世界一周タビスト、かじえいせいの『旅が人生の大切なことを教えてくれた』 

世界一周、2度の離婚、事業の失敗、大地震を乗り越え、コロナ禍でもしぶとく生き抜く『老春時代』の処世術

AI

2019年03月23日 | 100の力
日本の幸福度が低下の一途だ。


なぜ日本は、

モノが豊かで便利になればなるほど幸福度が下がるのか。


日本の時代はとうに終わっている。

一つの時代の終わりは、

別の時代の始まりを意味する。


別の時代とはどんな時代なのだろうか。

そして、それに対して我々はどう対処するのか。



2025年の大阪万博は、

AIのオンパレードになるだろう。

(技術の競い合い)


つまり、5年も待たずに

AI時代が本格的にやってくる。


ただ、残念ながら日本は大幅に後れを取っている。


       


個人個人がそれにどう対処するかで

それぞれの人生が大きく変わる。



産業革命が起きるたびに、

スピードと便利さ(合理性)が追及され、

仕事内容が変わった。


その都度、

仕事が失われると声高に叫ばれたが

(今もそうだが)

それは、

産業構造の変化を促してきただけだった。



農業国から、製造国へ。

国内需要から貿易産業へ。

重工業から軽産業、半導体へと形を変えて引き継がれる。


そして今、

AIロボット産業へとシフトしている。

ただ日本は大幅に出遅れているだけだ。


今なお、労働集約型産業構造から脱却できないでいる。




つまり、

人で不足を外国人労働者に頼ろうという前近代的手法に訴えているのだ。



ところが、

外国人の留学ビザの交付が厳格化され

日本に来たがる外国人労働者は今後減っていくだろう。


ただそれも、あと5年を待たずして終わり、

人手あまりの時代がやってくる。




それにとって代わるのが、

AIなのだが。


問題は、

AI時代がもたらす世界が、

ユートピアかディストピアかということだ。


つまり、

人類に夢をもたらすのか、

人間社会の破壊をもたらすのかということである。


モノの豊かさや便利さより、

情報量の過剰で、

人はより忙しく、

ストレス過多の暮らしを余儀なくされている。



実は、人口減が問題ではない。



高齢化が問題なのだ。

2100年には、

高齢化率が40%を超える。




そうしてもう一つの問題は、

平均寿命を延ばすことじゃない、

健康寿命を限りなく平均寿命に近づけることだ。


これからは、

死にたくても死ねない時代が来る。


人間がサイボーグ化するからだ。

インプラントや人工臓器の開発が進む。


行く行くは、人間なのか、

アンドロイドなのか区別がつかなくなる。


2045年と言われるシンギュラリティ(AIが人類の知能を超える転換点)もその一つだ。


人と人とのコミュニケーションはドンドン薄くなる。



良いも悪いも、世界が大きく変わる。

どうなるニッポン。

どうするニッポン。

どこへ行くニッポン人。


(㊟ データ資料はKIS提供による)





見つめる瞑想

2019年03月22日 | 100の力
瞑想によって

いきなり、無になることや、悟ることを目指してはいません。

第一、無理ですから。


           (昨夜、炎の揺らぎを感じながら)『阿蘇瞑想の森』にて


それより、

むしろ、考える瞑想(思考瞑想)を心がけています。


雑念に任せるのです。

浮かぶ思いに身を任せる、と言ってもいいかもしれませんね。


ただ、

過去を振り返ることはほとんどしません。

あくまでも未来志向なのです。

まるで、タイムマシンで未来の自分の姿を見ているようです。


そしてそれは、

常に建設的に、明るく、前向きな思考に徹します。

なりたい自分、

ありたい自分を想い描きます。
(ヴィジュアライズ)

