・オランダ東インド会社の軍事力を圧力として、オランダ人はアンボン王と結んだ条約を実行すべく、あらゆる潜在的な侵入者の排除に取りかかった。1605年、ポルトガル人が保持していた重要な砦を攻略し、オランダ人以外のすべての貿易商を力づくで追いだした。
・オランダの植民地政策によって東南アジアの政治経済の発展経路は根本的に変わってしまった。東南アジアの人々は交易をやめ、内向きになり、いっそう絶対主義的になった。その後二世紀のあいだ、産業革命で生まれたイノベーションを利用できる立場になかった。そして結局は、交易から手を引いたところで、彼らがよーろっぽ人の手から救われることはなかった。18世紀末までに、東南アジアのほぼ全域が、ヨーロッパの植民地帝国に組み込まれていたのである。
・ローマ時代の奴隷の供給源は、スラブ民族の住む国会周辺、中東、さらには北欧だった。だが、1400年までに、ヨーロッパ人はたがいを奴隷にするのをやめた。・・・近代初期になるまで、東アフリカでは活発な奴隷貿易が行われ、大量の奴隷がサハラ砂漠を越えてアラビア半島へ送られた。
・アンゴラ、ベニン、ガーナ、トーゴでは、輸出された奴隷の累積総数が1400年の国の人口を上回っていたのだ。
・戦いの増加に拍車をかけたのは、奴隷と交換にヨーロッパから輸入された莫大な量の銃や弾薬だった。
・こうしたあらゆる戦いや争いによって、大量の人命が失われ、人々に苦しみがもたらされただけでなく、アフリカの制度が独自の発展の道を歩みはじめることにもなった。
・土地を強奪されたせいで、アフリカ人農民の大半が貧困にあえぐ羽目になった。こうして生み出されたのは後進経済の制度的な基盤だけでなく、そこで働かせられる貧しい人々だった。
・アジア最古の文明の一つであるインドの物語も、よく似ているもっとも、発展を更新させたのはオランダ人でなくイギリス人だったのだが。
・18世紀のイングランド――もっと厳密に言えば1707年のイングランド、ウェールズ、スコットランドの連合後のグレートブリテン――には、犯罪者を扱うための単純な解決策があった。「去る者日々に疎し、とにかく厄介払いを」というのがそれだ。こうして、多くの犯罪者が大英帝国各地のの流刑地へと追放された。独立戦争以前には、有罪判決を受けた犯罪者、つまり受刑者は、主としてアメリカ各地の植民地に送られた。1783年以後、独立したアメリカ合衆国は、もはやイギリスの受刑者をあまり歓迎しなかったため、イギリス当局は受刑者のために新たな生活の場を見つけなければならなかった。まず検討されたのが西アフリカだった。しかし、マラリアや黄熱病といったヨーロッパ人が免疫を持たない風土病のある、非常に過酷な気候だったため、当局はたとえ受刑者であっても「白人の墓場」へ送ることは許されないと判断した。次なる候補地はオーストラリアだった。オーストラリアの東海岸は、偉大な航海者であるキャプテン・ジェームズ・クックによってすでに探査されていた。・・・
1788年1月、受刑者を詰め込んだ11隻からなる船団が、アーサー・フィリップ船長の指揮のもと、ポタニー湾(クック船長が名付けた)へと向かっていた。いまではオーストラリア建国記念日となっている1月26日、船団は現在のシドニーの町の中心部に当たるシドニー・コーヴに基地を設け、その植民地を「ニューサウスウェールズ」と名づけた。
・こうしてフランス革命は、封建制とそれに伴うすべての義務と貢租を一気に廃止し、貴族と聖職者の免税特権を全面的に撤廃した。だがおそらく、最も急進的で、当時としては想像すらできなったのは、第11条だったはずだ。そこではこう述べられている。
すべての市民は、その生まれと無関係に、聖職、民間、軍を問わずいかなる公職にもくらいにもつく資格を有する。いかなる職業もその例外となってはならない
