北の風に吹かれて~独り漫遊記~

町歩きを中心に、日々の出来事を綴ります。 
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遺愛幼稚園から八幡坂へ

2024-05-28 20:21:02 | 函館

 

これまで「王道コース」を歩む中で、教会やお寺を中心に紹介してきましたが、今日紹介するのは幼稚園。

なんだけど、この解説にもあるとおり、ここもまた、キリスト教系教育の歴史に深く関係しています。

 

 

これがその、「遺愛幼稚園」の建物。

明治28年(1895年)に設立され、同40年の大火で焼失したことから、大正2年(1913年)に再建された建物ですが、日本国内に現存する幼稚園としては最も古い建物となっています。

 

 

現在、五稜郭公園にも近い、市電「杉並町」電停の側に、「遺愛女子中学校・高等学校」という学校がありますが、元々は西部地区の元町にありました。

明治6年(1873年)に開拓使がキリシタン禁制の高札を撤去したことで、布教の手段として、学校の建設、とりわけ女子教育に力が注がれることになり、キリスト教系の女学校が相次いで開校することになりました。

同年、アメリカのメソジスト監督教会の宣教師であるハリス夫妻が函館にやってきて、現在のこの地において、「日々学校」というが開校しましたが、当時この地近くには遊郭があり、女性の地位の低さを憂慮したハリス夫人が女学校の必要性を強く訴えたことから、同15年(1882年)、この地に新たな校舎と宣教師館が完成しました。

その学校は、元ドイツ駐在のアメリカ公使カロライン・ライト夫人の寄付により、ミッションスクール「カロライン・ライト・メモリアルスクール」となり、同18年(1885年)に「遺愛女学校」と改称されました。

同41年(1908年)に遺愛女学校は現在の場所に移り、現在この地に残っている幼稚園は、先程も触れたとおり、同40年(1907年)の大火により類焼したことから、大正2年(1913年)に再建され、現在に至っています。

 

(新旧遺愛女学校所在地の距離感)

 

この幼稚園の卒園生で、函館の歴史に足跡を残している人物の中に、千利休の娘、吟の悲哀を描いた「お吟さま」という作品で直木賞を受賞した「今東光」さんという作家がいます。

キリスト教系幼稚園の卒園生でありながら、後に天台宗のお寺の大僧正となり、かの中尊寺の貫主にもなったという経歴を持つ人物ですが、興味深いエピソードが一つあって、3年前に亡くなられた「瀬戸内寂聴」さんに「寂聴」という法名を授けたのが、この今東光さんなのだそうです。

瀬戸内寂聴さんは函館とは縁もゆかりもない方ですが、その法名を授けたのが、函館に深く関わりのある人物だったというのは、私個人的にはトリビア的な話だなと思いました。

 

 

そしてやって来ました。

函館を代表する知名度の高い坂道「八幡坂」。

現在はここより東側、市電「谷地頭」電停近くにある「函館八幡宮」が、かつてはこの坂を上り切った所にあったということが、坂の名前の由来になっています。

先日見てきた「劇場版名探偵コナン」では、激しい銃撃戦やカーチェイスの舞台として描かれていましたが、ここはこれまでも、映像作品やCMで多く使われていて、特に有名なのが、30~40年くらい前ですかね、洗剤「チャーミーグリーン」のCMで、年配のご夫婦が手を取り合いながら笑顔で踊るシーンで使われていて、そのことから、「チャーミーグリーンの坂」という別名が付いたりもしています。

この坂を上りきった所には、歌手の北島三郎さんの母校としても知られる「函館西高校」の正門があります。その正門の前から坂を見下ろしていると、「♪は~るばる~きたぜ函館へ~♪」と歌いたくなる・・・かな?

 

 

 

 

 

この周辺には、函館を象徴すると言ってもよい、古い造りの「伝統的建造物」が多く残されていて「でんけん地区」という別名が付いていたりもしています。

 

 

 

「環境物件」という指定を受けている建物や工作物もあります。

たくさんあって紹介しきれないのだけど、何軒かに絞って、その歴史や背景を探ってみようと思います。


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