ほくさぶんりゃく)』。


2.レザノフは、1804年、仙台の船員津太夫(1744~1814)ら漂流民4人を送って、ラクスマンが受けた長崎入港許可証を持参して来航。アレクサンドル1世の国書により通商を要求したが、幕府は拒否。帰路レザノフは、報復と威嚇のため、部下に樺太・千島を攻撃させた。

 なお津太夫らは1793年に石巻から江戸に向かう途中で漂流、翌年ロシア人に助けられ、シベリアから陸路ヨーロッパに出、大西洋から太平洋を通って1804年に帰国。彼らは結果として、日本人初の世界一周を成し遂げたことになる。江戸で取り調べにあった大槻玄沢(おおつきげんたく)により『環海異聞(かんかいいぶん)』が書かれた。

3.ゴローウニンは、1811年、レザノフ事件の報復として国後島で日本側に捕らえられた。ロシアはその報復として淡路商人高田屋嘉兵衛(1769~1827)を捕らえる。翌年嘉兵衛の努力などで両者の交換が実現。ゴローウニンはこの経験を帰国後『日本幽囚記(にほんゆうしゅうき)』に著す。

 

〈2016明大・文

問4 史料Aの政策が出された時期に関連して、18世紀末から19世紀前半の政治・社会についての説明として誤っているものを、次の1~4のうちから一つ選べ。
 1 ロシア使節ラクスマンが根室に来航し、漂流民高田屋嘉兵衛を届けるとともに通商を求めた。
 2 幕府は朱子学を正学とし、湯島聖堂の学問所で朱子学以外の講義や研究を禁じた。
 3 幕府は林子平が『三国通覧図説』で海岸防備を説いたことを幕政批判とみて弾圧した。
 4 幕府は近藤重蔵・最上徳内らに択捉島を調査させ、「大日本恵登呂府」の標柱を立てさせた。」

(答:1×高田屋嘉兵衛→大黒屋光太夫)〉


〈2016早大・政経

【史料】大槻平次上書
 私義、昔年[ 1 ]を編著仕候大槻玄沢と申者次男に御座候所、魯西亜国の義は、……文化年中、3レサノツト〔レザノフ〕え論文御渡し……。(後略)

問1 空欄1に入るものはどれか。


 a『環海異聞』  b『采覧異言』

 c『新訂万国全図』 
 d『航海遠略策』 e『辺要分界図考』 

問3 下線部3レサノツト〔レザノフ〕についての記述として誤っているものはどれか。


 aフィンランド湾から大西洋を渡り、アメリカ大陸南端を通過、ハワイを経由してカムチャッカに至る大航海を経て日本に到達した。

 b長崎に来航し、通商を求めた。
 c津太夫らの日本人漂流民を送還したが、幕府はその受け入れを拒否した。
 d幕府に要求を拒絶された報復として、帰路、樺太や択捉島などの日本人入植地を攻撃した。
 eロシアの宮廷につかえ、また、露領アメリカ会社の総支配人でもあった。」

(答:問1a、問3c×送還はやや時期が長引いたが実現した)〉


〈2013早大・政経

問1 日露和親条約の締結に至るまで、当該地域で生じた出来事で、正しいものはどれか。

 ア)ラクスマンが、アレクサンドル1世の命を受け、津太夫らを伴い根室に来航した。

 イ)日露和親条約で、日本は南樺太を領有し、同地域は松前藩の直轄地となった。
 ウ)19世紀になって、幕府は樺太探索のために最上徳内を送った。
 エ)蝦夷地御用の近藤重蔵が「大日本恵登呂府」の標柱を立て、幕府が同地を直轄とした。
 オ)千島列島を測量中にとらわれたゴローニンの釈放に、大黒屋光太夫が尽力した。」

(答:エ ※ア×エカチェリーナ2世の命、津太夫ではなく大黒屋光太夫、イ×蝦夷地の大部分を幕府に召し上げられ(幕府直轄)、渡島半島南西部だけを領地とするようになった、ウ×探検は1786年、オ×高田屋嘉兵衛が尽力)〉



1792(天明4)年 〈ラクスマンの来航〉★

2016-12-02 | 『新日本史頻出年代暗記』

●江戸時代(光格天皇 徳川家斉)
KLaxman arrives at Nemuro with Daikokuya Kodayu.

   異な国ロシア から来るね。
  1792年      ロシア      ラクスマン   根室

日本が鎖国政策を採っている間、ヨーロッパは資本主義社会へと進展。

近代化の遅れたロシアもシベリア進出を続けた。1792年、ロシア使節のラクスマンが根室に来航し、大黒屋光太夫《ロシアに漂流した彼は、〈大国や!〉と思っただろうね!》ら漂流民を送り届けるとともに通商を要求。

老中松平定信はこれを拒否したが、外交交渉のための長崎入港許可証を与えた。


〈『海国兵談』〉 江戸時代後期の経世思想家林子平は『海国兵談』を著し、日本周辺の状況と海防への与論の喚起をはかった。しかし、子平は人心を惑わしたとの理由で仙台蟄居を命じられた。それは1792年、ラクスマンが根室に来航する直前のことであった。

 


[ポイント]
1.列強の接近と幕府の対応は、ラックスマンの根室来航→近藤重蔵の千島探検→伊能忠敬の蝦夷地測量→レザノフの長崎来航→フェートン号事件間宮林蔵の樺太探検→ゴロウニン事件異国船打払令シーボルト事件モリソン号事件蛮社の獄と推移。これらすべて家斉(位1787~1837)・大御所時代(1837~1841)の事件です。

 

[解説]
1.ラクスマンの根室来航(1792)。ラクスマン(1766~1806?)はロシア帝国の軍人。女帝エカチェリーナ2世の命により漂流民の大黒屋光太夫(1751~1828)ら3名の送還と通商要求のため、1792年、根室に来航した。松前藩からの連絡で老中松平定信は、箱館廻航を指示。箱館で漂流民を受理したが通商は長崎にて協議するとして、長崎入港許可証(許可証を信牌(しんぱい)という)を交付して退去させた。しかしラクスマンは長崎に向かわず、そのまま帰国(帰国したとは知らない定信は、ラクスマンが長崎への途中、江戸湾に入るのではないかと心配した)。大黒屋光太夫は伊勢国の船頭。1782年伊勢から江戸に向かう途中遭難、アリューシャン列島に漂着。桂川甫周が光太夫から聴取して著した漂流記が『北槎聞略(ほくさぶんりゃく)』。

2.近藤重蔵の千島探検(1798)。近藤重蔵(1771~1829)は幕臣。蝦夷地(北海道)へわたり、最上徳内と千島列島を、択捉島まで探検し、同島に「大日本恵登呂府」の木柱を立てた。

3.伊能忠敬の蝦夷地測量(1800)。伊能忠敬(1745~1818)は、17歳のとき佐原の酒造業・伊能家に婿養子として入り、衰えていた家業を再興。50歳の時隠居し、江戸に出て当時の天文学の第一人者、高橋至時(1764-1804)の門下で学問の道に入る。より正確な暦を作るためには、地球の子午線1度の長さを測る必要があることから、師至時と謀り、地図製作のための測量を幕府に願い出て、1800年、許可を受ける。以後1816年までに全国を測量し、その成果が『大日本沿海輿地全図(だいにほんえんかいよちぜんず)』。

4.レザノフの長崎来航(1804)。レザノフ(1764~1807)は貴族出身で、ロシア・アメリカ会社総支配人。漂流民4人を送って来航、アレクサンドル1世(1777~1825)の国書、及び先年ラクスマンが受けた長崎入港許可の信牌を持参し、通商を要求する。半年も待たせたうえで通商を拒否、レザノフ一行を追い返す形になった。帰路レザノフは、報復と威嚇のため、樺太千島で番所や漁船を攻撃する事件を起こす。以後、北方でロシアとの武力紛争が頻発するようになる。

 

5.フェートン号事件(1808)。フェートン号は英軍艦。仏・ナポレオン支配下のオランダ船を追って長崎港に侵入。幕府は撃退できず、イギリス側は薪水・食糧を奪って退去。長崎奉行松平康英(やすひで)はこの責任をとって割腹。

6.間宮林蔵の樺太探検(1808)。間宮林蔵(1780~1844)は幕臣。幕府の命により樺太とその対岸を探査し、樺太が島であることを確認し間宮海峡を発見した。測量を伊能忠敬に学び、忠敬が蝦夷地を全て測量することができなかったが、残した蝦夷地の部分を間宮が代わりに測量している。その結果、大日本沿海輿地全図の蝦夷地部分は、忠敬の測量図を間宮の測量図で補完したものになっている。

7.ゴロウニン事件(1811、ゴローウニン)。ゴロウニン(1776~1831)はロシア軍人。レザノフ事件の報復として1811年、国後島測量中捕らえられ函館に留置される。1812年、ロシア側は逆に淡路商人高田屋嘉兵衛(1769~1827)を捕える。翌年嘉兵衛の努力などで両者の釈放交換が実現。ゴロウニンはこの経験を帰国後『日本幽囚記』に著す。

8.異国船打払令(無二念(むにねん)打払令)(1825)。日本沿岸に来航する外国船に対し、その来航意図を考慮せず、二念なく撃退することを命じた法令。

9.シーボルト事件(1828)。博物学者でもあるドイツ人医師シーボルト(1796~1866)は日本研究(帰国後『Nippon』を著す)のため、出身を隠してオランダ商館医として来日。長崎郊外に鳴滝塾を開き、高野長英らに西洋医学を教授した。帰国直前、所持品を送った船が難破し、中から禁制品の日本地図(伊能忠敬の『大日本沿海輿地全図』の縮図)などが見つかり、それを贈った幕府天文方・高橋景保など多数が処断され、シーボルトも1829年国外追放処分を受けた。なおシーボルトは幕末の1859年に、再来日し幕府の外交顧問となっている。

10.モリソン号事件(1837)。モリソン号は米商船。日本人漂流民7人を送って来航したが、浦賀と薩摩の山川で撃退される。

11.蛮社の獄(1839)。翌年モリソン号事件を知った、渡辺崋山(1793~1841、三河国田原藩家老)・高野長英(1804~50、陸奥国水沢出身の町医者)らが事件と幕府の対外政策を、それぞれ『慎機論』、『戊戌夢物語(ぼじゅつゆめものがたり)』で批判。このため両者の属する蛮社、すなわち洋学者のグループ(尚歯会)が、厳しい処罰をうけた。すなわち崋山は国元での永蟄居、長英は永牢に処せられた。この時この会の他の学者たちも別件で逮捕されたが、のちに無実とされた。

 

〈2016慶大・経済B方式

問2(1)江戸時代後期の日本とロシアの関係について、ラクスマンの来航から、レザノフの部下による択捉・樺太攻撃までの時期の日露間の交渉の推移を、〔解答欄B〕の所定の欄の範囲内で説明しなさい。」

〔解答例:ラクスマンが大黒屋光太夫ら漂流民送還と通商要求のため根室に来航したが、幕府は拒否し、長崎入港の許可証を与えた。この許可証と国書をもって長崎に来航したレザノフに対しても、拒絶したため日露間の緊張が高まった。(102字)〕〉


〈2016立教大・法済異文:「

問4.この時期の外交上の出来事a~dのうち、もっとも古いものを解答欄のiに、次に古いものをⅱに、以下同じようにⅳまで年代順にマークせよ。

 a.国後島に上陸したロシアの艦長ゴローウニンが日本の警備兵に捕えられた

 b.幕府は、松前藩から松前・蝦夷地すべての支配権を取り上げ、松前奉行の支配とした
 c.募府は、間宮林蔵に樺太とその対岸を探査させた
 d.レザノフが長崎に入港許可証をもって来航し通商を要求した」

(答:ⅰd、ⅱb、ⅲc、ⅳa)〉

 
〈2016早大・政経

[ⅲ]下線部3レサノツト〔レザノフ〕についての記述として誤っているものはどれか。

 aフィンランド湾から大西洋を渡り、アメリカ大陸南端を通過、ハワイを経由してカムチャッカに至る大航海を経て日本に到達した。

 b長崎に来航し、通商を求めた。
 c津太夫らの日本人漂流民を送還したが、幕府はその受け入れを拒否した。
 d幕府に要求を拒絶された報復として、帰路、樺太や択捉島などの日本人入植地を攻撃した。
 eロシアの宮廷につかえ、また、露領アメリカ会社の総支配人でもあった。」

(答:c×送還はやや時期が長引いたが実現した)〉


〈2016関西学院大学・全学部

史料3 イギリスは、日本に対し敵国にては之無く、いはば付合も之無き他人に候故、今彼れ漂流人を憐れみ、仁義を名とし、わざわざ送り来り候者を、何事も取合申さず、直に打払に相成候はば、(中略)国家の御武威を損ぜられ候様にも相成候はんやと、恐多くも考えられ候。(『戊戌夢物語』)
問 史料3の記述は前年の出来事をきっかけにしているが、その出来事を下記より選びなさい。