そしてそれを脳に焼き付ける。


無意識の中にある思い、本音をみつめて、自分の中に落としこんでいきます。

脳は自分が抱いたイメージを

実現しようと全力で働きますから。


意識を整えることが、心と身体を整え健康に繋がっていきます。


今まで自分がやってきたこと(経験)が全て繋がり、

実際経験したこと(見たもの、聞いたもの、知ったこと、感じたこと)を、

潜在意識としてすべて蓄積しています。


経験したすべては、大きなエネルギーの情報として潜在意識の中に送信され、

送信された情報に対して、

共鳴するような情報が波動になり、

意識と重なって新しい情報として返ってくるのです。

それが、閃きであり、斬新な発想やアイデアとなるのです。



最初は、妄想から始まり、

宇宙との通信を通じて

鮮明なイメージと変わっていきます。


具体的には、

頭頂にある第7のチャクラを開き、
(パラボラアンテナを立てるようなもの)

宇宙(エネルギー)との交流をさせるのです。

それによって、

高い視点での思考ができ、閃きが得られるのです。


年を取ると衰えると考えがちですが、

そもそも人間は、

死ぬまで進化成長するものなのです。


それを手助けするのが瞑想なのです。



【追記】

瞑想とはそもそも

心を決めて、

その決めたことに心を集中させる、

そんなシンプルなものなのです。


瞑想の方法や、目的は様々です。

そして、

人はすべからく、常に何かを考え、

意識しようがしまいが瞑想をしています。

ボーッとしていても、そのこと自体が瞑想なのです。


つまり、

常に瞑想しているのですから、

問題は、

何を瞑想の対象に選んでいるか

何のために瞑想をするのかということになります。


五感を通じて、いつも情報を取り入れ、

考えを巡らせて、

その結果として、良いも悪いも個人個人の事態(状態)を自ら作っています。


であれば、

意識して、幸せな人生のために瞑想を行うことができます。


常に、ポジティブで、優しく、

思いやりに溢れた人間になるために瞑想をします。

それは、

人間として、

精神的・肉体的・霊的な可能性を高めていくことにつながります。

そのために、

それにふさわしい時間と場所を選び、

最適な環境を作り、

ポジティブで有益な形で心を集中させるのです。


【補足】

瞑想をする訳をいくつか挙げてみます。

① 健康のため

② 心を鋭敏にするため

③ 感情のバランスをとるため

④ 心理的な問題を癒すため

⑤ 人生の神秘に思いを巡らせるため

⑥ 体と心をもっと意識するため

⑦ 愛と思いやりを養うため

⑧ 夢を叶えるため

などなどがありますね。



【補足2】


『阿蘇瞑想の森』は

熊本で唯一の瞑想道場です。


森の囲まれた神聖な場所で瞑想ができます。


初心者から、

経験者まで

どなたでもご利用できます。


指導も致します。


熊本県阿蘇郡西原村宮山1547-1

ドゥリーミン カントリー・インAso内

090-2078-4971


カフェもあり、

宿泊もできます。


いずれも要予約です。






3月21日(木)のつぶやき

2019年03月22日 | ライフスタイル

木を切る

2019年03月21日 | 100の力
宿泊の予約が入りだした。

有り難いことです。


カフェや宿泊のお客様に快適に過ごしていただくためにも、

生い茂った木の枝を切らなければならない。


屋根にかかるほど伸びた木の枝をどう切ろうかと

梯子はかけてみたものの

空を見上げてはため息ばかりだった。


何といっても高所恐怖症なのだから。


そんな折、

木登り名人?の友人が手弁当で駆けつけてくれた。



これもまた、有り難いことです。

感謝、感謝。


悪戦苦闘しながら、半日かかって木の枝を伐採。




ティピーの

ボロボロになったシートも撤去してくれ、

この通りすっきりと。




お花見は、

ここで焚火をしながらパーティをしよう。




そして、

夜は、お疲れ様の飲み会へと

春の日は過ぎていった。


なんといっても

汗をかいた後

暖炉の前で飲むビールとワインがうまい!!




感謝。

合掌。





また馬が飼いたい!

