世界一周タビスト、かじえいせいの『旅が人生の大切なことを教えてくれた』 

世界一周、2度の離婚、事業の失敗、大地震を乗り越え、コロナ禍でもしぶとく生き抜く『老春時代』の処世術

恋多き男の結末

2019年03月16日 | 100の力
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ベストテン内に5つも。



まだまだ伸びている。


これも、

こうして8年間、

毎日欠かさず書き続けている恩恵なのだろう。


それにしても、

やはり、

数あるカテゴリーの中でも「恋話」は強い。

だから敢えて浮名を流す?

(アクセスが上がるから)


ただし今は、

彼女一筋!

そしてこれからもずっとそれは変わらない。


もちろん、不倫じゃないよ。

双方とも正真正銘の独身だからね。

誰から後ろ指を指されることもない。

(今の世の中、けっこう不倫がはびこっている?)


老いても尚「純愛」といってもいいだろう。



ところで、

「老いらくの恋」で有名な

歌人の川田順(1882年(明治15年)- 1966年(昭和41年))は立派な不倫だった。

不倫の模範のような人だった。


「墓場に近き老いらくの 恋は、怖るる何ものもなし」

と彼は詠んだ。


といいながら、

彼は自責の念に駆られ、

自殺未遂を起こしているが。


しかし、紆余曲折を経て、

最後は結ばれ、

84年の生涯、

特に最後の15年間を二人で幸せに過ごしている。

(人生も、「終わり良ければ総て良し」なのだ)


27歳年下の俊子は96歳(2006年逝去)まで生きた。

(57歳の時に夫である川田順が死んで、39年間も生きたことになる)


「60をとうに過ぎ、

不倫と言えど、

死ぬほどの激しい恋をすることは素晴らしきかな」

これはボクの感想。


「吾が髪の白きに恥づるいとまなし溺るるばかり愛(かな)しきものを」(川田順)


老いて尚、

いや、老いたればこそ

自分の地位も名誉も投げ打って

一人の女をこれほど一途に愛しきれるものなのだ。


       (「歌心涸れ、恋に走る」とまで当時の新聞を賑わせている)

今の時代であれば

ワイドショーで引っ張りだこになっているだろう。


だが、これこそまさに男冥利に尽きると言えよう。


ボクも今、そうである。


老いたといっても人生100年時代、

まだまだ先は長い。

むしろこれからが

余生でなく、「本生」なのだ。


つまり、

人生の本番。



川田順は、

50代の妻を失って、傷心の日々を過ごしたことがあったが、

俊子とめぐり合い、生きる情熱をいっそう燃えあがらせたという。


「樫の実のひとり者にて終わらむと思へるときに君現はれぬ」


ボクも全く同じ心境である。


  君が来て今の今まで坐りゐしたたみの上に吾が臥(ね)まろびつ

  別れきてはやも逢ひたくなりにけり東山より月出しかば
 
昭和22年~26年、つまり65歳~69歳に書かれた詩のなかにある「裸身」と題された詩である。


俊子も、こんなふうな歌をうたった。

  はしたなき世の人言をくやしともかなしともなしと思へしが悔なし。


どんなに時代が変わろうと、

今も昔も恋心は変わらないものだ。



人生二毛作、三毛作。

「人は何度でも生まれ変わって生きられる」


いくつになっても恋は美しい。

60代の恋はもっともっとやるべきだと思う。


生きる情熱・愛・恋を

最後まであきらめてはいけない。


独身男性、女性は

もっともっと素敵な恋をしてください!!


ただし、

恋に溺れるのではなく、

恋を覚えるのです。


つまり、

恋(すなわち「情熱」)によってあらゆるものが覚醒される。


なお、

この二人をモデルにした辻井喬(西武セゾン・グループの堤清二)の小説「虹の岬」により

1999年に映画化されている。



【追記】


作家は恋に落ちやすいのか?


一般的に、

クリエイティブな仕事に携わる者は、

恋に落ちやすい。


感受性が強い。

想像力が豊かである。

作風に酔う。

からじゃないかな。


それはそれでいいんじゃないだろうか。


ロマン主義文学が流行って以降、

川田順と同年代で親交があった、

斎藤茂吉、吉井勇、武者小路実篤なども、

年離れた女性と恋愛に落ち、再婚している。


恋への価値観が昂たかまった時代だったのだろう。



小説の中で、川田順の恋愛についてこんな下くだりがある。


「たしかに短歌の作風の問題について川田は迷路に落ち込んでいた。

恋の歌ばかりなこと、それ自体は悪いことではないと思うが、

それが大きな歌へと発展していかないのだ。(中略)


恋の歌が人生全体を歌うという荒野に出ていかない。

恋に殉じようとするなら、指導者のような意識を捨てなければならない。

それは作風の変革に通じている。

そこのところの整理をきちんとせずに一緒になったら、

歌人としての自分に俊子も失望するだろう。


失望するには、あまりにも大きな犠牲を払ったと言うのに。


恋愛は、秘密で個人的なことですが、ますます自分の深水ふかみへ入っていくようで、

ふたりともその淵から逃れられなくなります」



そして、

この小説の最後はこんな下くだりで終わっている。


「もう国の在り方や経済のことには目をつぶっていよう、

国は滅んだのだからと思い定めた時、俊子が現れたのだった。


自分が好きだったのは事実だ。

しかし何故、好きだと言うだけでは説明しきれない力強い力が自分を衝き動かしたのだろう。

まるで、俊子がまだ滅びていない国ででもあるかのように。


それにしても、俊子が従いて来てくれたのは稀有のことだった」



ボクは、

この最後の下りを我がことのように読んだ。


「ボクが日本に見切りをつけ、

単身、旅に出ようとしていたとき、

彼女が現れた。


好きだと言うだけでは説明しきれない力強い力が

自分を衝き動かしたのだろう。

まるで、彼女がまだ滅びていない国ででもあるかのように。

それにしても、彼女が来てくれたのは稀有のことだった」と。


そっくり自分に置き換えてみた。


時代を超えて、

「老いらくの恋」とは、

概ねこんなものなのだろう。