 ア.フェートン号事件
 イ.ゴローウニン事件

 ウ.アヘン戦争 
 エ.モリソン号事件」


(答:エ)〉


〈2016立教大・現心社コミュ福

問12.これ12対外問題に関する出来事について、もっとも古いものから年代順に並んでいる組み合わせはどれか。

 a.異国船打払令(無二念打払令)発布→ゴローウニン事件発生→フェートン号事件発生→蛮社の獄発生

 b.ゴローウニン事件発生→異国船打払令(無二念打払令)発布→蛮社の獄発生→フェートン号事件発生
 c.蛮社の獄発生→フェートン号事件発生→異国船打払令(無二念打払令)発布→ゴローウニン事件発生
 d.フェートン号事件発生→ゴローウニン事件発生→異国船打払令(無二念打払令)発布→蛮社の獄発生」

(答:d)



1787(天明7)年 〈寛政の改革〉★★

2016-11-28 | 『新日本史頻出年代暗記』

▲松平定信

●江戸時代(光格天皇 徳川家斉)

Tokugawa Yoshimune embarks on a strenuous program of bureaucratic and financial reforms. knoen as Kyoho Reforms.
否(いな)やな定め 未完成。
1787年 徳川家斉 松平定信 寛政の改革 囲米 石川島人足寄場

1787年、徳川家斉が11代将に就任。

白川藩主松平定信が老中首座として幕政の改革(寛政の改革)に着手した。

定信は8代将軍吉宗の改革を理想とし、農村の復興と都市政策を改革の柱とした。

しかし、その緊縮財政は将軍側近の反感をかい、尊号一件を機に将軍家斉とも対立したため、在職7年で引退した。

〈寛政の改革〉

 松平定信は旧里帰農令を出して農民の出稼ぎを禁じ、社倉・義倉を設け、囲米を命じた。

江戸では町費節約の七分金積立を実施。また債務に苦しむ旗本・御家人の救済のため、棄捐令を出した。さらに寛政異学の禁で朱子学の振興をはかった。寛政の改革の内容は多いが、そのほとんどに〈キ〉の音があることに注目すれば、他の改革の内容との識別が容易。
おまけに山東京伝を処罰し、黄表紙を取り締まったが、これらにも〈キ〉がある。


棄捐令・七分積金(しちぶつみきん))(1787年・石川島人足寄場(いしかわじまにんそくよせば))(米(かこいまい)・旧里帰農令)



[ポイント]

1.寛政の改革は、1787年旧里帰農令棄捐令を出し、石川島人足寄場をつくり、囲米七分積金の制度を作った。

[解説]

1.松平定信(1758~1829)は、田安家出身かつ吉宗の孫で次期将軍の第一候補だったが、田沼意次の策略により、白河藩に養子に出された。1787年、新将軍11代家斉田沼意次を排し、定信を老中首座とした。ここに松平定信による寛政の改革(1787~93)が行われることに。
 この改革政治は、享保の改革に同じく家康時代の自然経済へ無理矢理戻すことを理想とした。発達する商品貨幣経済の抑制、すなわち経済の改悪に努力する。しかし経済の実態は享保時代よりますます貨幣経済が繁栄しており、したがってその以前に戻す幅が大きい分無理も大きく、享保より改革期間は短命にて失敗した。


2.旧里帰農令で、江戸にあふれる正業を持たないものに資金をあたえて、人口が減少した東北などの農村に帰ることを奨励した。しかし申し出る者が少なく失敗した。


3.困窮する旗本御家人を救済するための棄捐令を出して札差に貸金を放棄させた。


4.飢饉に備えて、諸藩に1万石につき50石の割合で囲米を命じ、各地に社倉義倉をつくらせて米穀をたくわえさせた。


5.治安対策として石川島人足寄場を設け、無宿人を強制的に収容し、技術を身につけ職業を持たせようとこころみた。


6.また町々に町費節約を命じ、節約分の7割を積み立てさせ(七分積金)、新たに設けた江戸町会所(まちかいしょ)によってこれを運用させた。


7.両替商など豪商10名勘定所御用達(かんじょうしょごようたし)として登用、その力を利用して改革をすすめた。

〈2016早大・法:「

 江戸時代にも一種の徳政令が、それぞれの不況期において困窮した武士等の保護対策として出された。寛政の[ C ]は、松平定信が寛政の改革の一環として、1789年に出した。これは、貨幣経済に巻き込まれて困窮する御家人・旗本・庶民を救済するために、b札差に6年以前の貸し金の放棄をさせ、以後のものを低金利化させる法令であった。

問8 空欄Cに入る語を漢字で記述解答用紙に記入しなさい。


問9 下線部bと関連する、寛政の改革中の経済政策についての次の記述のうち、明らかに誤っているものを1つ選びなさい。


 あ 旧里帰農令は、江戸に流入した没落農民の帰村・帰農を奨励する法である。

 い 赤子養育法は、出生した子を産所で殺すことを禁じた、農民確保のための法である。
 う.凶年に備える備蓄のうち、社倉は富裕者の義損・課税により、義倉は住民の拠出による。
 え 江戸町会所は、節減した町人用を積み立てて低利融資や救援をする機関にされた。
 お 両替商を中心とする大商人が勘定御用達に任命され、物価統制などを担当した。」

(答:問8C棄捐令、問9う×社倉・義倉の説明が逆)〉


〈2016立教大・法済異文

 江戸は幕政の中心であるとともに、幕府による諸改革の対象となった。8代将軍徳川吉宗による江戸の都市政策は、享保の改革における主要な政策の1つとなった。その後、天明の飢饉によって、江戸では打ちこわしが発生するとともに下層の町人が増加していった。そのため、寛政の改革においては、江戸に流人した農民に対し農村へ帰ることを奨励した( ハ )令が出された。」

(答:旧里帰農)〉


〈2014明大・商(商)

 以上の農村部から、つぎに都市部に目を向けてみれば、都市における騒擾、打ちこわしも大規模化の一途をたどった。時代はさかのぼるが、いまそれをまとめてみると、江戸では享保、天明の飢饉時や幕末世直し期においてそれぞれ大規模な打ちこわしが発生している。規模拡大の大きな理由の一つに都市に大量に流入した貧民層、無宿の滞留があった。それゆえ幕府は寛政の改革において農村での小農の自立支援を展開する一方で、江戸に流入した無宿などへの帰村奨励など、都市政策を積極化させていったのである。

この際の一翼を担ったのは両替商を中心とする豪商、D【1)5 2)7 3)8 4)10 5)12】人からなる勘定所御用達であり、幕府は彼らの力を借りて物価や米価の安定を図りながら、旧里帰農を促進していった。さらに人足寄場を設け、そこに無宿人を強制収監し、職業教育を施すなどの社会事業を展開した。また七分積金法によって備蓄された米(囲籾)や資金を運用する貧民救済策をとったが、これはE【1)本所 2)鉄砲洲 3)神田 4)小石川 5)石川島】にあらたに設けられた江戸町会所により運用された。

 江戸町会所は維新後東京府に移管され営繕会議所とされ、道路、橋梁、共同墓地等首都のインフラ事業への投資を行なったといわれているが、そのうちの一つが1872年に設立された貧民救済のための養育院である。同院の資金源はその後七分積金から地方税へと変遷し、名称も東京府養育院となったが、本施設の設立から関わった初代院長は埼玉県の豪農出身の実業家で第一国立銀行や商法講習所などの設立に尽力し、「道徳経済合一説」を信条とした[ お ](1840~1931)であった。」

(答:D4、E3※「か」、お渋沢栄一)

ラックスマン来航)(林子平(しへい))(尊号一件)(洒落本・黄表紙弾圧)(寛政異)

[ポイント]

1.寛政の改革で、異学を禁止、洒落本黄表紙を弾圧、さらに林子平を処罰したがラックスマンが来航、また尊号一件で朝廷を抑圧統制した。

[解説]

1.儒教のうち朱子学を正学とし、1790(寛政2)年には湯島聖堂の学問所(昌平坂学問所)で朱子学以外の講義や研究を禁じた(寛政異学の禁)。

2.民間に対してはきびしい出版統制令を出して、政治への風刺や批判をおさえた。林子平が『三国通覧図説』や『海国兵談』で海岸防備を説いたことを幕政への批判とみて弾圧(1792年、批判内容ではなく幕閣以外が幕政を批判した廉(かど)で蟄居、翌年死去)し、黄表紙(山東京伝など)や洒落本(恋川春町など)が風俗を乱すとして出版を禁じ処罰した。

3.朝廷は、1789(寛政元)年、光格天皇の実父である閑院宮典仁(すけひと)親王に、太上天皇の尊号を宣下したいと幕府に同意を求めた。光格天皇は閑院宮家出身。このままだと実家の父の身分が臣下である摂関家より下になるので、親孝行から望んだもの。しかし、定信はこれを拒否し、武家伝奏ら公家を処分した。この一連の事件を「尊号一件」とよぶ。この事件を契機にして、幕府と朝廷の協調関係はくずれ、天皇の権威は尊王論の高まりとともに幕末に向かって浮上し始めた。


4.しかし奇(く)しくも将軍家にも同じ問題が生じる。すなわち一橋家から将軍になった徳川家斉が、同じく親孝行から実父一橋治済(はるさだ)に大御所の尊号を贈ろうとした。しかし定信がこれも拒否したため、家斉との不和が生じることに。

5.田沼時代の蝦夷地の直轄・開発方針とは異なり、1792年のラクスマンの根室来航に対し、鎖国体制の強化を図った。林子平を蟄居させた年に皮肉にも彼の警告通りラクスマンが来航したことになる。長崎回航を命じられたラクスマンが根室を出航、その寄港の恐れがある江戸湾海防のための出張中に、辞職を命じられ失脚。

6.経済発展の実態との乖離(かいり)が大きい、すなわち無理な抑制策を行わねばならない分、庶民をはじめとした不満は大きく、川柳「白河の清きに魚(うお)のすみかねて もとの濁(にご)りの田沼こひしき」 にその批判がよく表れている。

〈2016立教大・済コミュ福観光

 こうして儒学は、政治と生活の道徳となり、やがて寛政の改革期になると、幕府は緩んだ武士の風俗を教化しようと、儒学のなかでも朱子学を正学と定めた。またこれにあわせて、朱子学を振興し人材を発掘するために、幕府は( リ )という試験制度を導人した。この試験では朱子学の理解の程度が試され、旗本・御家人とその子弟のうち15歳以上のものに受験資格があった。

 また寛政の改革期に、幕府は林家の家塾を幕府直轄の学問所とし、地誌類や歴史書の編纂を担当させた。幕府が塙保己一を援助して江戸麹町に建てさせた( ヌ )では、古代からの文献を集めた『群書類従』が編纂されたが、これは学問所において編纂されたさまざまな書物とともに、現在の日本史研究の基礎文献となっている。」

(答:リ学問吟味、ヌ和学講談所、※学問吟味とは幕府が旗本・御家人を対象に聖堂学問所(昌平坂学問所)で実施した漢学の筆記試験。1792年(寛政4年)から幕末まで、計19回実施された)〉


〈2014明大・法(法律)

 天明の飢饉が始まり、百姓一揆や打ちこわしが全国で頻発するなか、1784(天明4)年に田沼意次の子で若年寄の意知が暗殺されたことをきっかけに意次の権勢は急速に衰え、1786(天明6)年、将軍徳川家治が死亡するとすぐに失脚した。翌1789(天明7)年には、c江戸・大坂などの主要都市で打ちこわしが相次いで起こった(天明の打ちこわし)。こうしたなか、白河藩主松平定信が老中首座となり、11代将軍家斉を補佐しながら祖父徳川吉宗の政治を理想として寛政の改革を進めた。定信はd退廃した士風を引き締めるとともに倹約を求めた。また1789(寛改元)年には、困窮する旗本・御家人の窮乏を救うために[ カ ]を出して札差に貸金を放棄させた。

問6 下線部cに関連して、山東京伝の弟岩瀬京山著『蜘蛛の糸巻』には「翌年天明七丁未年五月…茲にいたりて米穀動かず。米屋ども江戸中に閉す。同月廿日の朝、雑人共赤坂御門外なる米屋を打ち毀す。…同日同刻京橋南伝馬町三丁目万屋佐兵衛、万佐とてきこえたる、米穀問屋を打ち毀す。…」と述べられている。文中の「米穀動かず」とは、ある原因により誰も米を売るものがいないことをいうが、その原因とは何か。8字以内で記しなさい。

問7 下線部dに関連して、田沼時代に緩んだ士風を引き締めるため、1790(寛政2)年、寛改異学の禁が林家に命じられたが、「異学」とは朱子学以外の[ オ ]の学派をいう。空欄[ オ ]に該当する語句を記しなさい。


