JR函館本線の「桑園」駅。
札幌から小樽方面へ向かって一つ目の駅で、石狩当別方面へ向かう「学園都市線」の分岐駅でもあります。
御覧のとおり、駅周辺には「桑園」と名の付く施設が多く見られますが、この「桑園」というのは行政地名ではなく、はっきり、「ここからここまで」というのが明確になっていません。
JR桑園駅の印象が強いせいか、札幌市民にとって、「桑園」というと、駅を中心したこの辺りをイメージする人が多いかと思いますが、実は歴史を遡っていくと、現在の駅のある場所は、元々「桑園」とされたエリアではなかったという、衝撃の事実に辿り着きます。
大通公園にある、「黒田清隆」の像。
開拓使次官→長官として、北海道開拓の陣頭指揮を執った人物として知られています。
同じく大通公園に設置されている、開拓使のお雇い外国人「ホーレス・ケプロン」の像。
北海道開拓の陣頭指揮を執っていた黒田は、屯田兵とその家族の副業として、養蚕業を取り入れるよう、開拓使判官であった「松本十郎」に指示し、ケプロンの助言で、明治8年(1875年)に、酒田県(現在の山形県酒田地方)から技術者を招き、養蚕場を開設しました。
その養蚕場があったとされるのが、現在は国の機関の庁舎が建っている写真のこの場所。
先週金曜日に紹介した「おてんき公園」の向かいです。
養蚕場で飼育されるカイコの餌として知られるのが、「桑(クワ)」の木。
養蚕事業の拡大に伴い、この周辺にも、桑の木が多く植えられることになり、移民達は、明治8年6月から9月にかけて、実に21万坪にも及ぶ大規模な開墾を進め、養蚕のための桑の木が多く植樹されたことから、いつしかこの一帯は、移民達の出身地の名を取って、「酒田桑園」と呼ばれるようになりました。
これこそが、現在に至る「桑園」のルーツとされています。
その移民たちが開拓し、「酒田桑園」と呼ばれるようになっていたのは、大体写真の黒で囲った範囲とされています。
そう、見てのとおり、現在の桑園駅の場所は含まれておらず、それどころか、現在の「桑園」のイメージよりもずっと南になっていることが分かります。
写真の赤丸は、先程の養蚕場があった場所ですが、では、緑色の丸はというと・・・、
幹線道路の「北1条通」沿いにある「知事公館」。
移民達のルーツである、旧庄内藩藩士の宿舎があった場所に存在しています。
当時、養蚕事業のために植樹された桑の木は、実に14万株もあると言われていますが、伐採や移植によって、現在では殆ど見ることができなくなってしまっています。
しかしながら、実はこの敷地内に、今でもこうして残されています。
そしてここには、そんな「桑園」の歴史を語り継ぐシンボルとして、昭和40年(1965年)に、このような碑が建立されています。
現在の桑園駅の北側にある「札幌競馬場」。
明治40年(1907年)に、現在の中島公園の場所から現在地に移ってきましたが、その翌年に、現在の中央区北5条に鉄道の仮乗降場(競馬開催日に限って開業される駅)が誕生。同44年(1911年)に、「競馬場前仮乗降場」が設けられ、住民の要望もあって、大正13年(1924年)に、貨物を取り扱わない旅客駅となりますが、その駅名として冠せられたのが、かつてはここよりも南とされていた「桑園」の名前であり、これがきっかけとなって地域として発展の一途を辿ることとなり、現在に至っています。
現在は高層マンションが立ち並ぶ住宅街となっていますが、そんな町のルーツを知ってみると、益々興味深く町歩きができそうな気がします。