・大阪で生まれ育った私は、幼馴染たちと当然のように「一緒に学校に通いたい!」という理由で、ろう学校には行かず、幼稚園、小・中学校は地元の学校に、天王寺高校から、神戸大学に進学し、就職先は第1志望ののソニー株式会社へ。
就職で初めて上京し、趣味の合うファンキーな夫と結婚し、めでたく2人の子どもにも恵まれ・・・と文字で書くと順風満杯なようですが、聞こえない私の人生、そんな順調にいくわけがありません。
学生時代も社会人時代も大変なことだらけでしたが、一番大変だったのは、長女に難病があったこと。
耳が聞こえない上に、難病の子の親になる――。
正直、なんでこんなに人生ハードモードなの!? と恨みました。
・3,4年生で海外に行ったりやりたいことにチャレンジ! と思っていたので、1,2年生で猛勉強してほぼ単位を取り終えました。
・私を含めて4人でリゾートバイトをして山にこもろうと言っていたんですけど、どんなに頑張っても私だけバイトに受からなかった。・・・
すると他の3人が、私の知らないところでいろいろな人に声をかけて、私が働ける仕事はないか、働けなくても居候できる場所はないかと、探し回ってくれたみたいで、そうしたら、友だちのバイト先の人が「うちの娘が出ていって、1部屋空いているから使っていいよ」と言ってくれたんです。
・・・うれしかった。そんなふうに、私のためにみんなが動いてくれたことが。
・就職の第1志望は、断然ソニー。理由はシンプルの、「変わった人」が多かったから! 私は、「変わった人」が昔から大好きなんです。
・無事に産んで、初めて赤ちゃんを見た時、すぐにわかりました。
病気があること――。
50万人に1人と言われる骨の難病でした。病名を言われてもどうしたらいいかわかりません。
・もしかしたら、大きくなっても歩けないのかもしれない・・・。
生まれてからずっと週4日通院しているけれど、いつまで通院し続けなきゃいけないのかわからない。
もしかしたら、一生病院通いが続くのかもしれない・・・。
このまま成長しても、小学校に通えるのかどうかもわからない。
もしかしたら、一生学校に通えないのかもしれない・・・。
将来が見えない不安にずっと襲われていました。
・聞こえないのに、英語ができないのに、アメリカ移住!
英語ができないから、気負えないから・・・を理由にチャレンジをあきらめないでほしい。挑戦する前から、選択肢を減らすようなことをしてほしくない。これは、この本を通してお伝えしたい大きなテーマです。
・サンタさんはうれしくないし、鬼は怖くない
もちろん私にとってつまんない時間はたくさんありました。
その筆頭がイベントの時、例えばクリスマス会では、園長先生が本気で仮装してサンタクロース姿で登場したんですけど、ヒゲで口が隠れているから、言っていることがさっぱりわからなかった。
サンタさんがいろんなおもしろい話をしてくれてみんなが大笑いしているけれど、私が何がおもしろいのかまったわからなったっけ。
あと、節分の鬼も何を言っているのか全然わからなかった。
お面だし、言ってることも超えの大きさもわからないから、追いかけれれて逃げるだけって感じでした。
・母いわく、2歳で重度難聴とわかってことばを教え始めた時、「この子が身につけることばは、全部自分にかかっている」とすごく責任を感じたそうです。耳から聞いて言葉を知ることができないから、自分が伝えて教えないと、と。
・療育として通っていたのは、難聴児通園施設と月に1回行く民間のことばの教室。
そして家庭での療育。こんなふうに周りから言葉をサポートしてもらっていたおかげで、いろんなことばを知っている幼稚園児になったのかもしれません。
・私自身が難病児の母親となった今、家族がいい先輩であり相談相手でもいてくれることを心からありがたいと思っています。
・おかげで、国語がずっと得意科目。センター試験の模試は200満点取って全国1位! 大人になって初めて先生に感謝!(遅い)
・幼稚園が恵まれた生活になったのは、当時の担任の先生のおかげです。本当に。
みんなに私が聞こえないことを、どうすればいいかを体で覚えさせてくれました。
例えば、わざと私から口の見えない場所で、先生が「ユカちゃーん」と呼びます。当然、私は気づきません。
そこで先生が、
「あれれ~? ユカちゃん気づいてくれないなあ~、困ったなあ~」