問8 空欄[ カ ]に該当する法令名を記しなさい。」


(答:問6米価が騰貴した、問7儒学(陽明学・折衷学・古学など)、問8棄捐令)〉


〈2013同志社大学・法グロコミュ

 御三卿田安宗武の7男として出生した松平定信は、1774年陸奥白河藩主松平定邦の養子に入り、のち藩主となり、天明の飢饉を乗り切り明君と称された。1787年老中首座に任じられ、享保政治を範として田沼政治の刷新を方針とした施政を行なった。その政治は寛政の改革と称される。農政においては勘定所役人を改め腐敗代官を摘発して、ケ備荒貯蓄の奨励、農村人口の回復をめざした人返し令などの勧農政策を、社会政策においては財政に窮したコ旗本・御家人の救済、町民の七分積金、出版統制などを行なった。田沼時代の蝦夷地の直轄・開発方針とは異なり、ラクスマンの根室来航もあって鎖国体制の強化を図り、また、朝廷に対して禁裏造営を行なう一方、サ朝権への統制も忘れることはなかった。田沼政治が時代の趨勢に応じるものであったのに対して、定信のそれは幕府政治の原則に立つものであったといえよう。

問ケ.従来より備荒政策はとられてきたが、天明の飢饉の経験は改めて貯穀の必要を痛感させた。以下にあげる史料は1790年に農民に対して備荒貯蓄を奨励したものである。空欄.ケの中に入る貯穀を意昧する言葉を漢字2字で記せ。


 近年凶作打続き候処、二三年以来作方多分宜しく候に付き、凶年之備等も自然と等閑に相成るべきやに候。殊に当年は米直段引下り、一統難儀之事に候。当年弥豊熟に候はば、成る丈け手繰り(都合がつき…注)次第に置籾( ケ )等中し付くべく候。


問コ.以下にあげる史料は1789年に札差に債権の全部または一部を放棄させる目的で幕府が発布した法令である。空欄コの中に入る言葉を漢字2字で記せ。


 旧来之借金は勿論、六ヶ年以前辰年までに借り請け候金子は、古借・新借之差別無く、( コ )之積り相心得べき事。


問サ.定信の行なった朝権統制の事件を次の1~4の中から1つ選べ。


 1紫衣事件 2宝暦事件 3尊号事件 4明和事件」


(答:問ケ囲米、問コ棄捐、問サ3)


定信)(宇下人言(うげのひとごと))(花月草紙(かげつそうし))。


[ポイント]

1.定信は引退後、随筆『花月草紙』や自伝『宇下人言』などを著した。

[解説]

1.『宇下人言』は成立年未詳。定信の自叙伝で、誕生から老中辞職直前までが記され、寛政の改革時の定信の政策意図やその思想がうかがえる。書名は「定信」の2字を分解したもの。「人」で「一」ではないので注意してください。

2.『花月草紙』は1818年成立。社会の諸相・人生・自然現象などに対する感想を記した随筆


〈2016立教大・現心社コミュ福:「

問10.この人物松平定信に関する記述として正しくないのはどれか。

 a.自伝『宇下人言』を著した

 b.徳川吉宗の孫である
 c.老中在任期間は6年余りだった
 d.老中在任中に紫衣事件が発生した

(答:d×紫衣事件は3代家光の時)〉


〈2013関西学院大学・済総合国際

C.寛政四五のころよりg.紅毛の書を集む。……兵器あるは内外科の治療、ことに益も少なからず。されどもあるは好奇の媒となり、またはあしき事などいひ出す。さらば禁ずべしとすれど、禁ずれば猶やむべからず。況やまた益もあり。さらばその書籍など、心なきものヽ手には多く渡り侍らぬやうにはすべきなり。上庫にをき侍るもしかるべし。されどよむものもなければ只虫のすとなるべし。

問8.史料Cを書いた人物として、正しいものを下記より選びなさい.


 ア.松平定信 イ.林子平

 ウ.岡田寒泉 エ.渡辺崋山

問9.下線部gに該当するもので正しいものを下記より選びなさい.


 ア.スペイン イ.ポルトガル

 ウ.オランダ エ.アメリカ

問10.Cの史料の内容として、誤っているものを下記より選びなさい。なお、すべて正しければ「エ」をマークしなさい。


 ア.集めた本には、兵器や医学において役に立つ知識が書かれている。

 イ.集めた本には、犯罪や刑法の内容が書かれている。
 ウ.集めた本は、幕府当局者以外の者に渡らないようにすべきである。」

(答:問8ア、問9ウ、問10イ※史料Cは『宇下人言』)〉

愛嬌 効かんて。


(相対(すま)し令・保の改革)(捐令・保の改革)


[ポイント]

1.相対済し令享保棄捐令寛政天保の施策。

 

[解説]
1.相対済し令は、享保の改革の一環として、物価高騰に伴い借金に関わる訴訟が増大したため訴訟裁判の軽減を図るということで、1719年に、悪質なものを除き訴訟を受理せず当事者間で解決させるという法令で、同時に旗本・御家人の救済もねらったもの。しかし金融上の混乱が続いたため1729年に廃止した。

2.棄捐令は、江戸幕府が旗本・御家人救済のために出した法令で徳政令の一種。札差に対する借金の帳消しや低利による年賦償還などを命じたもの。1789(寛政元)年と1843(天保14)年に、寛政の改革天保の改革で出された。

 

〈2016早大・法

  江戸時代にも一種の徳政令が、それぞれの不況期において困窮した武士等の保護対策として出された。寛政の[ C ]は、松平定信が寛政の改革の一環として、1789年に出した。これは、貨幣経済に巻き込まれて困窮する御家人・旗本・庶民を救済するために、札差に6年以前の貸し金の放棄をさせ、以後のものを低金利化させる法令であった。

問8 空欄Cに入る語を漢字で記述解答用紙に記入しなさい。」


(答:棄捐令)〉


〈2016立教大・法済異文

問2.これ札差に対して旗本・御家人への貸金を放棄させた、寛政の改革における法令の名をしるせ。」

(答:棄捐令)〉


〈2012明大・文学部

 以下の各文は江戸幕府の享保の改革に関する文章である。正しいものを次の1~5のうちから一つ選べ。

 1.1716年(享保元)、紀州藩主徳川吉宗が8代将軍になると、吉宗は家康時代への復古をかかげて幕政の改革に取り組んだ。

 2.1722年(享保7)には上米の制が定められたが、幕府財政の立直しの本筋は年貢増徴策であり、そのため広くとり入れられたのが検見法である。

 3.有能な人材を登用のため足高の制が定められた。町奉行大岡忠相や『農業全書』の著者田中丘隅も吉宗によって抜擢された人材である。

 4.棄捐令を出し、激増してきた金銭貸借をめぐる訴訟をその当事者どうしで解決させる一方、公事方御定書を編纂し法制の整備にもつとめた。

 5.江戸・大坂周辺の地を幕府直轄地とし、対外防備の強化をねらった上知令を発令した。」

(答:1 ※2×検見法→定免法、3×田中丘隅→宮崎安貞、4×棄捐令は寛政の改革と天保の改革、5×上知令は天保の改革)〉



徳川御三家

2016-11-24 | 『新日本史頻出年代暗記』


およしきよりのみとよりふ。

尾張=義直 紀伊=頼信 水戸=頼房


1.徳川御三家紀伊水戸尾張の三家

1.将軍と主従関係を結んだ1万石以上の武士を大名といい、大名は将軍との親疎関係で親藩譜代外様に分けられる。親藩三家(尾張・紀伊・水戸の3藩)など徳川氏一門の大名、譜代ははじめから徳川氏の家臣であった大名、外様関ヶ原の戦い前後に徳川氏に従った大名をいう。これらの大名の配置にあたっては、親藩・譜代を要所に、有力な外様はなるべく遠隔地に配置した。

2.御三家(三家)とは、家康の第9子義直・10子頼信・11子頼房がそれぞぞれたてた尾張紀伊(紀州)・水戸の3家をいう。水戸家以外は将軍に継嗣がないときは将軍家を継ぐ。水戸家が将軍継嗣ができないことについては諸説あるが不明。水戸家は35万石で2家(尾張62万石、紀伊56万石)に比べ領地がかなりせまいが、江戸に近く、また江戸常府とされていたのが特長。

〈2013青山学院・文教育済法営

 大名は親藩・譜代・外様にわけられ、親藩のうち尾張、[ チ ]、水戸の三藩は御三家とよばれ、将軍を補佐し、将軍後嗣を出す家柄として、別格扱いを受けた。譜代は関ケ原以前からの家臣、外様は関ケ原以後従った者として区別された。

問17.空欄[ チ ]に当てはまる語句を、次の1~4の中から一つ選べ。


 1田安 2一橋 3清水 4紀伊


(答:4)〉

御三卿(創設順) 

休むだけ一つ棟ただシミしげよ。

田安宗武一橋宗尹 清水重好

[ポイント]
1.御三卿田安一橋清水の三家。

[解説]
1.御三卿御三家につぐ家格で、三家に次いで将軍を継嗣する。田安一橋は8代将軍吉宗の第2子(宗武)・4子(宗尹)が、清水は9代将軍家重の第2子(重好)が建てた家。これ以降、将軍家に後嗣がないときは御三家に加えて御三卿から選定することになった。第11代将軍家斉と第15代将軍慶喜が一橋徳川家から、田安徳川家から家達(いえさと)(16代だがもはや幕府は消滅)が、それぞれ徳川宗家を相続している。


1772(安永元)年 〈田沼意次、老中就任〉★

2016-11-22 | 『新日本史頻出年代暗記』

●江戸時代(後桃園天皇 徳川家治)
1772(安永元)年 〈田沼意次、老中就任〉★
Tanuma Okitsugu becomes roju (senior councilor) and attempts to increase shogunal income through the expansion of commerce.

非難名に負う 意次は。 

1772年 南鐐二朱銀 田沼意次 家治

18世紀に入ると貨幣経済が広まり、貨幣収入のない百姓の生活は困窮。さらには飢饉の発生などから百姓一揆は増加した。このような中で幕政を指導した田沼意次は貨幣制度の一本化を試み、老中となった1772年に南鐐二朱銀の発行を命じた。また、商工業者の株仲間を公認して特権を与え、かわりに運上・冥加を納めさせて幕府財政の不足を補った。


[ポイント]

1.田沼意次は、1767年から、手賀沼印旛沼の干拓、長崎貿易の奨励、専売制度を拡大、南鐐二朱銀の発行、株仲間を公認し、運上金冥加金を課す、蝦夷地開発計画をたて最上徳内に探検させた。

[解説]
1.意次は、年貢増徴だけにたよらず民間の経済活動を活発にし、そこで得られた富の一部を財源にとり込もうとした。そのために、都市や農村の商人・職人の仲間を株仲間として広く公認し、運上冥加など営業税の増収をめざした。


2.幕府の専売のもとに、銅座真鍮座朝鮮人参座などが設けた。


3.意次は、はじめて定量の計数銀貨南鐐二朱銀を鋳造させ、を中心とする貨幣制度への一本化をこころみた。


4.意次は、江戸や大坂の商人の力を借りて印旛沼手賀沼の大規模な干拓工事をはじめるなど、新田開発を積極的にこころみた。しかし干拓は、利根川の氾濫で挫折した。


5.意次は仙台藩江戸詰医師工藤平助赤蝦夷風説考』の意見を取り入れ蝦夷地開発計画をたて、最上徳内らを蝦夷地に派遣して、その開発やロシア人との交易の可能性を調査させた。


6.旗本佐野政言(まさこと)は、意次の子で若年寄田沼意知(おきとも)を暗殺し、「世直し大明神」とはやされた。


7.賄賂(わいろ)が横行し、天明の飢饉の対応に失敗し、松平定信により失脚した。


8.1767年の明和事件で、山県大弐(やまがただいに)を死刑に処し、竹内式部を遠島処分とした。


9.蘭学を奨励し、平賀源内を登用した。

 

 〈2016明大・農:「
 徳川吉宗のあと、9代[ 2 ]、10代[ 3 ]が将軍職についたが、[ 3 ]の側用人から老中にすすんだオ田沼意次が権勢をふるった。意次は、収入源をもっぱら土地からの年貢に求める従来のやり方を改め、年貢に加えて経済・流通政策による収入も重視した。都市や農村の商工業者に[ 4 ]の設立をすすめ、営業独占を認めるかわりに運上・冥加を上納させた。特定の御用商人に銅・鉄・真鍮・朝鮮人参などの座をつくらせ、流通の統制と運上徴収をはかった。

