北の風に吹かれて~独り漫遊記~

町歩きを中心に、日々の出来事を綴ります。 
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「澄川」の歴史

2021-05-10 20:49:37 | 札幌

 

 

地下鉄南北線の「澄川」駅。

南区ということで、そんなに行く機会もないのだけど、たまにはということで、土日祝日限定の地下鉄一日乗車券「ドニチカきっぷ」を利用して行ってきました。

 

 

 

 

澄川の町中を流れる「精進川」という川。

御覧の通り、澄んだ流れが印象的な綺麗な川ですが、昭和19年(1944年)、それまで小さな字名が乱立状態になっていたこの地域において、この川に由来する「澄川」という名が付けられ、現在に至っています。

 

 

 

 

ここは、澄川駅の隣の「自衛隊前」駅から近い小高い丘。写真の場所は、現在は小さな公園として整備されています。

現在の澄川は、明治初期に開拓使が置かれたことで開拓が進められましたが、写真の丘は、開拓使による町づくりに欠かせない木材が大量に産出されたことから、通称「木挽山(こびきやま)」と呼ばれていました。

 

 

 

近くには、現在もこのような名前の通りが存在しています。

 

 

歩道橋を上がって行くと、そこにはまた別な公園が整備されていました、

 

 

 

そんな公園の一角に立つ像。

 

 

 

「拓魂」というこの像は、書かれているとおり、昭和55年に、澄川の開基100年を記念して設置されたもの。

「鶴田徳郎」という作家の手によるもので、鍬を持った農夫が、丘の上から見下ろしている姿が描かれています。

 

 

 

「澄川公園」として整備されています。

 

先程書いたとおり、町づくりに必要な木材の産出地となっていた現在の澄川地区では、木材需要の高まりを受け、木挽山から運んできた木材を製材する木挽小屋が多く作られ、人々の定住が始まりました。

しかし、そんな広大な林の木材もやがて刈り尽くされてしまい、明治20年(1887年)には、国有林だった土地が民間に払い下げられることとなりました。

その後、山形出身で、小樽の鰊漁の網元であった「茨木与八郎」という人物がこの地に入植し、払い下げられた広大な土地の所有者として、小作人を雇い、「茨木農場」を開設して、主にリンゴ栽培を押し進めました。

やがて農地解放により、広大な農地は小作人に分割され、人口が増えていくこととなりますが、そんな折の昭和初期、この地を走る「定山渓鉄道」通称「じょうてつ」に対し、新たな駅の新設要望が出されました。

結果、昭和8年(1933年)茨木農場の一部が駅の用地として寄付されたことから、「茨木」の名が用いられた新たな駅が設置されることとなりますが、大阪に「茨木」という駅が既に存在していたことから、「北」を付けて「北茨木」という駅名になったとされています。

 

 

 

再びこの写真。

そう、その「北茨木」駅こそが、現在の「澄川」駅のルーツなのです。

昭和19年(1944年)に、「澄川」という地名が定められたとき、駅名は「北茨木」のままでしたが、昭和32年(1957年)に駅名が「澄川」に改められました。

やがて、昭和44年にじょうてつの廃線に伴い、澄川駅も廃駅となってしまいますが、それから二年後に、市営地下鉄の開業に伴い、新たな澄川駅が設置され、現在に至っているということです。

普段何気なく利用している駅とその駅名にそういう歴史があるということも、大変興味深いものだと思います。

 


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