2019年03月20日 | 100の力
動物大好き。

中でも、馬と犬。




で、以前、ずっと馬5頭と犬を飼っていた。

(羊もヤギもウサギも、狸も狐も、ホント)


       (仔犬と遊ぶウサギ)


世界一周する時に全部手放してしまったが、

また馬を飼いたい。


ただ、

旅をする身には困る。

それに、毎日一日2回のの飼い葉(餌やり)も大変。


幸い、

近くに20頭ほどの馬がいる厩(うまや)がある。




       (可愛い仔馬も数頭いる)


ここに自馬を預ければ、日々の世話はは免れる。

ただ、当然それなりの預託料はかかる。

おそらく月10万円ほどだろう。

それでも自由にいつでも、どれだけでも乗れるのであれば嬉しい。


馬の値段は、

ピンキリだが、

大体50万円前後(乗馬用調教済み)だろう。


     (カウボーイだったころ。次女と)


早くまた馬が飼えるようになりたい、

(あらゆる状況的に)といつも思っている。





3月19日(火)のつぶやき

2019年03月20日 | ライフスタイル

ハイジの部屋

2019年03月19日 | 100の力
愛する大切な人のために

ロフトの部屋をかたずけた。



15年間未使用で

ほとんど布団部屋になっていた屋根裏部屋だ。


これから一緒に過ごすにしても

お互いのプライバシーの空間は必要だから。


これで受け入れ態勢は万全。

いつ来てもいいよ!

てか、

早くいらっしゃいね。



ところでこの部屋はプライベートですが、

一般の宿泊のお客様は

今のところ4月23日の泊りから、

現在受け付けています。


airbnb(エアビ)からも予約できますよ。

阿蘇、西原村で検索してください。



二組限定だから

早目に予約してね。








圧倒的体験

2019年03月18日 | 100の力
今の日本人に足りないもの。


夢でも希望でも野心でもない。

圧倒的に体験が足りない。


なぜなら、

動かないから。


どれだけのテリトリーで生活をしているか。


人の可能性は、

動いた距離と、

体験した数に比例する。




つまり、

行動して場数を踏むことです。


行動するとは、

リアルに現場に行き、

本物に接すること。


場数を踏むとは、

失敗を恐れず、

いろんなことにチャレンジすること。



いくらネットで知識を詰め込んだところで、

所詮、絵に描いた餅に過ぎない。

味も臭いもないし、

第一、食えない。



日本人は、世界的にみても、

よく勉強し、まじめな人が多い。

つまり、

優等生が多い。

おりこうさんが多い。


すなわち、

親や周囲に気に入られようと振る舞う。

まるでマリオネットにように操られて生きている。


人の目(評価)を気にし、

型や形にこだわるあまり、

無鉄砲なことをしない。

(それでいて、いきなりキレたりする)


受験英語はできても、

英会話はさっぱり、ということが起きる。


日本人は英語がしゃべれない、が世界の定説となっている。

往々にして、畳の上の水練が多すぎる。


頭では理解できても、

行動が伴わなければ、

それは、知らないに等しい。


以前、ボクがそうであったから、よく分かるのです。

海外に出て初めて、

旅を重ねるごとに徐々にしゃべれるようになったのです。


海外を旅することは、

英語だけじゃなく、

いろんな人生体験ができます。


様々な価値観を知ることで、引き出しが増えます。

それによって感性も磨かれ、

幅広い人間力が培われます。


しかも、

お金やモノと違って

減ったり、壊れたり、失うことのない

生涯の財産になるのです。


もちろん、

それを伝えることによって

子孫や他人にも良い影響を与えることができます。


さあ、

好奇心と向上心と、向学心をもって

挑戦の旅に出かけませんか!






