たなばた
ひととせを まちはしつれど たなばたの ゆふぐれまつは ひさしかりけり
一年を 待ちはしつれど たなばたの 夕暮れ待つは 久しかりけり
たなばた
1年待ってきたけれども、たなばたの夕暮れを待つのは本当に長く感じるものであるよ。
織姫の気持ちになぞらえての詠歌ですね。
たなばた
ひととせを まちはしつれど たなばたの ゆふぐれまつは ひさしかりけり
一年を 待ちはしつれど たなばたの 夕暮れ待つは 久しかりけり
たなばた
1年待ってきたけれども、たなばたの夕暮れを待つのは本当に長く感じるものであるよ。
織姫の気持ちになぞらえての詠歌ですね。
祓へ
うきひとの つらきこころを このかはの なみにたぐへて はらへてぞやる
憂き人の つらき心を この川の 波にたぐへて 祓へてぞやる
祓へ
つれない人をそれでも思ってしまうつらい気持ちを、その川の波と一緒に祓い流してしまうのであるよ。
初句「憂き人」は、現代語の感覚だと「憂いをもった人」を第三者の立場から言う感じですが、古語では「自分につらい思いをさせる人」「つれない人」の意です。なのでこの歌は、つらい思いをしている人が自らその思いを祓う歌ですね。
神祭る家
ももとせの うづきをいのる こころをば かみながらみな しりませるらむ
百年の 四月を祈る 心をば 神ながらみな 知りませるらむ
神を祭る家
百年変わらぬ四月が巡って来るようにと祈る気持ちを、神はすべてご存知なのであろう。
長い年月を表現する常套句として「百年の」という表現もたびたび出てきますね。
おなじ八年二月、内裏の御屏風の料、二十首
家にて子の日したるところ
わがゆかで ただにしあれば はるののの わかなもなにも かへりきにけり
わが行かで ただにしあれば 春の野の 若菜もなにも 帰りきにけり
おなじ年の二月、宮中の御屏風の歌、二十首
家で子の日をしたところ
私は行かないでただじっとしていたので、春の野にでかけた皆が、若菜からなにからを持って帰ってきてくれたよ。
「二十首」とありますが実際の収録は十首。「十」を「廿」と誤記したのかもしれませんね。「おなじ八年」は天慶八年(945年)のこと。「子の日(ねのび)」は、長く延びた小松の根を引いて若菜を摘み、長寿を願った行事。たびたび出てきますね。
何か事情があってか読み人自身は家にいたところ、若菜摘みにでかけた他の人々が自分のために持ち帰ってくれたという、ちょっと珍しいシチュエーションを詠んでいます。はりきって自ら出かけて行った浮き立つ気持ちを詠んだ 490 とはちょっと対照的ですね。
むかしより おもひそめてし のべなれば わかなつみにぞ われはきにける
むかしより 思ひそめてし 野辺なれば 若菜摘みにぞ われは来にける