これまで西区琴似に関する記事を何度も書いてきたので、私は琴似が地元かと思われている可能性もあるのではと思っていましたが、私の地元は、琴似ではなく、隣の発寒という地域です。
祖先が屯田兵として入植したのは琴似なんだけど、発寒に自宅(実家)ができて、早いもので今年の11月で34年になります。
そんな発寒の歴史について、ちょっと掘り下げてみました。
安政4年(1857年)、現在の発寒に、幕府の与力であった「山岡精次郎」以下10人ほどの武士が入植し、蝦夷地の開拓と警備に当たることになりましたが、その中の一人に、この碑に刻まれている「永田休蔵」という人物がいました。
開拓に強い熱意を持ち、農民11人を連れてやってきた永田でしたが、同年の11月末、現在の石狩市若生という地区にあった「石狩役所」から発寒に帰る途中、石狩海岸で急に西北の風が強くなって時化に見舞われ、波に呑まれて遭難し、45歳という若さで亡くなってしまいました。
この碑は、そんな永田の功績を称えて、大正14年(1925年)に設置されたものです。
その安政4年が、現在に至る発寒の歴史の始まりとされていることが、この碑によって、広く後世に伝えられているということなんですね。
この二つの碑は、JR発寒中央駅の側、発寒小学校に隣接する「春日緑地」に設置されています。
そんな発寒の歴史を伝えるスポットが、現在でも残されている場所があります。
JR函館本線の下を通るこの小さなトンネル、一体何でしょうか・・・?
このトンネルは、地元の人たちが湧き水として使用していた川の跡地です。
幾つかあった川のうち、鮭が遡上してくることから付けられた「さけみ川」というのが、現在の発寒小学校の敷地と、隣接する住宅地の境を流れていたそうです。
地域の本に「めがね橋」として紹介されていたこのトンネル。
現在は全く水も流れていないので、そんな歴史があったことを知っている人も少ないのだろうなと思います。
写真の右側、かつての水路が道路の下に入る形になっていますが、これが、「ブラタモリ」でおなじみ。タモリさんの大好物の「暗渠」ということなのです。
暗渠の上にあるこの道は、もしかしてかつての川の跡?
「ブラタモリ」ファンとしては、ついそんなことを考えてしまいます。