龍の尾亭<survivalではなくlive>版

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公共性について(続き)

2011年04月27日 21時34分00秒 | 大震災の中で
4月27日(水)のこと

ここ一週間、避難所訪問の報道を三件見た(芸能人のそれについては別途)。

東電社長/菅首相/天皇

である。

公共性について考えるとき、とても示唆的だ。

まず東電社長の避難所訪問は非常に切ないものだった。

被災者にとっては、その最大の原因を直接産み出した会社の責任者である。
直接的になんの落ち度もないのに、突然住み慣れた家、町、学校、職場、コミュニテイを失った無念さは、想像するにあまりある。
社長個人に謝ってもらったところで何の解決にもならないのは百も承知二百も合点で、なお声を絞り出して怒りや憤り、悲しみや苦しみを吐き出さねばならない。
また、その被災者の思いを想像するだけでこちらの胸が苦しくなってしまう。
社長の立場は、このときないに等しい。だが、やはり損害を出した企業のトップとしては、避難所訪問を避けて通れないだろう。
それがどれだけ形式的なものだったのか、あるいは誠意に満ちたものだったのか、網羅的なのか、一カ所もしくは数カ所でお茶を濁したものにすぎないのかは続報もないのでわからないが、役割として考えると、これはこれで個人的に想像することも難しい「仕事」である。

原理的には取り返しのつかないことをしてしまった責任であり、かつ、個人で背負える範囲や量、質を大きく超えている。
自ら反社会的行為と知っておこなった犯罪とはまた異なり、責任の所在や責任の取り方も難しい。

どうすればいいのだろう。

福知山線の列車事故の遺族の方の一人が、「なぜそこで死んだのか、状況や原因、起こった出来事をきちんと知りたいのです」といっていた言葉がとても心に沁みる。

共通する点も多いが、また違う困難さや複雑さもありそうだ。

いずれにしても、東電社長の避難所訪問は、言葉にしえない、石の塊を呑み込むような辛さを覚えた。

それに対して、菅首相の避難所訪問は、出来事としての重さが異様に「軽い」。

つまり、彼にできることは限られているのが、みんな分かっているのだ。
政府の難しい仕組みなんてわかるわけはないけれど、首相だからといって、何かを現場で決定したりはしないのだろうな、と思う。
それこそ、「予想外」のことはあり得ない、とみんな「分かってしまっている」し、菅首相は、本当にその理屈の範囲でしか動かないヒトなのだ。

じゃあ、どんな政治家ならいいのだろう。

情動の不安をを言葉ですくい取れる人

それは必ずしも今までの日本の政治家に求められる資質ではない。

メディアリテラシーと共に、私たちが求める首相像は、困難な課題の一つかもしれない。
震災や今回の原発事故で、首相がこの1ヶ月で出来たことは、個人の能力に左右されることは必ずしも多くないと思うけどね。

さて、三つ目が天皇夫妻の避難所訪問。
都内の避難所、埼玉県、茨城県、宮城県と各所を訪問し、ある記事には、各グループごとにひざを折って慰問、とある。

この三者を並べるのも失礼な話だが、天皇夫妻の慰問は、とても心が癒されるにちがいない。

なぜか。こらもむずかしいが、ポイントの一つは「無力」さ、だろう。

おそらく、人為を超えた災害に対して、日本人のトップに位置する「王」が、無力である被災者に、聖なる立場でもありつつ、同時に無力でもありつつ、寄り添うことに深い意義があるのではないか。

天皇は、天然記念物的でフラジャイルな存在であり、にもかかわらず粘り強く日本の政治的文化的宗教的シーンを生き抜いてきた類い希なる装置だと思う。

この項目は継続して考えたいが、共同体主義によってこの天皇の大切な「力」が性急かつ強力に回収されてしまうことには、留保の意を表しておきたい。

むしろ、人為的「社会」には収まらない部分への通路と持ち、自然と人為の境界面を統御し得るような、働きがあるんだろうね。

原発事故の現場が
「公共性」
を背負って「巡礼地」となる、ということと、天皇の被災者慰問は、おそらく無関係ではないと思う。

政治的にいろいろ使われちゃうから難しいんだけどさ。

今考えている「人為=&≠自然」にも関係して、この項目要検討です。