五稜郭編の続きをアップします。
明日もまた予定が入っているので、復習も兼ねてということで。
こちらの石碑のとおり、「五稜郭跡」は、国の特別史跡に指定されています。
「史跡」とは、「古墳、貝塚、城跡、集落跡などの遺跡で、歴史上、学術上の価値が高いもの」とされ、、直近のデータでは、日本全国で1,895件が指定を受けていますが、その中でも特に学術上の価値が高く日本の文化を象徴するものを、文化財保護法に基づいて、文部科学大臣が「特別史跡」に指定しています。
現在、日本国内で「特別史跡」に指定されているのは63件で、北海道ではこの「五稜郭跡」だけ。また、歴史上最も新しいものも、1864年に完成した「五稜郭跡」だけとなっています。
「五稜郭跡」は、1922年に「史跡」として指定された後、1952年に「特別史跡」に指定されています。
星形の城郭とされる「五稜郭」は、フランスから入手した西洋式城郭の設計図を基に設計され、このような形となっています。
フランスからの情報提供の経緯は、別な記事で改めて書きたいと思いますが、このような西洋式の城郭を築くこととなったのは、鎖国政策を解いた直後の日本にあって、欧米諸国とのあらゆる面での歴然とした格差を解消すべく、日本の軍事力、技術力を誇示したいという意図があったとされています。
「五稜郭」が作られた経緯は、1854年に締結された「日米和親条約」に基づき、翌年、ペリー提督一行が箱館に来港したことに遡ります。
当時、蝦夷地と呼ばれていた現在の北海道には、唯一の藩であった松前藩が存在していましたが、開国に伴い、松前藩だけでは、沿岸の防備や諸外国との対応は困難と判断した江戸幕府は、箱館に「箱館奉行」を置いて、蝦夷地の直轄管理に乗り出します。
当時、「箱館奉行所」は、現在の「元町公園」の辺りにありましたが、ペリー一行の来港を機に、移転を余儀なくされました。
どういうことかというと、来港に際し、黒船から、敬意を表する大砲が放たれたのですが、物凄い爆音が響き渡り、港から1kmも離れていなかった奉行所の建物は、大地震でも起こったかの如くガタガタと揺れたそうです。
加えて、港から5里(約20km)の範囲を外国人が自由に遊歩する権利が与えられたことで、箱館山の麓にあった奉行所は、山の上から見下ろされる危険性が生じました。
そうしたことから、大砲が届かない(当時の大砲の射程距離は約1km)、船が近づかない、外国人に見られない場所ということで、3.5km離れた現在地へ奉行所を移転させることとなりました。
大体こんな感じで奉行所を移転させることとなりました。
先程触れた移転を余儀なくされた理由のうち、「大砲が届かない」については、別な記事で関連エピソードを記しますので、覚えておいていただけるとありがたいです。
こちらのお堀は、幅約30m、深さは4mから5mで、「亀田川」という川から水を引いて作られました。
先程、奉行所が現在の「五稜郭跡」に移転した理由を3つ挙げましたが、もう一つ理由があって、それは、この「亀田川」の水が活用できる場所ということでした。
従来の奉行所は箱館山の麓にありましたが、元々の箱館山は、本土とは離れた火山島であったことから、奉行所があった当時は、相当深くまで掘り進めないと、生活に使えるだけの水を確保することができませんでした。そのこともあって、利水条件に恵まれた「亀田川」の周辺が、移転先として選定されたとされています。
清水であった亀田川の水を利用して、かつては天然氷が製造され、東京や横浜へ向けて出荷されていたというエピソードもあります。
かつては、この堀で泳ぐこともできたそうですが、「特別史跡」に指定された現在はそんなことはできません。
大阪の道頓堀は、阪神タイガースが優勝すると多くのファンがダイブすることで有名ですが、ここでは、北海道日本ハムファイターズが優勝しても、そんなことは絶対にしてはいけません。
橋を渡ってすぐの所にある石垣。
この石垣も、箱館山の麓から運ばれた火山岩を用いて作られています。
このような構造で、敵の侵入を防ぐことができるものとなっていますが、この場所の役割はそれだけではありません。
「半月堡(はんげつほ)」と呼ばれるこの場所は、上空から見るとこの位置にあります。
当初の計画では、郭内に5か所設置される予定でしたが、予算上の制約や工期短縮の狙いなどから、1か所にのみ作られました。
上っていくことができますので行ってみましょう。
ここから、正面入り口が見渡せます。この位置からどうしようとしていたかというと、
このような形で正面から侵入しようとする敵を攻撃することを想定していたそうです。
「半月堡」から見る五稜郭タワーも、遮るものが何もないこともあり、圧巻の景色です。