五稜郭からほど近い、函館の梁川(やながわ)町という町にある、「梁川公園」という公園。
(地図)
ご覧の通り、ごく普通の、市民の憩いの場という風景が広がっています。
そんな公園の一角にあるのが、箱館戦争のさ中「蝦夷共和国」の総裁として旧幕府軍を統率し、翌年新政府軍に降伏、投獄された後、開拓使として北海道の発展に尽力した、かの榎本武揚の像。
先日、友人との間で、何故ここに、榎本の像があるのだろうということが話題になった。
友人は、函館市には、榎本武揚に因む「榎本町」という町があるのに、そこではなくここにあることが不思議だったらしい。
ということで調べてみると、榎本武揚は「梁川」と書いて「りょうせん」と読む雅号(文筆家、画家、学者などが、本名以外に用いる風雅・風流な名前)を有していて、梁川町という町名自体、それに由来するものなのだという。
この「梁川」とは、榎本の出生地である、江戸下谷御徒町柳川横町(現在の東京都台東区浅草橋付近)に由来するものだそうだが、「柳川」では柳川鍋に通ずるため、「梁川」としたとされているとのことなのだという。
この像は、市民の有志による「榎本武揚を顕彰する会」が功績を知ってもらおうと建立を市に提案し、許可を受けて、2012年9月に設置されています。(その際の新聞記事)
なるほどそれはわかった。
では、もう一つの「榎本町」とは、どういう由来があるのだろうか。
この榎本町は、有名な湯の川温泉の近くにあり、箱館戦争当時、台場が築かれ、野戦病院も設けられていたのだが、戦争のさ中に、榎本が温泉を訪れて、
「この温泉を百尺(約30メートル)ほど掘り下げたら必ず熱い湯が多量に出るだろう」
と語ったと言われている。
この、いわば「予言」とも取れる一言が、今日に至る湯の川温泉の繁栄に繋がっているとして、そんな榎本の功績を記念して、温泉街の北隣、箱館戦争の際に野戦病院がおかれた一帯が、「榎本町」と名付けられて、今に至っている、そういう歴史があるのだそうです。
(写真のバス停のあたりの地図)
なるほどね。
七年前に函館に来た時、「榎本町」というのが榎本武揚に由来する町であることはすぐに想像がついたけど、この他にも榎本に由来する町があるということは、最初の公園の像について調べるまで、知りませんでした。