 カ.田沼政治は町人の経済力を利用して幕府収入を増やしたが、[ 4 ]による独占の弊害や賄賂の横行による士風の退廃をもたらし、人々の批判をあびた。また、天明年間に浅間山噴火や冷害によって大飢饉(天明の飢饉)がおこり、奥羽地方を中心に多くの餓死者・病死者を出した。百姓一揆や打ちこわしが頻発するなか、意次の子で若年寄であった田沼意知が暗殺されたことをきっかけに意次の権勢は衰え、1786(天明6)年、将軍[ 3 ]の死の直後に意次は失脚した。翌年には江戸・大坂などで大規模な打ちこわしがおこった。


問6 空欄(2~3)に適切な人物名の組み合わせとしてもっとも適切なものを下記から一つ選べ。


 A 2徳川家継 3徳川家重

 B 2徳川家継 3徳川家治
 C 2徳川家重 3徳川家継
 D 2徳川家重 3徳川家治
 E 2徳川家治 3徳川家継
 F 2徳川家治 3徳川家重

問7 空欄4に入る用語を漢字で記入せよ。


問8 下線部オに関連して、田沼意次が行った政策について記述した文章として適切でないものを一つ選べ。


 A はじめて南鐐二朱銀などの計数銀貨を鋳造させ、金銀通貨の一本化をねらった。

 B 銅座に貿易用の銅の独占確保をおこなわせた。
 C 俵物役所を設けて俵物の輸出を奨励した。
 D 蝦夷地の開発やロシアとの交易を計画して、間宮林蔵らに北方調査をおこなわせた。
 E 新田開発に力を入れ、利根川水系の印旛沼・手賀沼の干拓に着手した。

問9 下線部(カ)に関連して、田沼政治への風刺としてもっとも適切なものを一つ選べ。


 A 世の中に蚊ほどうるさきものはなし ぶんぶといふて夜もねられず

 B 世わたりに春の野に出て若菜つむ わが衣手の雪も恥かし
 C 侍が来ては買ってく高楊枝
 D 歌よみは下手こそよけれ天地の 動き出してたまるものかは
 E 年号は安く永しと変れども 諸色高直いまに明和九

(答:問6D、問7株仲間、問8D、問9E※明和9(1772)年を明和元年とした。田沼はこの年老中になったので、これを田沼政治への批判の句とするのはどうかなと思うのだが、他にないので)


〈2016同志社大・全学部

 幕府財政は8代将軍吉宗の改革によって一時的に立ち直りをみせたが、しかしその後18世紀後半には再び行き詰まることとなった、このとき政務を担ったのが田沼意次である。彼は1O代将軍( オ )のもとで従来の緊縮政策を捨て、i商業資本の積極的利用による財政再建をはかろうとした。しかし賄賂政治への批判や、カ天災などの世情不安もあり、急速に支持を失っていった。

【設問オ】空欄( オ )に入る人物名を次のうちから選べ。

 1.家重 2.家治 3.家慶 4.家斉

【設問i】田沼意次は町人の経済力を利用して、利根川水系の手賀沼・[   ]の干拓を行なおうとした。

[   ]にあてはまる湖沼の名称を、漢字で記せ。


【設問カ】江戸時代には冷害・噴火など天災を主因とする飢饉が発生したが、以下の4つの飢饉について、その番号を起こった時期の古い順に並べて、記入せよ。


 1.享保の飢饒 2.天保の飢饉

 3.天明の飢饉 4.寛永の飢饉」

(答:オ2、i.印旛沼、カ4→1→3→2)〉


〈2015関西学院大・文法商人間

問10 下線部jの人物田沼意次の政策に関する説明として、正しいものを下記より選びなさい。

 ア 経済の活性化のため、株仲間を禁止した。

 イ.民間の経済活勤の活性化と冥加・運上の増収によって財政の立て直しを図った。
 ウ.積極的な新田開発が功を奏し、彼の老中在任中に百姓―揆や打ちこわしは生じなかった。
 エ.金銀の海外への流出を警戒し、対外貿易には消極的であった。」

(答:イ)〉


〈2014早大・文化構想

 近世には、江戸・大坂・京都などの大都市が発展したが、特に大坂は「天下の台所」といわれ、日本における経済の中心となった。大坂では幕府や各藩の年貢米や特産物が[ D ]に集まって保管され、商品として販売された。販売を請け負ったのは蔵元や掛屋とよばれる商人だった。一方、経済の発展とそれに伴う問題は、江戸幕府の政治をしばしば動揺させた。d.幕府のいわゆる三大改革やその間の田沼政権は、経済問題への取り組み抜きには語れない。

問8 下線dに関連して述べた文のうち誤っているものはどれか。2つ選べ。


 ア 享保の改革では、大名に対して参勤交代を半年にするかわりに上米を命じた。

 イ 享保の改革では、米価安定のために大坂堂島の米市場を公認した。
 ウ 田沼政権では、株仲間の範囲を積極的に広げ、江戸の二十四組問屋などを公認した。
 エ 寛政の改革では、札差の保護を図るために棄損令を発布した。
 オ 天保の改革では、株仲間を物価高騰の原因とみなして、株仲間解散令を発布した。」

(答:D蔵屋敷、問8ウ・エ ※ウ×二十四組問屋は大坂、エ×旗本・御家人の保護)〉


〈2014立教大・現心コミュ福祉観光営

問6.この時期(田沼時代)に行われた政策に関する記述として正しいのはどれか。次のa~dから1つ選べ。

 a 株仲間を広く公認する代わりに、運上金・冥加金などを上納させた。

 b 治安対策として石川島に人足寄場を設け、無宿人に職業技術を授けた。

 c 南鐐二朱銀などの計数銀貨を鋳造し、銀を中心とする貨幣制度の確立を試みた。

 d 最上徳内が中心となって、蝦夷地の開発やロシアとの交易から実利をあげた。

(答:a ※b×寛政の改革、c×金中心に、dまだ探検段階)〉


〈2013青山学院・文

 冷害による大凶作に端を発した天明の飢饉は、陸奥国を中心に江戸時代最大の餓死者を出した。同じ頃[ ア ]が噴火して大きな被害が出、数年後には関東地方などが洪水の被害で大凶作となった。こうした天明年間の一連の災害による大凶作・飢饉によって、各地で百姓一揆や打ちこわしが頻発した。この時期政治を主導していたのは、a田沼意次であったが、[ 1 ]のb.田沼意知が殺されたのち勢力を失い、将軍[ い ]の死去とともに、失脚した。その後政治の主導権をめぐって激しい権力闘争が行われたが、江戸をはじめとして全国で大規模な打ちこわしが発生したことを契機として、田沼派が一掃され、政権交代が実現した。

問1 空欄アに該当する語句を記せ。


問2.空欄[ 1 ]に該当する当時の役職名を一つ選べ。


 1老中 2若年寄 3大老 4江戸町奉行


問3 空欄い)に該当する将軍名を答えよ。


問5.下線部a田沼意次について、この人物のとった政策として誤っているものを一つ選べ。


 1 幕府財政を再建するため、民間の経済活動を活発にし、株仲間を広く公認して運上・冥加などの増収をめざした。

 2 江戸や大坂の商人の資金を活用し、印旛沼・手賀沼の干拓工事を行った。
 3 最上徳内らを蝦夷地に関連して、蝦夷地の開発やロシア人との交易の可能性を調査した。
 4 はじめて定量の計数銀貨を鋳造し、銀を中心とする貨幣制度への一本化をはかった。

問6.下線部b田沼意知について、(1)(2)の問に答えなさい。


(1)この人物を殺した旗本は誰か。次の中から一つ選んでマークしなさい。


 1大岡忠相  2佐野政言
 3佐倉惣五郎 4大塩平八郎


(2)(1)で解答した人物は民衆からどのようにもてはやされたか。次の中から一つ選んでマークしなさい。


 1義民     2八幡大菩薩
 3世直し大明神 4東照大権現」


(答:問1ア浅間山、問2→2、問3家治、問5→4×はじめて金貨の単位を表した銀貨を作ったのだから、金を中心とする貨幣制度への一本化、問6(1)→2、(2)→3)〉


田沼時代・座・座)(真鍮(しんちゅう)座)(朝鮮人参)


[ポイント]

1.田沼意次真鍮朝鮮人参などを幕府専売とした。

[解説]

1.意次はゆきづまった幕府財政を再建するために、年貢増徴だけにたよらず民間の経済活動を活発にし、そこで得られた富の一部を財源にとり込もうとした。そのために、都市や農村の商人・職人の仲間を株仲間として広く公認し、運上冥加など営業税の増収をめざした。この一環として幕府の専売のもとに、銅座鉄座真鍮座朝鮮人参座などが設けられた。

〈2014立教大・現心コミュ福祉観光営

問12.12.幕府の老中は、さまざまな政策を実行しに関する記述として正しいのはどれか。次のa~dから1つ選べ。

 a.松平定信は、印旛沼と手賀沼の干拓事業に着手した

 b.松平信明は、人参座を設け、朝鮮人参の専売を始めた
 c.水野忠成は、金・銀の含有率を下げた貨幣を発行した
 d.水野忠邦は、上知令を出して、江戸と長崎周辺の私領を幕領に編入した」

(答:c〇家斉代の老中首座で、文政の貨幣改鋳による財政立て直しを行うが賄賂を横行させた ※a・b×田沼意次の政策、d×江戸と大坂)〉


〈2013学習院大学・経済

 続く18世紀後半に実権を握った田沼意次は年貢増徴だけに頼らず、都市や農村の商人・職人の仲間を株仲間として広く公認し、運上や冥加など営業税の増収をめざした。この一環として、幕府の専売のもとに設けられた直営の座として15〔イ真鍮座 ロ油座 ハ金座 ニ綿座 ホ銀座〕がある。」

(答:イ)〉

〈2012明大・文学部

 以下の江戸幕府の政策についての文章のうち、田沼時代の政策には1)を、寛政の改革における政策は2)をマークし、どちらでもない政策には3)を選べ。

 1 『三国通覧図説』や『海国兵談』を著して蝦夷地開拓と海岸防備の必要性を説いた林子平を人心を惑わせるものとして処罰した。

 2 困窮した旗本・御家人への対策としては、札差に旗本・御家人への貸金を放棄させ、江戸に流入してきている貧農層への対策としては、旧里帰農令を出して農村に帰ることを奨励した。
 3 都市や農村の商人・職人を株仲間として広く公認し、その一環として幕府の専売のもとに銅座・真鍮座・朝鮮人参座等を設け、営業税の増収をめざした。
 4 ロシアは使節ラックスマンを根室に派遣し、漂流民大黒星光太夫等の送還とともに日本に通商を求めたが、幕府は通商を拒絶した。
 5 将軍と皇女との婚約をまとめたり、宮家(親王家)が三家しかなかったので、閑院宮家を創設して、天皇家との結びつきを強めた。
 6 『赤蝦夷風説考』で蝦夷地開発とロシアとの交易の必要性を説いた工藤平助の献策をいれ、蝦夷地開発計画を立て調査隊を派遣した。
 7 金との交換価値を表示した定量銀貨の南鐐二朱銀を鋳造し、貨幣の流通量を増やそうとした。」

[ポイント]
1.明和五匁銀の失敗の後、8枚で1両に交換できる南鐐二朱銀を発行した。

[解説]

1.江戸中心の金貨(計数貨幣)と大坂中心の銀貨(秤量(しょうりょう)貨幣)の交換(東西の金融決済など)は、必然的に両替というコスト(両替商が手数料を上乗せ、かつ毎日変動)を必要としていた。

2.田沼意次は、銀貨を金貨にリンクさせ、金貨を中心とする貨幣制度への一本化をこころみた。
 幕府は1765(明和2)年(田沼が側用人になるのは1767年)、明和五匁銀(銀の純度約46%)を鋳造し、為替レートの 固定化(両替は必要ない)を狙った。すなわち、この明和五匁銀12枚(60匁)と小判1枚を交換可能とするものであった。しかしこれは当時の実勢レートに合わず、両替商の抵抗もあり、ほとんど流通せず失敗に終わった。
 そこで田沼意次は、新たに1772(安永元)年から、純度を上げ金2朱として通用する南鐐弐朱銀を大量鋳造することにした。「南鐐」とは上質な銀(銀の純度約97%)のこと。8枚(金2朱×8=16朱)で小判1枚(金16朱)と交換と定めた。両替商の抵抗はあったが、今度は徐々に浸透、丁銀、豆板銀といった秤量銀貨が少しずつ消えていくことになった。