旅の宿

2019年03月17日 | 100の力
そういえば、

この3か月間、海外に行ってない。


しかもこの時期日本にいること自体が

珍しいこと。


最近は、日本国内で動くことが多い。

それはそれでまた楽しいし、意味がある。


ただ、

もう一人旅は卒業。

次からは愛する人と思う存分旅を楽しむ。

そのためのタイミングを窺(うかが)っている。


一つは、

アトミのベトナム支社が6月にオープンする予定に合わせて行くことになるだろう。

ただ、

本の出版もその頃になりそうなので、

動くタイミングが微妙だ。


いずれにしても今は待ちの時期。

どんなことにも、

「座して待つ」という忍耐力が必要な時がある。


焦っていたずらに動いては事を仕損じる。

無意味に動いて、

時間とお金と体力を浪費しない。


虎視眈々とその時が来る機会を狙っている。


ところで、

旅人を迎えることもタビストの役目。

旅人の気持ちはタビストならよく分かる。


季節も良くなり、

ゲストハウス(Love Trip)を再オープンする準備も進めている。




場所は、

熊本県阿蘇郡西原村宮山1547-1
ドゥリーミン カントリー・インAso内

阿蘇の麓の閑静な森に中に佇む

古民家ホテル。



現在、ゴールデンウィークの予約を受け付け中。


一泊(素泊まり)、一人目、5000円。

二人目は、4500円。

三人目から、4000円。

小学生は2500円。

(5月3,4日は6000円)

(すべて税別)

一日二組限定!


部屋にキッチンが付いているので、

自炊もできます。


長期滞在もできますよ。

(その場の料金はお尋ねください)


みんな、泊りに来てね!

楽しいよ!



お申し込み、お問い合わせは、

dreamincountry@gmail.com

もしくは、

090-2078-4971

まで。


同時に、カフェ(Aso Bless Cafe)もオープンします。

ブラーッと遊びに来てね。


美味しい湧水コーヒーをお淹れして

お待ちしています。



【余談】


そもそも愛妻家なんですよ。


愛する人となら、

ずっと一緒にいても苦にならないんです。


だから、

仕事も一緒、

旅する時も一緒。


本来、そういう生き方が性に合っているのです。





3月16日(土)のつぶやき

2019年03月17日 | ライフスタイル

恋多き男の結末

2019年03月16日 | 100の力
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ベストテン内に5つも。



まだまだ伸びている。


これも、

こうして8年間、

毎日欠かさず書き続けている恩恵なのだろう。


それにしても、

やはり、

数あるカテゴリーの中でも「恋話」は強い。

だから敢えて浮名を流す?

(アクセスが上がるから)


ただし今は、

彼女一筋!

そしてこれからもずっとそれは変わらない。


もちろん、不倫じゃないよ。

双方とも正真正銘の独身だからね。

誰から後ろ指を指されることもない。

(今の世の中、けっこう不倫がはびこっている?)


老いても尚「純愛」といってもいいだろう。



ところで、

「老いらくの恋」で有名な

歌人の川田順(1882年(明治15年)- 1966年(昭和41年))は立派な不倫だった。

不倫の模範のような人だった。


「墓場に近き老いらくの 恋は、怖るる何ものもなし」

と彼は詠んだ。


といいながら、

彼は自責の念に駆られ、

自殺未遂を起こしているが。


しかし、紆余曲折を経て、

最後は結ばれ、

84年の生涯、

特に最後の15年間を二人で幸せに過ごしている。

(人生も、「終わり良ければ総て良し」なのだ)


27歳年下の俊子は96歳(2006年逝去)まで生きた。

(57歳の時に夫である川田順が死んで、39年間も生きたことになる)


「60をとうに過ぎ、

不倫と言えど、

死ぬほどの激しい恋をすることは素晴らしきかな」

これはボクの感想。


「吾が髪の白きに恥づるいとまなし溺るるばかり愛(かな)しきものを」(川田順)


老いて尚、

いや、老いたればこそ

自分の地位も名誉も投げ打って

一人の女をこれほど一途に愛しきれるものなのだ。


       (「歌心涸れ、恋に走る」とまで当時の新聞を賑わせている)