・全体としてみれば、フランス軍はヨーロッパに多くの苦難をもたらしたが、状況を根本的に変えることもした。ヨーロッパの多くの地域で、さまざまなものが消えてなくなった。たとえば、封建的な社会関係、ギルドの力、君主や諸侯の絶対主義的支配、聖職者にyろう経済的・社会的・政治的権力の掌握、さまざまな人間を生まれた立場によって不平等に扱っていたアンシャンレジームの土台などだ。これらの変化によって包括的な経済制度が生み出され、その制度のおかげでこれらの地域に工業化が根づいたのである。19世紀後半には、フランスの支配下にあったほぼあらゆる地域で工業化が急速に進展したのに対し、フランスに征服されなかったオーストリア・ハンガリー帝国やロシア、フランスの支配が一時的で限定的だったポーラントやスペインなどでは、概して停滞したのである。
・包括的な政治制度は自由なメディアを発展させる。自由なメディアは包括的制度への脅威に関する情報を提供し、それに対する抵抗勢力を毛集させることが多い。これは、19世紀の最後の25年と20世紀初めの25年の期間に、合衆国の自由なメディアがやったことだ。泥棒男爵の経済支配がますます強まり、包括的な経済制度の核心が脅かされていたときのことである。
絶えることのない争いの結末はいつまでも不確かなままだが、好循環はこうしたメカニズムを通じて、包括的制度が持続し、反対勢力の挑戦に抵抗し、さらに拡大する強力な流れをつくりだす。残念ながら、収奪的制度もまた自己を存続させる同じように強力な力を生み出す。それが、悪循環のプロセスである。
・この悪循環には当然の理由がある。収奪的な政治制度から生じる収奪的な経済制度においては、多くの人を犠牲にして少数の者が富む仕組みになっている。したがって、収奪的な制度から利益を得る人々は、自分tちの(私的な)軍隊や傭兵組織を編成し、判事を買収し、選挙で不正を働いて権力い居座るための資金を手にしているのだ。彼らはまた、体制を擁護することであらゆる利益を得る。こうして、収奪的な経済制度が存続するための土台となる。収奪的な政治制度を持つ体制において権力が重要なのは、それ野放し状態で、経済的な富をもらたすからだ・
・収奪的な政治制度ではまた、権力の乱用にいっさい歯止めがかからない。
・さらに、悪循環のメカニズムはもう一つ存在する。収奪的な制度は、束縛のない権力と極端な所得格差を生み出すことによって、政治ゲームで得られるであろう賞金を増やすのだ。国家を支配する者は誰でも、この強大な権力とそれが生み出すと見の受益者となるので、収奪的な制度は、権力とその利益の支配をめぐる内紛へのインセンティヴを生み出す。
・現代において国家が衰退するのは、国民が貯蓄、投資、革新をするのに必要なインセンティヴが収奪的経済制度のせいで生み出されないからだ。収奪的な政治制度が、搾取の恩恵を受けるものの力を強固にすることで、そうした経済制度を支える。状況によって詳細は異なるものの、国家の衰退の根底には、つねに収奪的な政治・経済制度がある。
・共産主義の経済制度もまた、収奪的な政治制度に支えられていた。その制度ではすべての権力が共産党に集中し、権力の行使にまったく制約が設けられていなかった。
・こんにちの国家の政治的・経済的破綻の解決策は、収奪的制度を包括的制度に変えることだ。悪循環があるために、それは容易ではない。
・援助対象に届くのは援助金のおよそ10%からせいぞう20%にすぎないという概算が、多くの調査によって出されている。
感想;
権力者は富を得ているため、それが維持するように政治、経済を自分たちのために行っています。そこには権力がないものははいっていけないのです。
選挙という制度がありますが、ネットの嘘の情報に惑わせられて、正しく判断できない国民が居るようです。
兵庫県の知事選がまさにその具体的な例になりました。
斉藤知事がまた権力をかさに批判する人を遠ざけたり左遷させるのでしょう。
菅元首相は「私に反対する人は左遷させる」と公言していました。
税の根幹を揺るがす”ふるさと納税”の問題点を指摘した、次期総務省の次官候補の方は左遷させられました。
それを指示する国民が、結局国をダメにしているのでしょう。
歴史から学ぶ、それにしても人間は歴史から学ばないようです。
権力を得る、富を得る、それが第一の目的の人がいるからでしょう。
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