〈2012明大・商学部:「
 田沼時代には、商工業者の組織化政策、あるいは専売制の実施など、各地で発展しつつあった商品生産・流通からもたらされる富を財政の補強のために使おうとする経済政策が展開した。貨幣政策でもそれまでの三貨を金に一本化して貨幣制度の安定をはかるために計数銀貨の発行を実施した。これは田沼意次が老中に就任する直前に発行された明和(d)【1)五分 2)五貫 3)五両 4)五匁 5)五朱】銀の政策意図を踏襲したもので、金銀の相場により変動する貨幣制度を強制的に安定させる目的をもっていた。ただ、この貨幣は鋳造数が少なかったうえ、取り扱いもかさばって使いにくかったため、1772年、97%の純度を持つ[ 4 ]銀を発行した。この銀貨(e)【1)2 2)3 3)4 4)8 5)12】枚で金1両に相当する計算になった。幕府は同貨幣の流通を公金貸付制度と一緒に実施することで成功に導き、天明期には流通の安定基盤が確保されたといわれている。」
(答:d4、[ 4 ]→南鐐二(弐)朱、e4 ※「明和五匁銀」が最初の定量銀貨。あまり流通せず再度の「南鐐二朱銀」で成功)〉

 

 



受験 ブログランキングへ


1716(享保元)年 〈享保の改革〉★★

2016-11-18 | 『新日本史頻出年代暗記』

●江戸時代(中御門 徳川吉宗)
Tokugawa Yoshimune embarks on a strenuous program of bureaucratic and financial reforms. known as Kyoho Reforms.
非難異論も 今日はよし。
1716年    享保の改革 8代将軍 徳川吉宗 新田開発

1716年、7代将軍徳川家継が死去し、御三家《 徳川家康の子を藩祖とする紀伊・尾張・水戸の三藩。「君とは終わり」と覚えよう!》の紀伊藩主徳川吉宗が8代将軍に就任。

吉宗は家康時代への復古を掲げて封建支配を立て直すとともに、新田開発・増税などによる財政再建に努めた(享保の改革)。
                  
〈享保の改革〉 8代将軍となった徳川吉宗は足高の制を設けて有能な人材(町奉行を経て大名となった大岡忠相が有名)を登用。さらに裁判の基準となる公事方御定書を制定して法にもとづく合理的な政治を進めた。また、金銀貸借についての争いを当事者間で解決させるため、1719年に相対済し令を出した。また、年貢収入の増加を図るため、徴収の方法を従来の検見法から定免法へ改め、年貢率を4公6民から5公5民とした。さらに吉宗は評定所に目安箱という投書箱を設けて、庶民の意見を聞き入れた。この投書から貧民の救済施設である小石川養生所がつくられた(目安箱の〈コ〉と小石川の〈コ〉を尻取りにして押さえよう)。


[ポイント]

1.享保の改革期に、荻生徂徠室鳩巣(侍講)、田中丘隅(農政家)、野呂玄丈青木昆陽(蘭学者)、神尾春央(勘定奉行)、大岡忠相(町奉行)、などが登用された。

[解説]

1.吉宗は、1740年、青木昆陽野呂玄丈蘭語学習を命じた。これがのちの蘭学隆盛の基礎となる。吉宗は、青木昆陽には加えて甘藷栽培の奨励をさせ、漢訳洋書輸入を緩和した。

 

2.青木昆陽(1698~1769)は、江戸日本橋の魚屋の子。京に上り伊藤東涯に古義学を学び、江戸八丁堀に塾を開く。折からの享保の飢饉に書いた『蕃薯考(ばんしょこう)』が大岡忠相を通じて吉宗に認められ出仕。以後甘蔗の普及につとめる。吉宗の命を受け野呂玄丈とともにオランダ語学習につとめ、その成果は前野良沢によって継承され、のちの蘭学興隆の基となった。

 

3.野呂元丈(1694~1761)は、吉宗の御目見(おめみえ)医師。青木昆陽とともにオランダ語書籍解読および西洋本草(ほんぞう)(薬草)導入の先駆(さきが)けとなり、のちの蘭学興隆の道を開拓。

 

4.荻生徂徠(1666~1728)は、綱吉の侍医の子。父の不遇時代に上総(かずさ)の農村で暮らす。この経験が実証的な学者となる基礎となる。やがて儒学者として柳沢吉保につかえる。吉保の失脚後は官を持し江戸で私塾蘐園塾(けんえんじゅく)を開き、古文辞学を大成。さらに吉宗に登用され、幕政の改革を述べる『政談』を献じた。

 

5.室鳩巣(1672~)は、はじめ金沢藩に仕え、藩主・前田綱紀の命で京都の木下順庵の門下となる。新井白石の推挙によりで、江戸幕府の儒者となり、家宣、家継、吉宗の3代に仕え、享保の改革ではブレーンの役割を果たす。赤穂事件においては赤穂浪士を擁護した。

 

6.神尾春央(1687~1753)は、勘定奉行として徹底した検地や隠田の摘発で幕領耕地の拡大に努めた能吏。「胡麻(ごま)の油と百姓は、絞(しぼ)れば絞るほど出る」(本多利明西域(せいいき)物語』)と語ったとされる。

 

7.大岡忠相(1677~1752)は、24歳で養父の1920石の旗本家を継ぐ。41歳で町奉行に昇進。後世の脚色された「大岡政談」などで人情味あふれる名奉行の評判をのこす。素顔は、訴訟・裁判が山積する町奉行の業務を迅速にこなす有能な封建官僚だった。最後にはたびたびの加増で1万石の大名となった。

 

8.田中丘隅(1662~1729)は、農政家。東海道川崎宿の名主の家を継ぎ、衰微していた川崎宿の復興につとめる。1723年大岡忠相から農政や治水について諮問されたのをきっけに、幕命により荒川・酒匂川(さかわがわ)・多摩川などの治水に成功。晩年その功により、武蔵国の代官に任じられた。

 

〈2016関西大学・全学部
問12 この史料にあるように西洋の事物が紹介され、やがて蘭学が発達した。青木昆陽や野呂元丈にオランダ語を学ぶよう命じた将軍は誰か。

 ア徳川綱吉 イ徳川吉宗 ウ徳川家重」


(答:イ)〉


〈2016立教大・文

10.これ(享保の改革)に関する記述として正しくないのはどれか。次のa~dから1つ選べ。

 a.勘定奉行の神尾春央は「百姓と胡麻の油はしぼればしぼるほど出る」と述べたと伝えられる

 b.徳川吉宗に登用された寺西封元は、『民間省要』という農政建言書を書き上げた
 c.徳川吉宗はキリスト教関係以外の漢訳洋書の輸入制限をゆるめ、野呂元丈にオランダ語の習得を命じた
 d.徳川吉宗は諸大名や商人に買米令や廻送制限令を出し、米の公定価格を決め、米価の下落を抑えようとした」

(答:b×寺西封元→田中丘隅)〉


〈2015早大・人間科学

問6 下線部e8代吉宗の諮問に答えた『政談』の著者は誰か、1人選べ。もし該当するものがなければ、カを選べ。

 ア室鳩巣 イ太宰春台 ウ荻生徂徠
 エ野呂元丈 オ石田梅岩


(答:ウ)〉


〈2013同志社大学・法グロコミュ

オ.吉宗は、1717年にある人物を町奉行に任命し、江戸市中の改造に取り組ませた。彼は江戸を防災都市とする種々の政策を行なった。この人物名を漢字で記せ。

(答:大岡忠相)〉


〈2012立教・経済法異文化コミュ〉

 8代将軍徳川吉宗は,幕府財政の悪化に対処するため,享保の改革を実施した。吉宗は,山田奉行から江戸町奉行に抜擢された〈 あ 〉や,『民間省要』の著者で宿駅の名主でもあった( ロ )など,有能な人材を多く登用した。また,幕府財政の安定をめざして年貢の徴収方法を〈 い 〉に変えるなど,さまざまな施策を実施した。

(ロ)a大蔵永常 b大原幽学
   c田中丘隅 d二宮尊徳」


(答:あ大岡忠相、い定免法、ロc)〉

 

ミカン西洋棚救具。

民間省要(せいよう)川崎宿 田中丘隅(きゅうぐ)


[ポイント]
1.田中丘隅は『民間省要』を著した。

[解説]
1.田中丘隅(1662~1730)は、東海道川崎宿の名主で、農政家。農家に生まれたが農業のかたわら絹売買で各地を回り、かついつも書を離さないという向学心の持ち主だった。

2.その人物を見込まれ東海道川崎宿の本陣名主田中家の養子に迎えられる。家督を義父から継ぎ本陣名主問屋役の三役として、衰微していた川崎宿の復興につとめる。

3.丘隅は50歳のとき家督を子に譲り、念願の江戸遊学を果たし荻生徂徠に学ぶ(のちの伊能忠敬も養子に入り家業を栄えさせ50歳で江戸遊学を果たし高橋至時に学ぶ)。

4.丘隅は、土木治水の技術に長け、1723年(享保8年)大岡忠相から農政や治水について諮問されたのをきっけに、吉宗に登用されて荒川・酒匂川(さかわがわ)・多摩川などの治水に成功。晩年その功により、武蔵国の代官に任じられた。

〈2016早大・教育

 a17世紀は開発の時代であったが、やがてそれは頭打ちとなり、b18世紀にはさまざまなかたちで行き詰まりを見せるようになった。そうした状況を社会の側から克服しようとした知識人を、[ A ]に巧みな者という意味で[ A ]巧者という。村社会の事情に精通し、その経験にそって農政についての提言を行った彼らは、村の運営に関わる村方三役([ A ]三役ともいう)とは別に、この時期の村社会の変化に対応した支配を進めようとする領主に登用された。

 その一人に、川崎宿の名主であった田中丘隅がいる。丘隅は宿の名主であった経験をもとに『[ B ]』という農政書を1721年にまとめ、将軍[ C ]に献上した。丘隅は『[ B ]』のなかで、c.地主小作関係の進展の事情、[ D ]法の利点などを説いているほか、下記の引用部分では画期的な提言を行っている。彼の視点は必ずしも下層百姓の立場のものとはいえないが、百姓の意見を反映させようとする構想を具体的に提言しているという点で注目される。ただし、[ A ]巧者による農政は、村社会にとって評価される事業ばかりではなかった。百姓の負担増加に荷担して、百姓一揆の原因をつくった事例もある。


 江戸時代中期以降、領主は村社会の実情に通じている地域有力者を無視して支配を貫徹することができなくなっていく。地域有力者の地域統治の実力を利用する見返りに、彼らに対して[ E ]の権利が与えられることもあった。田中丘隅は支配勘定格に取り立てられた。それだけ民間の力量が成長してきたということである。


〈史料〉

万事にわたり且卑賤の事を知って、世上に望みなく、その志を遂げ、国土の為に身命をなげうち、誠をつくして世に望みなき人を四十人選出して用いるべし。その品、
  一 五人  仕官[ F ]の御内より
  一 五人  同[ G ]の内より
  一 五人  僧侶の中より
  一 拾五人 諸国農家より
  一 拾人  諸都商家より
    以上

(中略)これを代わる代わる半分は国土に出して四海の邪正を聞き、半分は都内におらしめ、(中略)奉行・評定衆の異見の上に一切の政事・公事沙汰に至る迄、悉くこれらに尋ね問い、その道々の深き味をよく察し、よく計って決断するにおいては、何事も的中して相違有る事あらじ。


問1 空欄[ A ]を漢字で答えなさい。


問2 空欄[ B ]を漢字で答えなさい。


問3 空欄[ D ]は、この時期に幕府領で採用された新しい年貢徴収方法である。適切な語を漢字二字で答えなさい。


問4 下線部aに関して、17世紀の過剰開発のために起こった水害で、消滅したといわれる町はどれか。


 ア美濃加茂 イ福原 ウ近江八幡
 エ草戸千軒 オ敦賀


問5 下線部bの結果、18世紀に起こった出来事として適切なものをすべて選べ。


 ア田畑永代売買の禁止発令

 イかぶき者の登場
 ウ江戸富裕層への打ちこわし
 エ異国船打ち払い令の発令
 オ株仲間の結成・公認
 カキリシタン一揆の発生

問6 空欄[ C ]の政策でないのはどれか。


 ア足高の制

 イ公事方御定書の制定
 ウ蝦夷地の調査
 エ漢訳洋書の輸入緩和
 オ室鳩巣の登用

問7 下線部cを背景に、1720年代に起こった事件を何というか。


 ア質地騒動 イ伝馬騒動

 ウ嘉助騒動 エ郡内騒動
 オ三方領知替え反対一揆

問8 空欄[ E ]には士分の地位を示す語が入る。それはどれか。


 ア地下検断 イ苗字帯刀 ウ鉄砲所持

 エ新恩給与 オ知行宛行

問9 空欄[ F ]には将軍家臣、空欄[ G ]には大名家臣、を意昧する語が入る。その組み合わせとして正しいものはどれか。


 アF一直参  G一奉公人

   イ.F一陪臣  G一奉公人 
 ウF一奉公人 G一中間
 エF一陪臣  G一中問   

問10〈史料〉の引用部分が意昧していることについて、適切なものを選べ。


 ア 身分別に改革案を募り、その方法を世に問うことを提言している。

 イ 身分別の議会を設置し、自治を認めることを提言している。
 ウ 身分別に代長者を選出して、それらの意見を反映させた政治の実現を提言している。
 エ 身分別に支配を行う方法を撤廃し、身分の解消を提言している。
 オ 身分別に選出された陪審員が、異なる身分の裁判にも参加することを提言している。」