今の時代であれば

ワイドショーで引っ張りだこになっているだろう。


だが、これこそまさに男冥利に尽きると言えよう。


ボクも今、そうである。


老いたといっても人生100年時代、

まだまだ先は長い。

むしろこれからが

余生でなく、「本生」なのだ。


つまり、

人生の本番。



川田順は、

50代の妻を失って、傷心の日々を過ごしたことがあったが、

俊子とめぐり合い、生きる情熱をいっそう燃えあがらせたという。


「樫の実のひとり者にて終わらむと思へるときに君現はれぬ」


ボクも全く同じ心境である。


  君が来て今の今まで坐りゐしたたみの上に吾が臥(ね)まろびつ

  別れきてはやも逢ひたくなりにけり東山より月出しかば
 
昭和22年~26年、つまり65歳~69歳に書かれた詩のなかにある「裸身」と題された詩である。


俊子も、こんなふうな歌をうたった。

  はしたなき世の人言をくやしともかなしともなしと思へしが悔なし。


どんなに時代が変わろうと、

今も昔も恋心は変わらないものだ。



人生二毛作、三毛作。

「人は何度でも生まれ変わって生きられる」


いくつになっても恋は美しい。

60代の恋はもっともっとやるべきだと思う。


生きる情熱・愛・恋を

最後まであきらめてはいけない。


独身男性、女性は

もっともっと素敵な恋をしてください!!


ただし、

恋に溺れるのではなく、

恋を覚えるのです。


つまり、

恋(すなわち「情熱」)によってあらゆるものが覚醒される。


なお、

この二人をモデルにした辻井喬(西武セゾン・グループの堤清二)の小説「虹の岬」により

1999年に映画化されている。



【追記】


作家は恋に落ちやすいのか?


一般的に、

クリエイティブな仕事に携わる者は、

恋に落ちやすい。


感受性が強い。

想像力が豊かである。

作風に酔う。

からじゃないかな。


それはそれでいいんじゃないだろうか。


ロマン主義文学が流行って以降、

川田順と同年代で親交があった、

斎藤茂吉、吉井勇、武者小路実篤なども、

年離れた女性と恋愛に落ち、再婚している。


恋への価値観が昂たかまった時代だったのだろう。



小説の中で、川田順の恋愛についてこんな下くだりがある。


「たしかに短歌の作風の問題について川田は迷路に落ち込んでいた。

恋の歌ばかりなこと、それ自体は悪いことではないと思うが、

それが大きな歌へと発展していかないのだ。(中略)


恋の歌が人生全体を歌うという荒野に出ていかない。

恋に殉じようとするなら、指導者のような意識を捨てなければならない。

それは作風の変革に通じている。

そこのところの整理をきちんとせずに一緒になったら、

歌人としての自分に俊子も失望するだろう。


失望するには、あまりにも大きな犠牲を払ったと言うのに。


恋愛は、秘密で個人的なことですが、ますます自分の深水ふかみへ入っていくようで、

ふたりともその淵から逃れられなくなります」



そして、

この小説の最後はこんな下くだりで終わっている。


「もう国の在り方や経済のことには目をつぶっていよう、

国は滅んだのだからと思い定めた時、俊子が現れたのだった。


自分が好きだったのは事実だ。

しかし何故、好きだと言うだけでは説明しきれない力強い力が自分を衝き動かしたのだろう。

まるで、俊子がまだ滅びていない国ででもあるかのように。


それにしても、俊子が従いて来てくれたのは稀有のことだった」



ボクは、

この最後の下りを我がことのように読んだ。


「ボクが日本に見切りをつけ、

単身、旅に出ようとしていたとき、

彼女が現れた。


好きだと言うだけでは説明しきれない力強い力が

自分を衝き動かしたのだろう。

まるで、彼女がまだ滅びていない国ででもあるかのように。

それにしても、彼女が来てくれたのは稀有のことだった」と。


そっくり自分に置き換えてみた。


時代を超えて、

「老いらくの恋」とは、

概ねこんなものなのだろう。