「一度も愛してくれなかった母へ一度も愛せなかった男たちへ」 遠野なぎこ著
1999年、NHK朝の連続テレビ小説『すずらん』でヒロインを演じた。母親からの虐待や、確執から苦しい幼少期を過ごした。自伝本で母とのこと自分のことを告白してから良い方向にむかっているとのことであるが、過食嘔吐や強迫性障害について、今もも精神科に通っている。母親からお前は醜いと常に言われ育ったことから、強い醜形恐怖症に怯えながら成長してきた。愛を多くの男性に求めても、それは一時の安らぎにはなっても、心を満たすものではなかった。<o:p></o:p>
本より引用;<o:p></o:p>
死ぬ理由を見失って、苦しんだ。そんなときは電話をかける。携帯電話に登録してある、いくつものいのちの電話に。そこで話を聞いてくれるのは、ボランティアの方たちだ。回線はいつもつながりにくい。私以外に死にたいと思っている人は、日本全国に大勢いるのだと知る。<o:p></o:p>
電話がつながり、第一声が聞こえてくるのを待たずに私は吐露する。死にたいんです、生きていたくないんです・・・。そして、自分がこれまでどう生きてきたかを、一方的に告白する。医師に話したときと違って説明する必要はない。気持ちを垂れ流す。甘えたかった。「辛かったね」といって欲しかった。「うん、うん」という相づちが心にしみた。<o:p></o:p>
死ぬのはやめなさいとはいわれない。命を粗末にするなと、説教めいたことをいわれたこともない。でも話しているうちに、台風のように荒れていた気持ちが、次第に凪いでいくのを感じた。<o:p></o:p>
「今日は死なないでいいよ」<o:p></o:p>
いつも耳でなく心で、そんな言葉を聞いていた。今夜はもう考えるのをやめにしよう。外が明るくなるころに、やっとそう思える。私は携帯電話を握ったまま眠りにつく。<o:p></o:p>
そして、数時間後にまた、振り出しに戻る。目覚めた瞬間から、死にたくて気が狂いそうになる。早く自分で自分の命を絶って、この苦しみから逃れたかった。<o:p></o:p>
番組で自分の過去を話した。非難が多いかと思ったら、温かいメッセージを多くもらった。<o:p></o:p>
「あなたはぜんぜん悪くない」<o:p></o:p>
「私、幸せになっていいんだね」 「母を捨てて、いいんだね」<o:p></o:p>
「生きていくために、自分を変える」 トンネルの向こうに、まだ光は見えない。もう一度、生きなおす。<o:p></o:p>
多くの人が悩みを抱えています。その人の行動を第三者が見ると、何で?と思うことがあります。
私が尊敬する三浦綾子さんのエッセイにありました。
クリスチャンにとって、日曜日の礼拝はとても大切なこと。これによく遅れる人がいた。何で遅れるのかと心の中でその人を非難していた。ところが大腸の病気になり、さあ出かけようと思うときに限って、トイレに行かないといけない。約束した時間を守れなくなった。当然、日曜日の礼拝もちゃんと準備して、さあでかけようと思うとトイレに行く。自分が日曜日の礼拝に遅れるようになってしまった。自分がなってみて、初めて遅れている人にもきっと何か理由があったのだと思うようになった。これまでクリスチャンとして生きてきたが、人を思う気持ちがまだ十分でないことを、自分の体験から知ることができた。
母とのことを、
書かれた本を以前読みました。
佐野洋子著「シズコさん」、中山千夏著「幸子さんと私-ある母娘の症例」
2冊とも母と娘の関係を悩んだ記録です。母とのことを本で吐露することで、ようやく母との距離を保つことができたとのことです。
母を捨てる。心の中での母からの影響をから離れる、自由になることができたのだと思います。
禅宗の言葉に「人惑((にんわく)」があります。
これは、自分の考えと思っていることが、実は小さい時に親や周りから、こうしないといけない、お前は**だとか言われてことが、まるで自分の考えのようになり、その考えで自分を苦しめている。つまり、自分が自分を苦しめているということです。自分で自分を苦しめることほど苦しいことはないと言います。常に一緒ですから。
禅宗では、その人惑から自由になりなさいと説いています。
遠野なぎこさんに、これまで苦しんだ分も含めて幸せになって欲しいと思いました。
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