龍の尾亭<survivalではなくlive>版

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囚人のジレンマと原発問題

2011年04月01日 12時08分24秒 | 大震災の中で
興味深い文章を2つ見つけたのでメモ代わりに書き付けておく。

一つは、日経ビジネスオンラインの武田徹という人の記事。

「反原発と推進派、二項対立が生んだ巨大リスク」-ジャーナリズム、調停役として機能せず-
武田 徹

http://business.nikkeibp.co.jp/article/life/20110328/219175/?P=1

詳細は上記サイトで確認されたい。

推進派と反対派の関係が「囚人のジレンマ」に陥り、その結果原発推進派も反対派も、最適解を出せなくなってしまった、という分析。

推進派は、反対されるので実情以上に安全だと言わざるを得なくなり、改良さえしにくくなる。

他方、反対派の声が強くなると新たな設置が難しいため、結果としては設計の古い福島原発を延長稼働させたり、同じ敷地に密集させたり、という結果を招いてしまう……という話。

反対する側も推進派もジレンマに陥って、結果としてそれぞれ最適解をつかみ損ねてしまう、というのは、どちらにもある種の胡散臭さというか、
「半分だけの縮減された箱庭的な正しさ」
を感じていた私にとって、腑に落ちる話だった。

その文脈を踏まえるとすれば、

では何が彼らを(つまりはわれわれを)「囚人」として閉じ込めてしまったのか、

という疑問が湧いてくる。


自分たちを各自が箱庭的に縮減された世界の中に閉じ込めることによって、自分たちが考えた「正しさ」を保とうとする言説空間への欲望が、一体何に由来するのか、ということだ。

原発が危険だから反対だ、という主張は、重篤な事故によって証明され、手遅れになって初めて見直しが実現しそうだ。これは、かなり皮肉な事態といわねばなるまい。
推進派だって、こんな現実を予め悪魔のごとき狡猾さで計算し尽くしていたわけでもないだろう。

みんなおそらくシステムの中で断片化し、全体像を見通せなくなっていたのだろうと思う。

ブラックジョークのようだが、反対派の議員団が2007年に描き、東電に提出した申し立て書のシナリオそのものの事態が、今回おこっている。

だから、逆説的に反対派の正義は全く無力だったことが証明されたわけだ。電力を使わなければ原子力発電も不要で、こんな事故も起こらなかった。
だが、この事故が起こるまでは、だれも原発を止めなかったし、これだけの事故が起こったところで、原発の即時停止の声は、どこからも起こりはしない。
全国あるいは全世界の原子炉が全て止まるなんてこともそう簡単には起こらないだろう。

私たちは、何によってこんな形で「囚人」化させられているのだろうか。

このあたり、もう少し考えてみたい。

先回りしていってしまうと、「断片」として生きることが十分にできていないまま、無理やり全体性を求めてしまう装われた一元化への欲望が、問題なのかなと思うんですがね。

水や電気や道路やネットのインフラは必要だし、なくなりはしないでしょう。でも、だからといって一丸となったり一元管理の方向にいくだけでは、逆に縮減を招いてしまうのではないか。

この項目、継続して考えたい。

もうひとつの文章は、國分功一郎という人のブログだ。

〈計画停電の時代〉を生きるための制度を創造すること
テーマ:ブログ2011/03/30 9:56:34
http://s.ameblo.jp/philosophysells/entry-10845653862.html

内容は、
この前の日曜日、2011年3月27日付け東京新聞朝刊に掲載されていた
「哲学者」内山節氏の「システム依存からの脱却」
に対する批判。

内山氏は、
近代的な原子力でも年金でも、市場システムでも、人間が想定の範囲内で考えたシステムには限界があるから、そこから脱却して人と人との結びつきが基盤となるような社会つくるべきだ、と主張する。

それに対して國分氏は、社会システムはだめで人間の結びつきはいい、というのは矛盾している。
人間の結びつきだってさまざまに存在するシステムのひとつだろう。
その、大切な人間の結びつきを支えられるような新しいインフラ(システム)をこそ求めるべきである、という。

内山氏の主張と國分氏の批判は、いささかすれ違っているようにも思うが、内山氏のテキストが手元にないのでその主張と批判の関係については今は触れない。

ただ、大震災と原発事故という多重災害の中で三週間過ごしてみて思うことは、たしかバシュラールが『空間の詩学』で言っていたように、「家(という空間)は、人をよりまとまりのある存在にする」(間違ってるかも……)といっていたように、人が集って住む家、帰って行く場所、が無事かどうかは、本当に決定的に重要だ、と思う。

そしてまた、その定住する営みを支えるインフラ、具体的には電気、ガス、水道の復旧が最重要の課題だった。

そういうさまざまなインフラが、人と人とを結び付ける基盤になっている。

記事で述べていることとは直接関係ないが、別のところで内山氏は、繰り返し近代的社会システムの巨大化・グローバル化が、自然と人間の営みを損なってきた、という批判を述べている。

この考え方の根底には、基本的に穢れを去って「ありのまま」を良しとする自然観が存在すると思われる。

「人為」は「自然」から離れ、零落していった人間の行為だから所詮限界があり、その人為を去って自然に帰ることを近代以前の人々は祈っていたというのである。

内山氏の宗教的分析はあながちあたっていないこともないと思うが、それは文明批判としては、やはり決定的に弱いと言わざるを得ない。

20世紀の無限に「求め続けた」資本主義エンジンの見直しは必要不可欠であるにしても、社会システムは、多様で多層なものによって、断片を支えていく方向を取るべきなのではないか。


地層を調べると、9世紀貞観の時代に大規模な津波の痕跡があって、それ以来だ、という話もある。

さまざまなところで、単にバラバラであることをおそれて、

一元化=一丸化=縮減化


の方向に向かうのは、勘弁して欲しい。
そうではなく、多様なインフラを多方面から用意し、単一のお金や資本などにばかり集中していくのではない多方向の豊かさを保障するシステムの構築に、賛成の一票。

人為と自然を分けて分析する姿勢も、それを分けずに一元化する姿勢も、見損ねるものが多く残るだろう。

一見、見損ねたかに見えるその「残余の断片」側から考えると、社会システムか人間か、の二者択一は、観念的過ぎよう。

あくまで、ご面倒様でも、「断片」の一つ一つから届く光と闇の信号を、一括りにするとでもなく、ただばらばらに放置するのでもなく、救い取っていける多層かつ多様なシステム構築をお願いしたい、ということなんですがね。