■メイン写真
八柱神社の裏手の小ピークに、忘れ去られたように役行者像がある
■今回のコース
滝坂の道入口→首切り地蔵→石切峠→八柱神社→芳山→二尊石仏→梵字石→中ノ川石仏群→
護摩石→牛塚十三重石塔→青山住宅バス停
奈良の春日山原生林・高円山一帯の山域のすぐ東側に残る、修験道の痕跡や
素朴な石仏たち。先日、下見を済ませ、今回ガイドしてきた。
朝方まで冷たい雨が降っていたので、安全を考慮し、スタートを滝坂の道(旧柳生街道)に
変更した。こっちは安全な遊歩道だ。
滝坂の道入口まではタクシーで行けば却ってワリカンで安くつく。
滝坂の道にも、石仏が多くみられる。
寝仏。もとは路傍の斜面にあった摩崖仏と考えられるが、いつの間にか落石により
道に転がってしまった。作られたのは室町時代初期とも鎌倉時代とも言われ、
大日如来のレリーフとなっている。
夕陽観音。夕日が当たると美しく映えるという。鎌倉時代の弥勒磨崖仏で身長1.6mだ。
朝日観音。東に面しており、朝日に映える。真ん中に弥勒菩薩、左右に地蔵菩薩が
控える三尊仏だ。
途中にはスギやモミの大木がたくさん見られる。大いなるパワーを感じる。
滝坂の道の出口に当たる三叉路に首切り地蔵が立つ。鎌倉時代の作。
首のところで割れているが、これは柳生新陰流の剣豪・荒木又右衛門が試し斬りしたためという。
石切峠を越えたところにある峠の茶屋。閉店説も流れていたが、この日は営業していた。
お店のおじいさんに聞いてみると、ずっと開けているよとのこと。
休憩を勧められたが、先の行程が長いのでこの日はパス。
300mほど進むと、右手に公衆トイレがあり、道路の向かいには八柱神社がある。
神社の裏手から、明瞭な道はないものの尾根を目指して急坂を登ると、
小ピークに役行者像をみる。今回改めて台座に刻まれた文字を見ると、
「宝暦」と「誓多林」の文字が確認できた。
宝暦年間というと江戸時代で、9代将軍家重、10代家治の頃だ。
あと大岡忠相が亡くなり、松平定信が生まれたのも宝暦年間だ。
280年も経っているうえ、このように放置されているのに、じつにきれいに残っている。
道がなくなっている尾根筋は、先日の下見で、あるていど枝を払っておいたので、
少しは歩きやすくなっていたが、それでも倒木をよけたり、探検モードは変わらない。
しばらくすると、石切峠から芳山へ通じる登山道と合流する。
芳山の山頂に到着。ここだけ岩が散らばった、落ち着いた山頂だ。
それにしても尾根道に出てからは風が冷たくて寒い。
二尊石仏に寄り道する。ちょっとした平坦地になっており、風が当たらないので、
ここでランチタイムとした。
フェンス沿いの山道を北へ進み、林道に出る。4つ辻を北にとり、眺めが開けた茶畑に出る。
足元は落ち葉が深く積もっている。フワフワで心地いい。
突然、路傍に身長を超える高さの岩が見える。梵字石だ。
梵字は、神仏を一字で現す文字であり、ここに掘られたキリークという文字は阿弥陀如来を
指すという。
国道369号線に出て、100mほど西へ。ピンクテープを目印に再び山に入る。
ぼろぼろと崩れかけた斜面を登るところが今回唯一、緊張する場面だ。
ほどなく小ピークに出ると、首のない役行者像が待っている。
廃仏毀釈・修験禁止令で破壊されたのか。修験道にまつわる歴史がしのばれる。
ソーラー発電所の上部から眺めを楽しんで、再び国道369号線に出る。
国道を渡るとすぐ、中ノ川石仏群に着く。経塔石から地蔵、古い墓石まで
雑多に集められている。
「中の川」のバス停前には、中ノ川の辻の地蔵石仏がある。室町時代の作。
吉川妙管道場(白龍山)の役行者像は、少しふくよかでやさしい。
三社神社の左側の道から獣除けゲートを開けて林道を進むと、かなり豪華な五輪塔が
たたずむ中ノ川の共同墓地に出る。
ここを抜けて、分岐を左にとると、石橋が落ちた小川を渡渉し、ちょっとした坂を
登り切ると、護摩石への道が右に分岐する。
300mほど行ったところに護摩石があるが、もちろん修験の護摩は石の上で焚くものでは
ない。護摩石の正体は宝塔の基台ではないかとの説明板がある。
さきほどの分岐に戻り、さらに数分進むと、牛塚に着く。
牛塚には、上の数段の石が欠損した十三重石塔がある。
「鎌倉時代、南都復興のための資材を運んだ牛を供養するために建てられた」とも、
「東大寺の大仏建立の際、工事の安全を願って丑寅北東の方向(鬼門)に建てた塔」
ともいわれる。
塔の直下にある祠には、首のない石仏が。1980年代に首だけが盗まれてしまったそうだ。
たくさんの石仏を見つけながら歩いてきた山旅もこれで終盤。
幅広の未舗装林道を西へ、ならやま浄苑に出て、緑ヶ丘浄水場の前を通って
青山住宅バス停へと下った。
ところで道中の某所でナメコをみつけた。こんな低い標高の場所でもあるもんだなと驚いた。