と言うと、時に私と仲のいいお友だちや普段よく接している子が、
「ユカちゃんにはトントンしてあげないと・・・」
「前からしゃべったらいいんだよ!」
と自慢げに言って、実際にやってきうれるんです。
それを見ているうちに、周りの子たちも「なるほど~!」と自然に学んでいったそうです。
・聞こえないことをいつ、どう説明するかで悩んだ日々
学校では1年間同じクラスなので、最初に「耳が聞こえません」と言えば、クラス全員に私が聞こえないことが伝わります。
でも、塾になるとそうもいかなかったんです。
・だから、聞こえないことを伝えるだけじゃなくて、
「聞く代わりに口を見ているから、口を見せて言ってほしい」
と伝えなきゃいけないんです。
・人生のレールは1つじゃない。いろんな生き方があるし、失敗したってやり直すことができるんだなあ~、と心から理解した20歳でした。
・そんな私も、最終的に2つのバイトを経験することができました。
1つは家庭教師。・・・
もう1つは個人経営のパン屋さん。オーナーがとても理解のある方で、長期でバイトを休んで海外旅行に行くのも理解してくれました。
「できない」経験をたくさんしたアルバイト探しは、ショックなことの方が多かったけれど、社会のあり方や、障害児の現状を学ぶ、よいきっかけになりました。
・就活してみてわかったのは、「人と違うこと」は強みなるということ。・・・さまざまなことをアピールできました。
・子どものころから学生時代にかけては、聞こえないことで大変な思いやつらい経験をたくさんしてきましたが、就活の時に、人生は長い目で見るとマイナスだと思っていた障害もプラスに変えられる時が来るんだなあと実感しました。
・私は、日々の仕事の中でできないことや苦手なことをちょこちょこ言うようにしました。・・・
もう1つ気をつけたのは、調べてもわからないことや、言っていることがわからないかったときに、わかったふりをしないで必ず先輩に聞くこと。
・電話対応を免除してもらった分、私にできることはないかと考えて、電話を社内のちゃっとやメールで代替するフローを新しく作成しました。その結果、業務の効率化につながり、それを評価してもらうことができました。
・私自身、耳が聞こえなくても、努力したり工夫したりしながら前向きに楽しく過ごせていたのに、どうして私にばっかりこんな試練があるんだろう・・・。
周りの人たちは耳も聞こえて、苦労もせず健康な子どもを産んていて幸せそう。
楽しく子どもを育てる、そんな当たり前の幸せすら、自分のもとにはやって来ないのか・・・。そして、「我が子を育てたくない」って思うなんて、私は人としてありえないのかも・・・。
人として、母としてだめな人間なんだ・・・と、絶望の淵にいました。
そんな私を救ったんは、母と夫のことばでした。・・・
母は、
「その気持ちわかるよ。お母さんまだ元気やしさ、ユカコが育てられへんかったら私が育ててあげる。私、ユカコで障害児2人目やからさ、大丈夫よ。泣いてもいいねん。育てられない、そういうふうに思っていいねんよ。そんな風に思うなんて母親失格とか、自分を責めなくていいね」と。
・当時の私がしんどいと思っていたことの1つに、「どうなるかの見通しが立たないこと」がありました。・・・
「この子は歩くんだろうか? 小学校に行けるようになるのかな? ことばは話すの?」といったことから。「知的な面や、運動発達はどうなるの?」という不安。
半年先、1年先、5年先、10年先の見通しがまったく立たず、どうなるかわからないというのがつらかったです。
・私が立ち上げた「デフサポ」では、親が仕事を辞めずにサポートを受けられるようオンライン教育や通信教育を進めていますが、“世間の目”に悩む親御さんは多くいます。
デフサポとして、また難病児の親として、そんな空気も少しずつ変えていけたらいいなと思っています。
実は、デフサポとは別に、「株式会社MASS DRIVER(マスドライバー)」というマーケティングの会社を夫と一緒に立ち上げています。
この会社では、オンラインで自由な時間に働くことができるような体制にしているため、障害児や難病児を持った親御さんや、障害当事者も採用しています。シングルマザーもいます。
・子どもの喘息の音や、痰の絡んでいる音がわからない!