(答:1地方、2民間省要、3定免、4エ、※「草の戸も消滅するぞ雛(17世紀)の家。」5ウ・オ、6ウ、7ア、8イ、9.ア、10ウ)〉

 

〈2013立大・経済法異文化コミ

 享保の改革……『民間省要』の著者で宿駅の名主でもあった( ロ )など

(答:田中丘隅)〉




受験 ブログランキングへ


日本史 ブログランキングへ


1687(貞享4)年 〈生類憐れみの令〉★★

2016-11-12 | 『新日本史頻出年代暗記』

●江戸時代(霊元天皇 徳川綱吉)
1687(貞享4)年 〈生類憐れみの令〉★★
Edicts on Compassion for Living Things are enforced.
一路(いちろ)放つな 生類を。
  1687年    徳川綱吉 生類憐れみの令

江戸幕府5代将軍徳川綱吉は、治世の初期においては堀田正俊を大老に登用し幕政を引き締めようとしたが、堀田が暗殺されると側用人の柳沢吉保を用いて独断で政治を行うようになった《「吉保」の〈吉〉は「綱吉」の〈吉〉!》。子に恵まれなかった綱吉は、御持院の僧隆光のすすめで生類の殺生禁止を指令。この生類憐れみの令は1687年以降極端化し、民衆の生活に影響を及ぼした。


頻出史料「生類憐れみの令」                                    
 生類あハれみの儀に付、最前書付を以て仰せ出され候処、今度武州寺尾村同国代場村の者、病馬之を捨て、不届の至に候。死罪にも仰せ付けらるべく候え共、此度ハ先命御たすけ、流罪仰せ付けられ候。向後、相背に於ては、急度曲事仰せ付けらるべく候条、御料は御代官、私領は地頭より前方仰せ出され候趣、弥堅相守り候様、念を入れ申し付くべき者也。
                     貞享四(1687)年卯四月日

[ポイント]
1.綱吉代は、堀田正俊柳沢吉保が政治を補佐、荻原重秀は財政面で活躍した。

 

[解説]
1.綱吉代の文治政治では、1860年、大老の堀田正俊(1634~84)が補佐して始まり、正俊の暗殺後、側用人の柳沢吉保(1659~1714)がこれにかわった。堀田正俊は江戸城内で、従兄弟で若年寄の稲葉正休(いなばまさやす)(1640~84)により刺殺された。正休もその場で斬られる。河川の淀川改修工事にからんだ私怨(しえん)と言う。

2.財政難打開のため勘定吟味役(のちに勘定奉行)の荻原重秀(1658~1713)は、金含有量(84%→57%)を落とす貨幣改鋳をおこなった。


〈2016同志社大・全学部:「

 3代将軍家光の死後は、松平信綱らが中心となって4代将軍家綱を支えた。1651年の由井正雪の乱や、1657年の( ウ )の大火を乗り越えて、幕政の安定がはかられた。5代将軍となった綱吉は、( g )、次いで柳沢吉保の補佐を得て、文治政治を積極的に推進した。平和なこの時代には元禄文化が花開いたが、しかし幕府財政は次第に窮乏の度合いを強めていった。

【設問ウ】空欄( ウ )には、振袖火事とも呼ばれるこの大火の起こった年号が入る。これにあてはまるものを次のうちから1つ選べ。


 1.明徳 2.明暦 3.明応 4.明和


【設問g】空欄( g )には、綱吉の擁立に功があり、大老としてその治世の初期を支えたが、江戸城中で若年寄稲葉正休に刺殺された人物が入る。あてはまる人物名を漢字で記せ。」


(答:ウ2、g堀田正俊)〉


〈2012明大・商学部:「
 1695年、当時勘定吟味役であった[ 2 ](1658~1713)の上申を受けて綱吉によって発行された元禄小判は、慶長小判が金含有率84%であったのに対して同比率がわずか57%でしかなく、銀貨についても同様に銀含有率が80%から64%に減少している。」


(答:荻原重秀)


[ポイント]

1.徳川綱吉は、貨幣の悪鋳を行い、生類憐れみの令服忌令の発布し、その治世末期に富士山の噴火赤穂事件が起こった。

 

[解説]
1.政治の安定と経済の発展とを背景に、17世紀後半には5代将軍徳川綱吉(位1680~1709)の政権が成立し、いわゆる元禄時代が出現した。

 

2.綱吉はまた仏教にも帰依し、1685(貞享2)年から20年余りにわたり生類憐みの令を出して、犬を大事にし、生類すべての殺生を禁じた。この法によって庶民は迷惑をこうむったが、野犬が横行する殺伐とした状態は消えた。なお綱吉及び綱吉の生母桂昌院の寵を受けた僧隆光が生類憐れみの令の発令を勧めたとされる。
                                             
3.神道の影響から、1684(貞享元)年、近親者に死者があった時に、喪に服したり忌引をする日数を定めた服忌令とよばれる法令を出した。江戸時代を通してこれ以後、社会に死や血を忌みきらう風潮をつくり出す因(もと)となった。

 

4.綱吉の時代の幕府財政は、佐渡金山などの金銀の産出量が減少し、そのうえ明暦の大火後の江戸城と市街の再建費用、引き続く元禄期の寺社造営費用は大きな支出増となり、破綻を招いた。そこで勘定吟味役(のちに勘定奉行)の荻原重秀(おぎわらしげひで)の上申により貨幣の改鋳(悪鋳:金含有率84%→57%)をおこない多大な増収をあげたが、貨幣価値の下落は物価の騰貴を引きおこし、人びとの生活を圧迫した。

 

5.綱吉の治世の末期、1701(元禄14)年に、江戸城中で赤穂藩浅野内匠頭長矩(あさのたくみのかみながのり)が朝廷関係の儀礼を管掌する旗本で高家吉良上野介義央(きらこうずけのすけよしなか)を傷つけ、翌年浅野家の遺臣たちが吉良を討った赤穂事件が起こった。

 

6 さらに1707(宝永4)年には富士山が大噴火し、駿河・相模などの国々に降砂による大被害をもたらした。幕府は噴火被災地を復興するため、全国に「諸国高役金(しょこくたかやくきん)」を高100石について2両の割合で徴収することを命じた。その結果、約49万両の国役金が幕府に上納された。

 

〈2014明大・全学部前期

問3 下線部ア徳川綱吉に関連する説明として正しいものを、次のA~Dのうちから1つ選べ。

 A 本百姓の没落を防ぐため、田畑永代売買の禁令を出した。

 B 林鳳岡らに命じて服忌令を整備し、発令した。
 C 海舶互市新例を発令し、貿易額を制限した。
 D 萩原重秀を登用し、金の含有量を高めた貨幣の改鋳を行った。

(答:B ※A家光代、C家継代、D含有量を低下)〉

 

〈2014早大・教育

問7 下線部c江戸時代後期に各地で起こるさまざまな問題に関連して、18世紀後期から19世紀前期の出来事に該当しないものはどれか。

 ア 人足寄場の設置 イ 生田万の乱
 ウ 関東取締出役の設置

 エ 浅間山の噴火 オ 服忌令の発令

(答:オ×服忌令(父母などが亡くなった時の忌引きなどの日数を定めた法令)の発令は、17世紀後半の5代将軍徳川綱吉の代)

 

 〈2013上智大・文(英独仏)

問2 江戸幕府の5代将軍A(在職1680~1709年)に関する次の文章を読んで、以下の問いに答えなさい。

 Aは、( ア )の4男として生まれ、当初は大老( イ )の補佐で文治政治を推進した。儒学を好み、上野忍ヶ岡の弘文館を湯島に移して大成殿を設け、( ウ )を大学頭に任じた。( イ )の死後は、側用人( エ )を寵用し、生類憐みの令や貨幣改鋳などで、治政は乱れたとされる。


(1)空欄( ア )に当てはまる人物は誰か。もっとも適切な人名を、次から1つ選びなさい。


 1徳川家宣 2徳川家光 3徳川家綱

 4徳川秀忠 5徳川頼方 6徳川家継

(2)空欄( イ )に当てはまる人物は誰か。もっとも適切な人名を、次から1つ選びなさい。


 1本多正信 2保科正之 3酒井忠清 

 4松平信綱 5松平定信 6堀田正俊

(3)空欄( ウ )に当てはまる人物は誰か。もっとも適切な人名を、次から1つ選びなさい。


 1林鳳岡 2広瀬淡窓 3林春斎

 4林述斎 5岡田寒泉 6松永尺五

(4)空欄( エ )に当てはまる人物は誰か。もっとも適切な人名を、次から
1つ選びなさい。

 1田沼意次 2本多正信 3荻原重秀 

 4新井白石 5柳沢吉保 6間部詮房

(5)Aの在職期間中に起きた事件はどれか。もっとも適切なものを、次から1つ選びなさい。


 1振袖火事 2由井正雪の乱 3天狗党の乱

 4赤穂事件 5紫衣事件 6天保の飢饉

(6)Aが将軍職に就く前に藩主であったのは何藩であったか。もっとも適切なものを、次から1つ選びなさい。


 1岡山藩 2尾張藩 3水戸藩

 4甲府藩 5和歌山藩 6館林藩

(7)Aの在職期間中に書かれた著作は何か。もっとも適切なものを、次から1つ選びなさい。


 1『経済録』 2『折たく柴の記』
 3『広益国産考』
 4『赤蝦夷風説考』
 5『海国兵談』 6『奥の細道』


(8)前問(7)で答えた著作の作者は誰か。もっとも適切な人名を、次から1つ選びなさい。


 1大蔵永常 2林子平 3松尾芭蕉 

 4工藤平助 5新井白石 6太宰春台」

(答:1→2、2→6、3→1、4→5、5→4、6→6、7→6、8→3)〉

 

〈2013早大・国際教養

問10 下線部i生類憐みの令に関連する説明として誤っているものはどれか。1つ選べ。

 ア 猪や鹿を威嚇する鉄砲の所持を禁止した。

 イ 捨て子や捨て牛馬を禁止した。
 ウ 犬の愛護を強要し江戸に犬小屋を設置した。
 エ 綱吉は戌年生まれであった。
 オ 隆光は綱吉の母の帰依を受けていた。」

(答:ア)

 

大学生徒午後うたて。

(徳川綱吉)(大学頭(だいがくのかみ)・湯島聖堂)(護国寺・学方・文方)

[ポイント]
1.綱吉は、湯島聖堂をつくり、大学頭歌学方(かがくかた)・天文方を任命し、護国寺を建立した。

[解説]

1 1683(天和3)年に綱吉の代がわりの武家諸法度が出され、第一条の「弓馬の道」が「文武忠孝を励し、礼儀を正すべき事」に改められた。これは武士に、主君に対すると父祖に対する、それに礼儀による秩序をまず第一に要求したものであった。

2.文治主義の考えは、儒教に裏づけられたもので、綱吉は木下順庵に学び、湯島聖堂を建てるとともに林鳳岡(信篤)を大学頭に任じて、儒教を重視した。鳳岡の祖父林羅山が江戸上野忍ヶ岡に孔子廟と私塾を設けていた。綱吉は、それらを湯島に移し、湯島聖堂および聖堂学問所として林家(りんけ)に主宰させた。


3.北村季吟(1625~1705)は、俳諧、和歌、歌学を学び、土佐日記・伊勢物語・源氏物語などの注釈書(代表作が『源氏物語湖月抄』)を著した。綱吉は、1689年(元禄2年)、和歌の研究や詠歌を担当する歌学方を設け、季吟を500石の初代歌学方に任命した。これ以後、北村家が幕府歌学方を世襲。門人に松尾芭蕉がいる。


4.安井算哲(1639~1715、改姓して渋川春海(しゅんかい))は、幕府囲碁方の安井家に生まれたが、数学・天文暦学を学び、中国・元の授時暦を改良して貞享暦をつくった。この功により1685年、初代幕府天文方250石に任命された。以後、天文方は世襲となる。


5.徳川綱吉は、1681年(天和元年)、母桂昌院(けいしょういん)が帰依する僧亮賢(りょうけん)(1611~87)を開山として、護国寺を建立した。

 

〈2016慶大・経済B方式:「
問1 下線部A(江戸時代の社会は、A幕府によって強く統制された社会であった)に関連して、次の資料a~cは、幕府が大名に対して発した法令の一部である(必要に応じて表現を変更した)。それぞれの法令と、その法令が発令された時期の将軍の組み合わせとして最も適切なもの選べ。

 a 貴殿御分国中居城をば残し置かれ、其外の城は悉く破却あるべき旨、上意に候[資料出所]『大日本史料』

 b 文武忠孝を励し、礼儀を正すべきの事[資料出所]『御触書寛保集成』
 c 殉死は古より不義・無益の事なりといましめ置くといへとも、仰せ出だされこれなき故、近年追腹の者余多これ有り、向後左様の存念これある者には、その主人常々殉死仕らざる様に堅く申し含むべし[資料出所]「柳営日次記」