八柱神社の裏手の小ピークに、忘れ去られたように役行者像がある
■今回のコース
滝坂の道入口→首切り地蔵→石切峠→八柱神社→芳山→二尊石仏→梵字石→中ノ川石仏群→
護摩石→牛塚十三重石塔→青山住宅バス停
奈良の春日山原生林・高円山一帯の山域のすぐ東側に残る、修験道の痕跡や
素朴な石仏たち。先日、下見を済ませ、今回ガイドしてきた。
朝方まで冷たい雨が降っていたので、安全を考慮し、スタートを滝坂の道(旧柳生街道)に
変更した。こっちは安全な遊歩道だ。
滝坂の道入口まではタクシーで行けば却ってワリカンで安くつく。
滝坂の道にも、石仏が多くみられる。
寝仏。もとは路傍の斜面にあった摩崖仏と考えられるが、いつの間にか落石により
道に転がってしまった。作られたのは室町時代初期とも鎌倉時代とも言われ、
大日如来のレリーフとなっている。
夕陽観音。夕日が当たると美しく映えるという。鎌倉時代の弥勒磨崖仏で身長1.6mだ。
朝日観音。東に面しており、朝日に映える。真ん中に弥勒菩薩、左右に地蔵菩薩が
控える三尊仏だ。
途中にはスギやモミの大木がたくさん見られる。大いなるパワーを感じる。
滝坂の道の出口に当たる三叉路に首切り地蔵が立つ。鎌倉時代の作。
首のところで割れているが、これは柳生新陰流の剣豪・荒木又右衛門が試し斬りしたためという。
石切峠を越えたところにある峠の茶屋。閉店説も流れていたが、この日は営業していた。
お店のおじいさんに聞いてみると、ずっと開けているよとのこと。
休憩を勧められたが、先の行程が長いのでこの日はパス。
300mほど進むと、右手に公衆トイレがあり、道路の向かいには八柱神社がある。
神社の裏手から、明瞭な道はないものの尾根を目指して急坂を登ると、
小ピークに役行者像をみる。今回改めて台座に刻まれた文字を見ると、
「宝暦」と「誓多林」の文字が確認できた。
宝暦年間というと江戸時代で、9代将軍家重、10代家治の頃だ。
あと大岡忠相が亡くなり、松平定信が生まれたのも宝暦年間だ。
280年も経っているうえ、このように放置されているのに、じつにきれいに残っている。
道がなくなっている尾根筋は、先日の下見で、あるていど枝を払っておいたので、
少しは歩きやすくなっていたが、それでも倒木をよけたり、探検モードは変わらない。
しばらくすると、石切峠から芳山へ通じる登山道と合流する。
芳山の山頂に到着。ここだけ岩が散らばった、落ち着いた山頂だ。
それにしても尾根道に出てからは風が冷たくて寒い。
二尊石仏に寄り道する。ちょっとした平坦地になっており、風が当たらないので、
ここでランチタイムとした。
フェンス沿いの山道を北へ進み、林道に出る。4つ辻を北にとり、眺めが開けた茶畑に出る。
足元は落ち葉が深く積もっている。フワフワで心地いい。
突然、路傍に身長を超える高さの岩が見える。梵字石だ。
梵字は、神仏を一字で現す文字であり、ここに掘られたキリークという文字は阿弥陀如来を
指すという。
国道369号線に出て、100mほど西へ。ピンクテープを目印に再び山に入る。
ぼろぼろと崩れかけた斜面を登るところが今回唯一、緊張する場面だ。
ほどなく小ピークに出ると、首のない役行者像が待っている。
廃仏毀釈・修験禁止令で破壊されたのか。修験道にまつわる歴史がしのばれる。
ソーラー発電所の上部から眺めを楽しんで、再び国道369号線に出る。
国道を渡るとすぐ、中ノ川石仏群に着く。経塔石から地蔵、古い墓石まで
雑多に集められている。
「中の川」のバス停前には、中ノ川の辻の地蔵石仏がある。室町時代の作。
吉川妙管道場(白龍山)の役行者像は、少しふくよかでやさしい。
三社神社の左側の道から獣除けゲートを開けて林道を進むと、かなり豪華な五輪塔が
たたずむ中ノ川の共同墓地に出る。
ここを抜けて、分岐を左にとると、石橋が落ちた小川を渡渉し、ちょっとした坂を
登り切ると、護摩石への道が右に分岐する。
300mほど行ったところに護摩石があるが、もちろん修験の護摩は石の上で焚くものでは
ない。護摩石の正体は宝塔の基台ではないかとの説明板がある。
さきほどの分岐に戻り、さらに数分進むと、牛塚に着く。
牛塚には、上の数段の石が欠損した十三重石塔がある。
「鎌倉時代、南都復興のための資材を運んだ牛を供養するために建てられた」とも、
「東大寺の大仏建立の際、工事の安全を願って丑寅北東の方向(鬼門)に建てた塔」
ともいわれる。
塔の直下にある祠には、首のない石仏が。1980年代に首だけが盗まれてしまったそうだ。
たくさんの石仏を見つけながら歩いてきた山旅もこれで終盤。
幅広の未舗装林道を西へ、ならやま浄苑に出て、緑ヶ丘浄水場の前を通って
青山住宅バス停へと下った。
ところで道中の某所でナメコをみつけた。こんな低い標高の場所でもあるもんだなと驚いた。