ボクは、
「なんて幸せ者なのだろう」
と、つくづく思うことが多々ある。
その中の大きなことは、
子供(3人)がいて、
孫(3人)までいるということだ。
先日、大阪に住む長女に双子の孫が生まれた。
男の子と女の子の二卵性双生児だ。
初孫娘の二歳の誕生日に生まれた。
めでたさが重なる。
こうなると、ますます未来が気になる。
子供たち、
そして、孫達の時代がどうなっているか、
ということだ。
つまり、20年後、
あるいは、それ以降から50年後に思いは及ぶ。
20年後、
自分がこの世にいない確率は高い。
50年後は、確実にいない。
だが子どもたちは存命しているであろうし、
ましてや、孫たちの時代でもある。
こうしてボクの生きざまを見せることで、
少しでも生き抜くための参考 (良いも悪いも) になればと思っている。
何も、閉そく感の漂う日本だけで考える必要はないし、
考えるべきではない。
すでに世界規模、地球規模、
そして宇宙規模で考えて、判断し、行動する時代だ。
細かいことに拘っているヒマはない。
「長期的」 に、
「多角的」 に、
そして、
「根本的」 に物事を考えなければならない。
未来を背負う子孫のために。
【余談】
今朝の天声人語にあった。
愛する者の曇り顔を想像し、漠然とした将来への不安が像を結ぶことがある。
〈君が年ごろといはれる頃には/も少しいい日本だったらいいが/なにしろいまの日本といったら/あんぽんたんとくるまばかりだ〉
▼詩人の金子光晴が孫娘に詠んだ「森の若葉」の一節である。
交通戦争という言葉が使われていた1967(昭和42)年の作で、車が悪者になっているが、「あんぽんたんとくるま」の部分をいじれば今も通用する
さしづめ、現代に当てはめれば
<あんぽんたんとゲームにアニメ、ケータイにナビ> といったところか。
いつの世も、
気がかりなのは、子や孫の将来である。
「なんて幸せ者なのだろう」
と、つくづく思うことが多々ある。
その中の大きなことは、
子供(3人)がいて、
孫(3人)までいるということだ。
先日、大阪に住む長女に双子の孫が生まれた。
男の子と女の子の二卵性双生児だ。
初孫娘の二歳の誕生日に生まれた。
めでたさが重なる。
こうなると、ますます未来が気になる。
子供たち、
そして、孫達の時代がどうなっているか、
ということだ。
つまり、20年後、
あるいは、それ以降から50年後に思いは及ぶ。
20年後、
自分がこの世にいない確率は高い。
50年後は、確実にいない。
だが子どもたちは存命しているであろうし、
ましてや、孫たちの時代でもある。
こうしてボクの生きざまを見せることで、
少しでも生き抜くための参考 (良いも悪いも) になればと思っている。
何も、閉そく感の漂う日本だけで考える必要はないし、
考えるべきではない。
すでに世界規模、地球規模、
そして宇宙規模で考えて、判断し、行動する時代だ。
細かいことに拘っているヒマはない。
「長期的」 に、
「多角的」 に、
そして、
「根本的」 に物事を考えなければならない。
未来を背負う子孫のために。
【余談】
今朝の天声人語にあった。
愛する者の曇り顔を想像し、漠然とした将来への不安が像を結ぶことがある。
〈君が年ごろといはれる頃には/も少しいい日本だったらいいが/なにしろいまの日本といったら/あんぽんたんとくるまばかりだ〉
▼詩人の金子光晴が孫娘に詠んだ「森の若葉」の一節である。
交通戦争という言葉が使われていた1967(昭和42)年の作で、車が悪者になっているが、「あんぽんたんとくるま」の部分をいじれば今も通用する
さしづめ、現代に当てはめれば
<あんぽんたんとゲームにアニメ、ケータイにナビ> といったところか。
いつの世も、
気がかりなのは、子や孫の将来である。