江戸の六上水と呼ばれる上水道のうち、玉川上水の分水は3本あります。
上流から順に千川上水、三田上水は、「玉川上水を歩く」で紹介しました。
もう1本の青山上水は、分水というより、四谷大木戸の下流の配水設備のうち
最大の幹線を青山上水として運用したと考えても、強ち間違いではないような
そんな分水の上水道でした。
江戸市中のうち、青山・赤坂・麻布・飯倉から芝へ給水していましたが
享保七年(1722)に廃止されました。
明治時代に麻布水道として一時期復活したため、その遺構の一部は
現在でも新宿御苑東縁などで目にする事ができます。
この新宿御苑の遺構は、渋谷川の最上流でもあり、大京町交番前の交差点付近で
渋谷川と青山上水に分かれて、上水は一旦左門町あたりまで北上したのち
再び南下し信濃町から権田原を通り青山方面へ給水していました。
(新宿御苑東縁の流路跡)
(権田原。左側は赤坂御用地)
上流から順に千川上水、三田上水は、「玉川上水を歩く」で紹介しました。
もう1本の青山上水は、分水というより、四谷大木戸の下流の配水設備のうち
最大の幹線を青山上水として運用したと考えても、強ち間違いではないような
そんな分水の上水道でした。
江戸市中のうち、青山・赤坂・麻布・飯倉から芝へ給水していましたが
享保七年(1722)に廃止されました。
明治時代に麻布水道として一時期復活したため、その遺構の一部は
現在でも新宿御苑東縁などで目にする事ができます。
この新宿御苑の遺構は、渋谷川の最上流でもあり、大京町交番前の交差点付近で
渋谷川と青山上水に分かれて、上水は一旦左門町あたりまで北上したのち
再び南下し信濃町から権田原を通り青山方面へ給水していました。
(新宿御苑東縁の流路跡)
(権田原。左側は赤坂御用地)