「次からは、『ヒューヒュー』し始めたらすぐ連れてきてね」と言われたものの、私にはその「ヒューヒュー」が聞こえません。
・ナイショ話はできないけど口パクで話せるママ
・私は、聴覚障害者として生きてきました。そして、聞こえる人たちにずっと囲まれていました。地域の学校で過ごし、高校、大学受験、就職活動を経て大人になった私だからこそ、欲しかったサポートや情報がわかります。
また、つまずいたり失敗したりしたこともたくさんあるし、それらを乗り越えてきた経験もある。
この経験が、未来の聴覚障害者のために役に立つかもしれない――。
そんな思いがあり、長女を産んだ翌年、復職と同時に経験談を書いたブログを始めました。そのブログに共感してくれたり、励まされた! と言って喜んでくださる“難聴児の親御さん”が多くいました。
異口同音に言われたのは、
「聴覚障害児を育てることにことについての情報がない」
「どうやってことばを教えていいのかわからない」
ということ。
そう訴える親御さんの想いが、難病児の親である私には手に取るように伝わってきました。どうやってことばを教えたらいいのかについて悩んでいる人が、ほとんどだったのです。
・お互いの会社がちゃんと軌道に乗るのか、乗るとしてもいつなのか、常にはらはらしていましたが、このころの私にとっては、“いざという時の“心の支えも、実はソニーでした。当時の上司や同僚が、辞めることを決意した私に「やってみて、ダメだったらソニーに戻っておいでよ! いつでも歓迎するよ!」と。
もともとソニーは辞めた人が戻ってくることが多く、ウェルカムな雰囲気だったので、本当に明日食べるものに困ったらソニーに戻ろう! という安心感がありました。
おかげでそのつらい時期を乗り越え、今は夫婦で3社目になる「MASSDRIVER」というマーケティングの会社を夫の二人で作るまでに至りました!
・人に助けてもらうことを恐れない
私は、これまで多くの人に頼って、助けてもらってきました。
人を頼るにあたって私が一番大事にしているポイントは、気軽に頼める関係性を築くことと、助けてもらった数倍は必ず助ける! つもりで普段から動くことです。
恩義を忘れないのは、何より大事だと思っています。・・・
もう1つ意識しているのが「頼める関係性の人をめちゃくちゃ増やす」こと。
同じ人ばかり頼んでしまうと、1人の負担が大きくなってしまいます。なので、いろいろな人にちょこちょこお願いするように意識していました。
そして、多くの人を頼る分、人から頼られなくても、私にできることは率先してやる。友達が大変そうな時は自分から助けに行ったり、子どもを預かったり。
また、イベント事などの幹事をするなど、とにかく、大変そうなことはなるべき引き受けるようにしていました。
困った時はお互い様という気持ちで、多くの人と助け合える関係性を築いていく。
それが当たり前の世の中になれば、障害のある人もない人も、いきやすくなるんじゃないかなあと思っています。
・生まれた赤ちゃんが難聴だとわかって、泣きながら「育てる自信がありません・・・」と言ってデフサポに連絡してきた親御さんが、デフゼミのサポートを経て何年か経った時に、「この子を産んで、よかったです。毎日こんなにお話しして、楽しい日々が過ごせるなんて、想像もしていませんでした!」と言ってくれた時は、ことばにならないくらいうれしかった。
・この本で伝えたかったのは、”言い訳を見つけて、あきらめない!“ということ。
障害があると、どう頑張ってもできないことはもちろんあります。
例えば私は”耳が聞こえるように“は鳴りませんし、”子どもがどんな声かを聞くこと“はできません。
でも聞こえなくったって、会社を経営することはできますし、苦手な電話は人にお願いしますが、顔が見えるテレビ電話であれば会話ができます。
やりたいことがあったら、その中でどうしてもできないことを補完する方法を考えて、それをどうやって手に入れるか、誰に頼むかを考えればいい。
「できない理由」はいくつも見つかります。
だからこそ、あえて「できる理由」を探してみませんか?
・大人になり、親になった今は、「人と違うこと」は強みにもなりうると知りました。
人と違うからこその視点や考えを生かすこともできます。ただそれは「みんなと同じ」がわかっているからこそ。
難聴ユカコの挑戦 (デフサポちゃんねる)YouTube(二人の馴れ初め)
感想;
聴覚障碍者の多くの方は手話を使われています。
聾学校ではずーっと手話を教えず、口唇読を教えていました。
ただ、これは誤解が多いと言われています。
そういうことを知っていたので、著者は手話ではなく、口唇読だけで通常のコミュニケーションをされていることが信じられませんでした。
諦めないこと、それが新しい可能性の扉を開く可能性を高めること。
そのためには、教育がすごく大きいと思いました。
そして自ら学び、行動し、チャレンジすることが大きいですね。
聖句「門を叩け! さらば開かれん」
ないものを見つけて悲しむより、あるものをどう生かすかを考えることなのでしょう。これがなかなか難しいのですが。
ないものを見つけて愚痴を言い、文句を言うか、それともあるものに感謝していきるか、この差が長い人生で大きな差となり、かつ幸せにも関係しているのでしょう。
今はSNSの世界、話す/聞くよりも、見る/読むのコミュニケーション比率が高まっています。
それを上手く活用されているように思います。
携帯電話は聴覚障害には、健常者との利便性に大きな差をつけるツールでした。
ところが、メール機能や検索機能、LINE、ZOOMなどにより、スマホは健常者とのコミュニケーション能力の差を埋める大きなツールになりました。
新しいツールを有効活用し、自分の人生に役立てると、可能性が広がりますね。
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