 1a徳川家綱b徳川綱吉c徳川秀忠

 2a徳川家綱b徳川秀忠c徳川綱吉
 3a徳川綱吉b徳川家綱c徳川秀忠
 4a徳川綱吉b徳川秀忠c徳川家綱
 5a徳川秀忠b徳川家綱c徳川綱吉
 6a徳川秀忠b徳川綱吉c徳川家綱」

(答:6)〉

 

〈2016早大・文化構想

 江戸時代になると、将車綱吉の時、上野忍ヶ岡にあった林家の孔子廟と私塾が神田湯島に移され、いわゆる湯島聖堂と学問所が発足した。そして、[ F ]が大学[ B ]に任命され、以後、この職は林家の世襲となる。古代の大学[ B ]は、ここに、再び注目されるようになった。

問2 空欄Bに該当する語句はどれか。1つ選べ。


 ア卿 イ頭 ウ正 エ帥 オ督


問11 空欄Fに該当する人物は誰か。1つ選べ。


 ア林羅山 イ林鳶峰 ウ林鳳岡
 エ林子平 オ林述斎」


(答:2Bイ、Fウ※「岡」を意識。)


〈2016慶大・法

 17世紀への転換期、冷泉家の出身で、京都相国寺の禅僧となり朱子学を学んだ儒学者は、慶長の役の際に連行された朝鮮王朝の文臣である[ 30 ]と交流を結び、その学問を体系化して京学派を形成した。その門人には、徳川家康に仕えた林羅山や、私塾・春秋館などを建てた[ 31 ]がいる。さらに、[ 31 ]に学び、加賀の前田氏に仕えた後、[ 32 ]の侍講をつとめ、『武徳大成記』の編纂にも携わった儒学者のもとからは、多くの優れた門人が輩出された。」

(答:30姜沆(きようこう)、31.松永尺五、32徳川綱吉 ※尺五(しゃくご、せきご)。問題とされている儒学者は木下順庵)〉

 

〈2016上智大・法済総人

 1681年( ア )が生母桂昌院の願いにより、僧亮賢を招き開山させた護国寺は、江戸時代には将軍家の祈願寺であった。

問1 空欄( ア )に当てはまるもっとも適切な人物は誰か。次の中から1人選びなさい。


 1徳川家綱 2徳川家宣 3徳川家光

 4徳川家継 5徳川吉宗 6徳川綱吉」

(答:6)〉


〈2014立教大・現心コミュ福営

問1.この人物(徳川綱吉)は、林家が上野忍ヶ岡に設けた孔子廟と私塾を別の場所へ移した。その移転先はどれか。次のa~dから1つ選べ。

 a.浅草 b.蔵前
 c.深川 d.湯島」


(答:d)〉

〈2013慶大・文:「
 江戸幕府第5代将軍の徳川綱吉は儒教を重んじ、湯島聖堂を建てて( A )を大学頭に任じた。綱吉は仏教にも帰依して生類憐みの令を出す」

(答:林信篤(鳳岡))〉

〈2012立大・経済法異文化コミ:「
 これ(徳川綱吉の社寺造営)に該当するのはどれか。次のa~dから1つ選べ。


 a.寛永寺(江戸)b.神田明神(江戸)

 c.総持寺(相州)d.東照宮(日光))」

(答:a寛永寺)〉


〈2013早大・文:「
 1680年代には幕府に天文方が設置された。これは、渋川春海が平安以来の[ B ]の誤りを修正した貞享暦を作ったことに端を発していた。また和歌の研究や詠歌を担当する歌学方も設けられ、『源氏物語湖月抄』の著者、[ C ]が初代歌学方に任じられた。


問 空欄Bに該当する暦(漢字3字)を、Cに該当する人名(漢字4字)を記入しなさい。」


(答:B宣明暦、C北村季吟)〉


〈2013慶大・経済:「

問2 下線部A大名統制の基本法として武家諸法度を定めたに関連して、以下の(1)に答えなさい。

(1)次の武家諸法度(抜粋)が出されたのはどの将軍の時期か。下の1~4から選びなさい。


 一、文武忠孝を励し、礼儀を正すべき事

 一、参勤交替の儀、毎歳所定の時節を守り、従者の員数繁多に及ぶべからざる事
 一、人馬兵具など、分限に応じあい嗜むべき事
              [資料出所〕『御触書寛保集成』


 1家綱 2家光 3綱吉 4秀忠」


(答:3)〉

 

大学生徒午後うたて 金利3万大丈夫?

(徳川綱吉)(大学頭(だいがくのかみ)・湯島聖堂)(護国寺・学方・文方)


3万石)(禁裏御料(きんりごりよう))(大嘗会(だいじようえ))



[ポイント]

1.綱吉は、大嘗会を復興させたり、禁裏御料3万石に増やした。

[解説]

1.徳川綱吉は、礼儀によって秩序を維持するうえからも、これまでの天皇・朝廷に対する政策を改めて、朝廷儀式のうちいくつかを復興させたり、天皇家の領地である禁裏御料もふやした。すなわち、初代家康が禁裏御料を1万石とし、2代目秀忠2万石に加増、そして5代目綱吉が1万石増やし計3万石とした。

2.1687(貞享4)年に大嘗会大嘗祭)が221年ぶりに、1694(元禄7)年に賀茂葵祭が192年ぶりに再興された。これ以後も朝廷儀式は徐々に再興されていった。大嘗祭は(おおにえのまつり)とも読み、天皇即位後最初の新嘗祭(にいなめさい)(稲の収穫を祝い、来年の豊作を祈願する祭儀。現在は勤労感謝の日)。天皇一世一代の大祭で、室町時代以後断絶していた。


3.この時期、勅使の幕府下向の儀式もいっそう重視された。その勅使接待役に指名された赤穂藩主浅野長矩(ながのり)が、1701(元禄14)年江戸城中で、朝廷関係の儀礼を管掌する旗本(高家(こうけ)という)の吉良義央(きらよしなか)を傷つけ、翌年浅野家の遺臣たちが吉良を討った赤穂(あこう)事件がおきた。

 

〈2013早大・文

 天皇や公家は長い戦国の世を経て経済的基盤を失い、朝廷の祭祀も十分に行うことができないほど疲弊していた。禁裏御料は家康のときに約1万石、その後、5代将軍徳川綱吉のときに約3万石となった。公家も幕府から知行を与えられ、寛文印知で九条家は2000石余り、近衛家は1800石弱の知行高を受け取っていた。しかし、多くの公家は数百石以下にとどまり、蹴鞠や和歌の伝授などそれぞれの家業に励まなければならなかった。即位儀礼のひとつである[ A ]祭は、将軍綱吉の治世下で221年ぶりに行われたが、幕府の援助があって実現したものである。

 綱吉政権期の幕府は禁裏御料を増献し、山陵を修理し、朝儀を復興させる一方、これまで朝廷が担ってきた暦の作成や和歌の研究にも関心をもちはじめたのである。勅使接待役の赤穂藩主浅野内匠頭が、江戸城松の廊下でe吉良上野介に斬りつけた刃傷事件は、家康とは異なる朝廷政策を実施していた将軍綱吉にとって、青天の霹靂とも言える出来事だった。

 

問5 空欄Aに該当する言葉を、漢字2字で記述解答欄紙の解答欄に記入しなさい。

問8 下線部e吉良上野介は幕府の儀礼をつかさどり、朝廷へ使節としておもむき、勅使を接待するなどの役目を負っていた。その職名を漢字2字で記述解答欄紙の解答欄に記入しなさい。」


(答:5大嘗、8高家※「こうのすけ」)〉

〈2013慶大・文:「
 綱吉期の朝幕関係は( C )などの朝儀の復興や約1万石の( D )の進献に見られるように融和的であった」

(答:C大嘗祭・D禁裏御料)〉



受験 ブログランキングへ


日本史 ブログランキングへ


1665(寛文5)年 〈諸宗寺院法度・諸社禰宜神主法度〉★

2016-10-30 | 『新日本史頻出年代暗記』

 

 

 

 

●江戸時代(霊元天皇 徳川家綱)

Shoshu-jiin and Shoshanegihatto were enacted.

一路露骨な 諸宗諸社。

     1665年     家綱   諸宗寺院法度 諸社禰宜神主法度

 江戸時代になると、幕府は、信仰を禁じられたキリスト教や不受不施派の徹底した弾圧を目的として、民衆を檀那寺である寺院に檀家として所属させ、その証明として寺請証文を発行させる制度を整えていった(寺請制度)。また幕府は、寺院や僧侶、神社や神職に対する統制も強め、将軍家綱の代になると、諸宗寺院法度を出して宗派ごとに本山・末寺の地位を保障して末寺を組織させ、その統制力のいっそうの強化をはかった。また諸社禰宜神主法を制定して統制を加え、公家の吉田家を本所として統轄させた。


[ポイント]

1.幕府は寺檀制度をもうけ、さらに1665年には諸宗寺院法度を出し本末制度をつくった。

[解説]

1.幕府の禁じたキリスト教や日蓮宗不受不施派(ふじゅふせは)を信仰させないために、武士神職もだれもが檀那寺檀家になって(寺檀制度)、寺請証明を受けた(寺請制度の方が通りがよい)。

2.不受不施派日奥(1565~1630)を祖とする日蓮宗の一派で、法華を信じないものの施しを受けず、また施しをせずとする、幕府権力よりも宗教が優越するという信仰を持っていた。


3.1601~16年に旧仏教系の各宗大寺院ごとに統制令を出していた(金地院崇伝起草。これを総称して諸宗諸本山法度あるいは寺院法度という)。家綱代の1665(寛文5)には各宗派共通の統制法規として諸宗寺院法度を出した。宗派ごとに本山本寺の地位を保障して末寺を組織させた(本末制度)もの。


4.皇子や宮家・摂家(せつけ)の子弟が入寺する寺を門跡寺院と言うが、この門跡寺院の多くが仏教諸宗の本山でもあったので、門跡を朝廷の一員とみなして統制した。


5.新たに17世紀半ばに、明僧隠元隆琦(いんげんりゆうき)が禅宗の一派である黄檗宗(おうばくしゅう)を伝えた。

〈2016早大・人間科学:「
問1 下線部a17世紀代に発令されたI~Ⅲを時期の古い順で並べたとき、正しい組み合わせはどれか、1つ選べ。

 Ⅰ田畑永代売買の禁令
 Ⅱ分地制限令
 Ⅲ諸宗寺院法度


 アI→Ⅱ→Ⅲ イⅠ→Ⅲ→Ⅱ
 ウⅡ→Ⅰ→Ⅲ エⅡ→Ⅲ→I
 オⅢ→Ⅰ→Ⅱ カⅢ→Ⅱ→Ⅰ


(答:イ ※Ⅰは1643年、Ⅱは1673年、Ⅲは1665年)〉

〈2013慶大・法

 江戸時代になると、幕府は、信仰を禁じられたキリスト教や[ 1 ]の徹底した弾圧を目的として、民衆を檀那寺である寺院に檀家として所属させ、その証明として寺請証文を発行させる制度を整えていった。(中略)また幕府は、寺院や僧侶、神社や神職に対する統制も強め、将軍[ 2 ]の代になると、諸宗寺院法度や諸社禰宜神主法度を出して、その統制力のいっそうの強化をはかった。」

(答:1不受布施派(ふじゆふせは)、2家綱 ※原問には78語の選択肢あり)〉

〈2013早大・国際教養:「
問9 下線部hの人物金地院崇伝に関して、この人物が制定に関連していない法令はどれか。1つ選んで、マーク解答欄紙の該当記号を選べ。

 ア 武家諸法度

 イ 分地制限令
 ウ 禁中並公家諸法度
 エ 諸宗諸本山法度
 オ キリスト教禁教令

(答:イ×1673年発令、※金地院崇伝(1569~1633)、ア・ウは1615年、エは1601~16年で成立)

〈2013立命館・文法済営などA方式

問h 下線部8宗旨証文ヲ集テ、人別帳ヲ編立ル事ニ成に関連して、江戸時代の寺請制度について説明した文章として、適当でないものを下から一つ選べ。

 あ.「宗旨人別帳」は当初幕領で作成され、のちに諸藩でも作成された。

 い 婚姻・奉公・旅行の際には、身元証明書となる寺請証文が檀那寺から発行された。
 う これによって、仏教以外の宗教がすべて禁圧されることになった。
 え 人々は強制的にいずれかの寺院の檀家となり、檀那寺と檀家の関係は固定されることとなった。

(答:う)〉

〈2012京都府立大学前期

問 不受不施派について説明せよ。」

(解答例:日奥を祖とする日蓮宗の一派。法華経を信じない者からは施しは受けず、施しもしないとする教義。これは幕府権力よりも宗教が優越するという信仰であったため、幕府はこれを異端とみなして弾圧した。(94字))

[ポイント]

1.幕府は、1665年諸社禰宜神主法度を制定し、吉田家に統轄させた。

[解説]

1.江戸幕府は、仏教以外の神道修験道陰陽道(おんみょうどう)なども仏教に準じて容認した。寺壇制度寺請制度)により、武士神職も含めだれもが檀那寺の檀家になって、寺請証明を受けねばならなかった。

2.神社・神職に対しては、将軍家綱代の1665(寛文5)、(諸宗寺院法度と同時に)諸社禰宜神主法度を制定して統制を加え、公家の吉田家を本所として統轄させた。


〈2016早大・商

問E  江戸時代の下線部ホ吉田神道と吉田家に関する説明で、正しいものはどれか。

 1.吉田神道は両部神道として大成された。

 2.諸社禰宜神主法度は、吉田家による神職の組織化を促進した。
 3.吉田神道は本地垂迹説を唱えた。
 4.吉田家を神職の本所と定めた諸社禰宜神主法度は、朝廷から発布された。
 5.吉田神道は仏教や儒教とは習合しなかった。」

(答:2 ※1×両部神道→唯一神道、3×反本地垂迹説、4江戸幕府)〉


〈2015関西大・文商法など

 既存の宗教勢力に対しては寛文5年(1665)、諸宗寺院法度や諸社禰宜神主法度などの法令を出すなどして統制を強めた。仏教寺院に対しては、本山と末寺を分離して、前者に後者を統制させた。神職については、公家の(10){(ア)近衛(イ)九条(ウ)吉田}家を本所として統制させた。さらに、キリシタン禁制を受けて宗門改がおこなわれた。」

(答:ウ)〉


〈2014早大・教育

問6 江戸時代の下線部b神事仏事の説明で正しいものはどれか。

 ア 檀那寺の行事ではない宗教行事に参加する者はいなかった。

 イ 幕末に登場した民衆宗教は、おもに仏教系の宗教活動であった。
 ウ 天皇や将軍の宗教活動は、もっぱら神社信仰であった。
 エ 修験者・陰陽師の祈躊や占いは人びとの頼りにされた。
 オ 神職は寺請けの宗門改を免除された。」

(答:エ〇仏教では満たされなかったものを満たした ※イ×神道系、ウ×仏教信仰も盛ん、オ×神職も例外ではない)〉

 

 


[ポイント]

1.家綱代の幕府は、末期養子の禁を緩和殉死(じゅんし)を禁止諸社禰宜神主法度諸宗寺院法度を出し、寛文印知(かんぶんいんち)を行い、明暦の大火があった。

[解説]

1.1651(慶安4)年に3代将軍徳川家光が死去し、子の徳川家綱(位1651~80)が11歳で4代将軍になった。すでに幕府機構は整備され、会津藩主で叔父の保科正之(ほしなまさゆき)(後半は大老酒井忠清)をはじめ譜代大名も補佐し、社会秩序が安定しつつあった。

2.平和が続く中で重要な政治課題となったのは、大名改易により数多く発生し戦乱を待望する牢人や、秩序におさまらない「かぶき者」の対策であった。1651年に兵学者由井(比)正雪の乱(慶安の変)がおこると、幕府は大名の末期養子の禁止を緩和し、牢人の増加を防いだ。すなわち跡継ぎのいない大名が死にのぞんで(末期)、急に相続人(養子)を願い出る末期養子は、ほとんど認められていなかった(末期養子の禁止)が、この時から、50歳未満の大名に認められた。一方、江戸に住む牢人とともにかぶき者の取締りを強化した。


3.1663(寛文3)年、成人した家綱は代がわりの武家諸法度を発布し、あわせて殉死の禁止を命じ、主人の死後は殉死することなく、跡継ぎの新しい主人に奉公することを義務づけた。将軍と大名、大名と家臣の関係において、主人の家は代々主人であり続け、従者は主人個人ではなく主家に奉公する主従の関係を明示した。この結果、下剋上はあり得なくなった。


4.翌年には、すべての大名に対しいっせいに、主君がその領地を認める文書である領知宛行状(りょうちあてがいじょう)を発給して将軍の権威を確認(寛文引知)し、また幕領のいっせい検地をおこなって幕府の財政収入の安定もはかった。


5.1665(寛文5)年、諸宗寺院法度諸社禰宜神主法度などの法令を出すなどして統制を強めた。


6.家綱の代、1657年、江戸明暦の大火がおきている。

 

〈2016同志社大・全学部

 3代将軍家光の死後は、松平信綱らが中心となって4代将軍家綱を支えた。1651年の由井正雪の乱や、1657年の( ウ )の大火を乗り越えて、冪政の安定がはかられた。

【設問ウ】空欄( ウ )には、振袖火事とも呼ばれるこの大火の起こった年号が入る。これにあてはまるものを次のうちから1つ選べ。


 1.明徳 2.明暦 3.明応 4.明和


(答:ウ.2)


〈2016早大・国際教養

問9 下線部f親藩・譜代大名に関する説明として、誤っているものはどれか。1つ選べ。

 ア 水戸藩主の徳川光圀は、彰考館で『大日本史』を編纂させた。

 イ 譜代大名は三河時代以来の徳川家の家臣であった。
 ウ 徳川家康の子であった義直は名古屋城を居城とした。
 エ 会津藩主の保科正之は、陽明学に基づく藩政によって名君と呼ばれた。
 オ 下馬将軍と呼ばれた酒井忠清は、将軍家綱のもとで権勢を振るった。」

(答:エ保科正之は朱子学を藩学として奨励)〉


〈2014立大・文

 4代将軍家綱が将軍在位中に幕府が行ったことはどれか。次のa~dから1つ選べ。 

 a.正徳小判などの貨幣を発行した
 b、生類憐れみの令を発した
 c.足高の制を設けた
 d.末期養子の禁止を緩和し、牢人の増加を防いだ」

(答:d ※a×6代家宣7代家継のときの新井白石による正徳の治で、b×5代綱吉の発令、c×8代吉宗の享保の改革時の政策)〉


〈2016早大・文

   こうした石高制による支配方式は江戸幕府に引き継がれた。将軍は大名に1万石以上の知行を与え、軍役を負担させた。また、b.領地を没収したり、減俸や国替えを行って、大名を統制した。c.寛文年間になると、将軍はすべての大名に一斉に知行を与える文書を発給し、将軍家と大名家という家の関係を強調した。幕府は江戸時代を通じて4回、大名から国単位に国絵図・[ C ]を提出させた。このように石高制は全国的に施行されたが、d異国・異域と境を接する地域には領地の石高表示がない「無高」大名がいた。

問4 下線bの処分を何というか。あてはまる語句を漢字2字で記述しなさい。


問5 下線c.の時代に実施された政策として正しいものを1つ選べ。


 ア 朝鮮より回答兼刷還使が派遣されるようになった。

 イ 金銀貨幣を改鋳し、品質を落として差益を幕府の収入とした。
 ウ 島原・天草一揆を鎮圧し、キリスト教の信仰を弾圧した。
 エ 殉死を禁じ、跡を継いだ新しい主君に引き続き奉公させた。
 オ 幕府は歌学方を設置し、北村季吟を登用した。

問6 空欄Cにあてはまる語句を漢字2字で記述しなさい。


問7 下線dに関する説明として正しいものを1つ選べ。


 ア 松前氏は箱館に来航する山丹人と交易を行った。

 イ 対馬藩は朝鮮に渡航し、倭館で貿易を行った。
 ウ 平戸藩の松浦氏は隔年交代で長崎警備を行った。               
 エ 鍋島氏の所領である長崎に唐人屋敷が設けられた。
 オ 薩摩藩は琉球を通じて東南アジアと貿易を行った。」

(答:問4改易、問5エ、問6郷帳、問7イ ※寛文年間の将軍は家綱)〉

 

〈2015立命館大・全学部

 下線部2)保科正之に関連して、保科正之は4代将軍徳川家綱を補佐して儒教的理想を政治に反映させようとしたことで有名である。とりわけ、寛文武家諸法度発布に際して、ある事柄が禁止されたことには保科の強い勧めがあったといわれている。禁止された事柄は何か。漢字2文字で答えよ。」

(答:殉死(追腹))〉


〈2013明大・文

 江戸幕府の支配の体制は3代将軍家光の時に確立した。家光を継いだ子の家綱は1651年(慶安4)4月に11才で将軍になったので、幼少な家網は叔父にあたる[ a ]・老中の松平信綱らの家門や譜代大名によって支えられた。戦乱の気風が鎮まり、平和が続くなかで政治課題となったのは、牢人や社会秩序を乱す無頼の(ア)「かぶき者」への対策であった。同年7月慶安事件がおこると、幕府は(イ)末期養子の禁止を緩和し、大名の改易を減らし、牢人の増加を防ぐ一方、「かぶき者」の取り締まりをいちだんと強化した。成人した家綱は、1663年(寛文3)5月武家諸法度を発布し、新たに[ b ]の禁止を命じている。家綱が将軍であった時期の幕政は、武断政治から文治政治への転換期とじて捉えられている。

 

問1 空欄aは会津藩主でもある。空欄aに入る人名として正しいものを、次の1~4のうちから一つ選べ。

 1前田網紀 2池田光政 3保科正之 4堀田正俊


問2 下線部(ア)「かぶき者」には旗本奴と町奴がいる。のちに芝居の主役にもなった町奴の頭領の人名として正しいものを、次の1~4のうちから一つ選べ。


 1丸橋忠弥 2奈良屋茂左衛門
 3幡随院長兵衛 4戸次(別木)庄左衛門


問3 下線部(イ)末期養子の同じ意味内容の語として正しいものを、次の1~4のうちから一つ選べ。


 1嫡子単独相続 2長子単独相続 3別家 4急養子


問4 空欄bに入るべき語として正しいものを、次の1~4のうちから一つ選べ。


 1殉死 2私の婚姻 3居城修補 4群飲佚遊」


(答:問1→3、問2→3、問3→4、問4→1)



1673(延宝元)年 〈分地制限令〉★

2016-10-17 | 『新日本史頻出年代暗記』

 

 

 

  

●江戸時代(霊元天皇 徳川家綱)

 

Restriction of the land order is promulgated.

色んな身分 分かつなと。 

1673年  分地制限令 徳川家綱

 4代将軍家綱の1673年、分割相続による耕地の細分化をおさえるため、分割相続の制限令である分地制限令が出された。名主は 20石以上、一般百姓は 10石以上での所持で分割が認められた。たが,その後いくぶん変化があり、明治維新後廃止された。

 

1.分地前10石あればよいから、分地後10石あることが要件になった。

[解説]
1.分地制限令1673年のときは、分割前に「名主二十石、百姓は十石以上」を持っていない農民の分割(分地)相続を禁止した。


2.幕府は1713年の改正で、分割後も「名主二十石、百姓は十石以上」あることと制限を強化した。


3.西日本での干ばつと虫害、東日本での長雨と冷害による寛永の大飢饉(1641~42)は幕藩体制を揺るがすような衝撃を幕府に与えた。このため幕府は、その2年後に田畑永代売買禁令および木綿と菜種の作付制限令を出している。各農民統制法規の目的は、全て本百姓体制を維持し、年貢を確保するため。すなわち田畑の売買を禁止して土地喪失を防止し(田畑永代売買禁令)、商品作物栽培を禁止して貨幣経済浸透による階層分化を防ぎ(田畑勝手作の禁)、分割相続による農民の零細没落化を防止し(分地制限令)、さらには贅沢(ぜいたく)を禁止するなど生活全般への規制を加えていった。


〈2013成城大学・経済

 幕府の財政収入は、直轄領〔幕領〕からあがる年貢のほか、佐渡・伊豆などの主要鉱山から得られる収入が中心を占めていた。幕府は百姓の小経営を安定きせ、年貢・諸役の徴収を確実にするため、1643年に[ 1 ]、1673年には分割相続による田畑の細分化を防ぐために[ 2 ]を出すなどした。」

(答:1田畑永代売買の禁令、2分地制限令 ※原問には選択肢が34語あり)〉

 

【ベック式!日本文化史ゴロ合わせ暗記術】

【ベック式!魔法の日本史実況中継 (古代編)】 

【ベック式!魔法の日本史実況中継 (中世編)】

【ベック式!魔法の日本史実況中継 (近世編)】 

【ベック式!魔法の日本史実況中継 (近・現代編)】

にほんブログ村 受験ブログへ

受験 ブログランキングへ


日本史 ブログランキングへ

世界史 ブログランキングへ